第6話 あの人はあれで、こうちゃんはそれで
「遅くなっちゃったね」
聞き飽きた自転車の音が、夜道に響く。いい加減行くあてもないので、競輪選手も青くなるスピードでは、さすがに運転できなかった。ついさっき、年寄りをひとりひき殺すところだったしね。
「おまえ、帰らなくていいの」
「いいよ」
そのあまりにも速い回答が来たとき、その答え自体は、いまさら、ちっとも意外ではなかったんだけど、でも、意外なことに、おれはホッとした。というか、嬉しかった。いや、そりゃ、ひとりで夜道を走るのは心細いし、さみしいだろうし、だったら千佳のひとつでも荷台に乗せておけば、重くても多少のにぎわいにはなるからって、まあ、そんなところだろうさ。
「今日はこうちゃんに付き合ってあげる」
「ふうん」
わざと気のない返事をしたら、千佳は少し笑った。なんだよ、腹立つな。
もう何度目か、通り過ぎたり戻ってきたり、たまに休んだりを繰り返している公園の前を、性懲りもなく通ったとき、千佳が「ん?」と肩を叩いた。
「なに」
ちょっと休むつもりで、自転車を止めた。
「いま、なにか動いたよ」
「は?」
「ほら、あそこ」
植え込みのあたりに、一層暗くなっているところがあって、千佳が指差しているのはそのあたりだった。犬か猫か知らないが、別にいたって不思議はあるまいよ、と思いながら見ていると、明らかに犬猫の大きさではない影が見えた。
「うわ!」
「うわ、おい!」
千佳がいよいよ大きな声を出して、腰のあたりにしがみつく。それでびっくりして、おれまで悲鳴を上げてしまったじゃないか。断じて、影の動いたのに驚いたわけではないのだ。いいか。
「なになに、恐すぎる」
「クマ、じゃない、よな」
声が震えていても、寒いからだぞ。いいな。
「え、人だよ、人!」
臨場感というのか、切羽詰まったような声を聞いていると、いよいよ、まあ、認めてしまえば、恐くなっちゃった。さっさと立ち去ろうとペダルに足をかけたが、
「あ」
「あ」
「ありませんか」
「ありませんね」
なにがどうなったかって? そんなこと、おれにだってわかるもんか。ただ、どうやら怪しい人ではないらしい。しかも、幽霊でもない。ということに、暫定的にはしておこう。
まあ、夜中に公園でひとりでがさごそやっていて、怪しくないというのも無理があるけどさ、それはひとまず、それとしてだ。
何分か前のこと。
「はあ、探し物」
「ええ、そうなんです」
妙に芝居がかった声で、その男は答えた。明かりの下に出てみれば、案外と整った顔をしていらっしゃるので、千佳はすっかり警戒を解いてしまった。その分は、もちろんおれが警戒しなければならんと思ったから、心持ち、いつもより不機嫌な顔をしてみせた。そういうわけだから別に、他意はないのだ。「おれはこんなにもブサイクだぞ」とアピールしているわけでもない。おれだって角度によっては整っているんだし。
「大切な人からもらった、大切なもの……、それを探しているんです」
役者か何かだろうか、ある意味では堂に入った芝居だ。嘘とまでは言うまいが、普通の人とも見えない。だいたい、探し物なら昼間にした方がいいに決まっているのに。
「昼間に探すんじゃ、だめなんですか」
思ったことを千佳がそのまま聞いてくれたから、おれは不機嫌な顔をし続けることに集中できた。
「いけません。たった今落としたものは、風が吹けば飛ぶほど軽く、小さなものなのです」
「はあ」
「ちょっとした紙切れだって、言ってましたけど」
口を挟むと、ええ、と男は胸に手をあてる。
「手紙なのです」
この話、長くなるだろうか。
まとめると、手紙をもらったが、不注意で破いてしまい、それを修復している最中に風が吹き、ピースがひとつ飛んで行ってしまった、ということだそうだ。
「不注意で破いた?」
千佳は腕を組んだ。
「手紙を、不注意で?」
「……ええ」
「どんな?」
男は今の今まで突き通していた、お芝居さながらの優麗さを一挙に失い、しどろもどろとしながら、まあ、だの、それは、だの言って、
「ははっ」
ごまかした。
「ふうん」
およそ喧嘩でもして勢いで破いたとか、そのあたりだろうと思っていると、納得いかない顔をしている千佳がまばゆく輝き始めた。
いや、そんなわけはなくて、照らされているのだと気付くのに、思ったより時間がかかった。
「きみたち」
警邏中のパトカーだった。ヘッドライトを落として、中からふたりの人間を放った。そうか、夜中だもんな。少し慌てたけど、千佳がさ、思ったより冷静だったんで、おれも悔しくて悟られまいとした。
「だめだよ、こんなところで、きみたち、何時だと思ってるんだ」
「ああ、おご、お、おれたちすぐ近くに住んでて……」
「なんでもいいけど、夜中にふたりで出歩くのは感心せん。帰りなさい」
ふたり?
