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雪解け

『午後9時』……ちょっと待て今何時だ!?


 ポケットからスマホを取り出し、電源をつける。


(20時58分……あと2分!? 時間がない!)


『お迎え』って何だ? どこかに連れ出されるのか? そもそも差出人は誰だ?


 思ってもみなかった事態に頭が追いつかない。気が動転して部屋の中を右往左往する。現状の把握がままならないながらも、自身の立場が危機に瀕していることは理解できた。

 

 ドッドッドッドッ────ああ、どうしよう。どうしよう。


 逃げるか? いやでも行き場もないし……。

 居留守を装う? いや部屋に踏み込まれたら終わりだし……。

 いっそのこと今この場で…………




 ピンポン。


 その音は夜の静寂を切り裂くように、二階の部屋まで鳴り響いた。鳴って止まない心臓が一瞬、キュッと締め付けられる。もう手遅れだ。出口は塞がれた。逃げ場はない。


 ガチャリと玄関のドアが開く音が聞こえた。話し声は一切聞こえない。客と家主の関係など最初から無かったかのように、そのまま間髪入れずに、重みのある足音が不定のリズムでこちらに近づいてくる。


(やばいやばい…………そうだ、本棚……!)


 咄嗟に例の本棚をドアの前へ引きずる。どうにかなってくれと、溜まったゴミ袋も周りに積み上げる。漫画、服、空き箱…………少しでも重りになるならと、手で掴めるものは見境なく、ドアに向かって自暴自棄に投げつけた。

 足音からして、もうすぐそこまで迫ってきている。実際に見えなくとも異様な気配と息遣いが壁を通して聞こえてくる。

 

 もう積められるものはない。最後に自分の体をゴミもろともドアのほうへ押し当てた。背中にまで心臓の拍動が伝わってくる。


「はっ……はっ……!」

 

 上手く呼吸できない。唾も飲み込めない。

 

 鳴り続けていた足音はいつの間にかピタリと止んでいた。


 


 コンコン。


(っ……!)


 居る、俺のすぐ後ろに。今度は妄想でもなんでもない。


 コンコン……コンコン……。

 

 最初は小手調べをするかのような優しいノックだったが、回数を重ねていくうちにどんどん拳を打ち付ける強さが増していく。


 ガチャガチャ。


 ドンドンッ!!


「ひぃっ……!」


 遂に本性を(あら)わにした。腕っぷし程度じゃ開かないドアに見切りをつけたのか、今度は助走をつけての体当たりを敢行してきた。衝撃を食らう度に少しずつドアに隙間が開いていく。


 バンッ!!!


(くっ……押されるっ……!)


 急ピッチで作り上げた防御壁と一緒に、俺の身体もずるずると前に押し出されていく。


 どうしてこうなった。

 現実から目を背けたツケ?

 それとも役不足に(かこつ)けて周囲を(おご)った所為(せい)

 ……もうわからない。


 バンッ!!!


「かはっ……!」


 涙で何も見えない。なんで俺はこんなに反抗してるんだろう。いずれこうなる運命だったろ。もう何もかも遅すぎたんだ。

 

 人を愛そうと何度も試みた。せめて友達だけでも作ろうと意欲的に会話に加わった。感情の矛先を向けられるたびに怯える日々に幾度と耐えてきた。だけどダメだった。結局俺は、生まれ持った“何か”に侵されるがままの、ただの腰抜けだった。

 だから殻にこもった。そうすれば誰とも相手にしなくて済むから。いちいち気持ちを推し量ることも、(へつら)いながら世を渡ることも、そんな面倒なこともしなくていい。なにせこの部屋には、俺以外に誰もいないのだから。

 幸せだった。この六畳で過ごす時間はあまりにも平和で、充実したものだった。できればこのまま朽ちたかった。このまま外の世界に触れることなく生涯を終えて、この醜い体とおさらばしたかった。でも猶予は尽きた。

 俺が堅固(けんご)に築いてきた地位も、結局は誰かの意志で瓦解(がかい)される宿命なんだ。こんなことになるなら、事前に自分を手にかけるべきだった。


 それから────……


 母が唯一の拠り所だった。彼女だけは俺の気持ちを(おもんばか)ってくれるだろうと、今日この日まで疑ったことはなかった。廊下に据えられた料理はどれも温かかった。切るに切れない愛をそこに感じていた。でもそれらは全てまやかしだった。この現状を作り出したのは間違いなく母だ。

 捨てられた。勘当された。不出来な息子にとうとう愛想を尽かしたんだ。


 もう後ろ盾はなくなった。

 

 もう何も信じられない。信じたくない。


 もう────、いい。




 


 バァン!!!!!


 力を緩めた瞬間、最大の衝撃を背中に受け、前方に投げ出された。振り返ると、そこには全開になったドアと倒れた本棚、崩れ落ちて散乱したゴミ。そしてその奥から、俺を捉える複数の人影が。


「あ……あぁ……」


 滲んだ視界はそれを最後に暗転し、意識はどこか遠くへ飛んでいった。

ご無沙汰しております、月圏げっけんです。

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