3.秘密への手がかり
いま、ミーティアが走っているこの城は、少々変わった形、すなわち“六角形” をしていることで知られる。
六つの角にあたる部分には、それぞれ物見の小塔がそびえており、日夜兵士が監視の目を光らせている。
厳重すぎるほどの監視のおかげで、出来てこの方、不届きな侵入を一度も許したことがないのが城の誉れだ。
城は、さらに一回り大きな六角形の城壁によって取り囲まれており、城と城壁の間には【兵士の訓練場】や【武器の保管庫】のほか、迷路のように庭木が配された【外庭】が設けられている。
“6” という数字にこだわった城は、当然ほかに類がないものであるが——他国との国境付近ならいざ知らず、国のほぼ中央に位置する王城が、これほど軍事に特化したつくりをしているのも珍しい。
この風変わりな城には、昔から囁かれているひとつの「噂」がある。
城のどこかに、王族の——そのなかでも限られた人間しか入れない秘密の庭があるというのだ。
ただ『王家の庭』と呼ばれるその場所は、“城のどこかにある” こと以外は全てが謎とされており、その存在については懐疑的な見方をする者も多い。
けれどもミーティアは、その謎の手がかりになりそうなある出来事を経験していた。
それは婚約破棄をされる、まさに前日のこと——
◇◇◇
その日は、ラインハルトから珍しくお茶のお誘いがあった。
直前にあったリーナの講義が長引いたため、ミーティアは自室へは戻らず、直接ラインハルトの部屋へ向かうことにした。
目的の部屋は三階の奥にあり、一階の自分の部屋から行くよりも、二階の講義室から行ったほうが圧倒的に早いからだ。
(思ったより遅くなってしまったわ。でも、ここを通っていけば——————あらっ?)
移動中に目に飛び込んできたのは、自室から遠く離れ、二階の大廊下で一人佇むラインハルトの姿だった。
絵画や音楽などの芸術に全くといっていいほど興味を示さない彼が、ある肖像画をひどく物憂げな表情で見つめている。
……サラッ
『!』
ミーティアのドレスの衣擦れの音に、はっと我に返ったラインハルトは、途端にひどく慌てた様子で話しかけてきた。
『ミ、ミーティア? なんでこんなところに。……そうか! 今日は君とお茶をする約束だったね。自分から誘ったくせに失念するなんて。本当に何と言ったらいいか。——さあ、早く私の部屋へ行こう。ここは冷える。君のために、すぐに温かいものを用意させるよ』
『——ラインハルト様』
『なんだい?』
『……いえ。早く来すぎたみたいで申し訳ありませんでした』
『謝ることなんてないよ。悪いのは私なのだから』
言うなりラインハルトはミーティアの手を引き、急いで歩きはじめる。
『そういえばね、父上に言われたんだ。明日から私も臣下との会議で発言してもよいって。ほら、父上は最近あまり体調がすぐれないだろ? 私が——』
ラインハルトは、いつになく饒舌だった。
だが、ミーティアは気づいていた。
人工的な香りを嫌って香水の類は一切つけない彼の体から、ひどく甘ったるい花の香りがしていたことに。
◇◇◇
そして今——
ミーティアは、ラインハルトが見つめていたあの肖像画の前にきている。
(これだわ。わが国の初代国王夫妻の肖像)
絵の中では、初代国王エレン・ヴァンデール・エスパニアとその妻のアレンドラが寄り添い、穏やかなほほえみを浮かべている。
エレン王は、平民の出身ながら、当時この地で猛威を振るっていた魔物を討伐するリーダーとして活躍し、最終的に国をうちたてて初代国王となった人物だ。
栗色の髪に明るいヘーゼル色の瞳をしたエレン王は、普段は温厚そのものだったが、魔物討伐の際にはその髪を振り乱して獅子のごとく戦い、周囲のものを圧倒したという。
隣のアレンドラ妃は、こちらも平民出身でエレン王とは幼なじみだったといわれている。
豊かな赤髪に深い灰色の瞳、それに朝露を帯びた薔薇の花弁を思わせる唇は絵画にも関わらず非常に魅惑的だ。
(あのとき、ラインハルト様からした花の匂い……外庭のどの花とも違っていたわ。でも、王家の庭に行っていたと考えると辻褄があう気がするのよね。
だとしたら、あのとき見ていたこの絵に何か手がかりがあると思うのだけど……)
不敬なのは承知のうえで、肖像画の額縁に手をかけ、押したり引いたり、前後左右に力を加えてみたりする。だが、まったく動く気配はない。
ハア、ハア……
ミーティアは大きく肩で息をした。
ここまで全速力で走ってきたので、すでに体力は限界に近い。さらに、いつ追手に見つかるか知れないという不安も加わって、さっきから呼吸するのもやっとという有り様だ。
(落ちついて。冷静になるのよ。もしかして、この絵自体に何かあるのかも知れないわ)
改めて、肖像画の隅から隅まで目を凝らす。
(隠れた文字があるとか?……あとは、なにか手掛かりになるものが描かれているとか?
