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リアリズムとドガ

リアリズムとドガ


「先生!」

 今日も弟子の怒号が響いた。彼の足元には衣服が散らばっている。ゲームが画面上で点滅し、食べかけのポテトチップスがカピカピになっている。

「どこに行ったのですか、先生!」

 弟子は何処とも構わず怒鳴りつけながら、カーテンをめくり上げた。誰もいない。絨毯の裾をひっくり返す。誰もいない。ソファの下を覗き込む。誰もいない。

 弟子はゆっくりと、深く深く息を吸った。止める。細く長く吐き出す。もう一度、今度は勢い良く吸い込んで、

「《I() FOUND(~つけた)》!」

 と宣言した。

 瞬間、何か目に見えぬ力が空間を席巻して、彼の視界を金色と灰色の世界に変えた。魔力がある部分を金色に、無い部分を灰色に見せている。金色なのは、先生が作った魔法具か、或いは――先生本人である。

 果たして、彼の目は先生を捉えた。壁に掛けられた絵画。ドガのレプリカ。最近買ってきた先生のコレクションである。そのオーケストラボックスの中に、一人だけ魔力を纏った人物がいる。バレリーナの方ばかりを見て、演奏が疎かになっているヴァイオリニストであった。

 弟子は躊躇なく、絵の中に手を突っ込んだ。ズブリ、と、豆腐のような感触を味わいながら、彼の腕はずんずんと奥へ入っていった。

 肩口まで絵に埋まった頃、指先がようやく求める人物の襟首に届こうとした。

 その時である。

 ぐるり、とヴァイオリニストがこちらを向いて、弦を放り出した。そして、弟子の手首を掴んだ。

「あっ!」

 と言った時にはもう、彼は絵の中に引きずり込まれていた。


 ぐん、ぐん、ぐぅん、と、極彩色の中を落ちていく。一瞬が何千倍に引き延ばされたかのようであり、何千年が一瞬に圧縮されたかのようでもあった。奇妙な浮遊感と、3D酔いに似た混乱。弟子は気持ち悪くなった。

 不意に、ポンッと放り出されて、彼は固い床に両手をついた。安定した場があるということが、如何に幸福なことか、彼はこの時初めて知った。

 幸せをしばし噛み締めてから、ここはどこだろう、と彼は思った。立ち上がる。

 辺りを見回すと、どうやら劇場であるらしいとは分かった。状況から鑑みて、絵の中のオペラホールに放り出されたのだろうとも推測できた。しかし、ホールはがらんどうで、人っ子一人いないのだった。バレリーナたちも、楽員たちも、客もいない。だというのに、彼が独り立っている舞台には、明かりが点いているのである。それが余計に物寂しさを助長させていた。

 弟子は、何度か唾を飲み込み、今すぐ帰りたい、と思った。

 ふと、カタンッ、という音が空洞に響いた。彼は両の肩を跳ね上げ、素早く振り返った。舞台袖の幕が、今まさに揺らされました、という体で蠢いていた。誰かがいたらしい。弟子は反射的に駆け出した。

 幕に手を掛け、舞台裏を覗き込む。と、すぐそこに、バレリーナの格好をした少女が立っていた。弟子は危うくぶつかりかけて、ギリギリのところで立ち止まった。

 少女はじっと弟子を見上げていた。

「あなた、魔法使いね?」

「いえ、僕は――」

「魔法使いの魂は美味しいのよ。知ってた?」

「――そうらしいですね」

「だから、あたし、魔法使いを食べちゃうの」

「僕は弟子です! まだ魔導師じゃありません」

「そうなの? それは――少しだけ、残念ね」

 そう言って少女はにこりと笑って、弟子へ手を伸ばした。

「《CAN(さわ) NOT() TOUCH(ない)》!」

「きゃあ!」

 咄嗟に言い放った魔法が少女を弾き飛ばした。

「あぁ……酷い人。なんて酷い人なのかしら」

 不穏な調子で呟きながら、ゆらりと立ち上がった少女は、もう少女の姿をしていなかった。パリ、パリ、と聞こえるのは、鱗が次々に生えてくる音である。可愛らしいバレエの衣装は、鱗に押し上げられ千々に引き裂かれた。瞳孔が縦に裂け、真っ赤な光を怪しげに灯した。口が横に裂け、真っ赤な舌の先が二つに分かれた。やがて顔も鱗に覆い尽くされ、少女は完全に、大蛇と化した。

