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英断

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 パンドジナモスの弟子が、弟子たちの部屋に入るのは、大抵落ち込んでいる時である。今日の彼は、先日ククラの弟子に後れを取ったことで、先生に大層叱られて、気分が沈み切っていた。

 銀の鍵を差し込んで、くるりと回す。

 中に入ると、本棚の前に、小さな人影が座っているのが見えた。耳の良い少年はパッと顔を上げて、弟子を見ると、ぺこりと頭を下げた。

「こんにちは、イホスのお弟子さん。――何を、読んでいるんですか?」

 かつて青年は、ここの本を読んでいた時に、そこから飛び出てきた魔物に襲われて死にかけたことがある。だから、やや警戒しながら少年に近付いた。

 少年は、特に気にした様子もなく、膝の上に広げた絵本を青年の方に傾けた。どこか陰鬱な、しかし可愛らしい、綺麗な絵が画面を彩っている。それは、青年も読んだ記憶のある絵本だった。

「あぁ、『武装の国』ですね」

 青年は中身を思い返した。

 ――あるところに、武装の国、と呼ばれる王国があった。そこの王様は暴君で、毎日毎日、戦争や喧嘩ばかりしていた。当然のように、彼の息子である王子も、負けず劣らず乱暴者で、誰にも手を付けられない。周りの人びとは、突然暴れ出す親子を、自然災害と同じように扱い、日々を凌ぐので精一杯だった。そんなある日。王子は、隣国の姫に恋をした。それを知った王様は、隣国を丸ごと手に入れようと、軍隊を差し向ける――

 そこまで思い出して、彼は、それ以上思い出せないことを思い出す。

「その絵本、途中から終わりまで、破れてしまっているのですよね」

 少年は残念そうに頷いた。ポケットからメモ帳と鉛筆を取り出す。

『続きが気になる』

「そうですね。――君は、どうなったと思いますか?」

 青年が何気なく尋ねると、少年は存外真剣に考え始めた。青年は彼の横に座る。やがて、少年が鉛筆を走らせる。

『かえりうちにしたい。王子を』

「返り討ち、ですか」

「――」

「それも面白いですね」

『おにいさんは、どうなったと思う?』

「僕ですか? 僕は――」

 そういえば考えたこともなかった、と思い、青年は天井を見やった。真っ白い天井に答えが書いてあるわけもないが、上を見れば、何か天啓を得られるような気分になるのである。

「――そうですね。最後には皆が、幸せになってくれれば、それでよいと思いますよ」

 そう言った瞬間、水に落とした絵の具のように、二人の視界が歪んだ。

 そして、支えを失った絵本が、床に落ちる。


 絵の中に引きずり込まれる感覚は、青年にとっては二度目だが、少年にとっては初めてであった。青年は、いち早く正気を取り戻した。二度目ということもあるが、それ以上に、年長者としての責任のようなものが彼を動かした。そして、まだ呆然としている少年に声を掛ける。

「大丈夫ですか?」

「……っ――」

 少年はしばらく、目を白黒させていたが、やがて頷いた。

「怪我はありませんね?」

「――」

「良かった。さて……」

 青年はゆっくりと立ち上がった。辺りを見回す。大きな本棚がたくさん並んでいる。重厚な装丁の本がぎっしりと詰め込まれている。出入り口は、あるのだろうが、本棚の向こうに隠れて見えなかった。すぐ傍には机があり、机の上には本とペンが置かれている。その壁に窓がある。窓から外を見ると、眼下には町が広がっていて、この建物が石造りの大きなものであることが分かる。

「……まぁ、状況的に、絵本の中へ引きずり込まれたと考えるのが妥当かと思いますが」

 そう呟くと、少年が目をぱちくりさせた。青年は困ったように微笑む。

「そういうこともあります。僕は以前、絵画の中へ引きずり込まれたこともありますよ」

「っ?」

「基本的に、何でもありうるのです。この世界は」

「……」

 イホスの弟子は、納得して苦笑を浮かべた。

「とはいえ、これからどうしましょうか。ここが絵本の中だとしたら……ここは、どちらの国なんでしょうね? それによっても――っと」

 不意に、ノックと呼ぶには乱暴すぎる調子で扉が叩かれたので、少年が飛び上がった。そのあまりに強すぎる音に、青年は察する。素早く少年の背を押し、机の下に潜らせる。

「隠れていてください。何があっても、出てきてはいけませんよ。いいですね?」

 少年は混乱している様子だったが、青年の有無を言わせぬ口調に押され、頷いた。

 それとほぼ時を同じくして、扉が蹴破られる。飛び込んできたのは、青年が予想した通りの声である。

「おい! 魔法使い! いるのだろう!」

 その人物は、豪奢な鎧に身を包み、剣を帯び、真っ赤なマントを羽織っていた。一目で上位の人間であると分かる。そして、稀に見ない乱暴者であることも。間違いなく、武装の国の王子である。

