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6 前奏曲⑤ 斎藤先生からの助言



 私の指の動きに合わせて、美しく幻想的な響きが部屋中に拡がっていきます。

 けれど、その中に不意に賑やかなフレーズが混じってきたかと思うと、次第に子供が跳ね回るような無邪気な音が目立ち始めます。それは同時に運指の難易度が増すことを意味しますが、どうにか私も――辛うじてではありますが――リズムとタッチを制御できてはいました。


 ……それも、途中まででしたが。


 終盤、両手を使っても押さえきれないほどの和音の連なりに入ったところで、私の頭の中はもう真っ白になってしまいました。それでも記憶をなぞって懸命に指を動かし続けますが、次第に無様に絡まりあいもつれそうになる演奏を、どうにか転げ落ちないように整えるのが私にできる精一杯でした。

 どうにか最後の一音を楽譜どおりに弾き終えた私は、すっかりくたくたになってしまいます。

 その結果、演奏の余韻に浸っているのか疲労に脱力しきっているのかわからないままに、だらりとぼんやりしていた私の耳に小さな拍手の音が届きました。


「さっすが沓掛さん。中二でラ・カンパネラを通して弾けるなんて、"中村紘子(ひろこ)の再来"とまで呼ばれたことはあるわよね~」


 弾き始めたときは私ひとりだったはずなのに、彼女がいつ音楽室に入ってきたのかはわかりませんが。さすがにもう何度も繰り返されたことですから、今更驚くようなことではありません。

 なので、私はわざわざ振り返ることはせず、ただ言葉だけを返します。


「……先生、いい加減こっそり入ってくるのは辞めてもらえませんか? 厚意で使わせて頂いている立場でこんなことを言うのは厚かましいかもしれませんが、できればもう少し配慮していただけると、こちらとしても助かりますので」

「はーい、わかりました。沓掛先生」

「……はぁ。その呼び方もですけど、"中村紘子の再来"なんて恥ずかしい名前で呼ぶのも辞めてください。勝手に付けられたもので、私は一切許可していませんから。……お願いします」


 誰が書いたものか確認はしていないので、名付け親が誰かは知りませんが。私がコンクールに出るようになって何度目かの賞を取った際に、音楽雑誌の片隅に私のことをそんなふたつ名を付けて過剰に褒めちぎった記事が載ったことがあったのです。

 正直困惑しか覚えませんでしたし、迷惑でしかなかった私はそんな二つ名のことはすっかり記憶の隅にしまい込んでいたので、斎藤先生にそう呼ばれてしまうとどうにも居心地が悪くて仕方ありませんでした。


「えー、呼んじゃダメなの? いい呼び方だと思うんだけどなぁ」

「先生はよくても、私はよくありませんから。是非ともお願いします」


 尚も渋るような態度を見せる先生に向き直って、私はそう強く懇願します。それから、鍵盤を指先でなぞりながら、口元に苦笑を刻みました。


「……それに、あくまでも通して弾けた、だけですから。弾きこなせているとは到底言えないくせに"中村紘子の再来"だなんて、それこそ申し訳なさすぎですから。もしご存命でしたら、本人もいい気分はしなかったでしょうし」

「あー、確かにねー。それこそ、頭から角出して怒り狂っちゃってたかもね」


 私の軽口におどけて人差し指で角の真似をする先生。その笑顔につられて、私も自然と口元が緩んでしまいました。

 そんな私の顔を見て斎藤先生はどこか満足そうな表情を見せると、今度は大げさに両肩をすくめてちろりと赤い舌を唇から覗かせます。


「まぁ、沓掛さんがまだまだ中村紘子に届いてないのは事実なんだけど。それでも、とっくに先生よりも上にいっちゃってるのは確かだからさぁ。アタシとしては、そんな人は生徒じゃなくて先生呼びするべきだって、そう考えても仕方ないって思うのよね」

「……まだ言いますか、先生……」


 私はやれやれと――少し、わざとらしく――ため息をつきました。斎藤先生の気さくさは、人付き合い初心者の私にはありがたいこともあれば、うんざりさせられることもあります。

 この場合は後者ですが、さて、どうすれば今の先生をやり込めるのでしょうか。


「…………」


 少し考えた末に、私はピアノに向き直りました。途端に、先生が姿勢を正すのが視界の隅に入ってきました。その変わり身の早さに少し呆れかえりながら、私はその曲を弾き始めます。

 中学校の音楽室には、ある意味似つかわしいその曲を。


「……って、荒城の月? いきなりどうしたの?」

「斎藤先生がしつこく先生、先生と呼んできますから、それにふさわしい曲がいいかと思いまして。……ご不満ですか?」


 ピアノから流れる日本情緒溢れる和音に、当てが外れたのか素っ頓狂な声を上げる斎藤先生へ、私はしてやったりの気分でそう声を掛けました。もちろん、先生が嫌がるならすぐに別の曲を演奏するつもりではありましたが。

