崩壊するは我にあり
1
カタレフシの弟子のヒールが折れたのを契機に、彼らは立ち止まっていた。彼女は適当な岩場に腰を掛け、高かったのに、と散々毒づきながら、もう一方のヒールを根元から折る。ゴミとなった靴の一部を放り捨てる。
パンドジナモスの弟子は所在なさげに、少し距離を置いて、壁にもたれかかっている。
「ねぇ、どうして貴方のような、平凡極まりない無味無臭の男が、“万能”の弟子になれたのよ」
と、カタレフシの弟子が錐のような口調で言った。
問われた当の本人は、答えに窮して、「それは……その……」などと口ごもっている。
その態度がまた彼女の火に油を注いだ。
「何よ、言いたいことがあるならはっきり言ったらどう? 貴方のそういうところ、私は大っ嫌い! 本当、どうして貴方がかの“万能”の魔導師に見初められて、この私が“崩壊”なんていう悪趣味な工房に属しているのかしら。まったく不思議でならないわ!」
「……ご自分の工房を、よく、悪趣味だなんて言えますね」
「だって事実ですもの。本当のことを言って、何が悪いの?」
あっけらかんとした顔は、その言葉が本心からのものであることを証明している。
パンドジナモスの弟子は、心の内で、
(あなたの言動はまさに“崩壊”ですよ……)
と呟いた。当然、彼は声に出して言いたかったのだが、一を言えば百が返ってくるのが彼女である。だから控えた。その代わりに、
「では、そろそろ本当のことを言っていただけますか」
すると途端に彼女は唇を尖らせて、そっぽを向くのである。
今度は青年の目が、錐のように鋭く尖った。
「一体あの時、あなたは何をしたんです? 何をそんなに、頑なに隠しているのですか」
「――別に! はい、もう休憩はおしまい! 行くわよ!」
カタレフシの弟子は、爪先の小石を蹴飛ばして立ち上がり、毅然として歩き出した。
溜め息を隠さず、青年はその背についていく。
洞窟は薄暗く、果ては暗闇に沈んでいた。揃わない足音が歪に反響し、余韻がひたひたと押し寄せてくる。
2
どうしてこんなことになったのだったか、と、パンドジナモスの弟子は自問した。つい数時間前までは、普通に過ごしていたはずだったのだ。いつも通り、パンドジナモスの工房で、先生が散らかした跡を片付けたり、先生の脱いだ服を回収して回ったりしていた。
そこに、エレオスの二人が訪ねてきたのが、すべての始まりだったような気がする。
エレオスは古びた巻物を携えていた。触れたそばから崩れてしまいそうなほど激しい劣化と虫損は、積んできた歴史の重さを物語っていた。
「先日、出張先で押し付けられたんだ」
と、エレオスの魔導師は心底面倒くさそうに言ったのだ。
「処理しようにも、治癒が効かなくてな。イストリアに中身を読んでもらおうと思ったんだが、このボロさでは無理だとか言いやがった。だからここへ来た。お前ならどうにかできるだろ、パンドジナモス」
「エレオス、お前、私を便利屋か何かと勘違いしていないか」
「万能とはそういうことだろ。何でもできる」
「“できる”だけで“やる”とは言っていない」
「できるならやってくれ。正当な報酬が支給されるよう協会には話が通っている」
パンドジナモスの魔導師は眉をひそめた。
「そんなに重要なものなのか? だったら、どうしてヴィヴリオが出てこない」
エレオスはひょいと肩を竦めた。
「ヴィヴリオの魔導師は現在バチカンに出張中だとよ」
「……十数年前にも同じセリフを聞いた記憶があるんだが」
「あぁ、だいたいそれくらい経ったな、あいつが書庫に籠るようになってから。いい加減上もしびれを切らして、カタレフシを派遣しようかとまで言い出してるぜ」
「いや、それはマズいだろう。世界遺産を崩壊させる気か?」
「上が正気に戻ったら、お前にお鉢が回ってくるだろうな」
