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a note

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 少年は、イホスの工房の弟子になった。魔導師に個人名は無い。イホス、とは工房の名前である。お互いのことは、工房の名前と、先生或いは魔導師、そうでなければ弟子、と呼び分けられる。

 少年が最初に授かったのは、銀色の鍵だった。唯一、弟子にしか扱えないものだという。この鍵を使って扉を開ければ、どこからでも、弟子たち専用にして共用の部屋に行けるらしい。

 今日は老人――イホスの先生が、何やら用があると言って、家を空けている。少年は暇を持て余して、鍵を使ってみる気になった。

 鍵穴を持っている適当な扉に、銀色の鍵を差し込む。くるりと回す。かちり、と小さな音がした。少年は鍵を抜いて、ゆっくりとドアノブを回した。

 扉の先は、客間であるはずだった。しかし、今そこには、少年の知らない大きな部屋が広がっている。少年は感嘆の息を吐いた。そっと中に入って、鍵をポケットにしまい、扉を閉める。

 部屋の中は至ってシンプルである。片方の壁が、一面本棚になっている。中央にローテーブルと、白い三人掛けのソファが二つ。家具という家具はそれぐらいで、あとは白い壁紙が目に痛いほどだ。

 少年は本棚に近付こうとして、ふと、気が付いた。

 ソファとローテーブルの隙間に、嵌まるようにして、誰かが倒れている。

「っ!」

 少年は慌てて駆け寄った。その人物の肩を揺する。しばらく揺すっていると、その青年は、緩慢な動作で起き上がった。眠そうな目をしている。大きく欠伸をする。それから、少年のことに気が付いた。

