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8 前奏曲⑦ 赤い帽子、白い雪、透明な音




 ――視界の片隅を、白い欠片が通り過ぎていきました。


「……どうりで寒いわけです。もうすっかり、冬ですね……」


 コートの襟元をかき寄せながら、私は無意識に呟きます。

 新しい年が始まってもう四日が経ちました。今日はN響のニューイヤーコンサートを聞きに行ったのですが、その帰りに駅前の交差点を通りがかったところで、今年最初の雪が降ってきたのでした。

 雨ではなく雪になっているということは、それだけ大気が冷えているということになります。それなのに、身体の外側よりも内側の方が冷えて感じられるのは、どういうことでしょうか。


 ――そんなもの、考えるまでもありません。私が空っぽだからに決まっています。


 周りを温める熱を持ち合わせていないこの身体(こころ)では、この寒さに耐えることができないと言うだけの話なのでしょう。

 せめてもの慰めにと行ってみたニューイヤーコンサートも、出来そのものは素晴らしかったのですが、どうやら私に熱を与えることはできなかったようですし。


「……はぁ……っ」


 そんな身体を少しでも温めようと、私は口元を覆った手に吐息を吐きかけます。冷たいはずの白い息でも、少しは冷えた手を温めてくれたでしょうか。

 別に今すぐ鍵盤を弾くわけでもないのにおかしなことを、と軽く自分に苦笑しながら私は駅に向けて足を速めます。

 年明け早々の駅前は人混みで溢れかえっています。その人波の中をどうにかすり抜けようとしていると、すれ違いざまに誰かと肩がぶつかって、危うく倒れそうになってしまいました。


「――んんっ!?」


 咄嗟に足を踏ん張り倒れることを回避できた私は、反射的にぶつかったまま通り過ぎていった誰かの方を振り返ってしまいます。

 けれど私の目が捉えたのは、その失礼な誰かではなく、その向こうを歩いている女の人の後ろ姿でした。


 赤い帽子の下に柔らかい巻き髪を収めこんだ、柔らかい笑顔が似合いそうな女の人の。


 それを確認した瞬間、「――、……っ!」私は彼女を追いかけようと駆け出してしまいます。

 ひしめき合う人の波の中をどうにか掻き分けようと、懸命になってしまいます。

 けれど非力な私ではどうしてもその人波を乗り越えられず、人混みに溺れてしまった私は結局赤い帽子の彼女のことを見失ってしまいました。


「……ぁ……」


 最終的に人混みにはじき出されてしまった私は、途方に暮れた声を出してしまいながら、彼女を見失った方向をじっと見つめることしかできません。それから、自嘲の笑みを口元に浮かべました。

 一瞬、見間違えてしまいましたが、彼女が斎藤先生であるわけがありません。斎藤先生がこの町を離れてもう半年、今更こんなところにいるはずもないのですから。

 それにあれがもしも斎藤先生だったとして、私は彼女を捕まえてなにを話すつもりだったのでしょう。今更、この私が、先生になにを。


 手を放してしまったのは、私の方だというのに――


「…………」


 どうにもやるせなくなった私は、空を見上げました。鉛色の空から舞い降りてくる白い雪は、私の顔に次々と降り積もってきます。その冷たさで熱くもない頭を冷やしながら、私はそっと目を閉じました。

 黒い闇の中、私はひとりなのだと、そう実感します。先ほどまで人混みの中に埋もれていたのに、その中からはじき出されてしまって。大切にしてくれた人を、大事にすることもできずに。


