即興合唱団 in 焼肉告白編
「次、どこに行きますか?」
男は対面に座る女性に声をかける。
焼肉から昇る煙で若干見えにくいが、そこから不機嫌そうな女性の顔が見える。
「あの、話があるって言うから来たんだけど?」
男の質問には答えずに、逆に質問を返される。
「あ、えっとー、それは…」
男はメガネの縁を触りながら、あははと愛想笑いを浮かべる。
その時、焼いていた肉の種類がいけなかったのか、コンロから火の手があがる。
慌てた男はとっさにグラスに入っていたお茶をかけて火を消した。
ジュワっという音と共に火は消えたが、今度は水蒸気でメガネが曇った男は女性の顔が余計に見えなくなってしまう。
「あはは、やってしまいました。それで、何の話でしたっけ?」
曇ったメガネを拭き、かけ直した男の目に先ほどよりも怒りを増した女性の顔がはっきりと見えた。
女性は大きなため息をついて立ち上がり、荷物をまとめる。
「用も無いようだし、あたし帰るね」
そう冷たく言い残して店を出る女性。男は立ち上がり手を伸ばしはしたが、追いかける事はせずに、力無くイスに戻る。
男が天井を見上げていると、隣の席に座っていたスーツ姿のおじさんが男に声をかける。
「なぁ、あんた追いかけなくていいのか?」
おじさんの言葉に男は、また愛想笑いを浮かべる。
「いえ、良いんです。ホントはプロポーズするつもりだったんです。
この店も初めてデートをした場所なんですけど、やっぱり勇気がでなくて。…だから今行っても同じです」
イスにもたれ掛かった男はすでに諦めていた。
すると、話を聞いたおじさんが立ち上がり、いきなり歌いだした。
「行ーけー、闘え、す、す、めまーえに。今こーそだ、いーざや、すーすめー、すーすめー!」
朗々とした歌声が歌うのはサッカーの応援で聞いたことのある曲だった。
「え、なんなんですか?」
驚いた男が尋ねるが、おじさんは歌うのをやめず、同じフレーズを繰り返す。
男が混乱していると、反対から肩を叩かれる。振り向くと店の店員がおり、男に向かって無言でうなずくと、おじさんに合わせて歌い始める。
「「行ーけー、闘え、す、す、めまーえに。今こーそだ、いーざや、すーすめー、すーすめー!」」
二人のハモりを皮切りに1人また1人と歌う輪が拡がり、しまいには店中を巻き込んで大合唱が起こる。
周りを見回して、何が起こっているのか分からず、状況が整理できていない男を、おじさんが立ち上がらせる。
立ち上がらせたおじさんは男の胸を小さく叩くと、店の扉を指差す。
男は戸惑いながらも扉とおじさんを見比べて、その意図を理解する。
「追いかけろって事ですか?」
そう聞かれると、おじさんは歌いながらうなずきを返す。
男が改めて周りを見回すと、みな一様に拳を握り締めて男にエールを送っているようだった。
おじさんが男の両肩に手を置き、もう一度扉を指差す。
皆の表情やおじさんから伝わる熱、そして店内に響き渡る合唱で、男はどこからかふつふつとエネルギーが沸いてくるような感覚を感じた。
そしておじさんに背中を押されると、そのまま扉に向かって走り出していた。
ーーー
男が走り出していった後、残された店内は合唱が終わり、はじまるまえよりも静かに外の音に耳をそばだてる。
そして、外から「結婚してくださーい」という声が聞こえて、全員が小さくガッツポーズをして、互いの成功を祝した。
皆、満足そうな表情を浮かべて、男が出ていった扉を見つめている。
これで彼らの任務は達成された。
おじさんも大きくうなずくと、店のみんなに聞こえるように告げた。
「みんな、今日もありがとう。お店の方も御協力感謝します。無事に任務は達成された。ここからは任務の成功を祝して打ち上げといこう!もちろん私の奢りだ!」
店内を割れんばかりの歓声が震わせて、拍手が起きる。そして、何事も無かったかのようにそれぞれがそれぞれの食事に戻る中、おじさんがスマホを開く。
そこには依頼人からの感謝のメールだった。
“彼からプロポーズをされました。ありがとうございました”
それを呼んだおじさんは改めて満足そうに微笑むとメールの返信を打つ。
“彼の背中を押せて良かった。おめでとうございます。末永くお幸せに”
送信ボタンを押したおじさんは、ゆっくりとイスに腰を下ろすと、ジョッキに残ったビールを飲み干し、おかわりを注文したのだった。