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不器用な呪い


 完璧な修復には構造の理解が必要不可欠だ。それは、建物だろうが置物だろうが、人物だろうが同じである。

 エレオスの弟子は、人間の目の構造を思い出しながら、パンドジナモスの弟子の両腕を押さえつけていた。エレオスの魔導師が、青年の頭を押さえつけ、彼の目に魔法をかけている。治療に際して痛みは無い。痛みを与えては“慈悲(エレオス)”から離れてしまう。だが、異常な早さで治っていく体には、発熱と強烈な違和感が生じる。その感覚は消せるものではない。大人しく耐えられるものでもない。むしろ痛みの方が、耐えようと思えば耐えられるだけ良いのかもしれない。

 パンドジナモスの弟子は苦しげに身を捩る。彼の体は綺麗だった。目立った外傷はなく、古い傷跡も無い。先日の一件で無数の怪我を負った、と噂で聞いていたが、どうやら彼の先生が治したようである。

(目は治せなかったのかな。――いや、治さなかったのか)

 エレオスの魔導師が、緩やかで不安定なアルペジオを歌う。青年の、意味を成さない呻きが部屋を満たす。

(治すのは壊すのと同等に苦しい……)

 それは、エレオスの弟子が最初に言われた言葉だった。


 彼がエレオスの工房に入ったのは、十年近く前のことである。当然ながら、それまで彼は普通の男性として、固有名詞を持ち、普通に暮らしていた。当時の彼は音楽科に通う高校生で、類まれなピアノのセンスを持ち、めきめきと頭角を現していた。いくつもの賞を貰い、誰もが彼を褒め称えた。友人、教師、もちろん親兄弟も、彼の才能を認めて両手を合わせた。

 その折に、事故に巻き込まれて、両腕の感覚を失ったのである。

 絶望、という言葉が生易しく聞こえた。そんなたったの二文字ではとても言い表せないほど、彼は打ちのめされた。

 それでも、どうにか立ち上がろうと、彼はリハビリに打ち込んだ。しかし、彼の手が元のように動くことはなかった。日常生活に支障が出ない程度にはなったものの、ピアノという繊細な作業は、不可能になった。

 そのことも充分に応えたが、何より彼の心を刺したのは、周りの人間たちの手の平返しである。友人、教師、果ては親兄弟までもが、彼を可哀想なものを見る目で見た。優しい言葉の裏に、嘲りの笑みを隠していた。

『名誉になるはずだったのに』

『金になるはずだったのに』

『有名になれるはずだったのに』

 そんな言葉をどこからともなく聞くたびに、彼は耳を潰したくなった。

(認められていたのは僕の才能じゃない……そこから生まれる利益だ。褒められていたのは僕の音楽じゃない、その先に生まれる名声だ。……僕は、誰にも、認められてなんかいなかった。求められてなんかいなかった……)

 それでも、彼は足掻いたのだ。無駄だと言われて病院から連れ出されても、通っていた学校の音楽クラスから落とされても、ずっとリハビリを続け、治る瞬間を待ち望んだ。

 再び、事故に遭うまでは。

 目が覚めた時、右腕は完全に動かなくなっていた。それに加え、右足も不自由になった。

 友人は完全に彼を見放した。見舞いはおろか、メール一通すら寄越さなくなった。

 教師は完全に彼を見放した。休学の申請書の下に、自主退学の申請書が入っていた。

 家族は完全に彼を見放した。足手纏いより、才能ある五体満足の兄弟たちを優先した。

 自分は完全に世界から見放された――と、彼は深く感じた。他人を慈しみ、不遇を悲しむ、そんな心はこの世のどこにもないのだと、身をもって知った。

 ある程度動けるようになった時、病院を抜け出して、どこへともなく歩いた。死にたかったわけではない。ただ、ここではないどこかへ行きたい、と願っただけだった。怪我人の歩みでは大して進めないし、すぐに見つかってしまうだろう、と理解していた。見つかった後のことを考えると、また憂鬱になったが、すぐにどうでもよくなった。――どうせ、向こうも自分のことなどどうでもいいと思っているのだから。