千佳と顔を見合わせて、振り向いてみると、さっきの芝居男の姿は見当たらなかった。今まで立っていた場所にも、植え込みのあたりにも、ベンチにも、トイレの方にも、影も形も見当たらない。
それを理解すると、頭からつま先にかけて水で打たれたように、サッと血の気が引いていくのがわかった。
「あ、あわわ、あわわわ」
「ん、なに、どうしたの」
そのときのおれの顔は、自分が何を目の当たりにしたのかという恐怖からくる顔、おしっこを少し漏らしてしまったから、その焦りから来る顔、このふたつが複雑に絡みあった、ユニークな顔だったと思う。そうと知って鼻を利かせれば、少し匂った。
「大丈夫です」
へ。
「この人、おまわりさんが少し苦手で、焦ってるだけなんです」
なんだって。
千佳は幽霊やお化けに慣れているのだろうか。いつもと変わらない様子で、いや、それどころか、いつも以上に冷静な様子で話しているのが、おれには妙だった。
「はあ」
警察官は、少し説教をして、学校の名前を聞いて、おれたちが自転車にまたがるのを見届けてから、パトカーに乗って去って行った。
明日がもしも来るのなら、明日、学校に連絡がいくのかもしれないな、と思った。世界の終わりを信じていない千佳が、あっさり学校名を教えたのには、幾分驚いたけど。
「か、かえろう、ちいちゃん」
「幽霊じゃないよ、こうちゃん」
「え?」
ペダルにずっと力をかけているのに、ちっとも進まないから、絶対呪いだと思った。絶対にこれは呪いなのだと思った。非常時の回らない頭で、呪いヤバい、と考えていた。しかし、荷台の千佳が足を突っ張っているのが見えたので、おれは「なんで?」と泣きそうになった。
「だから、幽霊じゃないの。あの人、隠れただけだよ」
「なんで?」
「知らないよ」
あそこ、と千佳が指差した先、トイレの裏の植え込みに、男の影がうごめくのが見えた。
「あ、ああああ」
お化け!
「だから、違うよ、隠れたの。さっきの、パトカーが見えてすぐに」
「なんで?」
「だから、知らないって!」
本人に聞けばいいでしょ、と、そう言いながら、呆れた顔をすると思った。でも、なんでだろうな、千佳は笑った。おじいちゃんの家から犬の写真が送られてきたときに、それを眺めるときに、見せる笑い方だった。
「ね」
それで、なんでか、いや、わかんないよ、わかんないけど、ちょっと落ち着いたんだ。
「詐欺?」
「ああ」
花壇に腰掛ける脚の長い男は、芝居をやめたらしかった。先ほどまでの様子ばかり見ていれば、およそ縁遠いと思われた、たばこに火を点ける。千佳が咳き込んでも、ちっとも意に介さない様子だった。
「結婚詐欺。足がつかないんで楽だったよ」
ふ、と煙を吹く。100円ガムを盗むので精一杯だったおれは、いざ、本物の巨悪を目の前にして何て言っていいのかわからないので、千佳を見た。そこには、なんの表情もなかった。何を考えているのかわからなかった。
男はそれきり、黙ってしまった。あまりこんなところに長居する時間もないし、またパトカーでも戻ってこないとも限らない。そして何より、マジもんの犯罪者と一緒にいるのがなんとなく気持ち悪かったから、自然にさっさと立ち去る方法を考えるには、ちょうどいい時間だと思ったよ。
でも、千佳がいて、そう上手くことが運ぶわけはなかった。
「おじさん」
男が一瞬頬を強張らせたのを、おれは見逃さなかった。お兄さんと呼んだほうが、たしかに自然だろうに、なんでわざわざそう呼んだのか、おれにもわからなかった。
「今日、世界が終わるんだって」
「は?」
反応したのはおれが早かったのか、男が早かったのか、あんまり覚えてないけど、ほぼ同時だったんじゃないかな。
「なんだそれ、いきなり」
「おまえ、信じてないんだろ」
千佳はおれの腰のあたりを肘で思い切り打った。
今でこそ華奢で腕力もおれのほうが上だが、千佳はその昔、空手をやっていた。それもけっこう筋がよかったらしくてさ、帯の色がコロコロ変わっていたのを覚えてる。まあ、その色が黒になる前に、一度事故にあって、ブランクがあいちゃって、そのまま辞めてしまったらしいけど。それで、力の加わりやすい体の使い方ってものはわかっている千佳のことだから、打たれたおれは「ぐむ」だか「どぅる」だか言って、しばらく言葉が出てこないでいた。
そうしている間に、千佳は続けた。
「今日が最後でさ、明日が来ないんだとしたらさ、その辺にいるかわいい女子高生に、こう、ちょっと話くらい、聞かせてもいいんじゃない」