 王子は、立てる足音も猛々しく、パンドジナモスの弟子に詰め寄ると、いきなり彼の胸倉を掴んだ。そのまま、彼にたった一言の詠唱も許さず、本棚に向かって放り投げる。青年は軽く宙を舞って、背中から本棚に激突した。青年は床に倒れて咳き込む。その彼を、王子は容赦なく足蹴にしながら、怒鳴りつける。

「貴様、いつまで僕を待たせるつもりだ! 隣国の姫を手に入れるには、戦だけでは駄目だ! 姫を完全に支配するための魔法の薬は、まだ出来ないのか! このっ! このっ! 役立たずめが!」

 青年は一方的な暴力にさらされ、わけもなく謝りたくなった。実際には、謝る隙間すら与えられずにいたのだが。

 ひとしきり蹴った後、王子は青年の前髪を掴んで引っ張り上げた。

「何故、貴様のような非力で、脆弱で、無能な人間の、生を許していると思う? それは、かろうじて、貴様の技能が役に立っていたからだ。それすら役に立たなくなった今、貴様に何の価値がある? 何も無いだろう!」

 そう言うや否や、彼は拳を振り上げた。パンドジナモスの弟子は、咄嗟に

「《STOP(とまれ)》!」

 と叫んだ。が、叫ぶ瞬間、彼は自分の魔法を疑ってしまった。息の根までは止めないように、縄で縛って動きを止める、というイメージで放つ魔法を、

(この王子を縛るのは難しそうだな――)

 と思ってしまったのである。

 まずい、と思った時にはもう遅い。案の定、魔法は効力を失い、彼は殴られて気を失う。


 先生に呼ばれたような気がして、青年は目を覚ました。しばらく、ぼんやりと横たわっていたが、やがて、染み込んでくる床の冷たさに気が付く。辺りが妙に暗い。骨まで凍るように底冷えしている。ここが地下牢だ、と分かる頃には、すっかり意識は明瞭になっている。

 青年はゆっくりと仰向けになった。木製の鈍重な手枷が、手首に食い込む。殴られた顔が痛み、景色が歪む。視界がぼやけているのも傷の所為にして、彼は涙など滲んでいないことにした。

(イホスのお弟子さんは……大丈夫だろうか……)

 虚ろに思う。

(嫌なものを見せたのだろうな……彼もまた、暴力を受けていないといいんだけれど……)

 天井に吐いた息が、白く煙った。それほどに寒い。

 ふと、小さな足音が聞こえた。どこか覚束ない、不安げな足取り。青年は、苦心して上半身を持ち上げた。鉄格子の向こうの床に、ほのかな灯りが揺れている。灯りは少しずつ、少しずつ大きくなっていく。近付いてきているらしい。

 しばらくすると、牢屋の中へ、パッと射し込んできた灯りが、青年に目を瞑らせた。そう強い光ではないのに、暗闇に慣れた目は涙を散らした。恐る恐る、慎重に慣らしながら目を開ける。

「っ、イホスのお弟子さん! 無事だったのですね!」

「っ! っ!」

 イホスの弟子は、目を潤ませながら、何度も首を縦に振った。それから、手にしていたランプを床に下ろし、鍵の束を掲げると、それをノックのように叩いた。そのリズムがあまりに不可思議だったので、パンドジナモスの弟子は首を傾げる。叩き終えると、束の中から一本の鍵が、ひとりでに少年の方へと浮かんだ。彼はそれを掴んで、鉄格子の鍵穴に差し込んだ。

