外伝短編|接続されていない通知
彼女は、最初からよく笑う人だった。
友達に向かって身振りをつけて話していた。
笑うとき、肩まで一緒に揺れる。
楽しいものは楽しいと、そのまま口に出す。
面白かった、嬉しかった、お腹空いた、眠い、そういう言葉を、出し惜しみしない。
ひまわりみたいだな、と思った。
明るい、というより、勝手に光の方へ顔が向いてしまう花みたいな人だった。
友達は多かった。
でも、誰にでも同じ顔を見せるわけじゃない。
よく笑うくせに、話を聞くときはちゃんと相手の目を見る。
何かを決めるときは、意外なくらい真面目に考える。
そのくせ、次の瞬間には全然違う話を始める。
会話の流れは読めないのに、一緒にいると妙に楽しかった。
付き合う前から、何度か2人で出かけた。
ライブを観て、終わったあとに感想が食い違って、それが可笑しくて、そのまま居酒屋で長く話した。
カラオケに行って、お互い知らない曲を歌い合った。
薄暗い部屋の中で、彼女は最初からよく歌った。
流行りの曲も、少し古い曲も、歌詞を見なくても歌えるみたいに口から出てくる。
歌う前に一度だけ笑って、歌い終わるとまた笑う。
点数が高いとか低いとかより、楽しいから歌っている感じだった。
「次、何歌う?」
マイクを膝の上でくるくる回しながら、彼女が聞く。
「何でもいいよ」
「それが一番困るんだって」
そう言って、彼女はスマホを取り出した。
「見て。これ、旅行の写真」
画面をこちらへ向ける。
ネズミのコスプレをした友達との写真。
ピースの角度がやたら大きい。
「これ誰?」
「知らない。たぶん友達の友達」
「知らないのに残してるの?」
「残ってたから」
そう言って、彼女はまた笑った。
指先で写真を送っていく。
夏祭り、海、プリクラ、誰かの誕生日。
どの写真の中にも、彼女は大きく笑っていた。
その途中で、画面の上に通知が何度も滑ってきた。
メッセージアプリだった。
名前。
短い文章。
また別の名前。
また別の文章。
彼女は気にせず写真を送り続ける。
ふと、アプリの右上に目がいった。
未読の数字が、異様に多かった。
「見ないの?」
私は、つい聞いた。
彼女は少しだけ首を傾ける。
「何を?」
「通知。めっちゃ来てる」
彼女は画面を見て、すぐに「ああ」と言った。
「気にしないの」
「こんなに溜まってても?」
「うん。見たいときに見るから」
その言い方は軽かった。
困っている様子も、焦っている様子もない。
私は、少しだけ不思議に思った。
自分は通知があるとすぐ見てしまう。
未読の数字が増えるのが落ち着かない。
なるべく画面はすっきりしていたい。
でも、彼女は違った。
違和感はあった。
ただ、それを深く掘るのも違う気がした。
そういう人なのだろう、で止められるくらいの違和感だった。
そのまま、また歌う。
笑う。
写真を見る。
通知は、画面の上に何度も現れては消えた。
恋人になったのは、それからすぐのことだった。
はっきり告白したのが自分だったのか、流れの中でそうなったのか、今では少し曖昧だ。
でも、ある日から手を繋ぐようになって、待ち合わせの言い方が変わって、帰り際に「またね」ではなく「じゃあ明日」と言うようになった。
彼女は相変わらずだった。
よく笑うし、友達は多いし、通知は多い。
楽しいものは楽しいとすぐ言うし、嫌なことは嫌だとその場で顔に出る。
明るくて、少し散らかっていて、でも不思議と人が離れない。
その夜は、彼女の家の近くで飲んでいた。
駅から少し離れた、看板の明るい居酒屋だった。
壁の薄い個室で、隣の笑い声が何度か聞こえる。
彼女は酎ハイを飲みながら、友達の話をしていた。
「この前さ、1回帰ったのに、また呼ばれてさ」
「誰に?」
「友達」
「多いな」
「多いよ」
そう言って笑う。
私はその笑い方を見て、自分も笑う。
店を出ると、夜の空気は少し湿っていた。
春が近いのか、冬の終わりなのか、どちらとも言えない温度だった。
「来る?」
彼女はそう言って、自分の住んでいる方を指した。
「このまま?」
「うん。このまま」
言い方に迷いがない。
私は一瞬だけ考えて、それから頷いた。
アパートの階段は狭かった。
外廊下の電気は白くて、少しだけちらついていた。
彼女が鍵を開ける。
玄関の扉が開いた瞬間、最初に見えたのは靴だった。
足の踏み場がない、というほど。
少なくとも「きれいな玄関」ではなかった。