 シュー、シュー、と大蛇が呼吸する。自分の胴体よりも二倍は太く、自分の身長よりも三倍は長い大蛇を前に、弟子は強い恐怖を覚えた。全身が固まり、動けない。それでも、

「うわっ!」

 飛びかかってきたのを、本能的に、間一髪で躱した。

 弟子はそのまま、舞台へ転がり出た。

 そして、目を疑った。思わず足が止まる。

 空白だったはずの劇場が上演を行っていた。オーケストラが、こちらの不安を煽るような音楽を奏でている。バレリーナたちが、弟子を取り囲み、円になって踊っている。席いっぱいの観客が、囃し立てるようにこちらを見ている。

 絃が冷たい音色を刻む。管が重たい拍動を打つ。シューベルトの『魔王』。子どもの魂が魔王に連れていかれる一幕。

 シュー、シュー、と、蛇の吐息が、刃物を研ぐ音に聞こえた。弟子はその音にがんじがらめにされて、動けない。さっきから唾を飲み込もうと躍起になっているのに、いたずらに喉仏を上下させるだけで、まったく上手くいかない。

 立ち尽くす彼の首筋に、ぽたりと、蛇の冷たい唾液が落ちた。蛇はもうすぐ後ろにまで迫っていた。頭から丸呑みにされる、と思って、弟子は強く目を瞑った。

 ――その時、盛大な破砕音が鳴り響いた。

 打楽器奏者がシンバルを蹴倒したのだ。空気を読まない傍迷惑な騒音が、演奏を中断させ、バレリーナたちを振り返らせた。強制的に生み出された沈黙に、がらんがらんがらん……、とシンバルが回って、止まる。

 弟子ははたと我に返り、走り出した。棒立ちになっているバレリーナを押しのけ、思い出したようにブーイングを始めた観客の合間を縫い、劇場の外へ踊り出る。


 限界まで走って、弟子は堪え切れず立ち止まった。膝を支えに両手をつき、肩を上下させる。無理やり深呼吸をして、息を落ち着ける。

 弟子が顔を上げると、そこは一面草原だった。小さな柵があり、その向こうで馬に乗った人々が悠々と闊歩している。柵の手前には見物人たちがたむろっていた。みな銘々に着飾っている。

 競馬場だろう、と弟子は思った。先生のコレクションの中に、こんなような絵があったことを思い出す。

「ねぇ、君」

 唐突に話しかけられて、弟子はびくりとした。

 自分より幾分か若い青年が、いつの間にか隣に立っていた。小奇麗なスーツを着ていて、裕福そうである。しかしどこか皮肉げな顔付きをしていた。

「僕らに出来ることって、何があると思う?」

「――え?」

「僕らはいつだって非力だ。いつまでたっても惰弱だ。何かを出来たような気になっても、実際は何も出来ていない。出来るような気がしても、それは錯覚のことの方が多い」

「そんなことは……」

「ない、なんて言い切れないだろう」

 青年は唇の端を歪めて笑った。

「僕らはいつだって迷っている。いつまでたっても決められないでいる。決めてみたところで、本当に出来るのか、本当にこれでいいのかって、どこまでも醜く迷い続けている」

「……」

「可能性がたくさんある、って、悪いことだよね。それだけ、切り捨てなきゃいけないことが多くて、選び出すのが大変ってことなんだから。――迷った挙句、たった一つを選べなかった人間が、平凡になり下がるんだ」

「僕は――」

「僕は決めた。たった一つに決めた。まだ迷うけれど、でも決して止まりはしない」

 そう言いながら青年は一歩踏み出して、二歩目で消えた。

 取り残された弟子は、青年のように踏み出すことも出来ず、さりとて来た道を戻ることも出来ず、ただ馬が走るのを遠目に見ていた。青年の言葉が胸に突き刺さっていた。木のささくれが皮膚の下に潜り込んだ時のように、内側からじわじわと痛みが広がる。気にしなければ気にならない。気にすれば気になる。気にしても容易くは除けない。

「僕は、先生の弟子だ。だから、いつか、魔導師になるんだ」

 声に出して言ってみたが、なんとなくしっくりこなかった。その理由が分からなかった。

 その時一頭の馬が、突然暴れ出して、騎手を振り落とした。そして柵を蹴破って、見物客を蹴散らして、一心に駆け出す。それがこちらへ向かっていることを知って、弟子は大いに慌てた。しかし、もはや避けられえない。魔法も間に合わない。弟子は目を瞑った。