 錆びついた音を立て、格子戸が開く。

 少年はランプと一緒に駆け込んでくる。ランプで青年の顔を照らし、殴られた痕に眉を顰めながらも、無事を確認して、ほっと息を吐く。息が白く凍る。

 少年は、青年の隣に座り込んだ。

「今のは、魔法ですか?」

「――」

 少年は頷いて、ポケットから紙とペンを取り出した。

『よびだす魔法。人でも、物でも、なんでもよびだせる』

「へぇ、それは凄いですね」

 そう言って笑った青年の手に、重たげな枷が掛かっているのを、少年は見た。それで、ハッとしたように息を呑んで、俯く。

「どうかしましたか?」

「……」

 少年は弱々しい手でペンを動かした。

『ごめんなさい。てじょうのこと、考えてなかった』

「あぁ、これのことですか? 大丈夫ですよ、この程度、僕の魔法で――」

 青年が作った笑顔は不意に凍った。

(僕の魔法で――どうするっていうんだ? 燃やすのか? こんな冷え切った部屋で、こんなに分厚い木の板を、火種もないのに? 言葉一つで? ……駄目だ、疑ったら駄目だ。これでさっきも失敗したというのに……)

 逃避していた現実に追いつかれて、青年は息を詰まらせる。蛇が首に絡み付き、刃物のような吐息を吹きかけてくる。青年は深く俯いて、自分の額と膝頭で手枷を挟む。石造りの牢屋の中では、木製というだけで、ほのかに温かみがあるように感じた。

(駄目だ……僕はもう、駄目だ。先生のようにはなれない。こんなんじゃパンドジナモスを名乗れない。魔法を――先生を疑った時点で、僕はもう失格なんだ。いや、待て、落ち着け、失格になんてなりたくない。僕はまだやれるはずなんだ。ただ、信じられないだけで……いや、それが一番の問題なんだ。魔法を、先生を、信じられないなんて。やっぱり駄目だ)

 突然うずくまって微動だにしなくなった青年を前に、少年は狼狽えた。泣いているようにも見えて、さらに混乱する。何か言わなくては――正確には、書かなくては――と思うのに、どんな言葉も出てこない。本当は、他にも言いたいことがたくさんあるのに、頭の中を上手く書き出せないのが、ひどくもどかしかった。

 少年はしばらく躊躇っていたが、やがて、ふと手を伸ばした。青年の左手を、左手で包む。びくりと動いた青年の手は、まるで氷のようだった。ひどい冷たさに、少年はちょっと肩を震わせた。少年は右手の人差し指を立て、決められた拍数で、自分の額と、繋いだ左手の甲を、交互に叩く。すると、金色の光が、冷たい空気の上にふわりと乗った。

 次の瞬間、

(「あのね!」)

 青年の頭の中に、誰かの声が響いた。青年は飛び上がった。

(「あ、ごめんなさい。声、大きかった?」)

 青年は事態が飲み込めなくて、目を白黒させている。が、やがて、どうにか状況を嚥下した。

「もしかして、君の魔法ですか?」

(「そう! あのね、えっとね、その――僕が考えていることを、直接伝える魔法なんだけど、あの、大丈夫! 大丈夫だから!」)

「ええと? 何が、大丈夫なんですか?」

(「えーと、えーと、あの――僕が考えていることは、お兄さんに伝わるけど、お兄さんが考えていることは、僕には分からないから、だから、大丈夫」)

「……あぁ、なるほど。はい、分かりました」

 青年はゆるりと頷いた。イホスの先生は、順当な魔法を授けたらしい、と思う。話せない少年に、誰かを呼ぶ手段と、自分の意思を伝える手段を。少年は良い先生に恵まれ、素直に学んでいっているようだ。その素直さが、そこはかとなく羨ましい。

(「あのね、その……ごめんなさい」)

「手錠のことなら、気にしなくても」

(「そうじゃなくて! いや、その、それもそうなんだけど、それじゃなくて――あの、その、さっき、殴られてる時――何もできなくて、ごめんなさい」)

「……」

(「きっと、どうにかできたのに。どうにもできなくても、僕は動かなきゃいけなかったのに――動けなかった。ごめんなさい」)

「……気にしないでください。君に害が及ばなくて良かったと、僕は思っていますよ」

 青年はフォローしようとしたが、少年は頑なに首を振る。

(「違うの。違うんだ。確かに、僕は怖かった。けどね、知ってる。知ってるから、動かなくちゃいけなかったんだ。あのね、殴られるとね、痛くて、悲しくて、悔しくて、だけど、そうやって痛い内は、助けてって思っている内は、生きていられるんだ。――でもね、そのあと、痛くなくなったら、今度は死にたくなっちゃうんだ。助けて、って、何度も思ったのに、誰も助けてくれなかったから。独りは、寂しいから。全部、全部、僕を必要としない世界なんて、どうでもいいやって思っちゃって、世界を捨てたくなるんだ。――僕が、そうだった」)

