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深海から月光だけを  作者: 藤倉 一至
深海

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4 前奏曲③ 春の出逢いとお別れ



「麗らかな春の光が差し込むこの良き日に、ここ白羚女学園中等部に入学できる喜びを伝えるために、新入生一同を代表してご挨拶させていただきます。――、――」


 春、四月。外では桜が咲き誇り人々の目を楽しませている中、白羚女学園の体育館の中では中等部の入学式が行われていました。

 小等部から持ち上がりの内部生だけでなく、中等部から入学してきた外部生も合わせて本年の入学生は165名を数えます。


 その165名の代表として、私は新入生挨拶を任されていました。


 小等部でもその役目を任されていたので、慣れたものではありますが。高難度の試験を潜り抜けて入学を果たした外部生がいることを考えれば、私が今回も代表を任されることになったのは少し驚きではありました。


 けれど、今の私の状況を考えれば不思議だと言うほどのこともありません。

 週三日のレッスンに加えて、それ以外にも暇を見つけてはずっとピアノに向き合っていた時間は、それなりのものがあったはずです。その時間の全てを、今はただ勉強にのみ使っているのです。そんな私が新入生代表になれる程度の成績を取れたとしても、別におかしくはないのですから。

 そうすることでしか、今の私は沓掛家の一員としての在り方を保てないのですから。


「――以上。新入生代表、沓掛紫苑」


 そうした焦燥感を心の内に秘めたまま、それでも私は滞りなく挨拶を済ませました。

 原稿を制服の内ポケットにしまい込み、壇上から降りていく私に新入生たちの視線が絡みついてきます。

 それは小等部時代のものと、なにも変わりはありませんでした。

 憧憬、あるいは畏怖。嫉妬があまり感じられないのは、内部生はこれくらいのことでは今更だと言うこと、外部生ですとまだ嫉妬を覚えるほど私を知りはしないことが原因でしょうか。

 いずれにしろ、そこに親しみと呼ばれるものが欠片も含まれていないのは、明らかでした。


「…………?」


 そんな中、ひとつだけ他の視線とは違った種類のものがあるのを感じた気がして、私はそちらに視線を向けました。

 同じ青色の制服に身を包んだ同じような雰囲気の集団の中、なぜか彼女の姿はくっきりと浮かび上がって見えました。

 短く切り揃えたはずの髪は、少しだけ癖が残っているようでした。利発そうな顔立ちは、『美しい』よりは『可愛い』と言われるのが似合いそうではありますが、充分整っていると言えるでしょう。


 そんな彼女が、じっとこちらを見つめていました。まるで睨みつけているように。

 顔に見覚えはありませんから、おそらくは外部生でしょう。ですから初対面であるはずの彼女に睨まれる覚えはない、はずですが。……どうにもよくわかりません。或いはなにか粗相でもあったのでは、と。余計な心配までしてしまいそうになりました。


 けれど、その視線に私が嫌な気分にならなかったのは、それが不快なものではなかったからです。

 憧憬、畏怖、嫉妬と言った感情とは少し違うような、それでいてはっきりとひとつの言葉にはできないような感情が込められた彼女の視線が、私にはどこか新鮮に感じられたからでした。


 そうして、入学式が無事終わってから自分が配属されたクラスの教室に向かった私は、そこで件の彼女の姿を見つけたのでした。

 初回のHRで行われた自己紹介で、彼女は結城夏凛と名乗りました。最初の私の予想どおり、外部生だったようです。そして、入学試験では彼女が私に次ぐ二位だったことを、委員長として訪れた職員室で担任の先生から教えられました。


 実際、結城さんが優秀であることは、ほんの一週間程度で私にもわかりました。

 授業では他の生徒が答えられないような難問にも平然と正答していますし、運動面でもその非凡さを思う存分発揮しているのですから。

 まさに文武両道と言った風で、文しかできず武の方はからっきしの私よりも彼女の方が委員長(リーダー)にふさわしいのでは、と。そう思わせられるほどでした。


 ですが、結城さんの本当に素晴らしいところは、そのようなところにはありません。

 なによりも私が彼女のことを評価したのは、彼女の人柄でした。

 物怖じもせず明るい性格は、まるで太陽を思わせるほどに温かく。その優しさは特定の誰かにのみ与えられるのではなく、クラスメイト全員に例外なく振り分けられるのですから。

 友人のひとりも持ったことがなく他人と話すことが苦手な私とでは、根本的にコミュニケーション能力が違っているのでしょう。それこそ、次元が違うレベルで。

 おそらく私がいなければ、このクラスの委員長は結城さんに任されていたでしょう。そして、間違いなくそちらの方がクラスメイトたちには――もちろん、結城さん本人にも――よかったはずです。