「……あぁ、イホスのお弟子さんか。こんにちは」

 何事もなかったかのように平然と挨拶をされて、少年は少々戸惑った。が、ぺこりと頭を下げた。

「そういえば、君は声が出せないんでしたね」

 少年は頷く。

「話せないというのは、少し、つまらないな……あぁ、そうだ」

 青年は、閃いた、と、両手を打った。

「弟子のための部屋なんだから、ノートと鉛筆ぐらいありますよね。あるはずです。いいや、絶対にある! ――《I() FOUND(~つけた)》!」

 彼は大きな声でそう言って、机の上を叩いた。そして、彼がその手をどけると、いつの間にか、そこには一冊のノートと鉛筆が置かれている。

「ほら、やっぱりありました。使っていいですよ」

 青年はニヤリと笑ってみせた。

 少年は目を真ん丸にしていた。机の上には何も無かったはずだ。青年が何処かから取り出した様子もなかった。不思議は尽きなかったが、少年はやがて鉛筆を取った。

『いまのは、まほう?』

「はい、そうです。僕は、パンドジナモスの弟子です。パンドジナモスの魔導師は、ほら、この間、森の中で、僕らを助けてくれたお人ですよ」

 その言葉で、少年は思い出した。黒い森の中で、山羊の怪物を吹き飛ばした人。その人と一緒に来て、正気を失っていたのが、この青年だ。少年は何故だかとても納得した。

『わらいかた、にてる。先生と』

 少年がそう書く。すると、パンドジナモスの弟子は虚を突かれたような顔になって、頬を擦った。

「そうですか? 似てます? 先生と? それは――嬉しい、ん、ですかね」

 青年は少しだけ寂しそうな顔になった。

「笑い方だけ似てても、しょうがないんですけどね」

「……?」

「君は、魔導師の弟子になって、良かったですか?」

 唐突な問いだったが、少年ははっきりと頷いた。

「そうですか」

『よくなかったの?』

「あぁ、いえ、そういうわけではないんですけど。――パンドジナモス、とは、万能、ですから。万能の魔導師に、僕がなれるとは、なかなか思えなくて」

「……」

「この間も、来るなと言われたのに行った挙句、僕だけ気絶してましたし……本当に自分が情けないですよ。――君は、あれを見て、よく平気でいられましたね」

 決して平気ではなかった、と少年は思った。しかし、書く暇もなく青年が話す。

「もっと、もっと、僕は努力しなくちゃいけない。そうじゃないと、先生には追いつけない……なのに、いろんなところで躓いてばかりで」

「……」

「あ、ごめんなさい。愚痴を聞かせてしまって。すみません。――そんな顔しないでください。君が気にすることじゃありません」

「……」

「そろそろ僕は帰ります。失礼しました」

 青年が立ち上がった。少年は、何かを言わなくてはならないような気になった。しかし、ろくな言葉が思い浮かばなかった。

「そうだ。そこにある本は、自由に読んでもいいものですが――あまり、おすすめはしません。何か一つでも、魔法を授かってからの方が良いかと思います。……何か、出てくるかもしれないので。良いですか?」

 少年は頷いた。本から何か出てくる、という言葉の意味はよく分からなかったが、何でも起こりうるのがこの世界だ。そういうこともあるのだろう。何より、青年の声音には真に迫るものがあり、頷かざるを得なかった。

「では――」

 と、立ち去りかけた青年に向かって、少年はノートを掲げてみせた。

『ノート、ありがとう。がんばって』

 青年はちょっと目を見開いた。そうしてから、微笑む。

「どういたしまして。……今度は、もっと楽しいお話ができるように、用意しておきますね」

 パンドジナモスの弟子は扉の向こうに消えた。一瞬だけ、彼の住んでいる場所が見えた。ごく普通の一軒家の廊下のようだった。

 少年は一人残された。弟子の部屋は静寂に満ちている。けれど、あの時の黒い森のように、恐怖を感じる静けさではないのだった。


 カチリ、と、鍵が開く音がした。少年は落書きをやめて、ノートから目を上げる。

「……やー。先客がいたかぁ」

 うねりの強い癖毛を伸ばしたい放題にしている、陰気な男が入ってきた。十代だと言われても、三十代だと言われても納得できるような、年齢不詳の出で立ちをしていた。彼は、べたっとした足取りで中に入り、少年の隣へ腰掛けた。少年の真ん丸い目は、彼のことを興味深げに見詰めていた。どこか不思議な、何故か懐かしさを感じるにおいが、彼からする。

 男は、ソファに背を預けた。ローテーブルの上へ、だらしなく、両足を放り出す。そして、濃い隈のある垂れ目で、じろりと少年を見返した。

「新顔だねぇ。どこの弟子ー?」

『イホス』

「? ……あー、イホスって、あの爺さんのところかぁ。そういえばー、喋れんガキを拾った、ってー噂になってたなー」

「……」

「あー、もしかして、機嫌損ねたー?」

 少年は首を横に振った。

「あっそー。ならいいけど」

 そう言ったきり、男は目を閉じて、ソファの上にそっくり返っている。そのまま寝入ってしまってもおかしくないような状態だった。

 少年は、ノートに質問を書いてから、彼の袖を引っ張った。

「あー? なにー?」

 男は存外、愛想よく目を開いた。

『あなたは、どこのでしなの?』

「ククラ。――お前さぁ、弟子ぐらい漢字で書けよー」

 少年は気恥ずかしくなって下唇を突き出す。男は、のろのろと足を下ろした。

「ちょっと貸してみなー」

 男は少年から鉛筆を取り、ノートを覗き込んだ。

「へー、お前、絵ぇ上手いねぇ。これ、パンドジナモスの弟子ー?」

「――」

「あっはは、やっぱりか。よく似てるよー」

 少年が描いた絵の下に、男は“弟子”と書いた。綺麗な字である。

「弟子はこう。あとー、使いそうなのはー……魔導師、とかー?」

 彼はさらさらと、僕、私、俺、君、魔法、音、工房、嬉しい、悲しい、痛い、苦しい、楽しい、などといった単語を、充分な余白を取りながら、並べていく。一ページが埋まったところで、彼は鉛筆を置いた。