 ――このままずっと、私はひとりきりなのでしょうか。


 そう思った瞬間、私の頭の中で音が響きました。

 冷たく、澄み切った、とても綺麗な四分音符。どこか深い海の中から聴こえてくるような、透明なピアノの音が。


「え? ……え? …………え?」


 戸惑う私の頭の中で、ピアノが勝手に聞き馴染みのないメロディを奏で始めます。

 慌てて確認してしまいますが、当然ながらイヤホンもヘッドホンも付けていません。なのに、音は鳴り止んでくれません。

 架空のピアノが、私の頭の中で勝手に鳴り続けているだけだと――そこで私はようやく自覚しました。


 その瞬間、私は目を開けて、急いでスマホをコートの中から取り出します。


「ああもうっ、鬱陶しい! どうして、もっと簡単に、操作できないんですか――っ」


 スワイプできないのは手袋を履いたままだからとようやく気づき、私は急いで毛糸の手袋を片方だけ脱がしました。

 それでも、焦る手つきはおぼつかなく、上手くスマホの操作ができません。苛立ちを噛み殺しながら、なんとか冷静になろうと必死に努力して、ようやくアドレス帳を開けた私はその中からひとつを選んでタップします。

 相手が出てくれたのは、思いがけず、すぐのことでした。


「――忍お兄様ですか? 申し訳ありませんが、駅前にピアノを置いてあるスタジオ、ありましたら教えていただけますか? ええ、はい、今すぐにお願いします」


 相手は妹からの突然の依頼に驚いているようでしたが、すぐに要望を理解してスタジオの場所を教えてくれます。それを確認すると、私は礼もそこそこに通話を切るなり、急ぎ足でそのスタジオへと向かいました。

 五線紙が手元にあればそんな必要はなかったはずなのに、と。そんな用意をできているはずもない自分に呪いの言葉を吐き出しながら――


 幸い近くにあったので、スタジオまでは十分とかからず辿り着けました。

 入り口のドアをちゃんと開ける手間ももどかしく、まるで暴漢のように乱暴にドアを押し開けると、私はそのままスタジオの受付に直行します。


「あ、あの、なにか……?」

「沓掛紫苑と申します。兄の忍からスタジオを使わせてもらえるよう連絡が入っていると思いますが、どの部屋でしょうか? 二階のDスタジオですね。ありがとうございます、失礼します」


 引きつった表情の受付の人から部屋の場所を聞き出すと、私は脇目も振らずDスタジオに向かいます。

 どうしようもなく急ぎながら、それでも階段を上る足音が頭の中の音に混じってしまわないように、メロディがこぼれ落ちてしまわないよう慎重に足を動かして、私はようやくDスタジオにたどり着きました。

 玄関と同じようにドアを押し開け、慌ただしく室内に入り込んだ私の目が真っ先にピアノを捕らえます。


 当然、グランドピアノではなくただのアップライトピアノですが、構いはしません。

 とりあえず、音さえ鳴らしてくれればそれでいいのですから――


 いつもより乱暴に蓋を開けてしまいますが、それを気に掛ける余裕もないまま。備え付けの椅子に腰を掛けることも忘れたまま。

 私は、問答無用にピアノを弾き始めました。

 頭の中の音に導かれるままに、生まれたばかりのメロディを魂に刻み込むように、私はただ夢中になって鍵盤を叩き続けたのです。


 ――そうして、どれくらい経ったのでしょうか。

 とりあえず頭の中に湧き出してしまった曲想(イメージ)をなんとか形にし終えて、私はようやく手を止めました。

 今更のように、汗がだらだらと流れていることに気づきます。コートを脱がないまま暖房の効き過ぎた室内で、ピアノをずっと弾き続けてしまっていたからでしょう。おかげで身体の方もいくらか強張ってしまっているようです。

 一度深く深呼吸をして、固まった身体をほぐすようにしながらコートに手を掛けたところで、私はようやくその気配に気づくことができました。


「……お兄様。どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」

「どうして? って。いやいや、ここを指定したのは僕だからね。居たって不思議はないだろ?」


 いつの間にか、Dスタジオの入り口にひとりの男の人が立っていて、演奏中の私をじっと見守っていたようでした。

 年齢は私より八つ上の二十三歳。アイドルでも通用しそうな甘い顔だちに、うさんくさいほど爽やかな雰囲気で整えられた短い髪。オーダーメイドのアルマーニのスーツをだらしなく着崩しているのは、そう装っているだけだと本人は言い訳をするでしょうが、それが当人のいいかげんな気質の表れだと私は知っています。

