(一)奥三河
愛知県東部に位置する奥三河と称される一帯は、北設楽郡及び隣接する新城市を中心とし、多くの山々に囲まれた自然豊かな地域であり、キャンプやドライブなどのレジャーを目的とした観光客も多く訪れる。国道・県道は少なく限られており都会からのアクセスが良好とは決していえないが、現在は新東名高速道路がほぼ開通しつつあり、浜松引佐ICから三遠南信自動車道(現在は無料)を利用する事により、東京方面や名古屋方面からのアプローチも今後は時間的にも短縮されると思われる。
この地域を歴史的に有名にした事跡といえば、日本史の教科書でも必ず目にする機会があったと思われる織田・徳川連合軍が武田軍を破った「長篠の戦い(設楽ヶ原の合戦)」であろう。当時駿河(現在の静岡県)を越え、奥三河地方まで勢力を伸張していた甲斐武田氏と、天下統一を目前にひかえた織田氏・その同盟者である三河徳川氏との争いに決定的な決着がつけられた戦いとして知られている。
長篠合戦そのもののきっかけは、当時武田家の支配下にあった長篠城主・奥平貞昌(のち信昌)の徳川家への離反であるが、この奥平氏をはじめとした奥三河の領主たちほど、この時代、己の去就に苦慮した者はいなかったであろう。
戦国時代の最盛期ともいえる時期に、その最大勢力ともされる織田・徳川氏とそれらと唯一単独で対抗しうるとされる武田氏の互いの勢力の最前線にあたる地方にあり、当時どちらも一進一退の攻防を繰り返しつつある中で、どちらに与すれば一族を滅亡にみちびかずにすむのかという判断が非常に難しい状態であったからだ。
この苦悩し続ける奥三河の領主たちの中でも中心勢力だった、田峰菅沼氏・作手奥平氏(共に現在の北設楽郡に位置)・長篠菅沼氏(現在の新城市に位置)の三家は山家三方衆と呼ばれ、彼らの苦悩の末の動向はまた、徳川・武田両氏を翻弄せしめ、結果としてその命運を定めるにいたった。
その命運に関わる人物をおおまかに挙げるとするならば、それは織田信長でもあり、徳川家康でもあり、武田勝頼でもあるともいえよう。彼ら歴史上もっとも知られた武将たちの命運を定めたのが、この小さな山国の、地方領主にすぎない者たちというのは少し偏った見方なのかも知れないが、決して間違った見方ともいえないであろう。
その偏った見方に基づくとするならば、先述の長篠合戦に大きな役割を果たす主人公として、山家三方衆があげられるかもしれず、もしくはそのうちの一人であり、合戦時の長篠城主・奥平貞昌(信昌)こそその主人公に相応しいかもしれない。
だが、その戦いの最中、勝利をつかむために具体的に奔走した者達はといえば、当時武田軍約一万人に対し、たった五百名で篭城戦を戦い抜いた奥平家の無名の兵士達である。ではあるものの、その五百名の一人一人にスポットをあてることは不可能のように思われる。
しかし、その中でもその勇気や忠義・豪胆な行動によって後世に名を残しえた人物が二人おり・・・いや、表向き知られているのは一人かもしれないが・・・ともかくもその二人の文字通りの「奔走」により長篠城兵は武田軍の猛攻をしのぎきることを得、結果織田・徳川連合軍が勝利を得るにいたった。
この二人の人物を長篠篭城五百名の勇士の代表としてスポットをあてることは不可能ではなく、もちろん、主人公としても不足はないであろう。
地元では比較的知名度のある鳥居強右衛門を中心に、実際に史跡等を自ら巡り、調べてみた事柄を元に書いてみたいと思っています。初めての投稿で至らない部分も多いと思いますが、どうぞよろしくお願い致します。