「ちょっと練習すれば、すぐ書けるようになる」

 男は気だるげに言うと、欠伸をひとつ。それから再びテーブルの上に足を置いて、腕を組み、目を閉じた。完全に寝る体勢に入ったようだった。

 少年は、どうやら彼は悪い人間ではないらしい、と思った。それで、鉛筆を手に取ると、彼の文字を真似して余白を埋め始める。

 鉛筆が紙を削る音が、微かに流れていく。男の呼吸は不規則で、少年の手に下手な相槌を打っていた。


「おや、二人もいるとは、珍しいですね」

 次に扉が開いた時、少年は空白をほとんど埋め終えていた。

「ククラのお弟子さんと――イホスのお弟子さんか。こんにちは」

 品の良い、落ち着いた声で男性は話した。少年が知っている顔だった。エレオスの弟子である。少年はやや丁寧に頭を下げた。

 エレオスの弟子は、少年の向かいに座った。ノートを覗き、微笑を深める。

「漢字のお勉強かい? 感心だね」

 少年はページをめくって、最初の一行目に書いた。

『このあいだは、なおしてくれてありがとうございました』

「いえいえ、どういたしまして。あれから、不都合はないかな?」

「――」

「そう。それは良かった」

 男性の声に反応したのか、ククラの弟子がゆっくりと目を開けた。

「……あー……エレオスの弟子かー……」

「こんにちは。相変わらず、怠そうだね」

「まぁねー……」

「治してほしいところはあるかい?」

「へーき」

「血のにおいがしているけれど?」

「気の所為だろー。お前は、そんなにおい感じてねーよな?」

 突然に話を振られて、少年は狼狽えた。慌てて空中に鼻をうごめかして、においを嗅ぐ。改めて真剣に嗅いでみて、彼は、最初に感じた懐かしいにおいの正体に思い当たった。鉛筆を走らせる。

『血のにおいはわからない。でも、やけどのにおいだ』

「火傷?」

「へー、凄いなぁ、お前。火傷ってにおうんだー」

 他人事のように感心してみせた男。

 エレオスの弟子は視線を鋭くした。

「ククラ、見せなさい」

「えー? やだー」

「嫌だ、じゃないよ。怪我の隠蔽が僕に通用しないのは分かっているだろう? その上、火傷もしているんだったらなおさら――」

「へーへー。分かったよ」

 エレオスの弟子の言葉を遮り、ククラの弟子は手をひらひらと振った。

「でも、いいのかー? 本当に」

「なにが?」

 ここで、ククラの弟子は、少年を一瞥した。少年は小首を傾げる。

「噂じゃコイツ、虐待されてたらしーじゃん」

 その言葉に、少年はびくりと、過剰なまでに肩を震わせた。反射的に握りしめた拳の中で、ノートの一ページがぐしゃりと潰れた。そんな少年の様子を横目に見ながら、男はつらつらと話す。

「たぶん、虐待の手口なんて、誰だろうと大差ないぜー? 俺の傷見たら、トラウマとか蘇っちゃうかも知れないだろー。火傷のにおいが分かるっつーことはぁ、根性焼きとかも結構されてたっぽいしー? ま、俺にはどうだっていいけどさぁ。エレオスがいいなら」

「……イホスのお弟子さん」

 エレオスの弟子は少年に向き直った。少年の体は細かく震えていた。怯えを映す目を見据え、男性は真摯に語り掛ける。

「僕はこれから、彼の傷を治療します。ですが、その過程で、君に負担を掛ける可能性が高い。すぐに終わるので、目を閉じて待っているか、少しだけ、外に出ていてもらえないかな?」

「……」

 少年は素直に頷いて、ソファの上に足を引き上げた。膝に顔をうずめ、固く目を瞑る。

「すみません。では、さっさと終わらせるよ、ククラ」

「ほーい。まー、好きにしてくれ」

「どこが一番酷い?」

「間違いなく、ここだろうなぁ」

 男はべろんと、己の脇腹を露わにした。あらゆる傷を見てきたエレオスの弟子も、さすがに息を呑んだ。普通ならとっくに死んでいるはずの大怪我だ。血は流れていないものの、傷口はぽっかりと開いたままである。その周りに、火箸を押し付けられたような痕が、何本も付いていた。

