3 SIN/KAIに出逢う
「はぁぁぁ~~~っ、つっっかれたぁぁぁ~~~~」
自室のドアを開けて部屋に入るなり、あたしはベッドにダイブした。柔らかいシーツの感触とあたしの身体を受け止めてくれるスプリングに、今日一日分の疲れが少しだけ癒やされる。
朝の約束どおり、今日は放課後になってすぐ三人といっしょにカラオケ店に向かった(他にも参加を頼んできた子たちもいたけど、さすがに断った。後で別の形で埋め合わせとかした方がいいんだろうな)。
ゆっこにメインになって歌ってもらうことはできたけれど、ミクたちのリクエストも断れなかったのであたしもそれなりに歌いまくることになってしまったダメージが、今になってきて出ているみたいだった。
「あー、でも仕方ないよね。あたしってば、歌もイケちゃうもんなぁ~。才能が怖いな~」
そうやって自分をアゲる発言をすることで、気力をどうにか振り絞らせようとする。
カラオケを終えて帰宅したすぐに、晩ご飯をおなかいっぱい平らげてしまったのが悪かったのだろう。今になって猛烈な眠気が襲ってきているのだ。そうでもしないと、このまま睡魔に負けて眠りこけてしまいかねない。
さすがにそれはいかがなものかと、自分でも思ってしまうのだ。
それは食後すぐに眠ると牛になるというジンクスに、乙女として抵抗したいということでもあるけど。一番の理由は、明日までの数学の課題をこなしておかないといけないのだと、委員長としての自分がうるさく訴えてくるからだった。
「う~、勇気凜々夏凛ちゃん! がんば、るぞぉ~~~っっ」
自分に気合いを入れるための合い言葉を口にすることで、あたしはどうにか睡魔の誘惑を振り切ることができた。
ベッドから起き上がり、そのまま机に向かって課題を広げる。
タイムリミットはお風呂までの一時間半ほど。お風呂上がりのハーゲンダッツならぬピノを餌にして、あたしは数式との格闘を始めることにした。
傍らにはスマホを置いて、ワイヤレスイヤホンを耳にはめ込む。あたしがBGMに使うのは、もっぱらWetubeだ。
TIKTAKだと短すぎてBGMにはならないし、音楽系サブスクは基本ボーカルがメインだから、作業中はインスト派のあたしには少なくとも勉強の時のBGMには向いてない。なのでいつものように、あたしはインスト曲ばっかりの作業中プレイリストを流しっぱなしにするのだった。
「うーんと、ここはどっち使うんだったっけ? 確か、3辺と1角の関係なら余弦定理の方を使うんだよね……? うん、やっぱりそうだ。へっへー、あたしを手こずらそうたってそうはいかないんだから」
課題の消化は、それなりに順調だった。
元々あたしは勉強もそれなりにできる方だ(じゃないと、中学一年時でも学年二位なんて取れるわけないし)。
ただ、やっぱり得意教科と苦手教科はあるわけで。基本の五教科の中では、数学はわりと苦手科目だったりするんだけど。それでもまぁ、コンディションが少しくらい不調だからって言っても少し手こずるだけで、できないなんてことはまったくない。
……なんて余裕かましてるけど、さすがに高校になってレベルが遙かに上がってきてるから、これから先は油断できないかもしれないなぁ、なんて。
そんな不安を抱いてしまいながらも、あたしは当然のようにタイムアップ前に課題を完全攻略してやったのだった。
「ふー、やれやれっと。……まだ、時間は少しあるかな? だったら、SNSのチェックでもしとこっか」
お母さんがお風呂から出てくるまで、まだ三十分はあることを確認してから。あたしはWetubeを流しっぱなしのまま、スマホを手にしてクラスのグループRINEを呼び出してみる。
未読は10件ほど。みんな他愛のない書き込みで、特に問題は起こっていないようだ。……ミクがあたしの歌ってるとこを動画でアップしてるのは、まぁよくあることだから今更どうこう言うつもりもない。
