3.王子
王子の教育方針は彼が赤子のうちにかなり紛糾していた。
彼が恋に落ちることの無いよう、冷徹に育てるべきか、それとも彼が恋に落ちる相手が想いを返せるように愛情深く育てるか。
どちらが正しいのかは誰にも分からなかった。
このような呪いの扱いは誰にも分からなかったし、これだけの多くの祝福をもらう王子もこの国にとって初めてだった。
どうすれば彼がこの国を支える人間になれるかについて大臣達は毎日の様に議論を繰り返した。
けれど答えは出ない。
このままでは国が滅びてしまうかもしれないという焦燥が貴族の間で広がっていた。
けれど、彼が三歳の時、弟が生まれたことで状況は変わった。
彼にもしものことがあっても、この国は弟君が治めればいい。
それは誰の目から見ても明らかだった。
王家の血を残す役目も、国を背負う役割も、呪いを受けた王子でなければならないものではなくなってしまった。
国は弟王子の生誕を盛大に祝って、最高の教育と愛を弟王子に与えようとした。
弟王子が生まれた後、夜露と野茨の両方を殺してしまおうという意見もあったらしいが、その時呪いがどうなってしまうかが分からなかった。
魔法使い達はその時にきちんと呪いを呪いとして受け入れなかった弊害が広がるのではないかと恐れた。
それに隣国がまた王国に戦争を仕掛けてきそうなのだ。
二人を殺して迷いの森がどうなるか分からない事が、二人を守っていた。
夜露を除いて、この国であれほど大きな魔法を使える者はもういなかったためだ。
王子が呪われていても国自体に影響はない。
だから王様たちは国の方を守ることに決めたのだ。
また戦争になった時、夜露が協力してくれるのか、なんてことを考えた者はこの国には誰もいなかった。
国を愛するのは当たり前のことだし、国を守るために協力することも当たり前のことだからだ。
* * *
「王子。北の塔には近づいてはなりません」
そう何度も、何度もいい付けられると逆に気になってしまう。
そこに危ない物があるという訳でもなさそうな上、そこは元々書庫として使われていて本が沢山あるらしい。
何故近づいてはいけないのか聞いても、侍従たちは言葉を濁すばかりで誰一人何も言わない。
危ないのであれば諦めるが、そうでないのであれば少しくらいいいじゃないか。
王子である野茨は、その幼さゆえ、そう考えた。
誰にも気が付かれずそっと行って本を少しだけ読んで、また元のところに戻しておけば誰にもわからないだろう。
決行の日は、弟の四歳の誕生日パーティの日に決めた。
そういう行事に野茨は参加させてはもらえなかった。
その日は父も母も城のものは皆その行事で忙しい。
誰も野茨の事も塔の事も頭にないだろう。
そういう日は弟の誕生日パーティ以外にも間々ある。
のけ者にされているというのは分かるけれど、物心ついてからずっとそういう状況なので野茨はそういうものだと思っている。
父と母が野茨に優しくしてくれた記憶はない。
野茨が生まれたとき盛大なお祝いをしたという話は聞いたことがあるし、今も王子として暮らしている。
けれど明らかに弟と差がある様に野茨には見えたし、野茨の周りにいる人間も皆よそよそしい。
そういうものだとわかっているけれど、今日みたいな日は自分の部屋で独りぼっちで過ごす気分にはなれなかった。
一人でじっと過ごしていると心の中まで冷え切ってしまいそうだと野茨は思う。
一人で抜け出したが野茨の思った通りパーティー会場ではない北の塔までのルートは人気が無い。
誰にも見つかることなく塔まで野茨はついた。
塔の石塀はぼろぼろで一部朽ち果てて蔦が這っている。
苔が生えたところも手入れされずそのままだ。
塔には鍵もかかっていなかった。
野茨は恐る恐る塔の扉を開ける。
中は思ったよりも広く、本棚が所狭しと並んでいる。
放置されていると聞いてたわりに中はほこりも無く小ぎれいだ。
それに見慣れない古代語で書かれた本も並んでいるようだった。
「わあ――」
野茨は思わず感嘆の声をあげる。
魔法使いの祝福のおかげか、彼が生来持っていた力なのか、野茨はとても賢い子供だった。
だから、ここに並ぶ本の価値がどれほどの物なのか野茨にはきちんとわかっていた。
蔵書は本宮にある書庫よりも古いものかもしれない。
わくわくする気持ちを野茨は抑えきれなかった。
子供だからここに入ってはいけないと言われたのだろうか。