「……遂に、刺されたのか」

 男はにんまりと笑った。

「手元にあった小刀でねー。一回じゃ気が済まなかったみたいでぇ、結局――十五回刺されたなー」

「数えてたんだね」

「とーぜんっしょ。先生の愛だよぉ? 数えないわけがない。だから本当は、治されんのもヤなんだけどねぇ」

 そう言って男は、自分の傷口を、愛おしそうに撫でる。

「エレオスは跡形もなく消しちゃうからさぁ。なぁ、傷跡って残せねーのー?」

「そんな器用なこと、できるわけないだろう。手をどかしてくれ」

 男は不満げに唇を尖らせ、撫でるのをやめた。入れ替わりに、エレオスの弟子が手を伸ばす。傷口に触れる。傷の中に指を入れる。ククラの弟子の顔が歪んだ。しかし彼は躊躇なく、容赦なく、男の脇腹の中に指をうずめていく。それで、澄ました顔で聞く。

「一番奥ってここかい?」

「っ……知るかよ……お前の、そのさぁ、根元からじゃないと治せないってゆーの、どうにかなんねぇの?」

「授かってるのはこれだけだから、仕方ないだろう。我慢してくれ」

 彼は飄々とあしらって、目を閉じた。口も閉じる。それから鼻歌を歌い出した。不思議な旋律。セオリーを無視した動作で音階を行き来し、予想を外すタイミングで拍子を打つ。不安定で不穏な音楽。

 少年は、自分で作った暗闇の中で、その歌を聞いていた。森の外で聞いたものと同じだった。この歌を聞くと、体内がざわめくような、落ち着かない気分になる。けれど、エレオスの弟子の透明な声。それは、嫌いじゃなかった。


 歌い終えて、彼は目を開けた。すっかり傷が塞がった脇腹の中に、火傷の線と、自分の指だけが取り残されている。彼はするりと指を抜いた。指の分の穴は存在していなかった。これで完全に、男の腹は元の形を取り戻したというわけだ。

 男は嘆息した。

「あぁ~あ。綺麗になっちまってぇ……」

「治療されて恨み言を言うのは、君ぐらいのものだよ。――さ、もういいよ、イホスのお弟子さん」

 声を掛けられて、少年はおずおずと顔を上げた。顔色が蒼い。

「大丈夫かい?」

「――」

「まー、森の黒山羊よか、ずっとマシだろーから、大丈夫だろーよ」

 ククラの弟子の言葉に、少年は苦笑した。正直、あの森でのことはあまり思い返したくない。けれど、確かにあれよりはマシだ、と、彼自身そう思った。

 男はひょいと立ち上がった。

「さぁて、それじゃあ、俺はそろそろ帰っかなー。先生もそろそろお戻りになる頃合いだしー」

「ククラの魔導師によろしくお伝えください」

「もっちろん」

 男はくるりと振り返った。前髪に覆われた向こうの顔が、満面の笑みを浮かべている。

「エレオスの弟子に治してもらったー、って、先生に言うんだー。そうしたらぁ、先生絶対に怒るよー。せっかく私がキレイにしてあげたのにーって。そしたらまた絶対に、先生は俺と遊んでくれる。さっきよりももっと深く、もっとしつこく、俺をいたぶってくれる。それが今から、楽しみさぁ」

 心の底から幸せそうに、陶酔しきった表情を浮かべる男。エレオスの弟子は深く溜め息をついた。少年は、理解が追い付かなくて、固まっている。

「ほどほどになさい。死んだら、治せないよ」

「いいよぉ。先生に殺されんなら、本望だしー。それじゃー」

 男は颯爽と踵を返し、背中越しに手を振った。

「漢字の練習、たまにしとけよー」

「――!」

 少年は慌てて頷いたのだが、彼は見向きもしないで、扉の向こうに消えてしまった。

「困った人だ、相変わらず」

 エレオスの弟子が誰にともなく言った。

 少年は少し迷っていた。やがて、ソファから足を下ろすと、鉛筆を取った。

『ぎゃくたいされてるの?』

 シンプルな質問に、エレオスの弟子はどう答えたものか困って、頭を掻いた。

「虐待……なんだろうね、傍から見れば」

『嬉しそうだった。なんで?』

「難しい漢字を書けるんだね。練習の成果かい?」

『さっきの人におしえてもらった』

「へぇ、ククラが。ああ見えて案外、世話好きなのかな」

 男性は、話を逸らすようにそっぽを向いた。しかし、頬に当たる少年の視線に、耐え兼ねたように口を開く。

「彼は、先生のことが大好きなんだ。先生から授かるものは、命より大事だと言って聞かない。どんな細かな物も、酷い言葉も――怪我すらも。彼は、先生を愛していて、先生から貰うすべてを愛しているんだ」