「それはそれで面倒だな」
パンドジナモスはソファにふんぞり返って、お茶を啜った。
「まぁ、事情は理解した。そこに置いていけ。直り次第連絡する」
「任せた」
そう言って立ち去ったエレオスと入れ違いに、カタレフシの二人が訪ねてきたのだ。その辺りから、雲行きが怪しくなった。
「なんだか今日は来客が多い日だな」
「そうなのー?」
「あぁ。で、お前はどんな用件だ?」
「えっとねぇ、今度の集会の件でねぇ――」
カタレフシの魔導師は間延びした口調で、おっとりと話し始めた。おもむろにコーヒーカップを手に取る。
「あ」
パキン、と小さな音が鳴って、持ち手が根元からぽっきりと折れた。テーブルの上を転がったカップがコーヒーを撒き散らす。それが、先程エレオスの置いていった巻物にかかりそうになって、パンドジナモスの弟子は咄嗟に、巻物を取り上げたのだ。
「ちょっと先生っ! 何をなさってますのっ!」
カタレフシの弟子が金切り声を上げたが、先生はどこ吹く風とばかりに、「いやぁ、ごめんごめん」と、まったく反省の色を見せないで、頭を掻いている。パンドジナモスの魔導師が溜め息をついて、「《REMAKE》」と呟いた。瞬間、ぶちまけられたコーヒーも、壊れたカップも、すべてが元通りになる。
「まぁ! さすがですわ、パンドジナモスの魔導師様!」
カタレフシの弟子が感極まったかのように両手を合わせた。それからパンドジナモスの弟子の方を見て、
「こちらの、何かしら、巻物? には、かかりませんでした?」
にっこりと笑い、手を伸ばした。
彼女の手が巻物に触れた瞬間のことを、パンドジナモスの弟子は鮮明に思い出した。あの時、金色の光がちらりと瞬いたのが、確かに見えたのである。彼女は明らかに魔法を使った。そうして、視界が真っ暗になり、気が付いた時には、この洞窟の中に倒れていたのである。
(出口も見つからなかったし……)
当然ながら、真っ先に彼は《発見》の魔法を用いた。しかし、出口は見当たらなかった。
(どうすれば帰れるんだろう……そもそも、僕らはどこにいるんだろう?)
「やだ! 最悪だわ!」
カタレフシの弟子が悲鳴のような声を上げた。
「どうしたのです?」
「あれを見なさいよ!」
「あれ、とは――」
彼女の指さす方を見て、青年は思わず絶句した。
そこには、彼女が放り捨てた靴の一部が転がっている。
3
カタレフシの弟子は地団太を踏んで、声高に罵った。
「もうっ! 本っ当に最悪! ループしてるだなんて、反則よっ! ふざけないでちょうだいっ! これじゃあ一生帰れないじゃないっ! もうっ、もうっ、もうっ!」
ヒステリックに叫ぶ彼女を、青年は刺激しないように傍観していた。
しかし、
「こうなったら――こんな洞窟、壊してやるしかないわね!」
「えっ、あの、それは待ってください!」
彼女が振り上げた手を掴む。
「何よ! 邪魔しないでいただけるっ? それとも貴方、こんな洞窟の中に死ぬまでいたいって言うのっ!」
「そうではありません! ですが、迂闊に壊すのは危険です! 僕らまで崩壊に巻き込まれたらどうするつもりなんですか!」
青年がそう言うと、カタレフシの弟子は大仰に眉根を寄せた。
「はぁ? 何を言ってらっしゃるのかしら、貴方?」
「何を、って」
「死ぬことが怖くて、魔導師なんかやれるもんですか! よくもそんな甘い覚悟で、弟子を名乗れましたわね!」
「っ……」
「私はとうの昔に、まともに死ぬことなど出来ないものと――」
唐突に、彼女は言葉を詰まらせた。それから、力なく俯いて、青年に掴まれた手首を振る。
「……放していただけます?」
「あ、はい。……すみません」
彼女は鼻から息を吐き出して、適当な岩場に腰掛けた。爪先で、先程放り投げたヒールをつつく。