 全身に衝撃がきて、意識が暗転した。


 暗闇を長らく揺蕩っていた。実際にはそう長くなかったかもしれないが、弟子には長く感じられた。それというのも、目覚めた時に、二度寝をした休日の午後と同じにおいを嗅いだからである。

 何度も瞬きをしながら、ゆっくり体を起こす。痛みはなく、怪我も見当たらない。弟子は辺りを見回す。狭くも広くもない均整のとれた部屋に、暖炉が暖かな光を灯している。その前のソファに、人影が二つあった。片方が振り返って、こちらを見た。

「おぉ、おお、起きたかね」

 優しい声が漏れ出でた。白いひげを蓄えた壮年の男性は、立ち上がって、ベッドの脇の簡素な椅子に腰かけた。

「いやはや、家の前に倒れていたものだから、驚いたよ」

「そんな行き倒れ、放っておけばよかろうものを」

 もう一人の男性が、振り返りもせずにそう言った。対照的に冷徹な口調だった。

「わざわざ拾ってやるのだから、お前は相変わらずお人好しだな」

「ふふふ、君に褒められると悪い気がしないね」

「……褒めたつもりはないんだが」

「おや、そうだったのかい。私はてっきり、君のいつもの照れ隠しかと」

「なんでもかんでも好意的に受け取るな。鬱陶しい」

「鬱陶しいとは酷いね。――ああ、気にしないでおくれ。彼はいつもああなんだ」

 男はそう言って穏やかに笑うと、弟子に杯を差し出した。水がたっぷり入った、銀の杯だった。ズシリと重たい。弟子はそれを受け取り、膝の上に捧げ持った。

「それで、君は何処から来たんだい?」

「ええと……何て言ったらいいのか……とにかく、こことは違う世界から来ました」

「どうやって来たんだい?」

「何か、分からないものに引きずり込まれて……気が付いたら、ここに」

「それじゃあ、何処へ行くんだい?」

「家に帰りたいのです。僕は、先生を見付けて、帰らなくては」

 弟子がそう言うと、男は小首を傾げた。

「私は、行き先を聞いたのだけれど……まだ、決めていないのかい?」

「あ……ええと……」

「それに、どうやって来たのかよく分かっていないのに、どうやって帰るつもりだい?」

「……」

「分からないのだね」

「いえ、きっと、何か――」

「だから言ったろう。そんな奴放っておくに限るとな」

 冷たい声が弟子を切り伏せた。

「覚悟のない奴は早々に立ち去れ。でないと魂を食われるぞ」

「立ち去れと言われましても――」

 帰り方が分からないのだ、と言いかけて、弟子は言葉を飲んだ。

 手首に、何か冷たいものが巻き付いてきたのだ。そのひやりとした触感は、固いようで柔らかく、冷たいのに明らかに生命を持っていた。

 弟子の心拍数は一気に跳ね上がった。手元を見たくない、そう思ったが、目は止めようもなく下を向いた。

 銀の杯から這い出た蛇が、手首に巻き付いていた。

「わぁああっ!」

 弟子はがむしゃらに手を振り回した。その拍子に放り投げてしまった杯が、男の顔に当たった。彼は額を押さえてうずくまった。

「おい、大丈夫かっ? なんてことをするんだ、お前!」

 もう一人の男が立ち上がって、弟子を詰った。しかし、その時にはすでに、弟子は部屋を飛び出していた。


 闇雲に走った弟子は、いつの間にやら街路に出ていた。パリのような街並みが広がっている。夕暮れ時の街角は、人通りが激しく、ざわめきに満ちている。決して暖かい陽気ではないのに、カフェのテラス席は女たちに占領されていた。

 弟子は人混みに紛れて、とぼとぼと歩いていた。刺さった棘が抜けないのだ。抜けないでいるのが気になるのだ。これは一体なんだろう、と思う。この棘は何で、あの蛇は何で、この世界は何で、どうやったら元に戻れるのだろう、と考えた。