「……」

「この世にはいろんな人間がいるってことだよ」

 少年には結局、ククラの弟子のことはよく分からなかった。けれど、エレオスの弟子が最後に言った言葉は、理解できた。

『ククラの先生は、お弟子さんのこと、きらい?』

「……どうでしょうね。僕は、あまり会ったことがないから。集会や何かで見かける時は、ごく普通にしているけれどね」

『おにいさんは、先生となかよし?』

 エレオスの弟子はふわりと微笑んだ。

「うん、もちろん」

『エレオスの先生は、どんな人?』

「口は悪いけど、好い人だよ。口は悪いけど」

 にこやかに即答する。少年の頭には、エレオスの先生は口が悪い、という情報と、彼が本当に先生を慕っているらしい、という印象が残った。

 それきり、少年は取り立てて聞きたいこともなく、鉛筆を止めた。エレオスの弟子はというと、彼の方も熱心に会話をする質ではないようである。しばらくは、少年の方を見て、どこか気まずそうにしていたが、やがて、持参していた本を開いた。

 彼が本に集中し始めたのを見て、少年も状況を理解する。落書きを再開する。穏やかな沈黙が続く。


 次に扉が開く音がした時、少年はすっかり寝入っていた。はたと気が付いて頭を上げると、エレオスの弟子が微笑してこちらを見ている。少年は少し恥ずかしくなって、口元を拭った。

「あら、エレオスの弟子じゃない。ご機嫌いかが?」

「こんにちは、カタレフシのお弟子さん。お久しぶりですね」

「そうね。いつ以来かしら。まぁどうでもいいけれど」

 カタレフシの弟子は、少年の隣にどすんと座った。女性の弟子を初めて見たので、少年はなんだかどぎまぎしてしまった。彼女はじろりと少年を見、相好を崩した。

「あらぁ、可愛い子! どこのお弟子さんかしら?」

 鼻が触れてしまいそうなほど近くまで顔を寄せられ、少年は大いにたじろいだ。甘い匂いが眼前に迫る。くるりとカールした毛先が頬を掠める。少年は魔法を掛けられたように動けなくなった。

「カタレフシ。彼は、イホスのお弟子さんですよ」

「ちょっと、エレオス! 私は彼に聞いたのよ? どうしてあなたが答えるのよ!」

「彼は生まれつき話せないんです」

「そうなのっ?」

 彼女は目を見開いて、少年をぎゅうっと抱き締めた。少年は彫像と化した。豊満な胸の中に顔が埋まって、息が詰まる。

「あらまぁ可哀想に! でもそれなら、イホスの工房に入ったのも頷けるわね。イホスの魔導師は耳が不自由なんでしょう? こういうのを……何て言うんだったかしら。破れ鍋に綴じ蓋? だったかしら」

「言葉が悪いですよ」

「あら、どこが?」

 彼女は本気で首を傾げた。エレオスの弟子は軽く溜め息をついて、諦める。

「いいえ、なんでもありません。それより、彼を放してやってくれませんか? 苦しそうですよ」

「あらあら、ごめんなさい!」

 パッと放されて、少年は素早く彼女から離れた。顔が真っ赤なのは、恥ずかしさの所為でもあり、酸欠の所為でもある。床に座り込んで息を荒げる少年。それを見て、カタレフシの弟子はあっけらかんと言った。