 病院からは海が近かった。彼は海が好きだった。だからそちらへ向かった。

 コンクリートで固められた海岸線。シーズンでなかったらしく、釣り人の姿は無い。夕日が水平線に溶けていく。

 防波堤に頬杖を突き、夕日をぼんやりと眺める。自分の輪郭までもが溶けていくようだった。彼がオペラの一節を口ずさんでいたのは無意識の内のことである。

「『最期の願い』か」

 唐突な声に驚き、振り向くと、見知らぬ女性が防波堤に背を預けていた。女性は、長い黒髪を防波堤の向こうへ無造作に垂らし、そっくり返って空を仰いでいる。

「ヴェルディの『La Forza del Destino』だな。渋い選曲」

「はぁ……」

「にしても酷い怪我だな。体もそうだが、心が特に酷い」

 彼は瞬きをして、女性を見つめた。

 強い浜風が吹き抜けて、潮のかおりが鼻先を殴る。

「血のにおいが凄いぞ。鼻が曲がりそうだ。無理して動かすから、瘡蓋が出来ないで、血が流れるままになってやがる。ったく、なまじ強いとこうなるから厄介なんだよな。死ぬまで気付きもしないで」

「な、何がですか」

「さっきから言ってるだろ。心だ、心」

 女性は髪の毛を振り回すようにして姿勢を正し、彼の顔を覗き込んだ。

「心も体も同じだ。傷付いた時は休め。でないと死ぬぞ」

「……」

「まぁ、死ぬことも一つの救いであることは、否定しないが」

 そう言うが早いか、彼女はひらりと防波堤の上に飛び乗った。

「治すのは壊すのと同等に苦しいもんだ。いいか、治すんじゃなくて、治るのを待て。時間は何よりの名医だ、とは、よく言ったもんだよ。あたしなんかが手を出すよりよっぽど良い」

「……」

「どうしても時が経つのを待てないってんなら、もう一度ここへ来な。そん時はあたしが治してやるよ。じゃあな」

 と、彼女は防波堤の向こう側に飛び降りた。

 彼は驚き、松葉杖を放り捨てて向こう側を覗き込んだ。

 人工の岩場に、波が打ち寄せている。

 これが、普通の青年とエレオスの魔導師との出会いだった。


「弟子、検査しとけ」

「はい」

 パンドジナモスの弟子は横たわったまま、涙を滲ませた目を何度も瞬かせている。

「何か違和感はありますか」

「いえ……大丈夫です」

「見え方は以前と変わりありませんか」

「はい」

「では、こちらを見てください――」

 基本的な検査などもう慣れたものである。その背後で、エレオスの魔導師はソファで寝こけている人物を容赦なく蹴飛ばした。

「おい、終わったぞ、パンドジナモス」

「ん? あぁ、ようやくか」

 パンドジナモスの魔導師は、大きな欠伸をしながら起き上がる。呑気な涙が滲む。

「世話になったな。お代は」

「いらん」

「……一週間以内なら貸してやれるが」

「いや、明日までに終わるだろ。遅くとも明後日には返せる」

「そうか。死亡は自己責任、ただしそっちで負った怪我は経費としてお前らが治せよ。足が出たら請求してくれ。それでいいか」

「あぁ。話が早くて助かる」

 パンドジナモスの魔導師は、ふん、と鼻を鳴らして、立ち上がった。

「おい、弟子」

「はい」

「しばらくエレオスに協力しろ。それがお前の治療費だ」

「え――あ、はい。わかりました」

「無様な仕事はするなよ」

「はい。頑張ります!」

 弟子の言葉を背中で聞き、パンドジナモスの魔導師は出ていった。

 エレオスの弟子は小首を傾げる。

「先生? 何か、仕事があるのですか?」

 エレオスの魔導師は面倒くさそうに息を吐いて、ソファに腰を落とした。煙草に火をつけ、真っ白い煙を一塊、二塊と宙に放ってから、口を開く。

「仕事がブッキングした」

「ブッキングですか。珍しいですね」

「あぁ。片方は上からの依頼。もう一方は下からの依頼。上からのはあたしが行かないと無理だから、あたしが行く。下からのはお前に行ってもらう。内容は大したことないんだ。ちょっとした妖怪退治と、その復旧だけだからな。問題は、場所だ――」

