11 SIN/KAIができました(下)
曲の録音も無事終わりましたので、後はそれを動画サイトに投稿するだけになりました。
「ピアノのインスト曲だから、投稿するのはワクワク動画よりもWetubeの方がいいと思うのだけど。紫苑もそれでいい?」
「……ごめんなさい、その二つの違いもよくわからないので、みんな静に任せるわ。よろしくお願いしていい?」
突発レコーディングの翌日、私の部屋に静と二人で集まって、早速会議が行われます(PCは静の部屋にしかないので彼女の部屋を使おうと思ったのですが、なぜか強硬に反対されたので私の部屋を使うことになりました)。
二人で仲良くソファベッドに隣り合わせで腰掛け、静が持ち込んだノートパソコンで動画サイトを開きながらそんな質問をしてきましたが、よくわからない私は白旗を振って彼女にすべてを任せることにしました。
「そう? ならサイトはWetubeでいいとして、紫苑ってアカウントは持ってたっけ? ああそう、持ってたのね。それはいいんだけど――とりあえず、今すぐアカウント名は変えなさい。いくらなんでも本名はありえないから」
「え? 名前を記入とあったので、本名をそのまま使ったのだけど。ダメ、なの……?」
私が首を傾げながら問いかけると、隣に座っている静はひとつ大きなため息をつくなり、信じられないと言った風に頭を何度も振り回しました。
「あのね、紫苑。あなたは沓掛グループの令嬢なんだから、迂闊に本名なんて出したら余計な輩が寄ってきて面倒なことになるの。そもそもネットで未成年が本名を出すなんて危険すぎるって、学校でも習ってるはずなんだけど。情報の授業、鳩ヶ谷でもやってるはずよね?」
「ええと、うん、やってる。やってるけど、よくわかってない、かも……?」
情報の授業にまったくついていけていないことを正直に告白する私に、静が稚い子供に親が見せるような視線を向けると、口元を柔らかく緩ませます。
「そっか、他の科目はちゃんとできるのに、紫苑は昔から体育とデジタル関係は苦手だったものね。なら、ちゃんとこれからは覚えておきなさいね。SNSでは絶対に本名は明かさないって。いい、わかった?」
噛んで含めるような静の忠告に、私はこくんと頷きました。それこそ、子供の頃に戻ったように。
「さて、と。だったら、まずは新しい名前を決めないとだけど。紫苑、なにかアイデアはある?」
「それなんだけど。その名前って、絶対本名以外のものにしないとダメ、なの? 苗字はなくして、ただの紫苑にするのはよくないの?」
静が言うように、本名をそのまま使うのはダメというのは理解できました。だけど、本名とまったくかけ離れた名前にすることは、私はできればやりたくありません。
なぜなら、そんな風にしてしまうと、斎藤先生が仮にこの曲を見つけられたとしても、それが私のものだと気づけないだろうからです――
もちろん、斎藤先生がそもそもWetubeを見ているかどうか、見ていたとしても私の曲に気づいてくれるかなんてわかりません。そんな可能性、きっとありえないくらいに低いはずです。
それでも、気づいてくれる可能性がわずかでもあるのなら、余計なことでそれを低くしたくないというのが、私の偽らざる本音なのでした。
「うーん、沓掛の名前を出さなければ、whispersじゃないから大丈夫、かな? それでも、名前の漢字は変えた方がいいと思うわ。アルファベットでSIONとかやるよりも、漢字の方が紫苑に結びつかないだろうし」
どうやら許可は出たようなので、静の気が変わらないうちに名前の漢字を決めようと思いました。
構造上『し』と『おん』に分かれるのは変えられないので、後はそれぞれをどう変えるかです。……『おん』は素直に『音』にするのがいいでしょう。では、残りの『し』はどうしましょうか?
師、詩、市、四、氏……死?
