case2-4 沈黙の理由
「おはようございます、総監」
「……」
「すみません、お声が出せないのを失念しておりました。本日のスケジュールですが、」
カツカツと、石の床を叩く靴の音が耳につく。異常なまでに物音を正確に拾うようになってしまった男は、不快感に眉を顰めた。
少しだけ毛量が寂しくなった額の汗を拭い、秘書が今日のスケジュールを読み上げる。筆頭秘書は昨日付で異動となってしまった。慣れた人員が変わったことに舌打ちをしたい気分だったが、立場のある彼は奥歯を噛み締めて堪えた。
男の周りを取り囲む全員が似たようなスーツを纏っているが、本人は警察の正制服を着用している。
肩につけられた金桜花の階級章は、彼だけが持つもの。何者にも染められぬ『黒』を身に纏った警視総監、警視庁のトップに立つその人は思わぬ告知にさらに眉を顰めることとなった。
「本日、警察庁長官が面会にいらっしゃいます」
足早にエレベーターに乗り込み、渡された紙を眺める。面会人が記された場所に、今もっとも顔を合わせたくない人の名前を見つけた。
エレベーターが到着を告げ、フロアに出ると忙しなく走り回る警官たちが静かに道を開けてくれる。敬礼を受けながらくたびれた様子の変わらぬ顔ぶれを一人一人観察し、その場をゆっくりと通り抜けた。
――ここは、警視庁庁舎十三階。公安の巣であり、警視総監と副総監の執務室がある。そして、この度新しい課が追加になった。
その課の扱いについても『警察庁長官にお小言をもらうことは間違いない』とため息をこぼして執務室の扉を開ける。廊下の奥に見えた真新しい課のプレートは、見ないふりをした。
(特殊類希事件捜査課――あれには、そろそろ本腰を入れなければならなかった。だが、今ではなかったはずだ。全く、私は運がない)
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「面会はお断り申し上げたのですが『実の息子がご心配だから』と強引に押し切られてしまいまして」
(彼はまだ、秘書になってから数年経ったばかり。断れなかったのはわかるが、実父ではなく義父が心配する訳もなかろう。あの人は自分が挿げ替えた首の具合を確かめたいだけなのだから)
「あの、今からでもお断りいたしましょうか」
(出来もしないことを提案するな、と言いたいが文句も満足に言えない現状だ。仕方ない)
冷や汗をかいた秘書に向かって首を振り、ふと棚の空白が気になった。そこに飾られていたはずの模型は、手作りの品だ。半月前に配属された目の前の男が棚をひっくり返し、壊してしまっている。
(修理を頼んだはずだが、まだ戻ってこないのだろうか)
空白を指差して尋ねると、秘書はさらに縮こまる。まさか、失くしたのか。
「あ……ええと、その。申し訳ございません。事務手続きの煩雑に紛れ、別の課に持っていかれてしまったようです」
「はぁ……」
「申し訳ありません!今回新しく十三階に配置された『特殊類希事件捜査課』にあるらしいと聞いたのですが」
いい加減なものの扱いにもう一度ため息を落とし、デスクの上の新聞を広げて役立たずを退室させる。数分も経たず読み終え、コーヒーを飲もうと手を伸ばしたが用意されているはずの場所にカップはなかった。
(コーヒーメーカーは、特殊類希事件捜査課にあったな。毎朝間違いなく温かいものを届けてくれていたのに、どうして……)
何もかもが良くないスタートを切った一日は、リズムを変えなければならない。何しろこの後厄介な人物との面会が待っているのだから。
彼はしばし逡巡ののち、立ち上がる。腕時計を確認すると、スケジュールにはまだ余裕がある時間だった。
高級な革の椅子から立ち上がった彼は、執務室から廊下の奥へ向かう。課のプレートを見上げ、ノックしようとして動きを止めた。
「――この飾り、壊れてたから見た目がおかしかったんですよ。直したらなかなか素晴らしい精度のインテリアです。課長、聞いてますか」
「鬼一、俺は今頭ん中に恐ろしいほどの知識を詰め込んでるんだ。静かにしてくれ!なんでこう言う時だけ空気読まないんだよ……」