 つまるところ、彼こそが私の二人目の兄の沓掛忍、その人でした。


「……なんて、ね。本当はここで僕が担当してるバンドがレコーディングしてたから、ってだけだよ。まさに絶妙のタイミングだったわけだけど、これも兄妹愛の賜物ってことかな?」

「ただの偶然、だと思いますが。……タイミングがよかったのは、否定しませんけれど」


 大学卒業後、次兄は沓掛グループ傘下の音楽会社でプロデューサーの真似事をやっているわけですが、どうやらたまたまその仕事でこのスタジオにいたということのようです。

 スタジオをすぐ使えたという意味では幸運ですが、このタイミングでお兄様と顔を合わせる羽目になったのは不運ですから、差し引きゼロといったところでしょうか。


「……とりあえず、急なお願いを聞いていただきありがとうございました。おかげで助かりました。お礼はそのうちに、なにかの形でさせていただきます。

 それと、お兄様。このことはお母様には、当然内密にお願いします」


 私がこのスタジオに来た用件はもう済ませたわけですし、これ以上忍お兄様と話をしているとまた無意味に絡まれかねないので、さっさと退散しようとしたはずなのに。


「ああ、紫苑がピアノを再開したって聞いたら、母さんはとっても喜ぶだろうからね。下手したらまたコンクール漬けの日々を送ることになるから、それは紫苑も勘弁して欲しいよね」

「……なにが言いたいのですか、忍お兄様」


 忍お兄様が入り口に立ち塞がっているせいで、部屋から出て行けません。155cmの私より27cm高いところにある顔を見上げると、お兄様はからかうように口元を吊り上げました。


「さっきの曲、紫苑のオリジナルだろ? 聴いたことない曲だったし。あれ、いい感じだったから、ちゃんと形になったら僕に預けてみる気はない? そしたら、天才少女復活とか言って売り出せば、そこそこは売れるだろうからさ」

「そのご提案、謹んでお断りさせていただきます。私は魂まで売り渡すつもりはないですし、忍お兄様のところでお世話になるつもりはありませんから。まだ、命は惜しいので」

「そっか、残念」


 お兄様の提案を私がにべもなく拒絶してしまうと、新米プロデューサーは仕方なさそうに苦笑を滲ませてから、その大きな身体を横にずらして私に道を空けてくれます。

 私は一度頭を下げてから、その空間を通り抜けてそのまま部屋を出て行きました。

 担当バンドのレコーディングに戻ったはずのお兄様のことは振り返らず、受付の前を通る際に受付の人にだけは挨拶をして、私はすっきりとした気分でスタジオを後にしたのです。


 冷えていたはずの身体はいつの間にか温かくなっていて、全身を少しの疲労とそれを上回る高揚感が包み込んでいました。

 原因こそよくわかりませんが、まさに降ってきたという感じで曲ができてしまったのが理由でしょう。そのことが驚いたのと同時にとても嬉しくて、降りしきる雪の冷たさもまったく気になりません。


 ……もっとも、曲自体はまだアイデアの段階にすぎないので、ちゃんと曲として完成させるためには、まだまだ手直しする必要はあるでしょう。

 そのためには、とりあえずまた音楽室を借りて、調整をしなければならないのですが。卒業するまでに間に合うものでしょうか。正直微妙な気がしますが、それでも完成するまでは頑張らないと、です。


 その決意を形にしようとした、わけではないのですが。

 私は目の前に降ってきた真っ白な雪を捕まえて、そっと手袋の中に閉じ込めてみました。

 溶けて消えてしまうまでの短い時間ですが、それでもその形のない雪が掌の中にあることを確かめてみるように。

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