「カタレフシの弟子はね、最初に、《崩壊を崩壊させる魔法》を授かるのよ」
「崩壊を、崩壊――」
「要するに、自衛の手段だわ。崩壊の魔法は制御が難しいの。魔導師ともなれば、どれだけ気を張っていても、壊れやすいものから壊してしまう。さっき、貴方も見たでしょう? コーヒーカップが壊れるのを」
「ええ、見ましたが……」
「それはね、別に、相手が人間でも同じなの。カタレフシの魔導師は、弟子を壊してしまう可能性を持っている。だから、真っ先に、自衛の魔法を授けるの。自分の方にやってくる“崩壊”から、自分の身を守るための魔法をね」
青年は、彼女の言葉と表情から、この独白のような語りが彼女にとって重要なものであることを悟った。と同時に、カタレフシの先生が辿るのであろう末路も推測できた。
「そうすると――ご存知の通り――先生は自衛手段を失うわ」
魔法とは授け、授かるもの。先生は、弟子が一定の水準に達したと判断した時、かけがえのない魔法を与える。その行為は常に一方通行であり、一つの魔法は一人にしか扱えない。
魔法の習得は、“複製”ではなく“譲渡”によって成立する。
「世界のあらゆるものを、無意識の内に壊してしまう先生が、自衛手段を失ったら、どうなるとお思いかしら? ――ええ、そうよ、最期には自分で自分を壊してしまう。あるいは」
私に壊されてしまうのよ――と、彼女はきっぱりと言った。
「そんなの嫌だわ!」
彼女の叫びが悲痛なものに聞こえ、青年は顔を歪めた。自分の成長のために先生を犠牲にする、そんな非合理的なことが許されるなど、まったくもって理不尽だ、と、そう思った。そして、そう思える情が彼女にもあるのだということを、どこか意外に思いつつも受け入れたのだ。
ところが、
「私は、私は絶対に誰にも壊されたくないの! このまま私が魔導師になったら、いずれ私も弟子を取らなくちゃならないわ……そうなったら、私は絶対に、自衛の魔法を手放せない! 手放したくない! 手放さないわ!」
「……え?」
「先生が壊れることなんてどうだっていいの! そんなこと心底どうでもいいわ! ただ、私は、私が壊れることだけは許せない! 私を壊さないためなら、私は世界だって壊してやるわ! それともあれかしら、そう思うこの感情すら、やがて壊れていくのかしら……嫌よ、絶対に嫌! あぁ、これだからカタレフシの工房は、悪趣味極まりないのよ!」
青年は言葉を失った。彼女の言葉が理解できなかった。理解してはいけない、とすら感じた。
呆然と立ち尽くしている青年を、カタレフシの弟子は鋭く睨んだ。
「あら、何よその顔」
「あなたは……あなたは、先生の命などどうでもいい、と?」
「えぇ、どうでもいいわ」
「どうして、そんな――」
「だって私の物じゃないもの。私が大切にできるのは、私が持っている物だけ。それって当然のことじゃなくって?」
「……」
青年は言い返したいと思った。どんな手を使ってでも、彼女の論を破りたいと、そう強く切望した。しかし、細かく裁断された文章は糸くずのように絡み合って、一向に頭の中から出てこないのである。それは彼に、「違う」とか「間違っている」とかいうただの一言ですら、発することを困難にさせた。
カタレフシの弟子は、ふん、と鼻を鳴らして、足を組んだ。
「本当にどうして、貴方のような男が、パンドジナモスの弟子なんでしょうね。ご自分でも、不思議に思われない? ねぇ?」
俯いた青年の目が、蛇のそれと合った。無論、そこに蛇などいない。青年の幻視である。蛇が足に絡み付き、するすると上ってくる。そういう悪寒を感じる。
立ち尽くしている青年に向かって、カタレフシの弟子はわざとらしく嘆息した。