「ごめん、ちょっと散らかってる」
彼女はそう言って笑いながら、中へ入る。
部屋も、同じような感じだった。
服が椅子にかかっている。
床にも何か置いてある。
コンビニの袋、雑誌、ヘアアイロンのコード、見覚えのない紙袋。
片付けようと思えば片付くのだろう。
でも、そのままでも生活はできる。
そういう散らかり方だった。
妙に印象に残ったのは、トイレだけが清潔だったことだ。
床に何もなくて、匂いもなくて、タオルまできちんと揃っていた。
その落差が、少しだけ不自然に思えた。
リビングのテーブルには、灰皿が置いてあった。
透明なガラスの、よくある灰皿。
中には吸い殻。
「え?タバコ吸ってた?」
なんとなく聞くと、彼女は冷蔵庫を開けながら振り返る。
「吸わない」
「でも灰皿ある」
「前からあるだけ。たまに誰かが使う」
誰か。
その言葉は軽かった。
軽いまま、冷蔵庫の扉が閉まる。
床には飲み終わったお酒の缶が、
何本か転がっていた。
今日のものではない気がした。
洗っていないコップも流しに見えた。
私はソファの端に座る。
彼女は服の山を足で少し寄せて、隣に座った。
距離は近い。
恋人の距離だった。
なのに、どこかで変な感じが残る。
自分はちゃんと恋人なのだろうか。
今日ここにいるのは自分で、
隣で笑っているのも自分に向けられた顔なのに、
それでも、その他大勢の1人ではないと言い切る根拠が少し足りない。
部屋の中に、自分の知らない時間がいくつも残っている気がした。
それを確かめる言葉は浮かばなかった。
彼女は眠るのが早かった。
さっきまで笑っていたのに、ベッドに入るとすぐに呼吸が深くなる。
横向きのまま、肩だけが少し上下する。
私はその横で、しばらく天井を見ていた。
部屋の隅に置かれたスマホが、短く震える。
1回。
少し間を置いて、また1回。
画面が暗い部屋の中で光る。
すぐに消えて、また光る。
未読の数字は、相変わらずそのままだった。
開かないまま。
返さないまま。
鳴り続けるまま。
彼女は起きない。
通知だけが、夜の中で小さく続いていた。
⸻
結婚してからも、彼女はあまり変わらなかった。
よく笑うし、楽しいことは楽しいとすぐ口に出す。
面白い動画を見れば、その場で声を上げる。
子どもが小さい頃は、一緒になって床に座り込み、積み木を崩して笑っていた。
天真爛漫、という言葉をそのまま大人にしたみたいな人だった。
細かいことは気にしない。
片付けも得意ではない。
子どものおもちゃは、よくリビングに散らかっていた。
ミニカー、積み木、ぬいぐるみ、折れたクレヨン。
踏まないように足元を見て歩くのが、いつの間にか家の中の癖になっていた。
掃除も、気になったらやる、くらいだった。
毎日ぴかぴかではない。
でも、どうしようもなく汚いわけでもない。
洗濯物がソファの端に積まれていて、
書類がテーブルの下に滑り込んでいて、
キッチンの隅に子どもの水筒が置かれたままになっている。
そういう家だった。
彼女には友人が多かった。
学生の頃からの友達もいるし、
仕事を通じて仲良くなった人もいる。
ママ友のようでいて、そこから個人的に飲みに行く相手もいた。
誰かに呼ばれれば行くし、
楽しそうな予定があれば乗る。
断るときもあるのだろうが、その基準は自分にはよく分からなかった。
でも、夫婦仲が悪かったわけではない。
会話はある。
食事もする。
子どもの行事も一緒に行く。
休みの日に出かけることもある。
壊れてはいない。
少なくとも、表面から見る限りは。
それでも、ある時期から、家の中に流れていたはずのものが少しずつ細くなっていくのを感じるようになった。
夕方のキッチンで、鍋の蓋が小さく揺れている。
火の上で、かすかに鳴る金属の音。
沸騰する一歩手前の、水の内側だけが動いているような音だった。
彼女はコンロの前に立っている。
背中を向けたまま、
片手で鍋の取っ手を押さえ、
もう片方の手で菜箸を動かしていた。
私はリビングから、その背中を見ていた。
「今日、何時くらい?」
聞いたのは、
確認しておきたかったからだ。
子どもを迎えに行く時間でもなく、
何か特別な予定があるわけでもなかった。
ただ、家にいる時間の輪郭を知りたかった。
彼女は振り向かない。
「いつも通り」
それだけ返ってくる。
声は軽い。
曖昧さを曖昧なまま置く声だった。
その返事は答えになっていない。