大人になれば来れる場所だとしたらあの手入れのされていない外観はおかしい。
側の手入れがあまりにされていないように見えた。
けれど、それに比べ中に並ぶ本はきちんと手入れされているように見えた。
かちゃり、と金属質な音がした。
そこにいたのは一人の男、夜露だった。
夜露はまるで下男のような簡素な恰好をしている。
「ああ、君は……」
夜露は少しだけ苦しそうに目を細めた。
野茨はなぜこの人がこんな顔をするのか分からなかった。
「司書の方ですか?」
野茨が聞くと、夜露の顔がぐしゃぐしゃに歪む。
泣いてしまうかもと野茨は思った。
けれどその人は泣かなかった。
「いいや、違うよ」
夜露は首を振る。
「ここで本を少し読んで行ってもいい?」
目を離すと、この人が泣いてしまうかもしれない。
野茨はそう思って、聞いてしまう。
この人が一人に泣くのは何となく嫌だと野茨は思った。
多分この人は自分を王子だと知っている。
顔を知らなくても身なりで分かるようにできている。
夜露は少し悩んだ後、「……すこしだけなら」と言った。
「今日は、弟殿下の誕生パーティーだけど、行かなくていいのかい?」
野茨は残念ながら本の内容はあまり頭に入って来なかった。
そんなこと聞いてくる人はいなかった。野茨が疎まれているのは周知の事実だったからだ。
「俺はいらない王子だから」
夜露が今までにない驚いた顔をしている。
それから、今度こそ泣いてしまうんじゃないかという表情をしていた。
悲しい顔だった。
絶望しているというのはこういう顔なのだろうか。
何故赤の他人であろうこの人がそんな顔をしているのか野茨には分からなかった。
「お兄さんはなんでそんなに泣きそうなの?」
野茨が聞くと夜露は「俺はお兄さんって程若くは無いよ」と言って少しだけ笑った。
「もしかして、お兄さん魔法使い!?」
魔法使いはそれ以外の人間よりも長命だ。
だからそうかもしれないと聞いた野茨の言葉に、夜露は悲しそうな顔で笑い返した。
それを野茨は肯定だととった。
魔法使いの見た目は年齢とは関係ない。
もしかしたらこの人は自分の父親よりも長い年月を過ごしているのかもしれない。
けれど、この人が魔法使いだとして、不思議なことが野茨にはあった。
魔法使いは国の宝だ。
それなのに、なぜこんな簡素な恰好をしているのだろう。
魔法使いというのは大体ゆったりとした服装でそこには豪華な刺繍が入っている。
こういう恰好が好きな人なのだろうか。
それとも事情があるのだろうか。
こんなさびれた場所にいるのも不思議だった。
魔法使いと言うのは王宮に来るたびに接待をされている筈だからだ。
ねえ、と野茨が聞こうとした時それは目に入った。
なぜ今まで気が付かなかったのかわからない。
彼の足首からのびているのは足輪とそこにつながる鎖だった。
まるで罪人をつなぐ様な足枷と鎖だった。
薄汚れたそれは、だからこそそれなりに長い期間彼の足につけられているのだと分かる。
彼はどのくらいの期間ここにいるのだろうか。
野茨はごくんと唾を飲み込んだ。
ふふ、と優し気な声で夜露が笑う声がした。
「おじさんは悪い魔法使いなんだよ」
それから、あまりにも普通のことを話す様に夜露は言った。
けれど彼が罪人だとはどうしても野茨には思えなかった。
悪い魔法使いというにはこの人は優しすぎる気がした。
だけどきっとこの人がそう言うならそうなのだろう。
実際彼は鎖で繋がれてここに閉じ込められている様だった。
けれど、そんな人の話は聞いたことが無い。
だれもここに罪人がいるなんて話はしていなかったし、ここは囚人のための施設でもない。
本当に危ない人間を王城に置いておくとも思えない。
悪い人間は僻地にある専用の施設に入るのだと野茨はもう知っていた。
夜露はそんな野茨の考えはどうでもいいという様に、にっこりと笑った後、真剣な顔をして夜露は野茨を見た。
「君はいらない王子なんかじゃないよ」
野茨と目を合わせて夜露は言い聞かせる様に言った。
とても真剣な表情と口調だった。
「君はちゃんと祝福を受けている。
君には美貌だって、力だって話術だってなんだってある筈だよ。
君を見ればみんな君の虜になるはずだし、君と話せば君にみんな夢中になるはずだよ」「本当に? お兄さんも?」
「……ああ、俺もそうだね」
泣いてしまいそうな位そうだよ。と夜露は付け加えた。
「あなたの名前は?