「はあ」
千佳がそう言って、男のとなりに腰を下ろした。そのとき、なんかさ、喉の奥にからしを塗ったような、変な気持ちがしたんだ。でも、男と千佳の間に案外距離が開いているのに気付いて、それから千佳がおれの目を見て、自分のすぐ隣を手のひらで打って見せたから、それで落ち着いた。
変だよな。本当。
男は千佳が話を聞くまで動かないでいるつもりだとわかったらしく、別に面白い話ではないと前置きして話し始めた。
「惚れたんだ」
「ん?」
「好きになってしまった」
千佳がこちらを見た。猿がエサでも見つけたような顔だった。
「だます相手を?」
男は何も言わなかった。その代わりに、ふぅと煙草をふかした。
「結婚したいと思った。このまま……」
千佳に話しているようには見えなかったし、実際、そうではなかったんだろうと思う。
「でも、許されるだろうか。ちょっと……、かなり、不安で仕方なかった」
「おじさんが追われてるから、迷惑かけるって?」
「追われてねえ。バレてないから」
「でも、さっき」
「それは、なんだ、反射的に……、」
ふうん、と千佳がうなるのを聞いて、男は白いため息を吐いた。
「いい人間じゃないから」
おれは、と付け加える。
「あの人とくっついていいのかわからん。それで……」
男がうつむく。冬の夜は、虫の鳴き声も木のざわめきもない。空気ばかりが澄んでいて、冷たくて、静かだった。
「手紙を破いたのは?」
「惚れる前」
「不注意じゃなかったんだね」
「不注意で手紙が破けるかよ……」
たしかに。
「特別なの?」
「それきりもらってないし、たぶん」
「じゃあ、探すしかないね」
千佳が立ち上がると同時に、少し風が吹いた。
「手伝ってあげる。暇だもんね、こうちゃん」
千佳はベンチでココアを飲んでいた。まったく動こうとする気配すら感じさせなかった。
あいつとしては、暇なのはおれだけということで、せっかく風呂に入ったのに、砂だらけになって見知らぬ男の探し物を手伝っているのも、おれだけだ。
昔はもう少し、働き者だったわよね、千佳ちゃん。
「飛んで行ったのは、ひとかけらだけなんですよね」
いい加減に、見つけ出すのは絶望的だと感じて、おれは男に声をかけた。
「そうだな」
「じゃあ、残りの部分から予想というか、なんだろ、推測できないもんですか」
男は答える代わりに、つぎはぎだらけの紙きれを差し出した。
ずいぶん細かく破いてあって、かなり丁寧にテープで修復してあるが、不器用なのか、わかるのは文字のひとつやふたつくらいで、単語のひとつも読み取れない。
手紙は、読めなかった。
なんでだろうな、そのとき、すごく強い力で胸を上から押さえつけられているような、苦しい気持ちがした。おれが書いたわけでもない、おれが受け取ったわけでもない手紙なのに。なんでだろうな。
男はそれ以上こちらを見ることもなく、黙々と茂みをひっくり返している。読めない手紙を完成させるために。
これもまたなぜかはわからないけど、そのとき、探し出そうと思った。どうしても、見つけてあげたいと思った。そう思ったそばから、
「これじゃね」
千佳の声がした。
ベンチの板の間に挟まっていたというその2cm四方の紙クズが見つかったのは、奇跡という他ないだろうね。世界最後の日に起こる奇跡としては、少々小さすぎるような気もするけど。
ところが、男はそのありがたい奇跡にもかかわらず、その紙を見ようとしないので、どうしたことかと問い詰めると、こう言った。
「こわい」
「はあ?」
偶然見つけただけの千佳はのんきに構えているけど、必死こいてそれを探していた人間としては、見ないと言う男に納得できようはずがなかった。
「彼女の気持ちを知るのは、こわい」
だっ、というような声を出して、思わず頭を抱えた。つぎはぎが細かくて手紙が読めないのも、よもやわざとじゃあるまいな。
しかし、なに、仮に男がこんな紙の切れ端を見たところで、彼の置かれた状況が変わるわけでもなかった。それはそうだ。ほとんど完成した手紙を見てさえ、何にも読み取れはしないのに、たかだか数文字、情報が増えたところで、なんら変わるものはない。
それにしては千佳がずいぶん熱心にそれを眺めているから、なんだと思って覗いてみて、呼吸が止まるような気がした。
「嘘」
かろうじて読めたのはその一文字だけ。