ああ、このアレンドラ妃のはめている指輪は、とても素敵ね。大振りのルビーもそうだけど、周りを囲む金の細工も繊細で素晴らしいわ)
ミーティアは自分の左手をみる。王太子の婚約者なら、当然はめているはずの指輪が、そこにはない。数年にもわたる婚約期間だったにも関わらず、ラインハルトは指輪を渡してくれようとはしなかった。
(……指輪、確かな約束の証、信頼……この絵の中の二人は、私たちとは大違いね……)
虚しさだけが胸に去来する。
でも今はそんな感傷的な気分に浸って場合ではない。はやく庭へ行かなければ。
(そうよ、指輪なんて関係ない……じゃ……ない?)
「……!」
絵のある部分に、ふと違和感を覚える。
アレクサンドラ妃の指輪をはめた左の薬指が、他の指とは別の角度に緩やかに曲げられているのだ。
(普通、こんな角度にするかしら)
不自然——とまではいわないが、王太子の婚約者として指先まで神経を行き渡らせることを叩き込まれてきた身には、少なからず引っかかるものがある。
薬指のさす方向に視線を走らすと、ちょうど指先の延長線にある壁の模様が、他と違うことに気づいた。
王家の肖像画がずらりと掲げられている大廊下の壁には、6つの花萼をもつクレマティスの花を模した漆喰細工が一面に施されている。
だが、よく見ると薬指の延長線上にある一つの模様だけは、花萼が8つだ。
壁を何百、何千ものクレマティス模様が埋め尽くすなか、この一つの模様だけが違うことに気付くものは恐らくいないだろう。
6という数字が特別に扱われるこの城で、ひとつだけ花萼の数が違う模様が存在するとなれば、それは誤りというよりは意図的だと考えるのが自然だ。
ミーティアは、周囲を警戒しつつ、8つの花萼のクレマティスが描かれている部分にそっと手を触れた。
……
……
……
(なにも……起きない……わね。
——やっぱり私の思い違いなのかしら。もしかして、触るだけじゃダメとか?)
念のため、もう一度強く押してみる。
……
……
……
やはり何も起きない。
遠くに兵士たちの足音が聞こえてきた。
(……今回もまた地下牢に連れていかれるのかしら。せっかく……ここまで来られたのに)
今まで気丈に振る舞っていたミーティアも、流石に堪えるものがある。
視界が潤むなか、唇を噛み、諦めようとしたその時————壁に描かれた8つの花萼のクレマティスの花が、まるで生きているかのように揺らめいた。
驚くミーティアの手に、クレマティスの蔓がスルスルと絡みつき、『おいで』というように引っ張ってくる。
「!」
抵抗する間もなく、ずるずるとミーティアの体は壁の中へと引き込まれていった。
「……消えた!? まさか。さっきまでここに」
追ってきた兵士たちの戸惑う声が聞こえる。
しかしそれも一瞬のこと。すぐに静寂が訪れた。
そして目の前にあらわれたのは——あの庭だった。
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