「そんなに苦しかったのなら、言ってくれれば良かったのに」

「カタレフシ……僕の話を聞いていましたか?」

「なぁに? あなたの話って」

「ですから、彼は話せないのですよ。声を出せないのです」

「やだ! そういう重要なことは、ちゃんと言ってくれなくちゃ困るわ!」

「僕、言いましたよね……」

「私に聞こえていなかったら、言ったことにはならないわよ」

「……おっしゃる通りで」

 呆れかえった声で相槌を打って、エレオスの弟子は少年を手招きした。少年は招かれるまでもなく、密かに、エレオスの弟子の方へと移動していた。

「そんなことより聞いてくれる? またうちの先生が、私の大切にしていたぬいぐるみを壊したのよ!」

「そうなんですか」

「その上、反省の色は全くなし! もうっ、本っ当に酷いのよ!」

「そうですね」

 エレオスの弟子はおざなりに頷きながら、さりげなくノートと鉛筆を引き寄せた。そしてさらりと書き込む。

『彼女の話は長くなりますので、適当に退出することをおすすめします』

 少年はこくりと頷いた。

『ありがとう、エレオスのお弟子さん』

 彼がそう書くと、エレオスの弟子はにっこりと笑った。

 少年はノートを閉じた。鉛筆と一緒に抱え持って、ソファから降りる。

「あら、少年、もう帰っちゃうの?」

「先生が呼んでいるそうです」

「あらまぁ残念だわ。また会ったらたくさんお話ししましょうね!」

 少年は苦笑しながら、彼女らに小さく手を振った。爪先立ちになる。ドアノブを捻り、重たい扉を開く。ガァガァと囀る音を、扉の向こうに閉じ込める。

 先生のいない家は、やはり、静まり返っているのであった。


「ただいま」

 イホスの魔導師は帰宅した。が、いつもなら奥からパタパタと駆け出てくる小さな影が、一向に来ないことを訝しんだ。

「おーい、弟子? どっか行ってンのか?」

 弟子の部屋に行ったのなら良い。外出したというなら、あまり褒められたものではないが、分かる。しかし、もし外出先で何かあったら――あるいは、偶然よく分からない魔法に巻き込まれていたら――そう思うと、イホスの先生は落ち着かなくなった。

 だが、その心配は杞憂に終わった。

 リビングに入る。ソファの上に、小さな影が丸まっている。

「なンだ、寝てンのか」

 先生は安堵の息を吐いた。風邪をひかれては困る、と、毛布を取りに行く。

 少年に毛布を被せてやってから、反対側のソファに腰をうずめる。そうしてふと、テーブルの上に、見慣れないノートがあることに気が付いた。

 何の気もなしに手に取る。すぐに、魔法によって生み出された物だと分かった。中を見ると、子どもの字が脈絡なく書き込まれている。弟子の書いたものだろうと察せられた。彼が、弟子たちの部屋に行ったであろうことも。上手に描かれた絵が、彼が誰と出会ったのかを教えてくれる。

 先生はノートを閉じ、そっとテーブルの上に戻した。ソファの背にもたれる。少年の寝息が、秋の夕暮れを、ひたひたと満たしていった。


おしまい




1……パンドジナモス=万能の。一番覚えにくい名前である。その名の通り、彼らの扱う魔法は万能だ。故に、平凡な人間には務まらないのである。あらゆる不可能を可能にする、強靭な精神力と思いこみの激しさが要求される。

2……イホス=音。音を失くした人間が、それを補うべく開発した魔法群である――という話だ。実際のところは分からない。

3……ククラ=人形。人形の工房。ククラの弟子は結構好きです、個人的に。

4……エレオス=慈悲。生きとし生けるものに、平等な慈悲を。悩み苦しむものに、絶対の慈悲を。傷を取り除くのも、病魔を祓うのも、息を止めるのも、すべて慈悲である。

5……カタレフシ=崩壊。彼女の常識は崩壊している。まぁ、魔導師に常識なんていうものを求めること自体、ナンセンスではあるが。

6……少年はいろんな人間に出会って、疲れ切ってしまった。彼は漢字を学び、人間を学び、そして思った――自分は、ここに来て良かった、と。


工房の名前はギリシャ語からいただいています。パンドジナモスはしばらく覚えられませんでした。パソコンの方が早く覚えてくれて、だいぶ助けられました。少年可愛いぞ。いいぞ。ただそれだけが言いたかった。お粗末様でした。


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