あなたも僕を祝福してくれる?」
野茨に言われて夜露はギクリと固まる。
けれど、しばらく逡巡した後「俺の名前は夜露。他の人には言っちゃ駄目だよ」と答えた。
とてもきれいな名前だと夜露は思った。
夜露の黒い髪の毛ときれいに輝く黒い瞳の様な名前だ。
「……祝福。そうだね。
祝福をしてもいいのか」
夜露が何を言っているのか野茨には分からなかった。
祝福については、その時の思い付きだった。
彼が言う通り本当に野茨に皆が夢中になるのであれば、勇気が欲しかった。
けれど夜露は真剣に祝福について考えているようだ。
「でも魔法の対価がここには無いんだ」
「あっ……。じゃあこれは?」
野茨が取り出したのは数日前おやつのケーキに入っていた陶器製のフェーブという小さなマスコットだった。
野茨はもう魔法というものには対価が必要だと知っていた。
対価は宝物ならいい。野茨が今持っている宝物はこれだけだ。
ケーキに入っていた時は嬉しくてずっと持っていようと思ったけれど、この不思議な魔法使いの魔法が見られるならこの宝物を差し出しても惜しくないと思った。
金銀財宝じゃないから、気持ちばかりのものになってしまうかもしれないけれど、これを対価に魔法をかけてくれないだろうか。
そうしたら、誰かに笑いかけて、話しかける勇気がもてるかもしれない。
魔法使いは手のひらにおかれた花の形をしたフェーブを眺めると、聞き取れない呪文をいくつか唱えた。
きれいな魔法陣が一瞬煌めいた気がした。
「あなたの愛する人があなたから遠ざかりません様に」
静かに夜露は言った。
手のひらにのっていたはずのフェーブは消えてしまった。
野茨は夜露の、高すぎず低すぎない不思議な声が好きだと思った。
「ねえ、もっとお話をして!」
野茨は夜露にねだった。
「じゃあ――」
夜露は本棚の中から一冊の本をもってきて開いた。
中には美しい挿絵とそれから野茨にはまだ分からない難しい言葉が沢山書かれていた。
夜露が話してくれたのは、一人の王様の話だった。
空の星になった王様の話だ。
「夜空を見上げてみるといいよ。丁度ダイヤモンドみたいな形をした形をした星座だよ」 そう夜露は言った。
王様の話よりもダイヤモンドみたいだという方が気になった。
ダイヤモンドという宝石は野茨も知っている。想像してみたらとても夜露に似合う宝石なのかもしれない。
「ダイヤモンドかあ」
「ダイヤモンドが好きなのかい?」
静かな声で夜露が言う。
宝石は別に好きではない。ただ野茨は夜露に似合うと思っただけだ。それをそのままいうのも恥ずかしくて野茨は「星が好きなんです」と答えた。
夜露は楽しそうに目を細めると、「ダイヤモンド型の中の一番明るい星が本物のダイヤモンドみたいにキラキラと輝いていてきれいだよ」と言った。
ダイヤモンドは魔法使いにしか研磨できない特別な石だ。
そんな美しい星があるのかと野茨は思わず身を乗り出すようにして夜露の話を聞いていた。
そんな野茨に夜露は優し気に微笑んだ。
けれどそれはどこかさみし気な微笑みだった。
夜露は誰でも野茨に夢中になると言った。
野茨が話しかければ彼の笑顔もさみし気じゃなくなるだろうか。
野茨はそう考えながら夜露のお話を時間が許す限りずっと聞いていた。