 ――告げられた地名を聞き、エレオスの弟子は固まった。

 真っ白い塊が四つ、五つと天井を目指して漂う。

「お前の古巣だよ、弟子」

「……それは……」

「だから、パンドジナモスの弟子を借りた。――せっかく出来た瘡蓋、剥がすんじゃねぇぞ」

「……はい」

 自分でも情けなく思うほど、小さくて曖昧な返答だった。普段なら眉をひそめて叱責する先生が、何も言わずに煙草をふかす。そのことが一層、胸に迫る。


 目的地には電車で五時間ほどかかった。エレオスの弟子とパンドジナモスの弟子がその地に踏み入ったのは、もう夜も半ばに差し掛かった頃だった。

 パンドジナモスの弟子が、遠慮がちに口を開く。

「ここが、あなたの……生まれたところ、なんですね」

「うん、そうだよ」

 駅舎を出た途端、潮風に包まれるのも。この時間でも、ほとんどの店が開いているのも。どこからともなく、汽笛が聞こえてくるのも。この季節でも、すっかり寒いのも。エレオスの弟子の記憶の中にある通り、何一つとして変わっていなかった。強いて言うなら、少しコンビニの数が増えたような気がするくらいである。

 エレオスの弟子は記憶を辿るのをやめた。

「観測点はこっちだよ。行こう」

「はい」

 自ら辿ろうとしなくても、脳は自ずから記憶を再生する。

 そうだ、ここは坂道の多い街。自転車で移動するとかえって時間がかかるくらいに。数本の大通りがあって、それらの隙間を細い路地が埋めている。地図を見れば蜘蛛の巣のようだ。ほとんど路面電車と同等の位置を私鉄が走っていて、沿線で遊ぶと怒られた。どこにいても海の香りがして。この香りに包まれると、帰ってきた、という感じがして。

(懐かしい――……懐かしい?)

 エレオスの弟子は眉をひそめた。極端に街灯の少ない小路を、さらに暗い方へ折れる。徐々に街灯と街灯の間隔が広くなっていく。

(懐かしいって、何がだ? こんなところ――……いや、こんなところ、というのは、おかしいか。けれど……)

「あの、エレオスのお弟子さん」

 緊張したような声音で話しかけられ、エレオスの弟子は青年の方を見た。

「どうかした?」

「余計な真似かもしれませんが……大丈夫、ですか?」

「……僕かい?」

「はい」

「……」

 エレオスの弟子は返答に窮した。大丈夫なのか、大丈夫でないのか、そもそも何が取りざたされているのか、その段階からして分からない。隔靴掻痒。どことも知れぬどこかが痒い。

「大丈夫だよ。何も問題はない」

 かり、と爪で何かを引っ掻いたような音が聞こえた。


 坂道を一度上がり、二度下がって、突き当たりに足を止める。暗闇に飲み込まれて、隣の人の顔も曖昧だ。炒り過ぎた珈琲のような、苦い香りを帯びた空気が漂っている。

「この屋敷だね」

 幽霊屋敷、という呼称がこれ以上に似合う建物はなかなか見当たらないだろう。その地点で観測されたのは“怪異”と呼ばれる類のものである。いわゆる幽霊屋敷だとか、学校の七不思議だとか、その程度のもので、大抵は放っておいても何ら問題ない。時折愚かな人間が怪異の逆鱗に触れて死亡することもあるが、そんなところまで魔導師が面倒を見てやることはない。

 ただし、その“怪異”に魔導師が関わっているとなれば、話は別である。魔導師が発端となった怪異は、自然発生したものとは段違いに致死性が高いし、何より魔導師全体のプライドに関わる。というのも怪異とは――あえて発生させたのでない限りは――その魔導師が何らかの“失敗”を犯した時に発生するからだ。身内の恥は身内が雪ぐ。その程度の繋がりは有している。