「あぁあ、本っ当に最悪だわ。もしここにパンドジナモスの魔導師様がいらっしゃったら――いいえ、貴方があとほんの少しでも、パンドジナモスらしかったら、こんなところあっという間に、脱け出してしまえたのでしょうに」
「っ!」
青年は身を切られたようにびくりと震えた。ごちゃごちゃに絡まっていた言葉が、一気に吹き飛ばされ、頭の中には何も無くなった。蛇が耳元にカミソリのような吐息を掛けた。青年はもはやいたたまれなくなって、踵を返し、駆け出した。カタレフシの弟子が馬鹿にした声音で、「あら、そっちに行っても、どうせここに戻ってくることになるのよ?」と囀る。それでも構わず、青年は走った。
4
限界まで走って、青年は立ち止まった。壁に手を突いて、頭を下げ、肩を上下させる。
それなりの距離を走ったはずだったのに、カタレフシの弟子の姿は一向に見えてこなかった。
(別に……あんな奴、どうなったっていい……)
そう思った。
洞窟はやはり薄暗く、果ては見えない。前にも後ろにも、まったく同じ道が延々と続いている。
青年は独りだった。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。走った所為だろう。いや、独りだからかもしれない。呼吸の音は静寂の引き立て役だ。音を聞くほど、静寂が強く響く。
青年は途端に落ち着かなくなった。
(どうして離れてしまったんだろう……図星を指されたからと言って、今はそんなことを気にしていられる状況じゃないのに……どうにか協力して、帰る方法を探さなくちゃいけなかったのに……)
青年は壁に沿ってずるずると座り込んだ。体が、水を吸った布団のように重たい。
(彼女の言う通りだ……僕は、どうしてパンドジナモスの弟子でいられるのだろう……先生はどうして、僕を認めて――)
――いや、認めてなどいないのかもしれない。
その言葉を思いついた瞬間、青年は震えた。蛇が首を絞める。冷たくて、苦しい。
(そうだ、僕は、認められてなんかいないんだ。先生が僕のような平凡な人間を認めるはずがない。絶対にそうだ。万能の魔導師は、平凡であってはいけないんだから……)
青年は頭を抱え、膝に顔をうずめた。
その時だった。
(「おい!」)
「っ!」
頭の中に声が響いて、パンドジナモスの弟子は飛び上がった。
(「あぁ、ようやく繋がったか」)
その声は明らかに、彼の先生の声だった。
「先生……」
(「大丈夫か? 怪我はしていないな?」)
「あ、ええと、はい!」
青年は驚きながら、頷いた。先生に気遣われたことが、果たして今までにあっただろうか。
(「では、今から私が言うことを速やかに実行に移せ。いいな」)
「はい」
(「この場所は血を求めている。もう一人と合流して、彼女を殺せ」)
「え?」
(「そうすればお前は助かる。分かったか?」)
「え、あの、先生、それは……」
(「早くしないと、この空間は崩壊するぞ。そうなれば、二人とも共倒れだ」)
「で、ですが、先生!」
(「どうした? 私の言うことがきけないのか?」)
「っ……」
(「分かったら、さっさと動け!」)
それを最後に、声は聞こえなくなった。
青年は、しばらく呆然と中空を見つめていたが、やがてよろよろと立ち上がった。
大きく息を吸い、細く吐いて、次に思い切り吸い込む。
「《I FOUND》!」
宣言した瞬間、暗闇の向こうにカタレフシの弟子の姿が見えた。先程までと同じ岩場に腰を掛け、きょろきょろと辺りを見回している。
青年はゆっくりと瞬きをした。
歩き出す。
5
「あらあら。独りでの旅行を随分と楽しまれたご様子で」
「……」
「ひっどい顔色。そんなに、独りが恐ろしかったのかしら?」
「……カタレフシのお弟子さん」
青年は静かに声を出した。
「あなたは、自分さえ壊されなければそれでいい、とおっしゃいましたね」