「……」

(「もしも、もしもね。もしもだよ? もしも、だけど――もし、あの時、僕が独りじゃなかったら、殴られてる僕を助けてくれる、ううん、助けようとしてくれるだけで良かった。そんな人が、一人でもいたら、僕は、死のうとはしなかったんじゃないか、って――今になって、時々、そう思うんだ。僕は、死んだから助けてもらえたけれど、本当は、死ぬ前に助けてもらえたら、それが、本当の幸せだったんじゃないかって」)

「――」

(「あ、でもね! でも、僕は今幸せだから、いいんだ! 先生は本当に優しいし、こうやってお話しできるようになったし! 魔導師になるの、楽しいから!」)

 そういって笑う少年に、どんな顔を向けたらいいのか、青年は見当もつかなかった。けれど、目を逸らすことだけはするまい、と、必死になって視線を固定していた。

(「だから、僕は助けたかったんだ。殴られてる人を、独りにしちゃいけなかった。ごめんなさい。……でも、どうか、お兄さんは死なないで。死にたいって、思わないで」)

 少年の懇願を、青年は真正面から受け止めた。この歳でこんなことを言えてしまう彼の人生を思うと、心がぐっと締め付けられた。そして、こんなことを言わせてしまった自分の情けなさに、嫌気が差した。これ以上、醜態を晒してなるものか――そう思ったのは、ただの意地である。それでも、そう思える意地がまだ残っていることに、少しだけ安堵を覚えて、青年はニヤリと笑った。

「ありがとうございます、イホスのお弟子さん。おかげで、元気が出てきました」

(「そう、なの?」)

「はい」

(「そっか。良かったぁ」)

「君は本当に良い子ですね」

(「え?」)

「さて、それでは、こんなところからは早く脱出してしまいましょう。イホスのお弟子さん、君のこの魔法は、手を離したら効力を失ってしまうものですか?」

 イホスの少年は首をふるふると横に振った。

(「繋げる時に触ってないといけないだけで、一度繋いじゃったら、しばらくは大丈夫だよ」)

「わかりました。では、少し、僕から離れていてください」

(「? うん」)

 少年は顔中に疑問符を浮かべていたが、素直に指示に従った。青年から離れる。

(「何をするの?」)

「いえ、ただ――邪魔なものを取り除こうと思いまして」

 この魔法を授かった時のことを思い出す。あの時も、自分は絵の中に取り込まれていた。一人ではどうにもできず、無様にも先生に助けを求めた。それでようやく、脱け出すことができた。その時、先生に言われたのだ――邪魔するものなど燃やしてしまえ、と。

(自分は小さい。あまりにも小さくて、弱い存在だ。だが、先生は違う。先生は偉大で、強いお方だ。己を信じることは出来なくても、先生を信じることは出来るだろう? なぜって、先生は、パンドジナモス――万能の魔導師なのだから)

 青年は鮮烈なイメージを脳内に作りだした。一瞬にして手枷が灰になる様を。まざまざと思い描いた。そしてそれを現実に起こりうるものだと決め付けた。自分にはそれが出来ると言い聞かせ、思い込んだ。たった一言、その一言を放った瞬間、世界は自分のためだけに常識を塗り替えるのだと、信じ、思い込み、決め付けた。

(理由など無い――ただ、そうだと先生に教わったから、そうなるのだ!)

