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深海から月光だけを  作者: 藤倉 一至
深海から月光だけを
34/41

1 深海(くらやみ)から月光(ひかり)だけを



「たのもーっ」


 音楽室の扉が開いたからなのか、それともそんな場違いな声が届いたからなのか。どちらが――或いはどちらも?――理由かはわかりませんが、私は思わず指を止めてしまいました。

 演奏を中断して呆然と見つめる私に気がつくと、こちらに堂々と近づいてきた結城さんがにっこりと、私に向けて笑います。

 その邪気のない笑顔に毒気を抜かれたような気分になって、私は無断の闖入(ちんにゅう)を咎める言葉を忘れてしまいます。


「あー、よかった。いてくれるだろうって信じてはいたけど、ホントはドキドキものだったからさぁ。沓掛さんがちゃんといてくれて、ほんとによかった~~っっ」


 結城さんは相変わらず、賑やかになにやら喚きたてています。私を見てほっと胸をなで下ろしていることから、目当ての相手がいてくれてほっとしているといったところでしょうか。

 ……あれだけ言ったはずなのに、私になんの用事があるというのでしょう、この人は。


「……結城さん。私は二度と話しかけないでと言ったはずですが。それに、音楽室にも近づかないように、とも」

「そだね、言われたのは覚えてるよ」

「――っ!? だったらどうして、」

「いや、だってさ、あたしそれに対して答えてないよね。だったらそれって沓掛さんが勝手に言っただけってことになるから、あたしが従う必要ってないんじゃないかな?」

「な――」


 絶句、するしかありません。あまりに身勝手な言い様に、目の前が一瞬眩みました。

 すると、結城さんはペロリと舌を出してはにかんだように笑って見せます。


「なんて、ね。うん、ゴメン。本気で言ってるわけじゃないから、気にしないでね。ちょっと、うん、ちょーっとムカッてきたところがあったから、一回言い返したかっただけだから」


 冗談めかした口調に陰はなく、私はもう一度毒気を抜かれてしまいました。


「だから沓掛さんが本当にそう望むなら、あたしはもう二度と沓掛さんに話しかけないし、音楽室にだって来ないよ。約束するから」


 だからね――と結城さんは少し口元を淋しそうに歪めると、


「一度だけ、あたしにチャンスをくれないかな。それがダメだったら、ちゃんと諦めるから。だから、お願い沓掛さん。もう一度だけ、チャンスをください。お願いします」


 私に向けてもう一度頭を下げてきました。あの時と同じように、身体を二つに分けたみたいに限界まで腰を折り曲げて。……これがもし最敬礼のつもりでしたらやり過ぎでしかなく、むしろただの前屈でしかないわけですが。おそらく、本人は気づいていないのでしょうね。


 本当に相変わらず、しっかりしているようでどこか抜けたところもある、どうしようもなく愛嬌に溢れた人です。

 そんな人だからこそ、私は遠ざけてしまおうと思っていたのに。どうしてあなたはまだ、こんな私なんかに近づいてこようとするのですか?


「……一度だけ、です。なにをするつもりかは知りませんが、一度だけ特別に許してあげます。ですから、それが無駄に終わったら、約束はちゃんと守ってもらいます。いいですね?」


 だからほら、本当なら拒絶しないといけないはずなのに、こうして受け入れてしまうじゃないですか。どうしてくれるのです。責任はちゃんと取ってくれるんでしょうね。


「……うん、ありがと。安心してよ、あたしも約束はちゃんと守るから。ま、そうならなくていいように結果を出せばいいだけの話だから、実は聞く必要なんてないって思ってるけどね」


 根拠がどこにあるかは知りませんが、結城さんは頭を上げるなりやけに自信ありげにそう言って、笑みを見せました。まるで、獲物に挑みかかる獣のような、獰猛な笑みを。

 その挑発的な笑顔に一瞬気圧されてしまった私に、今度は一転して表情を緩めた彼女が再び頭を下げてきます。最敬礼の真似事じゃなくて、ただの普通のお辞儀で。


「と、その前にちゃんとしておかないと、ね。――沓掛さん、ううんこの場合は『始音』がいいんだろうね。あなたの曲を無断で勝手に使ってネットにあげてしまい、本当にごめんなさい。あたしが浅はかでバカでした。この前は結局あたしのお願いばっかりで全然謝ってなかったから、一度ちゃんと謝らせてよ。本当に、申し訳ありませんでしたって」