「今回伏見さんからいただいたのは、狐についての資料だけですよ?ご自宅で読みきれなかったんですか」
「オレは知らない事だらけなんだよ。書いてある文字の一つ一つを調べてから読んでるんだ。時間がかかるに決まってるだろ」
「今日は現場検証です。予定まであと30分もありませんよ?」
「ギリギリまで椅子に座って読む。お前の運転じゃ安心して本を読めないから」
「私の運転は師匠譲りですが。伏見さんの方がお上手ですが、道交法違反で捕まりますね」
「え、嘘だろ?狐が運転するのか?いや、言葉を喋るならあるいは……くそぉ、オレの超常アレルギーが出そうだ」
「はいはい、わかりました。コーヒーを飲んで落ち着いてください」
「あれ、コーヒーメーカーあるんじゃないか。今日の当番オレだったよな?他の課に配ってないぞ」
「これは特殊類希事件捜査課専用のものです。当番制も廃止です。
ちなみに、捜査一課のより高級マシンになりました」
「マジか。もしかして美味しくなってる?」
「もちろんですとも」
「やった!!カフェイン摂取もストレスがなくなる!」
穏やかな、とは言えないものの温かで仲の良さそうなやり取りが聞こえる。彼らがやって来るまでここは会議室だった。本来なら防音がなされている筈だ。
だが、警視総監はいま狐憑きのようなもの。鋭い聴覚がコーヒーの在処を聞いて、くるりと身を翻す。
「総監」
「――!?」
「これ、あなたのですよね?引き取りにいらしたのでは?」
(いや、私はコーヒーを、)
「あぁ、コーヒー当番の捜査一課は新しい事件でお忙しいようですから。よろしければウチで召し上がってください」
突然背中から声をかけられ、危うく声を出しそうになった。彼は胸を撫で下ろし、鬼一に誘われるまま入室する。
彼女が手の中に抱えた模型は、綺麗に直されているようだ。
「事務方が間違えてウチの課に持ってきてしまったんでしょう。どうぞ、私が直しました」
(君が?ありがとう……)
「はい、この子が悲しんでいたので。持ち主にお返しできてよかったです」
見事な念通話に呆然としたまま応接セットに案内されて、柔らかなソファーに腰掛ける。ゆらゆらと白い湯気を上げたカップが目の前に置かれて、彼は頭を下げて礼をした。
鬼一はしー、と呟きながら人差し指を唇の前に掲げ、微笑む。
「課長は今集中のピークです。追い詰められると本領発揮なさるので、放っておいていただけますか。非礼はお詫びします」
(いや、構わない。コーヒーをいただいたら退室しよう)
「はい。私も用意がありますので失礼します」
さっさと自分のデスクに戻った鬼一は、管内一の地位である彼を差し置いて荷物の用意を始めている。大きな窓を背にして横並びに並んだ机。その一方で神々廻は真剣に書物のページをめくっていた。
(神々廻直……彼が選ばれた男か。今後のことを考えると懐柔しておきたい人物だが、果たしてどんな性格なのだろうか。
この座について初めて知った筈の、この世の不思議を……おそらく、先導することになるだろうその人は――)
「――っコンッ!!!」
「わっ!?な、なんだ??」
「あらら」
淹れたてコーヒーを無意識に口に運んだ総監は熱さに負け、思わず叫ぶ。音になった声は明らかな狐の鳴き声だった。それ故、彼は口を閉ざしていたのだ。
突然発された大きな声に驚き飛び跳ねた神々廻、冷静なままの鬼一。気まずそうな顔をした警視総監……三者は見つめ合い、沈黙が降りる。
その中でいち早く正気に戻り、破ったのは神々廻だ。
「け、け、警視総監殿!!??鬼一!お前!何ぼーっとしてるんだ!」
「あ、そうか。敬礼しなきゃいけないんでしたね」
「ここにお偉いさんが来てるって、教えてくれてもよかっただろ!?」
「あなたが集中なさっていたからです。記憶力が良くても、その途中で止めたら最初から覚え直しですから」
「チッ……しくじった!またやり直し……」
「総監の前ですよ、課長」
小さな舌打ちを落とした神々廻は慌てて背筋を伸ばし、敬礼を捧げる。鬼一もそれに倣い、今日初めて警視総監に挨拶することとなった。




