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第二話 屋上ペンギン

「あぁーつぅ!エアコンついてんのか?」

 店に入るなり、塩沢昌尚(しおざわまさなお)は顔をしかめた。

 受付兼、仕事机に向かってノートパソコンを開いていた五十嵐葉月(いがらしはづき)は、そっと肩を竦める。

「弱冷房。さっきまで、若いお嬢さんたちが打ち合わせしてたの。」

「サラリーマンの敵だ。」

 昌尚は手にしていた上着とビジネスバッグを床に置くと、ワイシャツの袖をまくり、ネクタイを緩める。

「せめてノーネクタイにすりゃいいのに。」

 まだ七月とはいえ、梅雨明けの夏日にきっちりスーツのほうがどうかしてる、と葉月は首を振る。彼女自身はTシャツに薄手のカーディガン、ゆったりした麻のパンツ、長い髪はアップにまとめた完全夏仕様。

「サラリーマンに無茶言うな。しかも客商売だから仕方ない。」

 ほぉ、と葉月は目を丸くする。

昌兄(まさにぃ)も、そんな台詞言うようになったんだ。」

「人を年寄りみたいに言うなよ。まだ三十ひとつ越しただけだ!葉月だってあと二年すりゃお仲間だろ。それより……」と言いながら、彼はギャラリーをぐるりと見回す。

 壁で仕切られた隣の部屋を指差した。

「いないのか?」

真紀(まき)ちゃんなら屋上で作業中。」

「この日照りのさなか?」

「商店街のイベントに使う什器、作ってんの。」

「暑いだろ。」

「たぶんね。」

 葉月はノートパソコンを閉じると立ち上がった。一段高い段差を降り、細長いギャラリースペースの奥のテーブルに昌尚を促す。

「麦茶?アイスコーヒー?」

「麦茶。コーヒーは打ち合わせで散々飲んできた。」

「もうちょっと後なら、ビール出すんだけどね。」

「あー、そりゃ無理だ。直帰にしたけど、保育園経由だからな。」

 昌尚は腰を降ろすと、壁に掛けられた絵を眺める。

 どれも小さいハガキほどの大きさで、カンバスでなく板に描かれているらしい。そのモチーフは、

「トビウオにイカ、マンボウとは面白いな。」

「その作家さん、水の生き物が好きなんだって。」

 二人分のグラスと一緒に展示作家のフライヤーをテーブルに置くと、葉月も向かいに腰かける。

 案内状にプリントされているのは明るい水の中をたゆたうクラゲの絵。外の夏日を忘れそうなほど、涼しげな色だ。

「そういや、昔、祖父(じい)さんが水族館に連れてってくれたよな。」

 まだこの場所が洋品店で、祖父母も葉月の母親も健在だったときの話だ。

「ぬいぐるみ買ってもらったときでしょ。昌兄はパペット選んで。」

「あれは真紀が欲しがったんだよ。」

 けれど幼稚園児の小さな手では動かせなかったので、昌尚が動かしてゴッコ遊びに付き合ったのだ。ずいぶんせがまれて遊んだが、おそらく当人は二十年前のことなど覚えてないだろう。

「で、昌兄が仕事帰りにこっち来るの珍しいけど、おばさんに様子見て来いって言われた?」

 まぁな、と麦茶のグラスを傾けながら昌尚は頷く。

「真紀の返事が来ないから、様子を見て来いって。」

「あの子のスマホ、充電中。さっき発見したけど、あれたぶん二日くらい放置してたんじゃないかしら?」

 マジか?と昌尚は顔をしかめる。

「なんで気がつかない?」

「忙しかったから、じゃない?」

「モバイルの意味ないじゃねーか。」

「そういうの、本人に直接言って。」

「聞くと思うか?」

「自分の妹でしょ。」

「そりゃそうだが……離れて暮らして適度に長いしなぁ。」己の言葉には効力がないと愚痴る。

 別居したのは妹が高校二年生になった頃。兄妹の両親が仕事の都合で地方に赴任することになったのだ。昌尚は就職と同時に会社の寮に入り、妹は祖母と従姉の葉月が暮らすここ、つまり母の実家だった場所に住まいを移したのである。

 妹は進学した短大もここから通い、祖母が怪我をきっかけに入退院を繰り返したときは葉月と一緒に最期までサポートをした。その祖母の遺言と昌尚の母の意向もあり、元洋品店だったこの場所で真紀と葉月は暮らしている。