「――だったら、死音はどうかしら?」
元々、もうピアノは捨てるはずだった私です。なんの因果かもう一度戻ってきてしまいましたが、もう以前の私ではなくなっているはずでしょう。だとしたら、それは死人がただ動いているのと変わりありません。
そう思っての私の提案に、静はジョロキアをまるごと飲み込まされたような表情を見せました。
「……あの、ね。紫苑。いくらなんでも『死』はないでしょう。『死』は」
静は頭痛でもするのか、しばらく頭を抱えてしまいましたが、やがてガバッと頭を上げると私に人差し指を突きつけて、
「そんな不吉な漢字はやめて、せめて『始』にしなさい。これが沓掛紫苑の再出発になるってつもりで、リスタートするんだって気持ちを込めて。たとえなかったとしても、嘘でもいいから込めて。そうしないと、これ以上は面倒見てあげないからね」
「……わかった。そうする」
なんだか泣きそうな顔でそう言ってきたので、私はなにも考えず素直に頷きました。
少しいたたまれない気持ちになったので、私はソファから立ち上がると壁際の御殿に向かい、そこでシマウマのぬいぐるみを回収してからもう一度静の隣に戻ります。
静は無言でそんな私の髪の毛を左手でかき回すと、そっとため息をひとつこぼしました。
それから――
「アカウント名はこれで、よしと。なら後は曲名ね。――紫苑、曲のタイトルは決まってる?」
真剣な顔で尋ねてきます。眼鏡の奥の瞳の煌めきが、ちゃんとしたものでないと許さないと無言で訴えかけてきているようでした。
だから、私も真剣に曲名を考えてみます。
答えは、すぐに浮かんできました。
「深、海……?」
思いつきに近い感覚でしたが、口に出してみるとそれ以外ないような気がします。
静かで、冷たい、透明な音。最後の主旋律の繰り返しを奏でたときに感じた、海の底に沈んだまま逃れられないイメージこそ、私の曲の本質に違いないのですから。
「『深海』? ……ああ、そうね。確かにあの曲にはぴったりくるわね。うん、それで行きましょう」
「ちょっと、待って。ごめんなさい、静。ちょっと待ってくれる?」
けれど、それではなにか足りない気がします。なにか少しズレてるような、しっくりいかないような気がして、私は曲名を入力しかけた静を制止しました。
さて、いったいなにがズレているのでしょうか。
イメージは間違いないはずですから、深海という単語を変える必要はないでしょう。だとしたら、変えるべきなのは表記、でしょうか。
そういえば、と。先ほどの静の言葉を思い出します。アルファベットよりも漢字の方がいいと。SIONよりも始音の方がいいと。
だとすれば、曲名は逆の方がいいのかもしれません。漢字よりもアルファベットの方が。
「SINKAI……? ううん、これもまだしっくりこないような……」
近づいてはいますが、まだ少しだけ――最後の一音が違っている気がします。
それはなにかと考え込んでしまった私は、指先で机に何度も書いてみたそのアルファベットの最初の三文字が、別の意味を持っていることに気づきました。
SIN=罪という意味が刻まれた単語が隠れていることに。
嗚呼――と、私はそこで正しい最後の一音を手に入れました。
四宮梓さんからピアノを奪ったことに耐えられずに一度は手放したくせに、それでも沓掛紫苑はピアノに戻ってきてしまったどころか、こうして曲を世間に発表しようとしている。
それが罪でなくてなんなのでしょうか。
だとすれば、それが罪だと自覚しながらそれでも止められないのだとしたら、せめて自戒はしておくべきなのでしょう。この曲をこそ、私の罪の戒めにしなければいけないのです。それが私の――咎人の責務なのですから。
「そうね、これで決まったわ。静、『SIN/KAI』で、お願いできる?」
「は? 『SIN/KAI』、ですか? ……正直意図がわからないけど、うん、まぁ、紫苑が決めたのならそれでいいわ。作者の意志が最優先だもの、ね」
首をひねりながらも、静はそれ以上なにも言わずに私の言葉どおりに曲名を入力してくれます。それから、ユーザー名と曲のタイトル以外はなにも入力されていない画面を私に見せるようにPCをこちらに向けて、そっと問いかけてきます。
「それで、サムネイルや説明文にはなにも手をつけなくていいのね?」
「うん。曲のタイトル以外は、なにもいらないから。私には――必要ないもの」
静の話だと他の投稿者の方はサムネイル? に凝ってみたり、説明文に力を入れて視聴者の関心を強く惹くことで再生数を稼ごうとするのだとか。
けれど私は他の人とは違って有名になりたいわけではないので、その辺りはどうでもいいのです。
私はただ、斎藤先生に私の曲を一度だけでも聴かせられるなら、それだけでいいのですから。
そう伝えた私に、静はいつもの従者としての仮面を被って応えると、そのまま投稿ボタンをクリックさせました。
入力画面が一瞬で消えてなくなり、Wetubeの画面の真ん中に小さく投稿が完了したことを伝える表示が出ています。
たったこれだけで私の曲が世間に出回ることになるのだと思うと、なんだかあっけないようで少し拍子抜けしてしまいました。実感もまったく湧いてきません。
それでも、なんだか少しだけ恐ろしい気がして、私はぬいぐるみを抱きかかえたままの腕の力を、少しだけ強めました。
「……これで、ちゃんと先生に届くと思う?」
「さぁ、それは私にはなんとも言えない、かな。正直言えば、そうしたいならやっぱりサムネや説明文にはちゃんと手を掛けた方がよかったと思うけど」
思わず不安を吐露してしまった私に、静が率直に問題点を指摘してきます。けれど、それから彼女はシマウマの頭を優しく撫でながら、こうも続けてきました。
「……そう、ね。メッセージボトルみたいなものだと思っておけばいいのかも。誰にも届かないかもしれないけど、そう思って期待しないでいたらひょっこり誰かのところに届いて、メッセージが返ってくるかもって。それが紫苑の先生なら、もちろん完璧だけど」
「そう……そう、ね。そう考えたら、少しは気が楽になったかも。ありがとう、静」
私は感謝の気持ちを伝えるために、ぬいぐるみの前脚を手に取って静の手に触れさせました。
私自身は、今回の行為を水面に石を投げてみるのと同じだと思っていました。投げた石が触れた瞬間に波紋が現れるけど、それもやがて消えてなくなってしまえば、結局最初からなにも起こっていないのと同じであるようなことだと。
けれど、静の言うようにメッセージボトルだと思えば、少しは楽な気分になれました。
少なくとも、拾ってくれるかもしれない相手がいるかもしれないのですから。
それが誰かはわかりませんが、せめて誰か――もちろん、斎藤先生であれば言うことはありません――に届いてくれることを祈りながら、私は自分の投稿した曲が表示された液晶画面をじっと見つめてしまうのでした。