「ここには、ヴラスティミアの魔導師がいたらしい」

「ヴラスティミア……呪い、ですか」

「うん。なんでも、身分を問わず、誰の依頼でも請け負って、呪いを代行していたらしいよ」

「よく懲罰対象になりませんね」

 エレオスの弟子は、上だって呪われるのが怖いんだろう、と思ったが、口に出しては言わなかった。

「怪異の内容はよく分かっていないんだけど、ネット上の噂では、入ったら呪われる、出られなくなる、廃人になる、自殺したくなる――何ていう風に広まっているね」

「ヴラスティミアの魔導師は、一体何を失敗したのでしょうか」

「さぁ。ともあれ彼は、この失敗が原因でここにいられなくなって、工房を移動させたということだよ。自分でも手に負えなくなったらしい」

「無責任な話ですね」

「まぁ、自分と最も相性が悪いのは自分だ、っていうからね。きっとそういうことなんだろう」

「……初めて聞きました。そうなんですね」

 パンドジナモスの弟子は、目を真ん丸くして、なぜかひどく納得したように、何度となく頷く。

「なんとなくですが、分かる気がします。自分にだけは、一生勝てない、と――はい、そう思います」

 彼の言葉のどこかに、エレオスの弟子は違和感を覚えた。けれど、それがどこなのかまでは分からず、あえて追及するのも面倒に感じて、

「それじゃあ、早速入ろうか。準備は良いかな」

「はい、大丈夫です」


 屋敷の扉には鍵がかかっていたが、パンドジナモスの弟子が難なくそれを《発見》したために、彼らは抉じ開けもせず中に入れたのだった。

 内部もまた暗く、埃っぽかった。二人が、用意してきた懐中電灯を点けると、小さな虫がカサカサと音を立てて逃げていった。ヴラスティミアの魔導師が出ていってから、まだそれほど経っていないはずなのに、ひどく朽ち果てて見えた。死んだ家の腐敗は早い。

 床を軋ませながら、二、三歩歩いたところで、エレオスの弟子はピアノの音が聞こえることに気が付いた。微かだが確かに、旋律を奏でている。それも、聞いたことのある――いや、弾いたことのある曲だ。

(ラフマニノフの前奏曲……)

 通称『鐘』。シンプルな主旋律に、厳格な響きの和音が幾重にも連なって、蒼穹に轟く荘厳な鐘を幻視させるような曲だ――本来であれば。

 今、エレオスの弟子の耳に届いているその曲は、本来の半分以下の迫力しか備えていない。

(これ、左手しか弾いてないな。その上、何だかタッチも弱い……)

 音は二階から聞こえてくる。エレオスの弟子はそちらに足を向けた。パンドジナモスの弟子は黙って付いてくる。彼は足元を非常に気にしているようだった。

 二階の一番奥の部屋が半開きになっている。それ以外の扉はすべてきっちりと閉ざされていて、ドアノブを回しても微動だにしなかった。仕方なしに、一番奥へと向かう。

 ピアノの音が徐々に大きくなっていく。それを聞くにつれ、エレオスの弟子はだんだんと自分が落ち着きを失くしていくのを感じていた。聞き覚えがあった。曲だけでなく、その音色に。弾き方に。得体のしれない既視感を覚える。そしてそれは恐怖へと繋がっていた。これ以上掻いたら瘡蓋が剥がれると、分かっているのに手を止められない。痒くて痒くて堪らない。剥がれるのも怖いが、それ以上に、自分のことを自分でどうしようも出来ないことが、怖い。

 エレオスの弟子は半開きのドアを掴み、乱暴に中へと踏み入った。

 グランドピアノが部屋の中央に。奏者はこちらに背を向けて、鍵盤に向かっている。中に入った瞬間、演奏は止んだ。音の残滓が埃と一緒に床に降り落ちる。

 奏者がよろけながら立ち上がり、振り返る。

 エレオスの弟子は唇を噛む。

(――……なんとなく、予想は出来てたよ、くそっ)

 ただ、予想以上に、その姿は痛々しく、みすぼらしく、苦しい――

「……あぁ、何だ、()か」

 そう言って皮肉っぽく微笑んだのは、他ならぬエレオスの弟子自身であった。十八歳の頃の自分。弟子入りする直前の、最も傷付いていた頃の自分。右腕を首から吊り下げ、右足を引き摺り、左腕は微かに震えている。入院着に隠れて見えない左足には、無数の切り傷が走っていることを、エレオスの弟子は知っている――その記憶は、自分の手で刻んだものだから。

 彼は右足を引き摺りながら、よろよろとこちらに近付いてくる。

「まだ生きてたんだ」

「……」

「怪我、治ったんだね」

「……」

「でも、ピアノは弾いてないんだ。――なんで? 治ったなら弾けるでしょ。なのになんで、弾いてないの?」

「……」

「指も、腕も、足も、綺麗じゃないか。どこも悪くなさそうだね。すごいな、魔法って」

 彼は目を細めて、エレオスの弟子の右手を取った。自分の右腕と見比べて、「こんな腕が、綺麗さっぱり元通りになるんだ。すごいな……」と呟く。

 その顔の影が、ふっ、と濃くなった。

「……なんで弾かないの? 動くなら弾けよ! 弾かないんだったら、何のために治してもらったんだよ! ――弾かないんだったら、どうしてあの時、死ななかったんだよ……」