何を指してその言葉を使ったのか、わからないけど、それはひょっとしなくたって、きっと、すごく大切な手紙だったのだ。彼にとっても、彼女にとっても。
嘘。
千佳はおれを見ていた。おれも千佳を見た。それからふたりで、背を向けてたばこに火を点ける男を見た。
「おじさん」
「なんかさ、わかるんだよな」
こぼすように言う。
「その手紙、渡されてすぐに、わかったんだよな。ああ、これ、おれ振られたんだなあって」
車が一台、通り過ぎる。そのヘッドライトの強い光が、視界の端から端へ流れる。
「たぶん、おれの性根も、どっかでバレてたんじゃねえかなって思ってさ。そんなに隠す気もなかったけど」
「どうして?」
「どうしてって、何が」
「どうして、バレてたって思うの」
「それは、まあ、なんていうか、そういう人だったんだよ」
ふうんと唸って、千佳はまた、「嘘」と書かれたその紙片に視線を落とした。
「でも、許してくれると思うんだよな、そんなおれのことも。それでもいいって言ってくれるんじゃないかな、あの人は」
「都合のいい話だね」
「そう」
ふっと煙を吐いて、「都合のいい話さ」
「おじさん、嘘つきなのに」
「うん。お前たちにも、嘘を吐いたよ。その手紙、惚れる前に破いたって」
「だろうね」
なんだか、妙に千佳が大人びて見えた。伏し目のまつ毛の長いことに、初めて息を飲んだような気がした。前髪の軽さに、柔らかさに、理性の光が宿っているような気がした。
詐欺師の男はひとつ伸びをして、たばこを地面に投げ捨てると、靴底でぎゅっともみ消した。それから、口に残っていた煙を吐き出して、
「おれ、街を出るよ」
「へっ」
おれだけが場に馴染まない、トンチンカンな声を上げた。千佳は少しおれを見て、笑ったような気がした。それがなんだか、すごく悲しい顔に見えた。
「じゃ、もう、会わないんだね」
「ああ」
「え、あの、会わないって、このまま出てっちゃうんですか」
「そうだな」
嫌に優しい声だった。子供を諭すときのような、大人の男の声だった。そして、それはさ、ちょっと癪に障った。
「一目会って、すこし話すくらい……」
「こうちゃん」
「許してもらえるんでしょ、だったら……手紙だって、こうして」
「こうちゃん!」
珍しい顔だった。悲しい、怒った顔だった。袖を引いて、だめだよと言う。そんな、おれにはわからない言葉をしゃべる。
「ガキ……」男はたばこ臭い手をおれの頭に乗せて、「いや、少年、ありがとな。いいんだよ」
それだけ言って、挨拶もなく公園を去った。継接ぎの手紙はおれに持たせたまま。最後の欠片は、千佳に持たせたまま。
「千佳、おれ……」
「いいの。あの人はあれで、こうちゃんはそれで」
「でも、良くないよ。この手紙はどうなるんだよ」
「じゅうぶんだと思うよ」
「じゅうぶんって……」
どれほど悩んで書いた手紙だか知れない、大切なこの手紙が、読まれもしないで、じゅうぶんだと言う。
「千佳、おれ、おまえの言ってること、わからないよ」
「わかんないよね」
「なんだよ、ずるいじゃんか、そんな」
さっと、千佳がおれの眼を見た。眼が合った一瞬、泣いているのがわかった。ああ、まずったなって思う。でも、やっぱり悔しかった。わからせてもらえないのが、わかってもらえないのが、悔しかった。
「こうちゃんには、わかんないよ!」
大きな声だった。ほとんど叫ぶようにして、千佳は続けた。
「気付いて欲しい、気付いて欲しくない、でも結局、気付かれてしまって、もうどうしようもない……、どうしようもない気持ちなんか、わかんないよ!」
「おまえ、何の話をしてるんだよ」
「嘘つきの話!」
「そんなの、おまえにだってわかんないだろ! わかった顔して、おれのことだけ置いてけぼりにして!」
千佳はおれの顔を見なかった。くぅんと、喉の奥から、何だか高い音を鳴らして、歩き出す。
「お、おい、千佳!」
「知らない、もんん……」
ひっ、とか、ふっ、とか言いながら、千佳の小さい背中は、すぐに見えなくなってしまった。ひとり残されて、身動きも取れず、何にあんなに怒ってたのか、結局、わからない。
わからないから、随分考えた。ベンチに座って、じっと考えた。千佳があんなに泣いてたんだから、たぶんおれが悪いのだ。それでも、身体が冷え切るまで考えても、全然わからなかったから、あきらめた。
本人に聞くしかない。たぶんおれが悪いんだけど、何が不満だったのか、千佳に聞こう。
そうして、おれはやっと自転車にまたがった。