「やだ! 本当にっ?」

 女がふいに大声を上げたから、弟子はつい足を止めた。ちょうどすぐ隣にあった柱の陰に背を預け、何ともなしに聞き耳を立てる。

「クロエが駆け落ちって……どこの誰と?」

「レザンバサドゥールの楽士ですって。確か、コントラバスか何かの」

「それってまさか……アロイスじゃないでしょうね?」

「よく知ってるわね。そんな名前だったわ」

「嫌だ、最悪! 彼はあたしが狙ってたのに!」

「あら、そうだったの? それは残念だったわね」

「それもクロエですって? よりにもよってあんな性悪女に!」

「でも良かったわ」

「何が良かったって言うのよ」

「だって、クロエじゃなかったら、あなたがアロイスと駆け落ちしてたかもしれないでしょう? そうなったら、あたしはここで独りぼっちよ。寂しいわ」

「何よ、しおらしくしちゃって。――でも、そうね。心地いい場所を捨ててまで、新しいところに行くなんて、馬鹿げてるわ」

「そうよ。あたしたちは、ここで気ままに遊んでればそれでいいじゃない。一人に決めるなんて無理よ、無理。クロエだって、じきに音を上げて帰ってくるわ」

「ええ、あなたの言う通りだわ。それじゃあ……――そこで盗み聞きしてる色男さん?」

 唐突に横から抱き締められて、弟子は飛び上がった。きついコロンが、柔らかい腕と一緒に、蛇のように絡みついてきた。甘ったるい声とふくよかな胸が、弟子に押し付けられる。

「あたしと遊んでよ、ねぇ」

「えっ、いえっ、あのっ!」

「すぐに全部忘れて、気持ち良くなれるわよ。怖ぁい蛇もいないし」

「や、やめてくださいっ……」

「いいじゃない、おいでなさいな」

 女は、白い手袋をはめた細い指を、弟子の頬に滑らせて、引き寄せた。そして、ほとんど吐息に等しい囁きを、耳に吹きかける。

「怖いものは見ないのが一番よ。痛いのだって、すぐ治すに限るわ。疲れてるんなら休みなさいな、ね? あたしが癒してあげる」

 弟子は、自分の中身がぐらりと揺らぐのを感じた。心の杯が傾いて、今にも女の方に倒れそうである。それで、女の方を向いた。

 女は美しいブルネットの髪をしていた。瞳は青く、少し潤んでいた。淡い水色のドレスは生地が薄く、豊満な胸が直に感じられた。どことなく遊び慣れた風情だったが、縋りつくような目付きが弟子の心を奪った。

 遊びたい、と弟子は思った。このまま、享楽に身を任せてしまいたい。そうすれば、傷付くことも、傷付けることもないのだ――と、弟子は分かった――どこへも行けない、何にもなれない代わりに。

 弟子は唾を飲み込んだ。

「で、でも、僕は――」

「あなたは、なぁに?」

「僕は、何も出来ない人間のまま、終わりたくない。何かになりたい――やっぱり、魔導師になりたいんです。だから――」

「そのために、あたしを捨てるの? あたしを傷付けるの? そこまでする意味があるの? ――そこまでして、なれなかったらどうするの?」

「っ……」

「ここでもいいじゃない。ここにもきっと、あなたを満足させるものはあるわよ。魔法使いだって、どうせ、他人に引きずり込まれた世界なんだもの――捨てたって、誰も責めやしないわ」

「……」

「誰かが責めても、あたしだけはあなたの味方よ。だから、ね……?」

 弟子は目を瞑った。息を吸う。強烈なにおいが肺を満たして、鼻の奥がつんとした。そして、

「《CAN() NOT() TOUCH(るな)》!」

「きゃっ!」

 本当は手放したくない温もりを、遠ざけた。

 悲鳴を上げて尻餅をついた女性が、金切り声を上げる。

「絶対に後悔するわ! あなたは絶対に後悔する! どうして……どうしてあたしを捨てるのよ! どうしてみんな、あたしたちを切り捨てて行っちゃうのよ!」

 弟子の心はまだ揺れ動いていた。揺れ動く心を抱えたまま、彼は一歩後退った。刺さりっぱなしだった棘の痛みがぶり返してきて、今すぐ彼女の胸の中に飛び込みたくなった。だというのに、その衝動が強くなればなるほど、彼の足は反対に後退っていった。

 カフェに座っていたもう一人の女性が立ち上がって、尻餅をついたまま泣き出した女性の肩に手を置いた。

「大丈夫よ。きっと、彼もすぐまた戻ってくるわ。人間って、そんな強くはないもの」

 黒髪の彼女は、弟子を見て微笑んだ。

「いつでも、おいでなさい。あたしたちはずっと、ここで待っていてあげるわ」

 弟子は頷いた。そうして、パッと踵を返し、走り出した。街路を抜けて、滔々と広がる暗闇の中へ。


「《I() FOUND(つけた)》!」

 弟子は暗闇の中で叫んだ。彼が先生に習い、ようやく使えるようになった、たった二つだけの魔法。《発見》と《防衛》。この二つが出来れば、大抵の難は乗り越えられる、と先生は言ったのだった。