 そして言い放つ。

「《BURNING(もえろ)》!」

(「うわぁっ!」)

 瞬間、深紅の炎が青年の両手を包み込むようにして立ち上り、一秒と経たずに消えた。ばらばらと床を打つのは、手枷であった物の燃え滓である。

 青年は、自由になった手を床について、立ち上がった。少年に向かって、手を差し出す。先生のように不敵に、ニヤリと笑う。

「さぁ、行きましょう。この物語を、終わらせるんです。僕らで」

(「――うんっ!」)

 少年は彼の手を取った。


 二人は牢屋から脱け出した。牢屋はたくさんあり、そのほとんどに人が閉じ込められていたが、そのほとんどがピクリとも動かなかった。見張りはいなかった。

 階段を上りきる。窓から日が射し込んでいるのを見て、パンドジナモスの弟子はほっと息を吐いた。やはり、明るい方が良い。

 何やら、大勢の人々が、忙しげに走り回っていた。二人は手を繋いだまま、行きかう人々の隙間を縫って、歩いていく。

(「ねぇ、これから、どうするの? どうやったら出られるか、お兄さんには分かるの?」)

「分かりません。ですが、見つけます」

(「どうやって?」)

 少年の当然の問いに、しかし青年はニヤリと笑うだけで、答えないのであった。

 少年はちょっとだけ唇を尖らせ、青年の顔を横目に窺ったり、周りを見たりする。

(「何考えてるのか全然分からないや。ここが何処かも、いまいちよく分かってないし。あぁあ、早く先生のところに戻りたいな。あ、そういえば、漢字の練習、今日の分まだやってないんだっけ。帰ったらやらなくちゃ。……でも、帰れるのかな。先生、呼んだのに、来てくれなかったし……。でも、パン……パン、ジ、ドナス? だっけ? 忘れちゃったけど、万能の魔導師のお弟子さんなら、どうにかしてくれる……よね、たぶん。あ、でも、僕も頑張らないと! 魔導師の弟子なんだから! うーん、でも、僕に、何ができるのかな。呼び出すのと、考えを伝えるのと――あ」)

 そこで少年は、今自分が魔法を使っているということを思い出したらしい。慌てて青年の横顔を振り仰いだ。

(「今の、全部、聞こえてた?」)

「……えぇ、まぁ、はい」

(「ご、ごめんなさい」)

「いいえ、構いませんよ」

 青年は少年の手を強く握りしめた。少年の思考を綴る、か細い声が、彼の不安を如実に表していた。それを聞いて、青年の心の中には強い責任感と、使命感が湧き上がってきた。この少年を、必ずや無事に、先生のもとへ返さねばならない、と。そのために、自分は頑張らなくてはならないのだ、と。

「早く、帰りましょうね」

(「うん」)

 やがて彼らは、最初にいた部屋に着いた。そこに至るまでに、一度日が沈み、また昇って、着いた頃にはもう一度夜になっていた。時間の流れが違うのであろう、と青年は思った。

(「そういえば、僕がお兄さんを探している時も、こんな風だったよ。あっという間に一日が終わっちゃうから、すごく焦ったんだ」)

 と、少年が思い出したように語った。

 部屋の中は、青年の記憶にある通りの姿で、床に散らばった本までそのままだった。

「さて、ここにならあるでしょう」

(「何が?」)

「この物語の結末が、です。たとえば――」

 青年は、手近な本の背表紙に手を伸ばし、唱えた。

「この本の中に、とか。《I() FOUND(つけた)》!」

 ふわりと金色の光が漂って、すぐに空気に溶けた。そして青年が棚から引き出した本の表紙には、『武装の国』と書かれているのであった。

(「えっ? なんでっ? すごい! すごいすごいすごいっ!」)

 感嘆の声を爆発させる少年の思考に、少しだけ頭痛を感じ、青年は苦笑した。

「少し、落ち着いてくれますか?」

(「あっ、はいっ、ごめんなさい」)

「読んでみましょう」

 二人は床に腰を下ろし、弟子たちの部屋でそうしたように、膝の上で絵本を広げた。綺麗で可愛らしいのに、どこか陰鬱な絵が、物語を紡いでいく。

 二人の知らない部分は、このように続いていた。

 ――武装の国に攻撃された隣国、信仰の国は、国家を上げて抵抗する。戦争は何年間も続き、何百人、何千人もの人が傷付いた。王子は、姫がなかなか手に入らないことに苛立ち、益々暴虐の限りを尽くした。そんな中、武装の国の王様が死去し、王子は王様になる。すると、王になった彼は、国のすべての人を戦争に向かわせ、何としてでも姫を手に入れろと命じる。その非道な命令を知った隣国の姫は、自ら降伏し、これ以上戦争を続けないよう願い出る。しかし、王はこれを聞き入れず、投降してきた姫を塔に幽閉すると、隣国を蹂躙。完全に隣国を滅ぼした後、姫にも暴力を与え続ける。姫は絶望し、『武装の国に呪いあれ!』と叫びながら、塔から身を投げて自殺する。が、魔法使いではない姫の呪いは、効力を発揮することなく、姫の遺体は弔われることもなかった。そして、武装の国は繁栄を続けていったのだった。おしまい――

