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5 前奏曲④ 斎藤先生との出逢い



 中等部一年から中学二年生になって変わったことは、通う学園と制服に通学路、それに伴う通学手段(自家用車から電車に変わりました)。そしてなによりも、はじめて委員長ではなくなったことでした。

 ちょうど学年のはじめから通い始めたわけですが、だからといって転校生にいきなり委員長という重要な役が任されるわけもない、と言うことなのでしょう。

 学園運営上当然の処置ではありますが、私もそれで少し気が楽になったのも事実です。


 その一方で、新しいクラスメイトは、私のことをひとまず受け入れてくれたようでした。

 どうして二年になって白羚から転校してきたのか、白羚での学園生活はどのようなものだったのか、など。転校生相手なら当然の質問に加えて、私自身のこと――趣味や部活など個人的な領域についてもクラスメイトから尋ねられました。

 それらの質問を、答えるのが(はばか)られる質問にはとりあえず口を濁して、そうでない質問にはできる限り普通に答えるようにはしましたが、対人スキルに欠ける私のことですから上手くできていたかは怪しいものです。

 実際、私がクラスメイトたちからの質問攻めにあっていたのは最初の数週間ほどで、そのうち潮が引いていくように私の周囲からは誰もいなくなっていました。


 或いはそれは、最初の実力テストの結果が出たことが関係していたのかもしれません。

 そう、せっかく環境も変わったのですから、私も少しは手を抜くことを覚えてもいいはずなのに。結局私は相変わらず、義務のように学年一位を取ることに血道を上げてしまっているのでした。

 我ながら愚かなことをしていると思いながらも、それでも私はその道を外れることがどうしてもできないようでした。

 まるで身体の一部にでもなったかのように、私から離れてくれないのです。或いは、呪いのように。


 その結果として、私は相も変わらずクラスメイトたちに遠巻きに見られる日々を送ることになってしまったわけですが。これまでのことを思えば、それは私にとっても悪いことではありません。

 少なくとも、そうして他人との適切な距離を取っていさえすれば、私の浅はかな言動で誰かを傷つけることも、その傷ついた誰かを見て私自身が傷つくこともないはずなのですから。


 ――とは言え、何事にも例外はあるのが世の常というものです。

 その後も私に近づいてくる人が、いないわけではありません。

 彼女たちは皆一様にある集団に属していました。具体的には吹奏楽部や合唱部など、音楽系の部活に。


 そう、彼女たちの目的は私を勧誘することだったのです。少しでもピアノコンクールに興味を持っている人になら、まだ私の名前はそれなりに有名なはずですから、そうなるのも致し方のないことでしょう。

 当然、そのたびに私は丁重に断っていましたが、それでほとんどの方が諦めてくれる中、ひとりだけしつこく……もとい、何度も私に声を掛けてくる方がいらっしゃいました。


「ねぇねぇ、沓掛さん。どうかな、考え直してくれる気になってくれてないかな?」

「……申し訳ありません、斎藤先生。残念ですが、私の気持ちに変わりはないかと……」


 ある日の放課後、授業中の解説では今ひとつ理解仕切れなかった箇所を世界史の教師に質問しに行ったところ、質問を終えて帰りかけた私を呼び止めたのは、柔らかい巻き髪と笑顔が印象的な――音楽担当の――斎藤先生でした。

 教師になってまだ四、五年目だった彼女は合唱部の顧問をしていて、入学式や始業式などの式典の際には校歌斉唱のピアノを任されていました。

 その関係で私のピアノを聴いたこともあるらしく、顔を合わせるたびに私を合唱部に勧誘してくるのでした。


「そっかぁ、残念。今回は諦めるけど、また聞くと思うから。ちゃんと考えといてね」

「……斎藤先生。何度誘われても、私は部活に入る気はありませんから。もういい加減諦めてもらえないでしょうか」


 一度や二度ならともかく。もう十回以上も勧誘され続けていたので、さすがにうんざりしていた私はそう斎藤先生に頼みこみました。それでも斎藤先生は諦めきれないのか、どこか未練がましい表情で恨めしそうに私を見つめてきます。