「ええ、確かにそう言いましたわ。それが何か?」
「では、今ここで、僕を壊してください」
「はぁ?」
カタレフシの弟子は眉を大きく歪めた。
青年は言い募った。
「先程、先生から連絡が届きました。この場所は血を求めている、と――僕らの内どちらかが死ねば、もう一方は帰れると、そうおっしゃいました。だったら、死ぬべきは僕の方だ」
「――」
「あなたの言う通りです。僕はパンドジナモスの工房にいるには、あまりに未熟だ。どうしようもなく平凡だ。どうして先生が僕のような人間を弟子にしたのか、あなたは疑問に思われたようですが、それを知りたいのは僕の方です。僕にだって、先生のお考えは分からないんです。……分からないのが、もう、弟子として失格だと思うのです」
「――」
「だから……だから、僕は、戻れなくていい。パンドジナモスの弟子でいられないなら、ここで死んでも構わないんです。――あなたは、戻ってください、カタレフシのお弟子さん」
彼女は眉をひそめたまま、青年の言葉を吟味するように押し黙っていた。
どちらもピクリとも動かない。
しばらくして、カタレフシの弟子が、組んでいた足を戻した。
「……本当のことを言うわ。私はあの時、貴方が持っていた巻物を壊そうとしたの」
「え?」
「崩壊の魔法を使ったわ。意図的に。それで、貴方が破門されればいい、なんて思ったの。貴方が破門されたところで、私がカタレフシの工房から離れられるわけないのに。ただ、貴方のことが嫌いだから、って、それだけの理由で」
「……」
「それがまさかこんなことになるだなんて、思ってもみなかったわ。私まで巻き込まれて、本っ当にいい迷惑よ。だから、壊せと言うなら本当に壊すわよ。私、貴方の命なんて、先生以上にどうでもいいもの。むしろ一石二鳥だわ。嫌いな奴は消えて、私は元に戻れるんですもの」
言いながら、彼女はすらりと立ち上がった。そうして、美しく微笑む。
「ありがとう、パンドジナモスのお弟子さん。最期に私の役に立ってくれて。貴方のことなど、明日には忘れているでしょうけれど、ご容赦くださいね?」
青年は瞬間的に冷めた。つい一瞬前までは、確かに彼女を救おうと考えていた。それが自分の命の価値になるのではないか、と。しかし、心は翻った。こんな女のために自らを犠牲にする必要があるのか、心底疑問に思い――そして得た答えは、否、だった。
(やめた、馬鹿馬鹿しい。こんな女のために自分を犠牲にする必要など無い。殺してしまえばいいんだ! そうして自分が元の世界に戻ろう。いつか、絵本の国でやったように――)
――次からは激情に任せるのでなく、必要に応じて行動しろ。
――冷静に、効率的に、迅速に、最もよい結末となるよう、考えて動け。
先生の戒めが、ふっと浮かんできた。
「待ってください」
カタレフシの弟子が、青年に触れようと伸ばしていた手を止めた。
「あら、なぁに? 今更、命乞いかしら?」
「いえ……ちょっと、おかしいと思いまして」
「おかしい? 何が?」
青年は口元に手を当てて、深く思考に沈んだ。
(僕と繋がることが出来たなら、どうして先生は、僕を殺さなかった? 遠くから殺す方法なんて、先生はいくらでも持っているのに――間違いなく、それが最も効率の良い解決方法のはずなのに。それに、わざわざ僕に彼女を殺させなくても、先生なら自分で殺せるはずだ。どうして、そうしなかった? 僕が彼女を殺す、ということが、最短ルートなのか? それとも――)
――さっき僕に話しかけてきたのは、先生ではなかった?
その可能性に思い至って、青年はバッと顔を上げた。思えば、おかしい点はいくつもあった。
(何よりおかしいのは、先生が真っ先に僕を気遣ったことだ!)
確信を得る。そして宣言する。
(この場所を支配しているモノを!)