いつも通り、という言葉の中には、
早い日もあれば遅い日もある。
寄って帰る日もあれば、そのまま来る日もある。
私は一度だけ時計を見る。
まだ明るい。
でも、その明るさは、夕方の終わりに向かって少しずつ薄くなっている。
もう一度聞こうと思えば聞けた。
でも、それ以上聞かなかった。
聞いたところで、きっと何かがはっきりするわけではないと知っていた。
彼女は火を少し弱め、
味を見て、
何かを決めたように頷いた。
そのまま、準備を終える。
コートを取り、
スマホを持ち、
玄関へ向かう。
「行ってくるね」
「うん」
それで終わる。
夜の予定が少し延びる。
その“少し”が、
どれくらいなのかは分からないまま。
彼女が家に帰る。
リビングではテレビがついていて、
ニュースが流れている。
《感情変動値のさらなる平滑化が進み、本日も正しい社会へ》
機械音声。
抑揚の無い声。
私はテレビを見ながら、
「おかえり」
それだけを言う。
彼女が帰ってきたとき、
何か聞くこともある。
何も聞かないこともある。
その日の夜は、何も聞かなかった。
彼女も、何も言わなかった。
玄関の音がして、
靴を脱ぐ気配がして、
洗面所の蛇口が短く鳴る。
その一連の音が、生活としては自然すぎて、
そこに、あいさつ以外の言葉を差し込む理由が、
思い浮かばない。
何も起きていない。
それが一番、正しい言い方だった。
怒っているわけではない。
責めているわけでもない。
不満が明確にあるわけでもない。
でも、会話は流れていなかった。
夜のリビングで、彼女が風呂に入っているときがある。
テーブルの上にはスマホが一つ置かれている。
ケースの色は前より地味になった。
でも、通知の多さは昔とあまり変わらない。
画面の上に、メッセージアプリの通知が並ぶ。
名前と、短い文章。
別の名前。
また別の名前。
アプリアイコンの未読数は、
見ている間にも少しずつ増えていく。
私は画面を見る。
見ようと思って覗き込むわけではなく、
視線の中に自然に入ってくる。
「元気?」
「何してる?」
「また今度どう?」
たぶん、そんな内容だと分かる。
開けばすぐ読める。
ロックを解除すれば、その先に続きがある。
でも、開かない。
自分のスマホじゃないから。
見たところで何が変わるわけでもない。
そんな理由以上に、
開いて確かめたいという気持ちが起きなかった。
私はそのまま、スマホをテーブルに戻す。
グラスの中の水が、その拍子に少しだけ揺れる。
ソファに座り、背中を預ける。
テレビの音はついているが、内容は頭に残らない。
風呂場から、湯の流れる音がする。
ドライヤーの音は、まだしない。
彼女のスマホが震える。
短く、同じリズム。
また一つ、通知が増える。
私は姿勢を変えない。
昔だったら、気になっていたかもしれない。
あの頃は、通知の多さそのものが違和感だった。
自分には見えない関係が、彼女の周りにいくつも広がっているようで、
その輪の外側に立っている気がした。
でも今は、その違和感の形が変わっていた。
中身が知りたいわけではない。
誰からかも、別に問題じゃない。
ただ、
接続されていないものが鳴っている、
という違和感だけが残る。
彼女は返信をしていない。
既読もつけていない。
でも、友人との関係が切れたわけでもない。
翌週には普通に会っていたりする。
電話もする。
写真も送る。
やり取りは続いている。
終わっていない。
何も終わっていないのに、
何も流れていない。
その感じが、
昔よりもはっきり見えるようになっていた。
朝になる。
カーテンの隙間から光が入る。
床の色が少し変わる。
リビングに残ったスマホは、
昨夜と同じ場所にある。
通知も、そのままだった。
彼女は洗面所で髪を結び、
冷蔵庫を開け、
いつものように朝の準備をする。
自然な動きだった。
生活はちゃんと進んでいる。
洗濯物も回す。
朝食の皿も出す。
何一つ止まっていない。
それでも、どこかだけがずっと未読のままに見えた。
昔は、未読でも成立していた。
通知が鳴り続けていても、
その横で眠る彼女との間には、まだ何かが流れていた。
今は、未読のまま止まっている。
関係は壊れていない。
夫婦仲も悪くない。
会話もゼロではない。
それでも、通知だけが鳴り続けている。
接続されていないのに、
生活は成立してしまう。
それでも朝は、
何事もなかったように進んでいく。