 とはいえ両親は二人のことを常に気にかけていて、今日のようなことがあると真っ先に昌尚に連絡が来るのだ。

「直接様子見てこいってことなんだろうけど……なぁ。」

 天井を仰ぐ昌尚に葉月は「ふふっ」と笑う。

「そういいながら来るところが、昌兄だよね。たまに真紀ちゃん見ないと禁断症状出るでしょ。」

「ま、息抜きの口実にはなるな。」

「今回はちょっと大きい仕事だったから気合入ってるんだよね。ほら、何かに夢中になってるときの真紀ちゃん、ほかの事が見えなくなるでしょ。」

 そんなことは百も承知。

 六才違いの妹は、小さい頃から何かに熱中するとそればかりにかかりきりだった。遊ぶことでも本を読むことでも。

 とりわけ一番好きだったのは工作。その感性は個性的で、それは今も変わらない。それが彼女の長所であり、時には欠点になることも十分過ぎるほどわかっている。

「お客さんとは、上手くやってんのか?」

「お年寄りとか子供の相手、上手いよ。そもそもこういうところに来る人は波長が似てるんだと思う。それに作家業にマトモって、むしろ通用しないでしょ。」

「人ごとだなぁ。俺だって出資してんだから繁盛してくれよ。」

「まだここ始めて一年経ってないんだもん。早急に結果は出ないって。」

「けど、もう一年半だぞ。」

「会社辞めて一年半でしょ。ここ始めてまだ一年未満。パワハラ受けてた時間はもっと長いんだから。」

 それを持ち出されると返す言葉がない。

「昌兄だって見たでしょ。真紀が布団被って仏壇の前に落っこちてたの。」

 妹がおかしい、と連絡を受けて慌てて上京した母親と二人で見たのは葉月が言ったとおりの光景。滅多に泣き言を言わない妹が「誰とも話したくない。会いたくない。」と言ったときには戸惑った。

 就職した直後から厳しい上司がいると聞いていたが、まさかそれが嫌がらせにエスカレートしているとは思わなかった。しかも真紀が黙っていたから家族は知らなかったが、会社では皆が気づいていたにもかかわらず具体的な改善はなかった。 

 そのことに、まず両親が激怒した。ついで葉月が具体的に動き出し、結果、真紀は退職したのだ。

「私もあのときは会社が忙しくて、気付けなくてゴメンって思ったもん。」

「確かに真紀は独特だから、イラッとする人はいるだろうと思ってたが……」

 合わない人間というのは確かに存在する。

「やっかみもあったんでしょ。」

 後日聞いたところによると、社内のデザインコンペで真紀の案が取り上げられたことが何度かあったらしい。そんなことすら家族は知らなかった。

 そんないきさつの末、次はどうしようと悩んでいたときに店舗を貸していた会社が業務拡張で引っ越すことになり、それならばと、葉月も会社をやめ、元洋品店だった場所で店を始めたのが昨年の秋。

「葉月まで辞めることなかったのに。」

「だってオフィスごと関西に移るっていうんだもん。行く気なかったし、フリーでもやってけそうだったし。」

 転居した会社事務所も東京の足がかりは残したかったらしく、葉月を東京支部に任命してくれたおかげで仕事は途切れずにいる。

「店のホームページも形になってきたな。体験談とかすげー、いい。」

「伊達にライターとデザイナーしてませんもん。」

「そうだ。店のフライヤー多めにくれ。」

「宣伝してくれるの?」

「近々同期の連中と会うから。同期つっても半分は転職してっけど。」

「別の不動産会社に?」

「いろいろ。実家の会社継いだのもいるな。そいつギャラリーとか好きだから、気にしてくれると思う。」

 ありがとう、と葉月は言った。

「あと、おばちゃんには大丈夫って言っといて。真紀ちゃん前に進んでるし、あの子なりにできること模索してるから。だいたい昌兄、いまは未央ちゃんのことで手一杯でしょ。」

「未央は真紀が好きなんだよ。だからほっとくと志保に怒られる。」

 どうやら妻と子の発言力は強いらしい。

 麦茶を飲み干すと、昌尚は店の外階段に向かった。

 この店は一階がアサヒ工房、二階は別の事務所、そして三階が葉月と真紀の住まいになっている。屋上への階段は通常柵をつけて施錠しているが、今日は開いていて、しかも階段の途中にA3サイズほどのパネルが立てかけてあった。

 展示してあるのか乾かしてるのか判別がつかぬパネルは全部で三枚。

 一枚目は黒に近い濃紺に塗りつぶされたもの。

 二枚目は濃い青色の中に泳ぐ魚の絵。

 そして三枚目は明るい光が反射する海の様子。

 そして……

「ペンギン?」

 明るい日差しが目に飛び込む。開けた青い空の下にあったのはペンギンの絵。

 まるで深い海の中から、勢いよく空に飛び出したような錯覚を覚える。

 見れば屋上に広げたブルーシートの上、立てたベニヤ板に一心に筆を走らせてる若い男が1人。塗料のついた作業ズボンにTシャツ、少し長めの髪に手ぬぐいを巻き、一心に手を動かしている。

