第3話 魔法使いになりたい
「待って待って」
角を曲がったときに、千佳がおれの腹を叩いた。何事かとブレーキを踏む。
「なに、どうした」
「どうしたって、こっち、わたしん家じゃん」
まるでおれがなにか間違ってるみたいな顔でそんなことを言う。しかし、こっちだって言うんなら、
「合ってんじゃん」
「合ってないよ」
千佳は今度は別の手で、おれの腹太鼓を打った。それから、
「今日泊まるんだって、こうちゃん家」
そう言った。
「……はあ」
「はあってなによ」
ふわっと笑う。それじゃあ大上沙希ちゃんと何にも変わらないじゃないか。
「ほら、Uターン」
「だめです!」
おれはなぜか躍起になった。昔は遊んでいるうちに気が付いたら遅くなってたりして、よく泊まってたんだから、別に、いまさら絶対にいけない理由だってなかったはずなのにな。
「そんなのって、だめ! ふしだらです! あなた、今日最後でしょう! お母さんと過ごしなさい、お母さんと! なに、泊まるって、あなた! あなたいくつですか、年は!」
千佳の目が点になっていた。おれもたぶん変な顔だった。どうしてこうも慌てたのか、自分でわからなかった。とにかく自転車は動かない。風も吹かない。静寂が耳に痛かった。
「……あ、だめ?」
「……だめ」
「どうしても?」
「どうしたって、絶対に、絶対、なにがあっても、だめ!」
居間から千佳と母親の笑い声が聞こえてきた。これで4回目。
おれがゲロを拭くために雑巾をしぼったのは、「どうしたって、絶対に、絶対、なにがあっても、だめ!」の7分後のことだった。
もちろん、千佳と母親のガールズトークに混ざるつもりなんてもとからなかったけどさ、もしあったとしても、おれはそのゲロを拭いて風呂に入るまでは、居間に入ることだって許可されなかった。
カレーって、溶けるとこうなるんだなあ──そういうことを考えながら、のろのろと雑巾を動かした。
──別に遡りたいわけじゃないけどね、長い話じゃないし、簡単な事情だから遡ろう。だいたい3分くらい前のこと。うちに帰るなり、「ただいま」も言わせない早さで、「バカヤロー!」の怒号と、母親の膝が飛んできた。それがみぞおちにきれいに入って、おれはその場で吐いたってだけのこと。メールのひとつも寄越さなかった母親は「どこ行ってやがった、心配したぞ、このフライング・ニーはおしおきだ」と言い捨てて、「掃除しておくように」って立ち去ったけど、「うわ、吐いてるの」という女声に、驚いた顔で振り返った。
それで、そうなった。つまり、母親と千佳は連れだって居間に引っ込んだし、おれは洗面所に行ってバケツと雑巾を拾って来て、玄関の掃除をするはめになった。
……というのが、何時間か前には世界を救いに行くなんて言ってた人間が、自分の母親に吐かされた嘔吐物をいそいそと掃除するに至った経緯ってわけ──。
「こうちゃん」
母親のちゃんちゃんこを着た千佳が、居間の戸を閉めながら言った。
「部屋、行ってていい?」
「だめ!」
「あら」
「絶対、だめ!」
風呂まで済ませたおれは、居間を覗かずに、そのまま自室に戻るつもりだった。世界の終わる夜に、特になにをすることもなく、いつも通り寝るつもりでいた。眠れるかどうかは別としてさ、それに絶対寝てやるって思ってたわけでもないけど、ただ、もういいやって。
ところが、二階まで上がってきてすぐに気が付いた。おれの部屋の扉が開いていた。きゃあきゃあという声が聞こえる。
ふたりの女の声が。
おれはおれなりにさ、けっこう惨めな気持ちでいた。何事も中途半端だったおれが、最後くらいはって心を決めてさ、世界を救おうって意気込んで、真っ暗闇に飛び出してったっていうのに、結局はこうして逃げ帰ったわけだから。ちょっとした自己嫌悪に陥って、とでも言えばいいのかな、そうやってヘコんでたのも、まあ当たり前だよな。納得できる話だ。
