5 そうだ、歌ってみよう!?(上)
「ただい、まー?」
玄関の鍵を開けて帰宅の挨拶の途中で、あたしは中途半端に声を止めてしまう。普段だと点いているはずの明かりが、今日は点いていないことに気づいて。
「あー、お母さん、今日はパートの日だったっけ? まだ帰ってないってことは、残業させられてるのかなー?」
あたしは思い出し呟きながら靴を脱いでスリッパに履き替えると、ひとまず廊下の電気を点けてから、一度リビングを覗いてみた。もちろん誰かいるわけもないので、当然のように真っ暗闇だ。
一瞬どうしようか悩んでから、とりあえず自分の部屋に荷物を置いて着替えることにする。
すぐにお母さんが帰ってきたらそれでいいし、もし遅くなるようなら仕方ないので晩ご飯の準備をあたしが始めないとなー、なんて思いながら。
――あたしが中学に上がってからしばらくして、それまで専業主婦だったお母さんがパートに出始めた。
お父さんは一応1.5流――いや、1.3流くらいの大企業で中間管理職をやっているから、ウチの家計に充分な余裕はあると思うのだけど、もしかしてあたしが私立に進んじゃったせい? なんて不安に思ったこともあるけど、今のところ生活が苦しそうな雰囲気はないから、単にお母さんが外に出て働きたかっただけなんだろうとそこは割り切ることにした。
だから、問題があるとすれば基本帰りが遅いお父さんは考えないことにしても、時折こうやってお母さんも帰りが遅くなるから、あたしひとりの時間が増えてしまっていることだろうか。……まぁ、別にもうちっちゃな子供じゃないんだから淋しいとかはないし、むしろ自由な時間が増えるわけだから、遊び盛りのJKとしては願ったり叶ったりではあるんだけどね。
「……てゆーか、今の問題はこっちの方だよねー」
制服を脱ぎ捨て、上下そろいのスエットに着替えたところであたしはそう呟いてみた。
今もまだ頭の中で鳴り響いているピアノソロ、それが一番の問題なのだろうと。
今までだって急に頭の中になにかの曲が流れ出すことはあったけど、それは一時的なものでいつの間にか消えてしまうことしかなかったから、こんな風にずっと同じ曲が流れ続けているのはあたしもはじめてのことだ。
だから、正直どう対処していいのかわからない。今のあたしで思いつくのは別の曲で中和してみるか、いっそもっと聞き続けるショック療法めいたやり方くらいだけど。さて、どっちを選ぶべきか。
あたしがタブレットを立ち上げながらそんなことをつらつら考え込んでいたところに、下の方でなにやらバタバタとする音がしたのが聞こえてきた。
お母さん、帰ってきたかな?
そう思い部屋を出て階段を降りたところで、買い物袋をぶら下げたお母さんとばったり顔を合わせる。
「おかえり、おかーさん」
「ただいま、遅くなってゴメンね夏凛」
帰宅の挨拶を和やかに交わしたはずが、不意にお母さんの表情が険しくなった。
「ところで夏凛、あなた鍵掛けてなかったでしょ。最近はいろいろと物騒なんだから、ひとりでいるときは常に鍵を掛けてなさいって言ってあるの忘れちゃったの?」
「あー、ゴメンねお母さん。ちょっとうっかりしてたみたい。次からちゃんと気をつけて、絶対に忘れないようにしまーす」
愛があるが故の母親のお小言に、あたしは少しおどけたふりで返しておく。娘のその態度に満足したように頷くと、買い物袋を持ち直したお母さんはリビングへの扉を開けて中に入っていった。
あたしもその後についていくと、お母さんの手から抜き取った買い物袋を食卓の上に置いてあげる。ちらっと中を覗くと、牛乳や食パンといっしょにお惣菜のパックがいくつか見えた。
「今日は遅くなっちゃったから出来合いのもので済ますつもりだけど、それでいいわよね?」
「うん、あたしは問題ないよ。てことは、別にあたしが手伝う必要ってなかったりする?」
「ご飯を炊いて、お野菜切っちゃうだけだからそれでいいわよ。だから夏凛はその代わり、上で勉強してきてもいいからね」
「はーい、わかりましたー」
お母さんの厚意に甘えて、あたしはバンザイの格好で応えてみせると、後はお母さんに任せることにしてそのままリビングを出て行った。紅茶を入れたティーカップだけ、ついでに持ち出して。
部屋に戻ったあたしは、ひとまずティーカップを机の上に置いて椅子に腰掛ける。お母さんは勉強してきてもいいと言ったけれど、今日は課題も出てないからそこまで気合いを入れて頑張る必要はないはず。まだ時間はたっぷりあるわけだから、少しくらいサボっても構わないんじゃないかな?
そう自分に言い聞かせながら、まずはワイヤレスイヤホンを装着。続いて、立ち上がったまま放置してあったタブレットの画面を戻すと、Wetubeを起動させた。
お気に入りから1曲を選んで無限リピートにして再生してから、今度はマンガアプリを立ち上げる。……スマホでも読めなくはないけど、やっぱりマンガは大きい画面で読んだ方がいいからね。
「お、やった。『悪役令嬢の拷問劇場』最新話、更新してるじゃん」
最近イチオシのファンタジーマンガの最新話が配信されているのに気づき、あたしはいそいそと読み始める。夢中になって読み進め、五分と掛からず読み終えた頃にはすっかりほくほく顔になって、紅茶を口にするあたしがいた。
もちろんアプリで配信されているマンガはそれだけじゃないから、続けてお気に入りフォルダの中からまだ最新話まで到達してない作品を選んで、順番に読んでいく。
一通り読み終えたところで、あたしはやれやれと伸びをした。気づけば一時間近くも椅子に腰掛けてタブレットを持ち続けていたのだから、身体が強ばってしまうのもあたりまえだ。
肩や首を回して筋肉をほぐしてから、あたしは冷えかけた紅茶の残りを飲み干す。それからマンガアプリを落とすと、再びWetubeを呼び出してみた。
液晶に映し出されるのは昨日と同じ画面。違っているのは再生数が3から17になっていることだけ。残念ながら、増えたのはすべてあたしが回したものだけみたいだ。
その事実になんとなくがっかりしてしまうけれど、とりあえずは後回しにしても構わない。今のあたしにとっては、そっちよりも昨日からのオートリピート症状がどうなっているかの方が優先事項なのだから。
――そのためにショック療法を選んでみたわけだけど、さてどういう結果になるだろう?
そう思ってあたしが首を傾げたところで、下からお母さんが呼ぶ声が聞こえてきた。タイミングよく、晩ご飯ができたらしい。
あたしはタブレットをスリープさせるとイヤホンを耳から外して机の上に置き、下に降りるために椅子から腰を上げたのだった。