 弟子は強く思い描いた。自分が行きたい場所を。自分がなりたい人間を。それは先生の工房で、それは先生のような魔導師だった。信じ、思いこみ、決め付ける。それが魔法の使い方だ、と先生は言ったのだった。

 弟子の目の前に光が広がった。

 気が付くと、彼は舞台の真ん中に立っていた。スポットライトが当てられている。音楽が鳴り響いている。シューベルトの『魔王』。魔王が子供の魂を連れ去ってしまう物語。バレリーナたちが、弟子を取り囲むように、円を描いて踊っている。観客席は暗いが、見られていると肌で感じた。

 シュー、シュー、と、刃物を研ぐような音がして、氷のような息が首筋にかかった。

 弟子は急いで振り返った。

 大きな蛇がそこにいる。怪しげに光る真っ赤な瞳が、弟子をしっかと捉えている。二つに割れた舌先を、脅すように見せつけて、大蛇はシュー、シュー、と唸りを上げる。

 弟子は、唾を飲み込んだ。無様に震える拳を握りしめて、今にも逃げ出しそうな膝を抑え込んだ。大蛇を睨みつける。

 どうしようもない恐怖が、弟子の心を何度も殴りつけた。大蛇を倒す方法は無い。あったとしても、今の弟子には扱えない。本当に、どうしようもないのだ。その現実に何度も何度も殴られて、弟子は倒れてしまいそうになった。

 しかし、弟子は両足でしっかりと踏ん張って、大きく息を吸った。信じ、思いこみ、決め付けろ、と自分に言い聞かせる。細く長く息を吐く。それから今度は勢いよく息を吸って――

「助けてください、先生っ!」

 ――と、叫んだ。

 瞬間、『魔王』の演奏がぴたりと止んで、よく分からないポップなテーマが流れ出した。そして指揮者が振り返った。オーケストラボックスから弟子を見上げるその顔は、間違えようもない、彼の先生であった。

「よくぞ私を呼んだ、我が弟子よ! 覚悟は出来たのかっ?」

「はいっ!」

「あっはっは! この嘘つきめ!」

 弟子の精一杯の虚勢を、先生はあっさりと看破した。弟子が気恥ずかしげに顔を俯ける。

「――だが、それでいい。人間は迷うものだ。まして未成熟の青年となれば尚更、迷って然るべき存在だ」

「……」

「大いに迷え! ただし立ち止まるな! 進むなら与えん、我が炎を! 要するに――邪魔なものは、燃やしてしまえ! 例えばそこの、大蛇とかな!」

 先生は高々とそう言って、指揮棒を振り上げた。その瞬間、金色の光が辺りに散らばって、弟子の胸元に収束した。そしてその光の塊が、弟子の中に吸い込まれるように入っていった。すると、彼の頭の中に、唱えるべき文言が浮かび上がってきた。

 弟子は大蛇を再び睨みつけた。足も手も震えているが、先程まで酷くはない。恐怖はあったが、逃げるつもりはなかった。

 シュー、シュー、と、大蛇が脅すように息をする。

 弟子は手を振りかざし、吠えた。

「《BURNING(もえろ)》!」

 一瞬で火柱が上がり、その中で大蛇が唸りながらのたうち回った。煌々と燃え盛る炎に、弟子の視界まで焼かれていく。白く、白く、染め上げられていく視界の隅で、先生が笑ったのを、弟子は見た。

「安心しろ。大人になるために必要なのは、切り捨てることじゃない」


 弟子は目を覚ました。二度寝をした休日のにおいと、ポテトチップスのにおいがした。見慣れた天井がある。シューベルトの『魔王』が聴こえる。

「やあ、弟子よ。優雅な休日を過ごしたようだな」

「先生……」

 弟子はソファの上で起き上がった。掛けられていたブランケットが床に落ちた。弟子はそれを拾いながら、テレビに向かっている先生の背中へ問いかけた。

「どちらに行っていたのですか?」

「ちょっとアイスが食べたくなって、コンビニに」

「はぁ……そうでしたか……」

「それで帰ってきたら、君がまんまと悪魔に引っ掛けられていて、正直笑い転げた」

「はっ?」

「あの絵に憑いていた悪魔はな、見る人間の精神の揺らぎに付け込み、魂を食らうんだ。私の精神は揺らぎようがないから、別に害はなかろうと放っておいたのだが、やっぱりお前は付け込まれたな! あっはっは!」