「……」

「それとも何? 結局()も、利益とか名声とか、そんなもののためにピアノを弾いてたってわけ? 魔導師の弟子になったら、コンクールとかには出られないから、もう弾かなくていいって、そういうことかよ!」

「っ、違っ」

「違わないね! 僕のことは、僕が一番よく分かってる! 昔からそうだ! 金とか名誉とか、そういうものを毛嫌いする振りして、本当は一番気にしてたくせに! 他人から高く評価される瞬間が、この世で一番好きだったくせに! なに都合よく忘れた振りしてんだよ! 魔導師の弟子になったのだって、世界に一人だけなら確実に評価してもらえるって分かってたからだろ!」

「っ――」

「ずるいよ。……そんなの、ずるだ。努力もしないで、傷付きもしないで、誰かに認めてもらおうだなんて……そんな人間、僕は嫌いだ。そんな人間になって生きていくくらいなら、僕は、このまま、死んだ方がマシだ!」

 涙を滲ませて叫び、自分は自分に背を向けた。相変わらず覚束ない足取りで、よろよろとピアノの方に戻り――全開になっている大屋根に手を伸ばす。

 グランドピアノの大屋根の重さは、物にもよるが、数十キロになる。子どもでは持ち上げられない重さだ。大人でも、両手で扱うことを推奨されている。腕を怪我している人間が支えられるようなものではない。もしあれに挟まれようものならひとたまりもない、とは、想像するにも及ばない。

 彼が大屋根を少しだけ持ち上げると、ぱたん、と突っかえ棒が倒れる。大屋根の総重量がすべて彼の左腕にかかる。彼はその重力に恭順の意を示し、こうべを垂れた。

「やめろ!」

 エレオスの弟子は慌てて走り出した。

 大屋根が落ちる。

「《STOP(とまれ)》!」

 ――大屋根が落ちる。

 魔法によって止められたエレオスの弟子の目の前で、彼は自らの頭でもって最悪の和音を奏でた。歪で邪悪な不協和音が、屋敷に響き渡る。余韻のように、首から下が小さく痙攣していた。それも徐々に収まって、やがてすべてが沈黙する。

「……どうして……」

「落ち着いて下さい、エレオスのお弟子さん」

「どうして僕を止めた! 君なら向こうを止められただろう!」

「落ち着いて下さい! あれはあなたじゃない、怪異です!」

「っ……」

「割り切って考えてください。あれは怪異です。僕らはあれを退治するために、ここへ来たんですよ」

 エレオスの弟子の肩を掴んで、そう言い切った青年は、落ち着き払っていた。いかにもパンドジナモスらしい、徹底された合理主義。

「怪異自ら動けなくなってくれたんです。これはむしろ好都合ですよ。このまま燃やしてしまいましょう。――《BURNING(もえろ)》」

 冷徹な宣言が炎を呼び起こし、ピアノもろとも怪異を包みこんだ。バチバチと爆ぜる音を立てて、黒く焼け焦げていく。

 しかし、

「――あれ」

 ふ、と、前触れなく炎が消えた。同時に、ピアノも怪異も消えてなくなる。そこにはだだっ広い部屋と、焦げたにおいだけが残っている。

 パンドジナモスの弟子は、一人になって、部屋の中を見回した。


(過去の自分が死んだら、現在の自分はどうなるのだろう)

 エレオスの弟子はそう思ったのだ。パンドジナモスの弟子が言った通り、あれは怪異で、正確には過去の自分ではないと知りながら。それでも――まるで火葬のように燃やされる自分を見て――そう思ったのだ。

 それで、気が付いたら暗闇の中に浮かんでいた。

(あぁ……やっぱり、死ぬのか。過去の自分がいなくなれば、続きの未来も自動的に消滅する――当然のことだな)

 なんとなく、惜しい、と思った。

 怪我をして、命以外のすべてを失ったような気になった。そこから、先生を得て、新しい人生を得た。せっかく得た新しい命を、新しい過ごし方を、すべて無かったことにされてしまうというのは、なんとも勿体ない。