 読み終えて、二人は絶句した。

 ようよう絞り出した感想は、

「なんて……救いのない……」

(「ひどい……ひどすぎるよ、こんなの……っ!」)

「こんな絵本があっていいのでしょうか……胸糞悪い」

 青年は乱暴に絵本を閉じた。後半部分が破られていた理由が分かったような気がした。これでは、無駄なことだとしても、破りたくなるだろう。

 青年は一つ深呼吸をした。

「さて……結末は分かりましたが、どうしましょうか。ここから出るには、絵本の結末を見届けなくてはなりません。ですが――」

(「こんな終わり方嫌だ!」)

「――そうですよね。同感です」

(「ねぇ、何かないの? 結末を変える方法!」)

「あるかもしれませんが、変えた結果、僕たちが帰れなくなったら、困ります」

(「っ……それは……そうだけど……でも」)

「ええ。君の気持ちは分かります。どうにかして――」

 その時、扉が乱暴に開けられる音がして、二人はびくりと全身を震わせた。大きな足音が飛び込んでくる。この音が引き連れてくる恐怖を、二人は深く理解していた。青年は素早く少年の背を押した。

「隠れてください!」

(「っ、でもっ!」)

「いいから、早く!」

「おい! 魔法使いっ!」

 本棚を蹴飛ばしながら、王子が現れた。豪奢な鎧は、血と泥で汚れていた。彼は全身に怒気を纏って、歯を剥き出しにし、青年を睨みつけた。青年は気丈にその眼光を受け止めた。隠れられなかった少年が、彼の背中に貼り付いている。ここで引くわけにはいかない。

 王子は青年に人差し指を突き付ける。

「あの地下牢から脱獄した気概は褒めてくれよう。それに免じて、貴様にもう一度だけチャンスを与えてやる!」

「……チャンス、とは?」

「信仰の国を手っ取り早く滅ぼす魔法を編み出せ!」

「っ――」

 王子は地団太を踏みながら、言い募った。

「くそっ、アイツら、弱小国家のくせに、僕に歯向かいやがって! 雑魚のくせに、この僕の手を煩わせるだなんて、不敬にも程がある! 今すぐ殺し尽くしてやらねば到底気が済まない! だから魔法使いよ、奴らに最低の、最悪の、陰惨な死を与えるんだ! いいか、出来ないとは言わせないぞ! あぁ勿論、一人残らず殺してくれていい! あの女もだ!」

「あの、女?」

「そうだ! 僕のものにならない隣国の、馬鹿な女だ! あんな愚かな女、気に掛けてやっただけ損だった! 僕の言うことを聞かないんだ、死んで当然だろう!」

 青年は頭が真っ白になった。

(「なんってやつだ……最っ低……っ!」)

 少年の声が頭に響く。少年の声もまた、怒りに震えていた。

「おい、何を黙っているんだ、魔法使い! まさか、出来ないのかっ?」

「……」

「くそっ、この役立たずめ!」

 言葉と拳が同時に飛んできた。顔面を殴られて、青年は後ろによろけながら、膝を付いた。続けざまに蹴りが飛んでくる。顔を蹴られて唇が切れ、腹を蹴られて空嘔に喘ぐ。詠唱などしていられない。しかし、少年を庇うことだけは忘れなかった。飛び出そうとする少年を、後ろ手に押さえ込む。彼を再び、暴力の前に晒すことだけは避けなければならない、と、朦朧とする意識で思った。

(「お兄さんっ! お兄さんっっ! やめて、やめてよっ! やめろったら!」)

 頭に届く少年の叫びが、パンドジナモスの弟子の意識を繋ぎ止める。しかし、それもやがて遠退いて、彼は遂に、倒れ込んだ。

 と、

「ん? なんだこの子どもは」

 王子が少年を視界に収めた。少年は初めて、王子の顔をまともに見た。人を痛めつけることに何の罪悪感も抱いていない、平然とした顔。むしろそれを生き甲斐としているかのような、醜悪に歪んだ顔。それを見た瞬間、少年は竦んだ。彼に対して感じていたはずの怒りは鳴りを潜め、過去に植え付けられた痛みと恐れが、少年の体を支配した。