「《I FOUND》!」
瞬間、視界が金色に輝いて、洞窟の壁が崩れ落ちた。
6
壁が完全に崩れてしまうと、そこは、白い正方形の部屋になった。
「ちょっと、何よこれ!」
カタレフシの弟子が甲高く喚く。
パンドジナモスの弟子は、目を金色に輝かせて、そのモノを見ていた。
「あなたが、巻物の主ですか」
「あぁ、見つかるとは思わなかった」
ソレは部屋の中心に立っていた。人間の形をしていたが、パンドジナモスの弟子の目に映るその姿は、全身くまなく金色に光っていた。明らかに人間ではない。
「やれたらやり返す。やられる前にやる。それって自然なことだよね。だから君たちを引き込んだ。壊されそうになったから、逆に壊してやろうと思って。魔法使いの魂は美味しいし、一挙両得だ」
「どうしてわざわざ、僕に?」
ソレはニヤリと笑った。
「人間の揺らぎは美味しい。実に楽しかった。君が自分から命を差し出そうとした時は、久々に腹を抱えて笑ったね」
ふ、と、笑みを消す。
「――ま、その後の展開はご存知の通り、反吐が出るほどつまらないんだが」
言いながらソレは人間の形を崩した。輪郭がぼやけ、溶け、土塊になる。それが膨らんで、雲のように盛り上がったと思うと、そこから節のある足が飛び出した。一本、二本、三本――八本。計八本の足が、床に突き刺さり、それらの中心部分に、玉虫色に輝く複眼がある。
ソレは身の丈を遥かに超える、巨大な蜘蛛だった。
「嫌だわ、気持ち悪い」
カタレフシの弟子は、あまり真に受けていないような調子で言った。
「ねぇ、あまりよく分からないのだけど、要するに、アレがすべての元凶ってことでよろしくって?」
「ええと……おそらく」
「そう。なら話は早いわ。――アレを壊せば、おしまいね」
言うが早いか、彼女は無造作に、蜘蛛に向かって歩き始めた。
蜘蛛が、白い糸を、彼女に向かって吐き出す。
「《STOP》!」
パンドジナモスの弟子がその動きを阻む。
そうしているうちに、カタレフシの弟子は、迷いなく蜘蛛の足に触れた。
「打破它。摧毁它。燃烧 到满灰,不留痕迹。知道崩溃在这里 表现出来,没有办法逃脱。――请崩溃」
彼女の宣言は呪いのように響いて、蜘蛛の足に纏わりついた。そして、触れたそばからボロボロと劣化し崩れていく。分解されていく、と表現するのが正しいかもしれない。崩壊は連鎖し、蜘蛛の体中に広がっていく。蜘蛛は無事な足を滅茶苦茶に振り回し、糸を吐き出して、崩壊に、そして崩壊をもたらす者に、抗おうとした。けれど、それらすら彼女に触れた瞬間、タイムラグも無く崩れて塵と化す。
蜘蛛の巨体が、完全な灰となってしまうまで、そう時間はかからなかった。
かつて蜘蛛だった灰が、雪、あるいは花びらのごとく舞い散る。
彼女はつまらなそうな顔で立っている。
7
「《I FOUND》」
今度の宣言は、きちんと出口を捉えた。部屋の一方の壁に、隠蔽されていた扉を発見する。パンドジナモスの弟子がそのドアノブをひねると、世界が反転した。ぐるん、と視界が上下左右に一回転して、気が付いた時には、元の場所に立っていた。
「あぁ、ようやく帰ってきたか」
「先生」
「遅かったな。何をのんびりしていたんだ」
その物言いに、青年は胸を撫で下ろした。もしここで気遣われでもしたら、もう一度先生のことを疑わなくてはならなかった。
向かいのソファで、カタレフシの魔導師がにこにこと微笑んでいる。
「おかえりー。うちのが迷惑かけなかったかなぁ?」
「あっ、いえ! 全然! 最後は、すべて任せてしまって……」
「そっかぁ。まぁ、自業自得だねぇ。まず、君が壊そうとしたのが悪いんだもん。ねぇ、僕のお弟子さん?」
と、カタレフシの魔導師はソファの裏側に向かって話しかけるのである。するとそちら側から、「うるさいですわ! 先生は黙っていてください!」という小さな声が返ってきた。
「それじゃあ、僕らはそろそろ帰ることにするよ。巻物、壊してしまってごめんねぇ」
「構わん。どうせ、正体がアレだったのだから、廃棄される運命だったんだ。直す手間が省けて助かったぐらいだ」