不本意に帰ってくるはめになったこの居間で、“名前の香車がもったいない”って、母親は言っていた。おれは反感ばっかり抱きながらそれを聞いてたけど、今夜すこし動いただけで、それがどんなに的を射ていたか、まざまざとわかってしまった。
「千佳」
呼びかけても、千佳は返事をしない。もう一度呼びかけて、ようやく「うーん」と生返事を返した。『女子校生限定ナンパ108連発! 止まらない煩悩と溢れだす体液!』を読むのに集中したい様子だ。
「将棋しよう」
「うーん」
まったく同じ返事のあと、何拍か遅れて、
「なに、将棋?」
「そう」
言いながら立ち上がって、『お兄ちゃん、私もう子供じゃないよ』から目を上げようとしない母親に向かって聞いた。
「母さん、あれ、どこにしまった? 駒とか……、一式。えっと、将棋盤っていうのか」
「ちぃちゃんさあ、ちょっと妹っぽいんじゃない。そうでもないかな」
「え、ちょっとやめてよ!」
おれの台詞だ。無視するのも、そういうことを言うのも、やめてよ。
「そういうことじゃないよね、こうちゃん。それとも、ひょっとしてそういう目で見てたの」
「ばかね、見てないわけないわ。この子だって一応は年頃の男の子で、こんなにかわいい女の子が身近にいてだよ」
あら、と千佳が頬に手を当てて、わざとらしく照れてみせた。
「1回や2回じゃきかないと思うな、おばさん」
「なにが?」
「え、それはね、ええと……」
それ以上見ていられなかったし、千佳が余計な勘ぐりを始める前にその場から立ち去りたくて、将棋盤がないかテレビ台の収納を開いてみた。
「押し入れにあったと思うよ。和室の」
本を『危険なアルバイト~みだらに乱れるHな面接~』に持ち替えながら、母親が言った。
「将棋のあれでしょ」
行ってみると、確かにあった。そんなに古いものでもないし、父親が亡くなってからは誰も使っていなかったから、駒が欠けているということもなかった。その日初めて、ラッキーだと感じた。
居間に戻ってすっかり掃除の済んでいる食卓に、それを広げて駒を並べた。木の匂いがする。妙に懐かしい気持ちになった。おれにとっての父親の匂いっていうのは、もしかしたらこれなのかな、と思った。本人の匂いなんか、もちろん覚えちゃいないからさ。
千佳と母親はおれの本を全部読破するつもりなのか知らないけど、ひとまずさしあたって、ソファを離れるつもりはなさそうだった。
「千佳、将棋しよう」
「あとでね」
一応確認も済んだから、おれはひとりで将棋を差した。
ずぶの素人が差す将棋なんて、飛車と角行が前に出ないと話にならない。そんなもんだろう。だからおれはしばらく、右手と左手で交互に歩兵をどかす作業に没頭した。
ようやく大詰め。飛車と桂馬の二者に睨まれて、右の王が身動きを取れなくなっている。香車はというと、ここに至ってもまったく手つかず。1マスも持ち場を離れていなかった。動かそうにも、おれには使い道がわからないんだよな。
それもそのはずでさ、正直言って、おれは歩兵の裏に「と」って書いてある理由も知らなかった。他の駒の裏面なんか、そもそも読めない。
だけど、香車がまったく動こうとしないのには──自分で差してるくせにさ──、皮肉っぽくって、陰湿で、クドくって、性格の悪い、悪質な含みみたいなものがあるように思えてきて、いやに腹立たしくなった。香車の役立たずっぷりが、ムカついてたまらなかった。だから、右の香車で向かいの歩兵を取った。
「ねえ、こうちゃん」
母親と話し込んでいた千佳がようやくおれにも話題を振ったのは、そのときだった。
千佳は「うわ、本当にひとりで将棋やってる」と低い声で言ってから、
「おばさんのミサンガ切れたんだって」
「なに、ミサンガ?」
「うん。してたじゃん、右の手首にさ」
向こうを向くソファの背もたれに顎を乗せて、千佳と母親がいつの間にかこっちを見ていた。