「どこから紛れ込んだ? 誰の子どもだ。おい、何とか言ったらどうだ!」

(「ひっ……う、あ……」)

「チッ、これだからガキは嫌いなんだ。弱くて馬鹿で役に立たん。こっちの言うことなど何も聞かず、我が儘で自分勝手だ。ただひたすら邪魔になるだけで、何の利益も寄越さない。ガキなんぞ生きている価値ないだろう!」

(「ご、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ、ごめんなさいっ!」)

 まだ何もされていないのに、少年の双眸からは涙が溢れ出す。それが王子の神経を逆撫でした。頭を押さえて蹲る少年に向かい、王子は足を振り上げる。

「この臆病者がっ! 死んでしまえ!」

「《STOP(しね)》」

 冷え切った声が落ちた瞬間、王子は電池を切られたように固まった。そして、一瞬の時を置いて、その場に崩れ落ちる。少年を害そうとした醜い顔のまま、王子の息は止まっていた。血に塗れた拳と、泥だらけの鎧は、もう二度と動かない。

 少年は呆然と、死体になった男を見ていた。

 青年は床に頬を付けたまま、自分が殺した男を見る。同じように倒れているのに、片方の目はもう何も映さないのだ。片方の口はもう何も紡がないのだ。他ならぬこの自分が、そのようにさせたのだ――青年は途端に、恐怖を覚えた。自分が命じたことの重さに、胸が潰れそうだった。

 窓の外で夜が明ける。日の光が射し込み、二人の生者と一つの死体を白く染める。暴君が死んだ日に相応しい、嘘くさいほど清々しい夜明けの色だった。

 やがて少年はふらふらと立ち上がる。死体を大きく迂回して、そして、青年の手を取る。

(「――あのね、その……ええと……」)

「……」

(「……ありがとう、お兄さん」)

 彼の言葉が届いたか否か。ぱたんと絵本を閉じるように、二人の意識は突然途切れた。


 青年は目を覚ました。ぼやける視界が徐々にクリアになっていく。見慣れた天井がある。雨が降る夜のにおいに、ポテトチップスのにおいが混ざっている。

「おう、起きたか」

 声を掛けられて、青年はゆっくりと上体を起こした。見れば、一人掛けのソファに、イホスの魔導師である老人が、その弟子を抱きかかえて座っている。イホスの弟子は泣き腫らした目で、すっかり眠っていた。すぐ傍のローテーブルには、『武装の国』と銘打たれた絵本が置かれている。

「話は聞いた。うちンのが迷惑かけたみてェだな」

「いえ、迷惑だなんて……」

「守ってくれてありがとよ。――俺が助けられンかった、昔のコイツのことも、助けてくれたみてェだしな」

 少年を起こしてしまわないよう、絞った声でしみじみと言われ、青年は返す言葉を見失った。それで、思い付いたことを聞く。

「――あの、先生は、どちらに?」

「ん? あァ、パンドジナモスの魔導師なら、三十分ほど前に、ちょっと出てくるっつって、それっきりだな」

「そう、ですか」

 青年は俯いた。ソファに座り直す。自分の手を見る。王子を殺したのは言葉なのに、なぜか手が赤く見えた。イホスの魔導師は、そんな青年の様子を、静かに見ていた。彼は、絵本の中で何が起きたかすべてを知っていた。知っていて、何も言わなかった。

 がちゃん、と玄関が開く音がした。怒っているような足音が、廊下をずんずんと進み、遂にリビングの扉を蹴破った。パンドジナモスの先生だ。彼は苛立ちを露わに、コンビニの袋を机上へ放り投げ、弟子の隣にどっかと座った。

「信じられるかっ? いや信じられないだろう!」

「……え、あの、何がですか?」

「警察だよ警察! あの凡愚ども、この私を捉まえて『坊や、こんな時間に何をしているんだい? おうちは何処かな?』などとぬかしやがった! この、私にだぞっ? 身の程知らずにも程がある!」

「あー……」

「腹が立ったから、そいつにはちょっとした悪夢を見せてやった! はっは、ざまぁみろ! 私を見た目で判断して、歯向かうからこうなるんだ! はっはっはっはっ!」

 高笑いする先生の言葉は、絵本の中の王子とさして変わらない内容だった。なのになぜか、腹が立たないのである。青年は不思議に思うと同時に、自分は自分の好みで人を殺したのか、と思って、再び深く俯いた。