 その様子を見ている若い女性と、白髪頭の男性の背後に近寄った。

 男はブルーシートの上に膝をつき、丁寧に線を描いていく。

 汗が落ちるのも拭おうとせず、息を止めて一気に線を描く。

 その手元を見て「あ!」と昌尚は呟く。

 振り返った真紀が「しぃー」と唇の前で指を立てた。

 Tシャツにコットンパンツ、足元はズック靴。頭には麦藁帽子、首には冷却用の手ぬぐいを巻いている。

 相変わらず、気にしない奴だなと昌尚は呆れる。

 作業はどうやら最後の仕上げらしい。男は背中を丸めて絵の隅に、丁寧にサインを入れる。

 ふぅ、と脱力。

 筆をブルーシートの上に置くと「よっ」と立ち上がった。

「いいじゃないか。」うんうんと白髪頭の小柄な男が頷く。

「怖い、とか言われませんかね。」

 確かにかわいいより、リアルな筆致である。

 そして明らかに、下に展示してある絵に似通っている。

「兄貴、どう思う?」

 えっ、と白髪頭の男が振り返る。

「昌くん、来てたの?」

 どうも、と昌尚は挨拶する。

 クリーニング店を営む商店会の会長は母親の幼馴染で、もちろん昌尚のことは小さい頃から知っている。

「さっき兄貴が下歩いてるの見えたから、来ると思った。」

「見てて降りてこなかったのかよ。」

「だってペインティング見てるの面白かったんだもん。ね、どお?」と真紀は感想を促す。

「ペンギンか?」

「うん、ペンギン。」

 大人の背丈ほどもあるベニヤに等身大よりもはるかに大きなペンギンの絵……ただし、顔の部分がくり抜かれている。つまりこれは。

「顔出し看板か?」

「そうです。」と汗を拭いながら若い男が言った。

 すかさず真紀が間に入る。

「ペンキ絵作家のはっしーさん。」

「塩沢です。妹と従妹が世話になってますって……ペンキ?」

橋本(はしもと)くんねぇ、この近くの工務店で修行中なんだ。」会長が補足説明する。

「っていっても父親の会社ですけど。」橋本は頭の手ぬぐいを取るとぺこんと挨拶した。

「工房にもよく来てくれて、いろいろ話したら絵を描くって言うから……」

「キャラリーの空きがあるから展示しないかって言われたんです。」

 ん?と昌尚は眉を寄せる。

「ってことは展示中の絵も、全部ベニヤにペンキ?」

「タイルとかフローリング材もありますけど。」

 どうやら仕事場にあるモノに描くのが彼の作風らしい。いわれて見れば不思議なサイズの額ばかりだったが、あれも彼の手によるものなのか。

 つん、とワイシャツが引っ張られる、見ると真紀がニヤニヤ見上げていた。

「兄貴好きそうだよね。」

「無理しなくていいすよ。」

「無理じゃなく、今の聞いて一枚欲しくなった。」

「ざっぱーん感あるよね。」

「あー!」と昌尚は今上ってきた階段を指差す。

「あのパネルの絵、おまえの指示かぁ。」

「プロデュースって言ってよ!商店街のイベント全体の美術構成、うちがやってるんだから。葉月ちゃんもチラシとかサイトとか作ったんだよ!」

 いつの間にそんな大役を引き受けたのかと驚く。

「昌くん、ざっぱーん感わかるの?」と、会長。

 昌尚は掌を下に向けると右手をペンギンに見立てて泳いでるように動かした。

「こうやって潜って魚を取ったら、一気に海面に出て……」

(ざっぱーんと氷山に飛び上がるんだ)

 ペンギンのパペットをはめて、図鑑で得た知識を披露したのは他なら昌尚だ。何度もせがんだ真紀はまだ幼稚園で、そんなことは忘れてると思ったが……。

「そうそう!そういう感じ、出したかったんだよね。だからはっしーさんに描いてもらったの。」

「そりゃまた無理なお願いを。」

「全然無理じゃないっす。ただ南の海がテーマだって言われてて、まさか南極の海と思わなかったから焦ったけど。」

 申し訳ない、と昌尚は頭を下げる。

「間違ってないもん。」

「南に行きすぎだ。」

「橋本くんが忙しくてどうなるかと思ったけど、どうにか仕上がってよかったよ。」会長が心底ホッとしたように言う。

「こっちこそ、道具とか作業場まで全部アサヒ工房さんに揃えてもらって助かりました。」

「それが、うちのミッションですから。」真紀は大きく頷くと、ペンギンの絵を振り返る。

「それにやっぱり、はっしーさんにお願いしてよかった。海を描くなら絶対お願いしようって思ってたんだ。」

 確かに、彼の描く海は真紀がいうところの浮上感が感じられる。

 深い海の中から明るい水面に出た感覚。

 もしかしたら真紀自身、こんな感覚を味わっているんじゃないだろうか?と思う。

 それに葉月の言うとおり、確かに前に進んでる。

 心配は心配だが、それは言葉に出す必要はないだろう。

「真紀ちゃん、顔出してみて。」

 会長に言われてひょいと穴から真紀が顔を出したところを、すかさず昌尚はスマホで撮った。

「意外に映えるな。ぶさいくペンギン。」

「ひどっ!」

 むくれる妹を尻目に、昌尚はメールを開く。

「送るならかわいいペンギンって書いて。」

「却下。」

「えー!」

 真紀の抗議を聞きながら昌尚はタイトルを入力した。

 屋上ペンギン出没、と。

冬に真夏のエピソードです(^^;

次回更新は12月末を予定。

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