向こうの世界
ボロはある宗教に熱心な家に生まれた。毎朝聖典を朗読する母親の声で目を覚まし、学校も神学校に通い、週に2度ほど集まりがあって姉と両親と参加していた。ボロは姉を慕っていた。教会の儀式では、理屈で何をすればよいか推測することは難しく、周りを見てそれに合わせて行動することが多かったためだろうか。
その宗教の内容は単純に言うと、全てを創造した神はこの世を隅々まで見渡していて、死後罪人は地獄に送られ、神を信じ、正しい生き方をしたものは天国に行くというありふれたものだった。
ただ、ボロの家が信じていたものは、その宗教の元祖のものであり、原点となった聖典は創設以来ほとんど改変されておらず、大抵の宗教のように周囲の状況に合わせてしたたかに変化することをしていなかった。
大学に進学する際、ボロは姉を含め周りの反対を押し切って、神学を選ばず科学を学ぶことにした。それは、科学は極めていけば必ず自分が信じてきた宗教の教えを証明するはず、そして、科学が証明すれば世界中がこの宗教を信じるはず、そう思ってのことだった。ボロは熱心に学び、周りが反対した理由を理解した。創設以来変わっていない教えは、現代の科学とまともに張り合えるほどの理屈を持っていなかった。初めて触れた科学は、信仰心を急速に蝕んでいった。
大学に入る前までは姉を見習って行動していて、入ってから見習って行動していたのがアイザックだった。そのアイザックは突然大学に姿を見せなくなり、数ヵ月後ボロに電話が来た。
「…にある倉庫に来てくれないか?」
アイザックの声はうわずっていた。
「どうしたんだ?最近姿を見なかったが…」
「実験をしていてね…。宗教のことで悩んでいたろう?吹っ切れるかもしれないぞ?」
ボロは、教えられた郊外にある廃棄された倉庫に向かった。扉を開けると、広い倉庫の中央にいくつかのダンボール箱とコンピューターが1台あり、隣にはねずみが数匹入っているかごと、水の入った水槽、ねずみ用の迷路があった。
「よく来たね…」
アイザックが出迎えた。
「ねずみに薬品でも食べさせているのか?」
「僕はね…命の源を見つけたんだ」
「?」
「魂だよ…。迷路をいろいろと作り変えてみてくれ」
「…分かった」
言われたとおりに迷路の壁を動かしてみる。
「できたぞ」
「よし…」
アイザックは、ねずみをかごから取り出し、迷路に入れた。
「こいつが道を覚えるまで待ってくれ」
ねずみは何度も行ったり来たりを繰り返してからゴールにたどりつき、チーズにかじりついた。
「何回か繰り返せば、道を覚える」
何度かねずみをスタート地点に戻して繰り返した。
「覚えたようだな…。まだ普通のことだな」
「まあ、待ってくれ」
アイザックはチーズを食べているねずみを取り出し、水槽につけ、暴れるねずみが動かなくなるまで押さえつけた。
「良い行いとは言えないな」
「普通のことさ…生き物は死ぬ…。モニターを見てくれ」
モニターにはねずみとさっきと同じコースの迷路が映っている。
「さっきのねずみはね…僕の作った世界に行ったんだ」
ねずみはあっさりゴールにたどりついた。
「…質の悪い手品にしか見えないな」
ボロは呆れた顔で言った。
「なら…一緒に行ってみようか?」
アイザックはポケットから紙を1枚取り出して地面に敷いて、ダンボール箱からビデオカメラを取り出して設置した。
「紙の上に…」
「なあ…」
「まあ、いいから」
2人は紙の上に移動した。アイザックはポケットからリモコンを取り出してコンピュータに向けた。
「?」
真っ白な空間だった。見渡しても、どこまでも真っ白な世界だった。足元には、さっきのねずみと迷路があった。
「ここは?」
「僕の創った世界さ。倉庫にあったパソコンでね…。そこに、僕達とさっきのねずみの魂が来たんだ」
「死んだ?」
「生きてるよ。僕達は」
「…信じられない…催眠術か何かとしか…」
「!」
突然倉庫に戻った。一度倒れてあごを打ったらしく血が出ていた。
「信じたかい?」
アイザックはビデオカメラを持ってきた。
「見てみなよ」
ビデオカメラに映っていたものは、突然倒れる自分とアイザック、そして数分後にふらふらと起きる2人だった。
「……あのねずみも生き返らせれるか?」
「…いや、それは無理だ。それが生きている僕達と死んだねずみの違いさ…そして…」
アイザックはコンピュータを操作した。
「今、ねずみのデータを消した」
「まだいるぞ?」
画面にはまだねずみが映っていた。
「このパソコンのデータとねずみの魂は一体だ。データは肉体の代わりをしているんだ。肉体にあたるデータが消えるということは数十秒後に…」
画面からねずみが消えた。
「魂も消える」
「いまさっきまで、私たちのデータもパソコンに入っていたのか?」
まだ信じられない。
「それは無理だ。容量が足りない。死んだねずみはコンピュータにしかデータがなかった。だからデータを消したら、消え去った。僕達は生きているから、データは肉体にあってコンピュータには無い。実はさっきのねずみでも容量が足りなかった…迷路を移動するだけのねずみさ…」
「数十秒で魂が消えると言ったな…私たちも死んだらそうなるのか?」
「理論上はね…理屈はそこのダンボールに入ってるから読むといい」
「魂というものが消えたあとはどうなる?」
「変なことを聞くな…。消えたら…消えるんだ。その先は無い」
「…それは違う…」
魂は不滅だということは未だに信じている。
「ダンボールを開けて、読んでみて…どっちを信じるか決めるといい」
それから3週間ほど、ボロは倉庫に篭ってアイザックの書いたメモを読み、アイザックの作った装置も解析した。
「どうだい?どっちを信じるか決めたかい?」
アイザックが食料を買って来て、倉庫の扉を開けながらたずねた。
「…いや…」
「…寝てないのか?1度帰って少し休んだらどうだ?」
「…ああ…そうする…」
ボロは1度1人暮らしをしている自分の部屋に戻った。郵便受けを見てみると手紙が1通入っていた。読むと、姉が結婚するという知らせだった。ボロの表情が急に暗くなる。新郎の名前が、教会の神父の名前と同じだったが、ボロの宗教では神父が結婚することは認められていなかった。両親は結婚式には来ず、それから姉の話はしなくなった。
ガラララ
ボロが倉庫の扉を開けた。アイザックは相変わらず倉庫にいた。
「どっちを信じるか決めたかい?」
アイザックは単刀直入にボロに聞いた。
「ああ…決めた。君を信じよう…」
「よかった。そう言ってくれると信じていたよ…。さて、こっちも少し進展した。生き物や世界のデータを記録しておく場所は今までこっち側の世界にしか置けなかったが、向こうにも置けるようになったんだ」
「それはおかしいんじゃないか?肉体やデータと魂が一体と言っただろう?データの世界にどちらもあるのは変じゃないか?」
「何が変なんだ、こっちの世界で考えてみな?僕達の肉体もここにあって魂もここにあるんだぞ?向こうの世界でも同じことができるってことさ」
「…なるほど…。これからは、パソコンの容量と格闘しながら向こうの世界を創ったりする必要がないわけだ。それに…生き物を完全に向こうに移動できる…」
「そう…向こうの世界のルールは決め放題だからな。無限の処理速度と容量が手に入る…」
「そういえば…聞いてなかったな。これを何のために使うんだ?」
「……死後…いや、正しくないな…魂の世界…楽園を創る…誰もが笑って暮らせるような…」
アイザックは笑った。優しい笑顔で。