 先生は豪快にポテトチップスの袋を開け、二、三枚一気に口へ放り込んだ。反対の手で『武装の国』をめくる。そして何気なく、

「この絵本の後半部分を破ったのは私だ」

 と言った。

 弟子は最初、何を言われたのか分からなかった。

「……え?」

「いや、昔な? 大昔――まだ、私が弟子だった頃の話だ。その頃の私には、気に入らない結末を変えるほどの力はなかったから、せめてもの嫌がらせというか、ストレス解消に、後ろから順番に破り捨ててやったんだ。半分ほど捨てたところで満足して、やめたんだが」

「え、あの、では――今回のこれは、先生の所為――」

「良い経験になっただろう? さすがは私だな!」

 先生は悪びれもせずそう言って、ポテトチップスを袋から直接口に流し込んだ。それをばりぼりと咀嚼して、飲み込む。それから、弟子の方を一瞥して、もう一袋、封を切る。そうして、絵本の最後のページを開く。破られていたはずの後半部分が、何故か綺麗に補われていた。

「最小限の犠牲で大多数を救う。最も効率的で、ほとんど全員が幸福になる道を選んだな」

 さらりと言われる。青年は斬られたような気分になった。

「先生、あの、僕……」

「次からは激情に任せるのでなく、必要に応じて行動しろ。今回は幸運にも、感情任せで上手くいったが、大抵、感情に任せれば失敗する。重要なことになればなるほどな。そもそも、どうせ殺すんだったら、最初に会った時に殺してしまえば良かったんだ。そうすれば、もう少し犠牲を減らせただろうに」

 なんとなく、先生ならこう言うだろうと思っていた通りのことを言われ、青年は唾を飲み込んだ。先生の徹底的な効率主義は、時折怖い。それはあまりに感情から切り離されすぎている。効率が悪いと判断されたら、躊躇わず捨てられるのが目に見える。それは、弟子である自分ですら例に漏れず。

「冷静に、効率的に、迅速に、最もよい結末となるよう、考えて動け。いいな」

「……はい」

「――だが、よくぞ。よくぞ結末を変えてくれたな。我が弟子よ」

 その時の先生の声がいつになく穏やかで、満足げなものだから、弟子は顔を上げた。

 先生は、柔らかい頬笑みを浮かべて絵本を眺めていた。その最終ページには、『めでたし、めでたし』と書かれている。

「やはり、物語はこうでなくてはな。――現実とは、違うのだから」


おしまい




 


1……『武装の国』適当に作ったにしてはなかなかそれっぽいものが出来たなぁと自己満足しております。可愛いのに怖い絵ってありますよね。分かります? 一歩間違えればなにより恐怖を煽ってくる系の可愛い絵。ああいうのは、好きなんだが苦手である。

2……横暴な王子は役立たずを嫌う。つまり合理主義ともいえる。

3……青年は相変わらず、蛇から逃れられないでいる。少年はいつまでも、過去の恐怖を引きずっている。それでも、誰かの手を取れたのは、彼らの成長であるといえよう。

4……『武装の国』どうぞ最悪の結末を。犠牲は時に、最良の結末をもたらす。最近は「死ね」という罵倒が気軽に使われすぎているような気がする。死んでしまう、死にそう、までは許せるが、死ねと誰かに命じることだけは許せない。人に死を命じることが出来る人なんて、この世にはいないのだ。

5……先生と王子はどこか似ている。自分が絶対強者であるという自信。そこからくる振る舞い。徹底的な合理主義。不要なものは即座に切り捨て、必要なことは躊躇わず行う。だからこそ、若い時分の先生は、絵本を破ったのだ。王子の行動に、共感できてしまったから。それは同族嫌悪からくる破壊衝動であり、自分はこうはならないぞという決意でもあっただろう。――彼らの違いは、感情に任せるか否か、の差である。感情に任せた瞬間、合理主義は身勝手に変わるのだ。


絵本に吸い込まれる話は一度やってみたかったのです。その絵本を、救いのない物にしたのは、私のミスですが。おかげで楽しさはなかった……というか、暴行シーンが多すぎる……。警察に職質される魔導師ってなかなか面白い絵面だなぁって思います。お粗末様でした!


 

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