(時間と一緒に――先生と一緒に――歩いてきた、つもりだったんだけどな……僕は、何も進んでいなかったのか)

 ゆっくりと目を瞑る。と、瞼に光が当たる感覚がした。

 目を開けると、真正面には夕日。波が斜陽を反射して、きらきらと輝いている。網膜に突き刺さって痛い。涙が滲んできた。

 エレオスの弟子の右腕は重く、左脇には松葉杖を抱えていた。彼は松葉杖を放り出して、自分の体を無理やり防波堤の上に押し上げた。夕日に背を向けて腰掛ける。首を捩じって海を見て、それからその下を見る。コンクリートの消波ブロックが並んでいる。波が砕けては散っていく。

 彼は天上を仰ぎ見て、大きく息を吸った。潮の香りに満ちた、青臭い空気。俯いて、溜め息のように空気を吐き出す。

(――二度目の事故は、僕が望んだことだった)

 今でも鮮明に思い出せる。事故が起きやすいことで有名な三叉路で、彼は確かに願ったのだった。

 もう二度と立ち上がれないくらい、粉々に打ち砕いてほしい――と。

「可哀想」

 自分に向かって呟く。ウミネコが騒ぎながら飛んでいく。

(名誉や金を嫌っておきながら、本当は欲しがっていた。治したい、元通りになりたい、と思いながら、本当は諦めたかった。……僕は、矛盾だらけだ。矛盾だらけで、不完全な人間だ)

「……でも、嫌いじゃないんだよね。悲しいことに」

 エレオスの弟子は微笑んで、防波堤から飛び降りた。

 歩道の上に着地した彼は、怪我など何処にもしていない、現在の姿になっている。

「自分には一生勝てない、か」

 振り返ると、防波堤の上には、昔の自分が座っている。淀んだ目でこちらを見ている。彼の体は後ろに傾いて、今にも海の方へと倒れてしまいそうだった。

 エレオスの弟子は目を細めた。

「そりゃ、勝てるわけがないさ。そもそも、自分自身とどうやって戦うんだよ。自分はどんな時でも、一人しかいないのに。――だから、自分は敵にはならない。味方にもならない。ただ、自分は自分として、ここに在るだけだ」

 目を瞑る。夕日を反射する光の粒が、一筋の流星のように、頬を伝っていった。

「ここが、壊れた呪いの根本なら――治すよ。治せる」

 鼻歌で不可思議な旋律を歌う。慣れ親しんだクラシック音楽とは似ても似つかない、調子っぱずれなリズムと不安定な音階。

 今はそれが、彼の音楽だ。


 瞼に光が当たって、エレオスの弟子は目を覚ました。

 埃っぽい空気と、人気のない乾いたにおい。

 四角い窓から朝日が射し込んできている。光の筋の中で、細かな埃がキラキラと舞い踊っている。

 起き上がる。硬い床で寝ていた所為か、体のあちこちが軋んだ。

 見回すと、少し離れた壁際で、パンドジナモスの弟子が眠っていた。

(怪我は……なさそうだね。良かった)

 足元に落ちていた札を拾う。どうやらこれが、ヴラスティミアの魔導師が作った魔法具であるらしい。

(道理で、僕の工房に依頼が来たわけだ)

 壊せば収まる呪いなら、エレオスに頼むのはお門違いだ。

 この呪いが求めていたのは“慈悲”――救済され、治療され、元通りになることだった。

(呪いが慈悲を求めるようになるなんて、器用な失敗をしたな。――もっと早く、気が付けば良かった)

 苦笑が漏れる。

(慈悲を求めて、やって来た人間の最もつらい記憶を引き出していた、っていうことか。許してもらうのを期待していたんだろうけど……廃人になるとか、自殺したくなるとか、納得だな)

 窓を開け放つと、海風がザァと通り抜けていった。

 屋敷からは海を見渡せた。波が朝日を反射して輝いている。

 目を細める。


(……何だ、来ないじゃないか)

 彼は溜め息をついた。

(治してやるって言ったのに。――まぁ、確かに、胡散臭かったし、信じてたわけじゃないけれど)