そういえば、年甲斐もなくそんなものを付けていたなあと思い出す。特に気に留めたこともなかったから、それが切れてたってことにも気が付かなかった。
「切れたんだ」
「うん」
母親は手首をさすった。思えば、たしかにずっと昔から付けてたものだから、やっぱり少し寂しいんだろうか。
「切れた」
だけど、ミサンガっていうのは切れてこそのものだったような気がする。どこかで聞いたことがある気がする程度のことを、さも自分の正確な知識であるかのように言うと、あれっていうのは、編むときに何か願いを込めると、それを手首に巻いて過ごす内に自然と切れたとき、その願いが叶うっていうシロモノだったはずだ。違ったっけ。
「ミサンガってさ、願い事が叶うっていう」
「そうそう」
千佳が頷いた。やっぱりそうらしい。
「じゃあ、それってさ、なんか願かけとかしてたわけ」
「それは内緒」
「ああ」千佳が頭を抱えた。「だめか」
なんだと聞くと、
「教えてくれないんだよ、わたしもさっきから聞いてるんだけど」
「ふうん」
おれはうちの母のそういうところには慣れきっていたから、これは詮索を諦めて、質問を変えたほうがいいなってすぐに思った。そもそも、あんまり願い事の内容には興味もなかったんだけど。
「ちなみに、叶ったの、その願い事」
母親はいやらしく笑って、おれと千佳を交互に見た。
「さあてねえ」
「なに、もしかしてわたしとこうちゃんに何か関係あるの」
「うーん……、そうとも限らないんだけど、見たとこ、そうなのかしら」
「なにそれ、どっちなの」と千佳が笑った。そのときに、不機嫌で通していたはずのおれも、なんかちょっと馬鹿馬鹿しくなって、笑った。
それから少し間をおいて、
「やっぱり……」
母親が言った。あのときの──父親におれの健康を祈ったときの、不思議な声だった。
「話そうかな。いい?」
おれと千佳は顔を見合わせた。
「ミサンガのこと……、というよりも、香輔の父さんのこと。いや、香輔とわたしのことかな」
母親はこっちを見るのをやめて、電源の点いていないテレビの方を見つめた。その母親の後頭部を見ながら、おれはいきなり瞬きが増えた。こういう態度に出られることはめったにないからさ。千佳もエロ本を、ソファの前のローテーブルに置いた。
急にテレビ画面がパッと明るくなって、アナウンサーの声が居間に放られた。
「辛気臭くなりそうだからね」
言って笑う。「でも、ちぃちゃんにも聞いてほしいな」
千佳が頷いた。テレビの音が加わったのに、急に静かになったような気がした。
母はゆっくりと息を吸って、膨らんだ肩が元に戻るのをたっぷりと待った。それから言った。
「父さんが亡くなったとき、香輔いくつだったっけ」
何も答えずにいたら、千佳がこっちを見た。
「……7つ」
そうだったね、と、膝の上にこぼすように言った。
「あのときが、母さんの人生のどん底だった」
おれは散らかした食卓の上に目を逃がした。テレビを見るふりをする母の頭が見てられなかった。
母さんの選択は正解だったと思う。こういう雰囲気に、ひな壇に座ったお笑い芸人たちが一斉に立ち上がってどよめく声は、きっともってこいのオブラートになっただろうから。惜しむらくは、時間帯上、ニュース番組しかやってなかったってこと。
「ごめんね」
不意に母が言った。
「……なにがさ」
「なにがって、ばかね。心配かけたでしょ」
心配はした。確かにしたけどさ、あの人がおれに謝ったのには意表をつかれた。だってさ、そうだろ。そんなことを蒸し返すつもりがあるかっていうと、もちろんそんなことはないし、それにまず、急にこういうことを話し始めた意味もわからなかったし。