「えー、どうしてもダメ? こんなに先生が頭を下げて頼みこんでも、ダメ?」

「ダメです」

「そっかぁ、残念。あーあ、せっかくあの沓掛紫苑が転校してきてくれたんだから、あのピアノでみんなに歌って欲しかったんだけどなぁ」


 がっかりと肩を落とす斎藤先生に私も胸がチクリと痛みますが、できないことはできないのですから、ここはきっちりと断るしかありません。

 なにはともあれ、これでもう勧誘はなくなったはずとこっそり胸をなで下ろし、そのまま職員室から離れようとしたところで、


「期待に応えられず、申し訳ありません。それでは失礼し――」

「あ、じゃあさ、これだけお願いできないかな。一度だけ、先生にだけでいいから、沓掛さんのピアノこっそり聞かせてくれない?」

「…………え?」


 まるで神棚でも拝むように両手を合わせて、斎藤先生が私に頭を下げてきたのでした。

 当然ながら拒否する私でしたが、斎藤先生の食い下がり方は尋常ではなく、押し問答の末に最終的に一度だけという条件付きで斎藤先生にピアノを披露することになってしまいました。

 当日は斎藤先生に仕事があって無理だったので、合唱部の活動がない二日後の放課後にとの約束どおり、授業を終えてすぐに私は音楽室に向かいました。

 初めて入る音楽室は、白羚に比べれば当然のように小さくはあります。それでもピアノはちゃんと置かれているのですから、問題はありません。


「ゴメンね、沓掛さん。先生のワガママで無理言っちゃって。お詫びとして、先生でできることならなんでもしてあげるから、いつでも言ってね?」


 先に音楽室で待っていた斎藤先生は、ワクワクを隠しきれない調子ではありましたが、それでも年上らしい殊勝な口調で言ってくれました。その厚意はありがたいと思いつつ、私になにか要望があるわけもないので、注意事項だけ口にすることになります。


「別に、構いません。特になにかして欲しいこともないですし。それより、私はもう一年近く弾いてませんから、先生の期待しているような音を出せるかは保証できませんが。それでも構いませんか?」

「先生がむりやりお願いしたんだから、沓掛さんは細かいことは気にしなくていいから、ね。気軽に、適当に弾いてちょうだい。さて、と。それじゃあ、そろそろお願いしていい?」


 待ちきれない様子がありていに窺えたので、会話はそこまでにして私はピアノに向かいました。

 椅子に腰掛け、ピアノの蓋を開けて赤い布(キーカバー)を取り除きます。それから、以前のように鍵盤を撫で上げました。(A0)から(C8)まで。

 そうして演奏準備が整ったところで、私ははたと首を傾げました。


 そういえば、なにを聴きたいのか教えてもらっていませんが、どうするべきでしょう。

 リクエストがないなら私の好きな曲でいいのでしょうか。けれど、それもなんだか違うような気もします。エスプリジョークを利かせるなら『別れの曲』辺りをやってみるのも面白いかもしれませんが、さすがにそれは失礼すぎるでしょうし。


 そうやって少しばかり逡巡した後、なんとか弾く曲を決めた私はようやく弾き始めました。

 本当にちゃんと弾けるのか。先生の期待を裏切りはしないか。

 私のそんな不安は、最初の一音を奏でた瞬間に吹き飛びました。

 頭で考えるよりも先に、身体(うで)は自然に動いていました。私の両腕はまるでそうプログラムされた機械の腕のように、鍵盤の上を跳び回ります。楽譜で指定された運指をひとつも誤ることなく、偉大な先人が編み出した美しいメロディ(トロイメライ)をただ奏で続けました。



 ――一年と半分の空白なんて、なかったかのように。



 パチパチパチパチパチパチ――

 私が最後の一音を弾き終えた瞬間、それを待っていたかのように拍手の音が響きました。

 それはたったひとりのものでしかありませんが、私にはこれまでのコンクールで耳にした観客たちの拍手の音と重なって聞こえました。


「ブラヴォー、ブラヴォー――っ! さすが沓掛さん。さいっこうのトロイメライだったわよ。先生がこれまで聴いた中でも一番って言っていいかも。……弱気な発言するからアタシもちょっと不安になってたけど、全然腕落ちてないじゃない。もう、謙遜しちゃってさ、このー、このー」


 なんとか期待に応えられたのでしょう。感極まった様子で、斎藤先生が早口でまくしたててきます。幼い子供のようにはしゃぎ回りながら、私の肩や背中をバンバンと叩いてきます。……あの、ちょっと痛いのですが。

 思わず顔をしかめてしまう私ですが、先生がそれに気づいた様子はありません。諦めて叩かれるままになっていますと、しばらくしてようやく興奮が冷めてくれたのか、なんとか大人しくなってくれました。