 そう考えてしまうと、私はあまりにも場違いすぎて、消えてなくなりたくなることもありました。

 結城さんに委員長を譲るために、わざと成績を落とすことを考えたこともあります。

 けれど、そのどちらを選ぶことも私にはできません。ピアノを手放してしまった私にとって、良い成績を取り続けることだけが私に許された役割なのですから。


 そんな浅ましい私を実力で超えようと、結城さんが懸命に努力している姿を私は眩しい気持ちで――そして、同時にどこか哀しい気持ちで――見ていました。

 なぜなら、私を追いかけてくる結城さんの姿に、私はいつしか四宮さんの姿を重ねてしまっていたからです。

 一年、いえ二年間ずっと努力を重ね続けていた四宮さんのことを、私はきっと好ましく思っていたのでしょう。自分でも、気づかないうちに。だからこそ、あのコンクールで彼女に罵られたときは哀しかったし、その後彼女がピアノを辞めたと知ったときにはショックを受けてしまったのです。

 そして、結城さんが四宮さんと同じようになることを、私は恐れるようになりました。結城さんが私に追いつくことを諦めて、努力しなくなってしまうことを。四宮さんのように結城さんが私を罵倒する日が来ることを。


 なのに私は、手を抜くことを選べません。そうすれば楽になるのはわかっているのに、どうしてもできなかったのです。そうしてしまえば、私自身が居場所を失ってしまうから。

 その結果、私と結城さんの立ち位置は変わらないままでした。私が一位、結城さんは二位の座を保ったまま、一学期が終わってしまいます。


 その間に、結城さんも少しずつ変わっていきました。私に挑もうとしていた目の輝きは次第に薄れ、諦めや悔しさの色が増してきたようでした。その変化を、私は哀しい気持ちで見ていました。見続けることしか、できませんでした。

 結城さんもこのまま他の人と同じように、私を諦めてしまうのでしょう、と。そんな絶望(あきらめ)を抱えながら。


 ――けれど、私のそんな浅はかな予想は、当たることはなかったのです。

 夏休みを終え、二学期に入って結城さんは確かに少し変わりました。ですが、その変化の方向性が私の予想してものとは違っていたのです。

 具体的には、周囲により気を配るようになりました。それまでもクラスメイトたちとの関係は良好でしたが、さらに彼女たちひとりひとりに対して積極的に声を掛けるようになったのです。

 その影響もあって、夏休み前までは少なからずあったクラスメイト間のトラブルが極端に減りました。本来私が委員長として行わないといけないことを、肩代わりするかのように。まるで私の足りないところを、補ってくれるかのように。


 そして、その動きは私に対しても行われたのです。他のクラスメイトに対してと同じように。

 なにかあるたびに、結城さんが私に話しかけてくるようになりました。にこやかな笑顔を見せて、優しい声で。

 人付き合いが壊滅的にできない私は、そんな彼女にもうまく応えることはできません。笑顔も作れないまま仏頂面を崩すこともできないまま、ただ事務的な受け答えしかできないのです。……情けないことこの上ないとは、このことでしょう。

 なのに、結城さんはそんな私にも呆れることなく話し続けてくれました。本当に、ありがたいことに。


 さらに彼女は、それに加えて学業面の努力も変わらず続けていたようでした。毎日毎日、クラスメイトたちに付き合っていろいろ遊び回っているはずなのに、どこにそんな時間があるのかわかりませんでしたが。

 そんな姿を見せつけられたことで、私はいつしか結城さんに尊敬の念を抱くようになりました。あまりにも眩しすぎて、私から近づくことは考えることさえできませんでしたが。それでも彼女のまっすぐな在り方が、私の心の琴線に触れたのは間違いのない事実でした。


 ――だからこそ、私はいっそう怖くなったのです。


 私が恐れていたように、彼女が変わることはなかった。それは私にはとても嬉しくて、とても尊いことでした。けれど、それがずっと続いてくれることを私は信じられなかったのです。

 半年では大丈夫でした。では、一年ではどうでしょう? 二年では? 中等部を卒業するまでは大丈夫でしょうか? でも、その先は? ずっと結城さんが変わらないままでいてくれる保証なんて、そんなものはありません。

 いつか結城さんが四宮さんのように変わってしまうことがあったなら。今度こそ私は、耐えられないでしょう。心がバラバラに砕かれてしまうに決まっています。


 ですから、私はそうなってしまう前に逃げることにしました。

 白羚女学園を去ることを決めたのです。

 その決意をお母様に告げることは、もちろん役立たずの私には恐ろしいことです。ピアノを辞めたのみならず、白羚卒業生である資格まで投げ捨ててしまうのかと。そう罵られ、それこそ親子の縁を切られることまで覚悟しないといけないのですから。

 ですが、私にはお母様を怒らせてしまうことよりも、結城さんを喪ってしまうことの方がより恐ろしかったのです。


 恐る恐る話を切り出した私に、お母様は条件をひとつだけ出しました。

 転校先には共学ではなく女子校を選ぶこと。

 それだけを条件に、お母様は白羚を離れることを許してくれたのです。

 お母様がなにを考えて、私にそれを許したのかはわかりません。母親としての優しさからなのか、それともただ私に興味をなくしたからもうどうでもよくなったからなのか。

 いずれにしろ、はっきりしているのはただひとつだけ。


 それこそが、私――沓掛紫苑が白羚女学園を離れる理由だったと言うことです。

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