 もう一度、溜め息。それから松葉杖を放り出す。防波堤の上によじ登る。怪我がかなり痛んだが、彼は無理やり自分の体を押し上げた。

 夕日に背を向けて腰掛ける。首を捩じって海を見て、それからその下を見る。コンクリートの消波ブロックが並んでいる。波が砕けては散っていく。

(頭から落ちれば、この高さでも死ねるよね。下は硬そうだし)

 そんなことを考えながら、ウミネコの鳴き声を聞いている。

 だんだんと空は暗くなっていく。自分が見ている方角の空は、もう濃紺に変わっていた。一番星を見付ける。まだ色の薄い三日月を眺める。冷たい風が吹き抜ける。

 不意に、涙が滲んできた。そのことに自分が一番驚く。自分が今どんな感情をしているのか、まったく、見当もつかなかった。涙がボロボロと、次から次へ流れ落ちていくのに、言葉は何も浮かんでこないのだった。

 まっさらだった。頭の中も、心の中も。

 声すら出ない。

 ――その歌が聞こえた時、辺りはもう真っ暗になっていた。遠くで街灯が明滅している。海の唸りが、闇夜に轟いていた。その隙間を縫うようにして、確かに、聞こえる。

 セオリーを無視した、不安定で不可思議な音律。

 聞く者の心をざわつかせるような、あるいは問答無用で黙らせるような、そんな底知れない威圧感をもった響き。

 彼の体はじんわりと暖かくなっていった。反面、背筋が震えて、歯の根が合わなくなる。

 一分も経っていなかったと思う。歌が終わった。ふわりと、レースのカーテンの内側から出てきたように、いつか出会った女性が現れる。

「あたしと一緒に来い。お前には、資格がある」

「資格……」

「来るなら早くしろ。あたしは、愚図な男と汚い女がこの世で一番嫌いなんだ」

 そう言って踵を返した先生を追って、彼は防波堤を飛び下りた。


おしまい



 



1……パンドジナモスの魔導師は、治()なかったのでない、治()なかったのだ。彼は「餅は餅屋と言うだろう? その言葉は真実だ」と、平然として語ったという。

2……魔導師にも、弟子にも、当然ながら過去がある。魔法とは縁遠い生活を送っていた過去が。ただ、それを思い出すことはあまりない。大抵の場合、その過去はあまり思い出したくない類のものだから。そうでなければ、魔導師になどならなかっただろう――大抵の場合。

3……魔導師が古巣を訪れることは滅多に無い。一生、無いまま終える人の方が多い。エレオスの弟子も、もう一生訪れることはないだろう、と思っていた。――『運命の力』は容赦なく彼を絡め取る。

4……「大丈夫だ、問題ない。」死ぬんじゃないかコイツってちょっとだけ思った。ごめんな。

5……ヴラスティミア=呪い。くそっ、また魔導師が増えた! でもコイツは使い勝手が良さそう。困ったら積極的に出していくことになりかねないので注意しなくては。パンドジナモスに次ぐ名前の覚えにくさ。パソコンって本当に優秀ですよね。自動で出してくれてありがとう、助かります。

6……ラフマニノフの前奏曲『鐘』。ラスボス戦とかサスペンスドラマのクライマックスに非常に向いていると個人的には思っている。三部構成になっていて、第一部の上位互換が第三部になるんですが、楽譜が面白いのでぜひ見てほしい。五線が縦に四段並ぶので。グランドピアノの大屋根は真面目に危険なので気を付けてください。あのシーン、自分で思い付いたくせに怖すぎて震えていた。

7……慈悲とは神仏が与えるもの。余人には扱いえないもの。それを扱おうとしたのがエレオスである。誰よりも神仏から遠く、誰よりも人間らしいが故に、すべてを救おうと足掻いた結果である。

8……呪いだって、時には救いを求めたくなるさ。

9……彼は自分を殺せない。死は自分にとっての救いでないと、無意識の内に理解しているからだ。じゃあどうすればいいのか? それが分からなくて、彼は泣いていた。それを教えるために、エレオスの魔導師は現れた。そういう形の慈悲もある。


エレオスの弟子回でした。思ったより長くなって驚いた、っていう。パンドジナモスの弟子は、彼目線からするとまだまだ先生には程遠い、って感じになるんですけど、他人目線で見ると、「あの先生にしてこの弟子あり」って感じになるのが個人的にお気に入りです。以上、お粗末様でした!


 

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