でも、母さんがおれにこんなにきちんとなにかを謝ったことはなかった。だから、「気にすんなよ!」なんて笑い飛ばしていいものか、結構迷った。といっても、おれとしては、調理器具のセットを買うためにゲームを根こそぎ売られたときにこうして謝って欲しかったと思うくらいだった。
母さんは死んでた。
今みたいに笑わなかったし、怒らなかったし、泣かなかったし、しゃべらなかったし、食べなかった。ずうっと、いまおれが座っている、このダイニングテーブルに座って、指先をいじっていた。たまに思い出したようにして水を飲んだ。1日に1杯か2杯くらいのもんだった。それからもっとたまに、ごはんを炊いて食べた。これはおれが知る限り、2日に1回食べてればいい方だった。そんな母さんが眠っているのを見ると、葬式で見た父さんの顔と同じだと思った。
父さんが亡くなってからの数週間、母親がそういう状態だったから、おれは千佳の家で食事を済ませていた。おばさんの厚意に甘えて、母さんの分も持って帰って来てたけど、それにはほとんど手をつけなかった。
「ずっと」リモコンで頭を掻く。「謝りたかったんだよね」
千佳がおれの方を見ていた。無表情だった。
「うん」
そう返すのが、精一杯だった。それ以上なにか言うのは、気持ち悪くてやめた。
「もういっこあるんだけど」
「え?」
「いや、謝ることがじゃなくて、もういっこのほうは……」
歯切れの悪い言い方をして、見ないテレビのチャンネルを変える。
「……わたしさ、母さんさ、父さんと出会ったときに魔法使いになりたいって思ったの」
「魔法使い?」
そう、と笑う。
「父さんを惚れさせたかったからね」
「うわっ、あっそう……」
突然すぎてどうというより、気持ち悪いからやめてくれって思った。そりゃそうだろ。両親のなれ染め話みたいなの、どうして女の子は興味もって聞けるんだろうね。
「で、父さんが先に逝っちゃったときもそう思った」
「……魔法使いになりたいって?」
千佳が言った。
「そう、魔法使い」
それから母さんは長い間をおいて、まるでなにか音声入力でもしてるみたいに、ゆっくりはっきり、
「せいちゃんのところにいきたい。でも香輔は残していけない。だから、もうひとつ体をつくって、ここにおいていこう」
そう言った。
「ってね」
中学のときの修学旅行で、大阪にあるテーマパークのジェットコースターに乗ったときに、いまと同じ感じだった。重力が急になくなってさ、あれっと思う間にふわっと落ちて、そのまま心臓の少し下がずっとハラハラとやかましく感じる。
──母さんは、死ぬつもりでいたんだ。あのとき。あの生気のない顔をしてたとき!
それっていうのは、ぞっとする事実だった。おれはあの頃の母さんの言動をまざまざと覚えていた。夕日を浴びせかけられて、まつ毛が力なく影を落としていた骨ばった頬の青白い色まで。爪を立てすぎて皮が剥けた指先の赤さまで。
まさにその母が、そのとき自殺を考えていたのだと知ってしまった。過ぎたことだってわかってはいても、それはぎゅっと胸をおしつぶそうとした。
「でも結局やめて、今に至るわけじゃん」
母さんは言う。
「それはさ、母さんがそういうことを思ってたときに、それをやめさせたのはさ……。あんただったでしょ」
少しだけこっちを振り返るような素振りを見せた。
「え?」
「ほら、糸持って来てさ」
「糸?」
「……ちょっと、あんた、覚えてないの」
覚えてなかった。母さんが一体何のことを言っているのか、本当にまったくわからなかった。千佳のほうを見ても、なにもわからない顔をしていた。数学も国語も世界史もわからなさそうな顔だった。
「覚えてないのか」
母さんは豆腐やネギを買い忘れたときに冷蔵庫を覗いて、「なかったのか」と言うときに、今と同じ調子で言う。「げっ」が付くこともある。
「ああ、じゃあ言うけど」
今度は自棄になったみたいな声を出した。
「あんたさ、糸持ってきてさ、母さんになんて言ったと思う」
「糸って、普通の糸? 縫い物とかする」