「ああ、でもホント、勇気出して頼みこんでよかったぁ。これが聴けなかったら、きっと一生後悔するところだったもんね。……って、沓掛さん、どうしたの?」

「…………え?」


 私の顔を見るなり、先生が驚いたように声を掛けてきました。

 一瞬戸惑い、首を傾げかけた私はそこでようやく気づいたのです。

 私の頬を、一筋の雫が伝っていることに。


「え? え? あれ? どう、して……?」


 訳がわかりませんでした。

 悲しくもなければ、どこか痛んでいることもありません。なのにどうして、私は泣いてしまっているのでしょうか。

 自分が泣いている理由もわからず、涙を止めるやり方もわからないままの私は、ただそのまま涙を流し続けるしかありません。

 そんな私を斎藤先生はしばらく黙って見ていたようですが、やがて仕方ないなといった感じに微笑んだかと思うと、私の頭に手を載せてきました。


「よしよし、大丈夫だからね。理由がわからなくっても泣いちゃうなら、そのまま泣いちゃっていいんだし。そうしたいって心が言ってるってことだから、それに従った方がきっといいはずだから。ね?」

「……っ。――、……っっ。――っ、……はい」


 ポンポンと無遠慮に私の頭を叩いてくる斎藤先生の手を払いのけることもせず、私はただ椅子に腰掛けたまま先生の言葉に身を委ねていました。

 それから、どれほど経ったでしょうか。


「……先生、ありがとうございます。もう大丈夫、だと思います。お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありませんでした」


 どうにか泣き止んだ私は椅子から立ち上がり、斎藤先生にお礼と謝罪を口にするとともに頭を下げました。

 それから、醜態を晒してしまった気恥ずかしさもあったので、そのまま音楽室を出て行こうとしたところで、先生から声を掛けられてしまいます。


「えーと、別に先生は気にしてないから、沓掛さんが謝る必要はないわよ。だから気にしないでね。……それよりも、沓掛さん。ちょっと待ってくれる?」

「……? ……なんでしょうか?」


 まだなにかお願い事でもされるのかと。私が少し警戒しながら立ち止まると、斎藤先生は真剣な顔で私のことを見つめてきました。


「沓掛さんがよかったら、になるんだけど。もしもその気があるなら、沓掛さんがこのピアノを弾いてもいいからね。もちろん、合唱部で使うときとか授業中はダメだけど、それ以外の時間ならいつでも、自由にしていいから」

「……それは、今日のように先生が私のピアノを聴きたい、ということでしょうか?」

「ああ、違う違う。アタシのことはとりあえず、考えないでいいから。もちろん、聴かせてくれる分には嬉しいけど、そういうことじゃなくてね」


 訝しく尋ねかけてしまった私に、先生は手をバタバタと振って私の邪推を否定します。それから、


「沓掛さんの事情はわからないから、先生が偉そうなことなんて言う権利はないんだけど。それでも今日の演奏を聴いたら、やっぱり沓掛さんにピアノは必要だと思うのね。だから、部活とかコンクールとか、そういうのは関係なしに、沓掛さんがピアノを弾ける場所を作れたら、と思っただけなの。どうかな、沓掛さん。ピアノ、もう一度弾いてみない?」


 そう優しい声で言ってくれました。カーテン越しに差し込む真っ赤な夕日に隠されてその顔ははっきりとは見えませんでしたが、きっと穏やかに微笑んでいたことでしょう。

 その声と表情を前に、私は少し立ち竦んでしまいました。


 一度は身勝手にピアノを捨てたはずの私が、もう一度手を伸ばしてもいいのでしょうか。

 四宮さんに、お母様に申し訳が立たないのではないのでしょうか。

 そんな思いがよぎってしまい、私は反射的に拒絶の言葉を口に出しかけてしまいました。

 けれど――


 指先に残る感触が、それを押しとどめました。久しぶりに触れた、鍵盤の冷たい感触が。

 もう二度と触れるはずもないと思っていた、もう二度とその前に立つこともないのだと思い、そう誓って離れたはずなのに。

 そんな身勝手すぎる私を、ピアノはなにもなかったように受け止めてくれました。なにも変わらず、ただあるがままに。離れていた時間なんて存在しなかったように。

 そう思った瞬間、再び目頭の辺りが熱くなりかけましたが、ギリギリで決壊をこらえます。

 それから私は、一度だけ歯を食いしばって思いの塊をむりやり飲み込むと、斎藤先生の目をまっすぐ見つめてから頭を下げました。


「……先生が迷惑でなければ、どうかよろしくお願いします」

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