 結城さんは神妙な態度で謝罪を一気に口にしてから、もう一度頭を上げました。

 癖のついた長い髪を揺らしてこちらを見るその眼差しは、中等部の頃と変わらずとても優しくてとても強いものでした。


「それで、お詫びって訳でもないけど。もう一度『SIN/KAI』を歌わせてよ。今度はちゃんと考えて歌詞を書いてきたから、もう沓掛さんにも最低だって言わせないから。だから、いいよね。歌わせてもらっても」

「……どうぞ、お好きになさってください。期待するつもりもありませんが、チャンスをあげると約束はしましたから。一度だけ、どうぞ」


 真摯にお願いしてくる結城さんに、私は意識して素っ気なく許可を与えます。

 すると彼女は八重歯を見せるように口元をほころばせると、足下に置いてあったスクールバッグの中からなにかを取り出してきました。どうやら使い古したipodのようでしたが、それを手にした結城さんは慣れた手つきでイヤホンを耳にはめ込んで、端末を操作しています。


「アカペラ、まではできないからこれ使わせてもらうね。ホントはこれも消さないといけなかったんだけど、必要経費だと思って許してくれる?」


 くすりと笑って、結城さんが目を閉じました。ipodがなんのためのものかにようやく気づいた私が、なにかを言う前に――


 そっと開いた真っ赤な唇が、歌を紡ぎ始めました。



  さぁ目を閉じて 逃げていこう 誰もいないあの深海(うみ)



 歌い始めの、サビに当たる部分の歌詞は、ほとんど変わっていません。

 変わっているのは、結城さんの歌声でした。


 最初に私が聴いたものに比べると、声の張りや伸びがずいぶんと違います。

 もちろん雑に録音されたものと目の前で生で歌われているという違いは考慮するべきですが、それでも彼女のボーカル技術が格段に上がっていることは、そのワンフレーズだけでわかりました。

 おそらく、結城さんがボイストレーニングをずいぶんと頑張ったのだということも。



  この世界は冷たすぎて 息ができなくなる

  呼吸を忘れて 生きていられたらいいのに



 驚きのあまり、最初のAメロ部分は聞き逃したようです。

 いつの間にかBメロに入っていたところで、歌詞のあまりの変貌ぶりに私も息ができなくなりました。

 これは、いったい……?



  たとえば私が貴方を踏みにじって 苦しませたとしても

  それでも貴方が私を許してくれるなんて 願えるわけもない



「――っ」


 二度目のAメロの歌詞が、私の心に刃を突き立ててきます。

 脳裏に浮かび上がってくるのは、四宮さんのあの幼い表情(かお)でした。



  この世界はいびつ過ぎるから 息もできないまま

  呼吸をなくして 生きていくにはどうすればいい?