「はぁ……」

 この先生を見ていると、弟子は何故だかとても焦った。服は脱ぎ散らかすし、お菓子は食べかけで放置するし、ゲームはやりっぱなし出しっぱなしで、突然ふらっと出かけてしまう。自由奔放で、傲岸不遜で――自信満々な、万能の魔導師。

「弟子よ」

「はい」

「魔法の使い方、三原則を言いたまえ」

「――信じること、思いこむこと、決め付けること」

「よろしい。それを忘れなければ、不可能は可能になる」

「……」

 弟子はしばし、先生がプレイするゲーム画面を見つめた。『魔王』のテーマをバックに、馬を走らせ、コインを集めていく。先生は慎重に、しかし大胆に、難関という難関を乗り越えて、ゲームをクリアに導いた。『魔王』が終わり、よく分からないポップなテーマが流れた。先生は子供のように、拳を振り上げた。

「よっしゃっ! クリア! うぇーいっ!」

「先生」

「ん? なんだい?」

 上機嫌な先生に向かって、弟子はにっこりと笑いかけた。

「今度、脱いだ服を床に放置したら、そのゲームデータ、燃やしますね」

「んなっ!」

 先生は目を剥いた。

「なんって酷いことを! そんな非道な行いが許されると思ってるのかっ?」

「洗濯物を洗濯機に入れてくれれば済む話です」

「それが弟子のすることか!」

「先生が先生なら弟子も弟子、ですよ。人が嫌がることをするのは、得意でしょう?」

「――ふんっ。まぁね」

 先生は鼻を鳴らした。弟子はソファから降りて、脱ぎ散らかされた衣服を拾い始めた。


おしまい




1……「魔導師とは童心を忘れない存在だ! だから私はこうするのだ!」という謎の持論を掲げる先生は、身の周りのことをほとんど何もしない。だから弟子は苦労している。最初の頃は先生の持論を愚直に信じていたが、他の弟子たちに聞いたら「そんなことはない」と口をそろえて言われたため、以来、先生の生活を矯正しようと奮闘している。

2……『オーケストラ・ボックスの楽士たち』1868~69年頃。シューベルト『魔王』1815年。最初、『魔王』と『魔笛』を混同していた。きちんと調べてよかった。

3……『競馬場にて』1877~80年頃。意識高い系の何気ない一言ほど刺さるものってないと思うんだ。なぜあいつらは、持論を堂々と語り、こちらを遠慮なく探るのか。

4……『ドガとヴァレルヌ』1864年頃。優しさへの感謝も、恐怖の前には屈する。

5……『カフェのテラスの女たち』1877年。それは誘惑。現実からの逃避。楽しいことってずっとやっていられるし、正直一生遊んで過ごせるならそれ以上の幸福は無いと思うのだ。彼女たちに染まり切ってはいけない。けれど、切り捨ててもいけない。彼女たちとの付き合い方には、テクニックと精神力がいる。

6……信じ、思いこみ、決め付けること。そうすれば、少なくともお前の世界の中では、それは揺らぎない真実になる。信仰とはそういうもの。魔法とはそういうもの。どうせお前の世界はお前だけのものなのだ。遠慮などいらない、ぶちかませ。

7……私は迷う。何がしたいのか分からずに、迷う。どこに行きたいのか分からずに、迷う。なりたいものはあるのだが、本当になれるのか、迷う。なれたとしてやっていけるのか、自信がなくて、迷う。迷っても時間は止まらない。進むしかないと分かっていても、進めない。そうこうしている内に、気付けば何もかもを失っている。進めば恐怖、止まれば恐怖。現実という恐ろしい大蛇に纏わりつかれながら、限りある生を、消費するのだ。一人で無様に転げ回って、誰かの助けを振り払って、情けなくも強者に泣きついて、ようやく、一歩を踏み出して――また、立ち止まる。その繰り返しが、人生なのだろう。ちなみに、先生がプレイしているのは『バイトヘル2000』である。

参考文献……『新潮美術文庫25 ドガ』1974年初版。


自分で書いていて自分が苦しくなりました。最初はただ、楽しく、魔法使いの弟子の話を書こうと思っていたんですけどね。なんでこんなドМな真似してるんだろう……って途中から思いながら書いていました。音楽や美術を絡めると、どうしても精神的な話とか、自己分析の話になってしまいます、不思議なことですね。何故ドガの絵を出したかって言うと、最近古本屋で参考文献の本を衝動買いしたから、ってだけです。お粗末様でした。


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