 けれど、先生は嫌がるどころかいたずらっぽい笑みを浮かべると、いきなり歌い始めたのです。


「めぐるさかずき~、かげさして~♪」


 突然合唱を始められたことに驚きはしましたが、さすがにそれで演奏を乱すようなことはありません。なにごともなかったように演奏を続けながら、私は先生の歌声にそっと耳を傾けました。

 斎藤先生の歌声は、さすがにプロと呼べるようなレベルにはありません(もちろん、専門はピアノなのですから当然ですが)。

 ですが、張りと艶のある声はとても華やかで、魅力的な声質ではあるでしょう。惜しむらくは、彼女の声に似合うのは明るく穏やかな曲だから、荒城の月のような玲瓏な曲には微妙に合っていないことでした。


「昔の光~、今、いずこ~♪ ……って、あれ? まだ一番しか歌ってないんだけど。もう終わり?」

「はい、終わりです。斎藤先生が私を先生と呼ぶことへの意趣返しのつもりでしたので、効果がないのなら続ける意味もありませんから」


 端的に答えると、私はそのままピアノを片づけ始めます。……余計な邪魔者も入ってしまったことですから、今日の課外活動はこれでおしまいにしようと。

 途端に先生ががっかりした表情を見せますが、私は気にせずピアノの蓋を閉めて荷物を手に取りました。いつも先生には振り回されてばかりですから、これくらいの意趣返しはしても構わないでしょう。


「先生、今日もありがとうございました。それでは、失礼――」

「ねぇ、沓掛さん」


 そのまま最後に挨拶をしかけたところで、斎藤先生の呼びかけがそれを遮りました。

 そこで、私が言葉を飲み込み動きを止めてしまったのは、先生の声や表情が真剣なものだったからです。


「沓掛さんは、これからどうするか考えてる?」

「これから……ですか?」


 一瞬、意図がわからずオウム返ししてしまう私に、先生は真剣な顔のまま頷いてきました。


「そう、これから沓掛さんはどうするつもりなのか聞きたくなっちゃってね。……コンクールに出るつもりもプロになるつもりもないし、部活にも入らないつもりなのはそれでいいんだけど。でも、だったらずっとこうしてひとりでピアノを弾き続けるつもりなの? 沓掛さんはそれでいいのかな? って」

「……それ、は……」


 その単純な質問に、私は答えることができません。なにも考えないように心を閉ざし、目を反らし続けてた私には。


「ああ、ゴメンね。別に責めてるわけじゃないのよ。ただ、ちょっと、このままなのは沓掛さんにとって良くないんじゃないかなって思ったの。ずっとひとりで、殻に閉じこもったままなのって。

 ま、それだけじゃなくて、沓掛さんのピアノを先生の独り占めにしておくだけなのも、正直もったいないかなーって思ったのも否定はしないけど、ね」


 私が合唱部の勧誘を拒否した際に、自分ひとりだけでもピアノを聞かせて欲しいと頼みこんできたことは忘れてしまったのでしょうか。斎藤先生は再びいたずらっぽく、舌を唇の間から覗かせました。

 その言葉は、おそらく正しいのでしょう。今の私がやっていることは、きっとただの逃げでしかないのです。

 ですが――


「――っ。それは……そう、かも……しれません、が……。私、は……」


 私の脳裏に()ぎるのは、四宮さんの顔でした。

 怒りと、屈辱と、それ以上の形にならない感情が入り交じっている、その幼い表情(かお)が、私の言葉を心に縫い止めて放してくれません。

 まるで呪いのように、心に突き刺さったままの楔に苦しんでいる私の顔を見て、斎藤先生はそっと微笑んでくれました。泣いてる子供を慰める大人のように。


「ま、そうは言っても今の沓掛さんにはまだちょっと難しいかもね。だから、沓掛さん。一度曲を作ってみない?」

「え? ……曲、ですか?」

「そ、曲。つまりは作曲してみないかってことなんだけど。どうかな?」


 どうかな? と言われても困ります。それまで既存の曲をどう演奏するかだけを考えていた私が、いきなり作曲などできるものでしょうか。

 戸惑う私に、先生は相変わらず気楽な調子で続けてきます。


「最近だと、Wetubeとか動画サイト使って誰でも発表できるから、それを使って発表してみるのもいいし。なんだったらクラシックから一度離れて、ロックやポップスに手を出して誰かとバンドを組んでみるのもアリだと思うし」

「…………はぁ」


 Wetube、とかいわゆる動画サイトなるものがあることは私も知ってはいましたが。それに曲を発表できると言うのがよくわからず、私は生返事を返すしかありませんでした。


「もちろん、別に曲を作っても発表なんてする必要はないから、そこは安心してね。ただ曲を作るだけでも、たぶん沓掛さんには意味があるはずだから。試しに一度だけ、って気軽な気持ちでやってみるのも、悪くないと思うのよ。先生に騙されたつもりで構わないから、ね?」

「……はぁ……考えておきます」


 やる気は全然湧いてこないままでしたが。斎藤先生の柔らかな笑顔につられて、私はそう返してしまうのでした。

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