「教会への報告は僕がしておくよ」
「そうしてくれ」
「じゃあ」
カタレフシの魔導師は立ち上がると、「自衛の準備は出来た?」と言いながら、ソファの裏に手を伸ばした。
「っ――」
パンドジナモスの弟子は息を呑んだ。
カタレフシの魔導師が抱きかかえているのは、右足と右腕を付け根から失い、左足も、その半分以上を失った、彼の弟子だった。
カタレフシの魔導師は微笑する。
「崩壊は、平等に訪れるものだからねぇ」
その目が笑っていないことに――おそらく、笑えるような心がすでに崩壊していることに――青年は遅まきながら気が付いた。表面的にしか理解していなかった、“自分が崩壊する”という言葉の意味を、目の当たりにして、背筋が凍り付く。
「それじゃ、またねぇ」
8
青年は先生の指示で、コーヒーを淹れ直した。
先生はポテトチップスの袋を乱暴に破り開けて、二、三枚ずつ豪快に口に放り込んでいく。
青年は、キッチンの椅子に座った。先程見た、カタレフシの弟子の姿が、脳裏から離れない。それから、彼女が言った言葉を、丁寧に思い返す。彼女は、言葉以上に怯えていたのではないか。態度の裏に恐怖を隠していたのではないか。
(あぁ、僕はどうして、何も理解できていないのだろう……実際に見てみるまで、僕は、欠片も、彼女の実情を、想像することすらできなかった……)
「弟子」
唐突に、先生が背中越しに言った。
弟子はのろのろと顔を上げる。
「はい、何でしょう」
「お前はそれでいい。だから私の弟子なんだ。――精々悩み、苦しめ」
それだけ。
一方的に言い捨てると、パンドジナモスの魔導師は立ち上がって、部屋を出ていった。
残された弟子が、間抜け面を晒している。
おしまい
1……カタレフシの弟子がパンドジナモスの弟子を罵るシーンは、わりと前から想像していました。崩壊は起きやすいところから起きる。彼女の最も壊れやすいところは、おそらく“言葉に対する気遣い”だったのだろう。
2……イストリア=歴史。ヴィヴリオ=本。また新しい魔導師が増えてしまった。エレオスの魔導師は好きなんですけど、なかなか扱いが難しい。
3……魔法は複製できない。継承とはすなわち譲渡である。魔導師は常に一人しかいない。一つの工房に一人の魔導師と一人の弟子。それだけで完結し、それのみで繋がる世界が、魔導師の世界である。そして、地雷踏み抜きマシーンのカタレフシ。たぶん先生もこんな感じである。
4……青年はよく走る。よく悩む。蛇から完全に逃れられる日は、まだまだ来そうにない。
5……誰かの犠牲の上に成り立つ幸福は、犠牲になった誰かが忘れられて初めて成立する。覚えている限りは前を向けないから。尽くす者は期待を持ってはならず、見返りを欲してはならない。貴方の善意は、貴方にしか理解できていないのだから。死んだが最後、たとえ明日忘れられようとも、死体を捨て置かれようとも、すべての罪を押し付けられようとも、もう文句は言えないのである。だから、安い犠牲は選ぶべきでないのだ。
6……「あなたは気が付くと白い部屋にいました」よくある導入である。困った時の便利ワード。カタレフシの呪文は中国語ですが、所詮グー○ル翻訳ですので、広い心と生暖かい目をご用意の上、お読みください。
7……崩壊は平等に訪れる。体を壊せば体が壊れ、心を壊せば心が壊れる。壊れた体はククラの工房に補ってもらう。つまり、カタレフシの魔導師は、ほとんど人形と変わらない体をしているのだ。――問題は、心の方である。
8……先生は多くを語らない。その理由は明白だ。
この話は書きやすいです。たぶん性に合っています、このスタイル。ただ、人名が面倒くさいです。「魔導師とその弟子は個人名を持たない」とか言ってしまった所為で、こんなことになっているのですが……。蜘蛛の化け物といえばレンの蜘蛛でしょうか。SANチェック発生してそうですね。地雷踏み抜きマシーンは、あまり書かないタイプだったので、ちょっと書きにくかったのですが、新鮮でした。以上です、お粗末様でした!