 ああ本当に、どうすればいいのでしょう。

 臆病者で愚か者の私にとって、この世界はあまりにも生きづらく、息をすることもつらくてたまりませんでした。

 だからその歌詞は、私そのものだと思わされてしまいます。自然に、なんの疑いも迷いもなく。



  さぁ目を閉じて 逃げていこう 誰もいないあの深海うみ

  傷つきやすく愚かなだけの 私を隠してくれる ひとりだけの深海らくえん



 だから私は逃げてしまったのです。

 ピアノからも、結城さんからも、斎藤先生からも。

 誰もいない水底に逃げてしまえば、楽になれると思い込んで。


 結城さんが付けているipodから音が漏れて聞こえてくる、なんてことはありません。

 けれど私の耳には、彼女の歌の裏で流れているピアノの旋律がはっきりと聞こえています。

 その透明な音が、もうじきにあの展開部がやって来ることを教えてくれました。


 結城さんが、すうっと息を吸い込む音が私の耳に飛び込んできます。



  誰も誰も誰も誰も いらないから

  二度と二度と二度と二度と 近づかないで



 それは、まさに悲鳴でした。

 それまでは静かに囁くようなものだった結城さんの歌声が、いきなり雷鳴のように激しくなります。

 けれど、それも一瞬だけでした。

 私の頭の中のピアノの音も、結城さんの歌声もすぐに深い海の底へ沈んでいきます。



  この世界は苦しすぎて 息なんてできないから

  呼吸をせずに 生きていくなんてできるわけもない



 ああ本当に、あなたの言うとおりです。

 息なんてできないくせに、呼吸しないでは生きていけないなんて、なんて矛盾なんでしょう。

 どうして他の人は、そんなことができるのでしょうか。



  だから目を閉じて 沈んでいこう 誰もいないあの深海うみ

  なにも言わずに 弱いだけの私を守ってくれる ひとりだけの深海らくえん

  さぁ心閉ざして 墜ちていこう 誰もいないあの深海うみ

  ただ冷たく 貴方を遠ざけてくれる 私だけの深海らくえん



 最後に、水底になにもかも沈み込ませるような主旋律(サビ)を二度繰り返して、結城さんの歌が終わります。

 それでも、結城さんはじっと目を閉じたままでした。


 ――私にとって結城さんは、太陽のような人でした。彼女が自然に放つ目映い光に温もりを与えられても、それがあまりにも眩しすぎるから結局目を逸らして逃げてしまうしかないような、そんな人でした。

 ですから、そんな彼女が暗く冷たいだけの私の曲を歌っているなんて、未だに信じられません。

 それでも結城さんは私の曲を歌ってくれています。私の目の前で、真剣に。

 動画の時はまだ――自分に酔ったような――甘ったるい歌い方だったのに、今は心から祈っているような切々とした歌い方で。


 驚くべきことです。そこまで私の曲に真剣になってくれている結城さんには、感謝すべきかもしれません。

 でも……結局は、それだけでした。


 確かに歌詞は変わりました。どうやってまでかはわかりませんが、私の思いを理解してくれているようにさえ思えるくらいに。

 でも、やはりそこまでなのです。

 たとえ曲のことを完璧に理解できていたとしても、私の心に寄り添ってくれるように歌ってくれたとしても。結局、凍りついたままの私の心は、動かしきれませんでした。


 だから私は、ぎこちなく口元を歪めながら、目を閉じたままの結城さんに話しかけようとしました。

 ごめんなさいと。気持ちはとてもありがたかったけど、私には届くことはなかったと。


 そうしようと椅子から立ち上がった私の目の前で、結城さんは目を閉じたまま再び口を開きます。

 それから、ゆっくりと歌い始めました。

 伴奏もないのに(アカペラで)、終わったはずの私の曲を。



  そうして私はひとりになって 今もこの深海うみを漂っています

  誰にも邪魔をされず ただ静かに沈んでいくことだけを願って



「あ……」


 私の呟きが虚空に消え、差し出しかけた手が空中で止まります。



  ああそれでもどうしてだろう この心はまだ誰かを求めているみたい

  気がつけばわたしは いつのまにか海上そらを見上げていました



 頭の中に、透明なピアノの音が響きます。冷たく、澄み切った、四分音符。

 どうして私は、私の心は、あの(メロディ)を生みだしたのでしょうか。

 それは――



  でも太陽の光は眩しすぎて 目を焦がしてしまうだけだから

  この水底に注がれるのは 優しい月の光だけでいいのです



 結城さんの歌声はとても優しくて、柔らかく私を包み込むようでした。

 それこそ、まるで月の光のように。

 私の心に、そっと注がれてきます。



  だから私はただ 今も手を伸ばしているのでしょう



『だから、沓掛さん。一度曲を作ってみない?』

『つまりは作曲してみないかってことなんだけど。どうかな?』

『もちろん、別に曲を作っても発表なんてする必要はないから、そこは安心してね』



  深海くらやみから 月光ひかりだけを 求めるように



『ただ曲を作るだけでも、たぶん沓掛さんには意味があるはずだから』

『試しに一度だけ、って気軽な気持ちでやってみるのも、悪くないと思うのよ』

『先生に騙されたつもりで構わないから、ね?』


 ああ、先生。

 そういうこと、なんでしょうか?

 先生に騙されたつもりで、先生に届けられなかった、こんな私でも。

 手を伸ばしてみた、意味はあったのでしょうか――?



  この手を  ただ  伸ばし続けて――



「~~~~~~~っっっ」


 もう、耐えられませんでした。

 私の口から嗚咽が、私の目から涙が、勝手に漏れ出し、溢れ出してしまいます。

 止められません。どうやっても止められません。

 だってもう、氷は溶けてしまったから。私の心はもう、動かされてしまったのですから。


 これもみんな結城さんのせいです。結城さんの歌のせいです。結城さんの歌詞のせいです。


 みんなみんな結城さんの、おかげでした――






ちなみに、本シーンの元ネタはBanG Dream! It's MyGO!!!!!10話の某ライブシーンになります。


え? 『詩超絆』はパンクロックでクラシックバラードじゃないんだから曲調違いすぎだって?

――いいんだよ、細かいコトは。

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