なのであたしはそこにレスするような形で、疲労で倒れてるスタンプを投稿しておくだけにした。
それから、ついでにwhispersも見てみるかとスマホをフリックしたところで、指が滑ったのか誤ってWetubeを呼び出してしまう。おまけに下の新着動画の画面まで触ってしまったのか、プレイリストにない別の曲が再生されてしまった。
「っとと、やっちゃった。いけない、いけない」
舌をペロリとさせながら、あたしは再生を止めようと、するはずだったのに。なぜかその手が、止まってしまう。
――その音が、耳に届いてしまったから。
冷たい、氷を思わせる硬質な音はピアノのモノだ。それ以外に余計な音は入っていない。シンプルに過ぎるピアノソロ。
ただ偶然耳に入っただけの、聞き馴染みのないメロディラインが紡がれるだけの、知らない曲。なのに、なぜかあたしはそれから耳を離せなかった。
ごくりと、唾を飲み込むことさえためらってしまう。無意識のうちにあたしをそうさせてしまうくらい、曲の放つ力が強かったから。
音自体はシンプルだけど、曲調は何度も転調があって飽きさせないような作りになっている。印象的なフレーズも多くて、作曲者のセンスの良さが至るところから伝わってくるようで。
気がつけばあたしは、その静かで濃密な世界に引きずり込まれていて、頭の先までどっぷりと沈み込んでしまっていたのだ。まるで、魔法に掛かったように。
――けれど、そんな魔法の時間は四分十三秒だけ続くと、あっさり終わりを告げてしまう。
「……っ!?」
耳にピアノの音が届かなくなったところで、あたしはようやく我に返った。曲の余韻が消えてしまうことを惜しみながら、スマホの画面に目を向ける。
「SIN/KAI……? って、これは曲のタイトルの方か。なにやってんだか、あたし」
曲のタイトルを投稿者の名前と勘違いするポカをした自分に、思わず突っ込んでしまった。
それからちゃんと画面を見直して、今度こそちゃんと投稿者を確認する。そこには、始音とあった。
しおん、と読むのだろうか。始まりと書いているのだから、もしかすると初めて作った曲なのかもしれない。少なくとも他に投稿はないから、これが初投稿なのは間違いないようだ。
投稿日時も一週間前になっているから、本当に活動を始めたばかりなのだろう。なによりも初心者だと思える理由は、画像がなにも登録されていなくて再生画面が真っ暗なままなこと(サムネイルすらほったらかしだ)、曲の備考欄すら空白なままだということだ。
なるほどこの有様なら、再生数が3しかないのも当然と言えるだろう。
――もったいないな、とプレイリストに登録しながらそう思った。
ネットの海の中にひっそりと沈んでいる状態は、この曲にはある意味でふさわしいとも言えるけれど。それでももっといろんな人に知ってほしい、知られるべきだとあたしは思ってしまったのだ。
本当に、心の底から。
だから、なのかはよくわからないけど。気づけば、あたしの指は勝手にスマホの画面に近づいて、もう一度再生を始めようとする。指が、触れる、その直前に――
「夏凛~、お母さんお風呂出たからね~。あまり遅くならないうちに入りなさいよ~」
「――っ!? うん、わかったからー。あたしもすぐに入っちゃうねー」
一階から聞こえてきたお母さんの声に、現実に引き戻されてしまった。
あたしはすぐにWetubeを閉じてイヤホンを外し、椅子に腰掛けたまま伸びをして硬くなった身体をほぐすと、ゆるゆる立ち上がってお風呂の準備をする。
パジャマとタオルを手に持ったまま、部屋を出て階段を降りる。
それからゆっくりお風呂につかる間も、最後にデッキブラシでタイルを掃除する間も、ベッドに寝転がって目を閉じてからもずっと――聞いたばかりのピアノの音が、あたしの頭の中から消えることはなかった。