「そう」
千佳を見た。全部わかってるみたいな顔だった。それからおれが何もわからない顔をしているのを見て、じとっとした目をしてかぶりを振った。
「ミサンガでしょ」千佳はおれに向かって言った。「覚えてなくてもさ、わかるよ、普通」
母さんが手首をさすった。
「あたり。ミサンガ作れって言うのよ。願い事が叶うからって」
「でも、願い事って……」
母さんは答えなかった。代わりに、
「それであんたがさ、自分はもう作ったって言って、下手くそなのを見せてくれるわけ。もうね、それが本当に下手。ただの絡まった糸だったわ。誰に似てこんなに不器用なのかしらって愕然としたわ」
おれも千佳も笑わなかった。母さんだけが笑った。それから静かな声で言った。
「なにをお願いしたのか聞いたのね」
「おれが、ミサンガに?」
「うん。何だったと思う」
これもまったく記憶になかった。母親の弱り切った姿ばっかり覚えてるくせに、まるでこのあたりの記憶だけそっくり抜け落ちているみたいだった。
「わかんないよ。覚えてないんだって」
母さんはこっちを見ないまま言った。
「自分が父さんと代われますように、だって」
CM入りを告げるテレビの音。この部屋には、おかしいくらい不釣り合いだった。
「大人のくせしてさ、わんわん泣いたよ。親のくせして、やだやだって言ってわめいてさ。おかげでお腹が空いてるのも思い出して、途中からはそれで泣いてた。喉が渇いてるのも、近頃誰とも話してなかったことも、そのとき思い出した」
母さんがこっちを向いて、照れた顔で笑った。
「だからさ、ありがとうって、言わなきゃいけなかったんだよね。ずっと」
「……うん」
「覚えてないくせに、なにがうんだよ!」
母さんは威勢よく立ち上がって、「寝よ!」と宣言した。
「ちぃちゃんどうする、和室でもいい?」
「あ、うん」
「そう、じゃあ、あんまり遅くならないうちに寝なよ。美容のためにね」
ドアのすき間から「おやすみ」をねじ込んで、母親は寝室に上っていった。
千佳がソファを立って、おれの隣に座った。
「本当に覚えてなかったの」
「うん」
「ふうん」
テーブルの上に広げたままになっていた将棋盤から、千佳は香車の駒を手に取って転がした。
「十年前のこうちゃん、かっこいいねえ」
「……おまえ、寝てていいよ」
おれは立ち上がった。お気に入りのコートはゲロまみれだから、ソファにかけてあるのを着ることにした。
「いやだよ」
本当に、
「わたしも連れていって」
今日の千佳はよく笑う。
部屋に戻るなりため息が出た。
ようやく謝れた。ようやくお礼が言えた。
それにしても長くかかったものだ。香輔は他でもない我が子だろうに。なぜ今までたったこれだけのことが言えなかったのか……、そのほうが、今となってはよほど不思議でならないくらいだった。
ミサンガは切れた。願いは叶ったのだろうか。鏡台の上に放ってあるそれを見ながら考えるが、はっきりわからなかった。
わたしが込めた願いがそのまま叶っているとしたら、北欧系の格安家具なんかに囲まれているはずはない。魔法を使って、ちょちょいともう少し高級なものに変えているはずだ。
しかし、だからと言って叶っていないとも限らない。今日、香輔とちぃちゃんを見ていて、なんとなくそう思えたのだ。あんまり長い時間が経ったものだから、ミサンガはわたしの願い事を忘れてしまって、それでもぼんやり覚えている範囲でそれを叶えてくれたのではないか……と。
鏡台の前に座って、ミサンガを指ではじいた。
ちぎれて糸の塊になってしまったそれは、もちろん何も応えない。それはそれでよかった。
それより、まだ間に合うだろうか。いま祈ったら、ミサンガはわたしの願いを思い出してくれるだろうか。
どうせなら、と、そう思って、わたしはそれを握りしめて祈った。
「魔法使いになって、香輔に幸せを」