第2話:帰路の垣間見
電車を乗り継ぎ会社に着いたが、まだ誰も来ていないようだった。薄暗いオフィスで一人、パソコンを開いて作業を始めた。電話もなければ人もいないで、朝の方が集中できる。
液晶画面を見ながらカタカタとやっていると、あっという間に首のあたりから背中までコンクリートで固められたようになってきた。いくら自分でもみほぐしても、十分もすれば元の木阿弥だ。
表計算ソフトのデータを、そっくりそのままシステムに打ち込んでいく。嫌いな作業だった。何も考えず、ひたすらキーボード上で指を走らせる。量だけいやに多いのが忌々しいことこの上ない。
吹けば飛ぶような印刷会社だ。転職してほぼ五年になるが、その間派遣社員がやるような仕事しかさせてもらえていない。転職してから暫くは自らの境遇を嘆いたが、今では何も感じなくなっている。抜け殻のような自分を拾ってくれたのだ。むしろ感謝しなくてはなるまい。
私に求められるもの。それは、自己主張せず淡々と目の前の業務をこなしていくことだけだ。
いつも通り昼食もそこそこに業務を続け、定時の鐘が鳴ると同時にオフィスを出た。何人かの視線を背後に感じたが、そんなもの気にした方が負けだ。歳を取って私が得たものの一つに、面の皮の厚さがある。厭味な視線の一つや二つなど、どうということはなかった。
幸い電車は空いていて、最寄り駅までほとんど立たずに済んだ。改札を降りると、既に夕闇が家々の屋根を飲み込んでいた。街灯には明かりが灯り始めている。
ステッキの助けを借りつつ、家路を進んだ。道には多くの人が行き来している。ネギの入ったビニール袋を提げた主婦、ゲラゲラと笑いながら歩く高校生の一団、亀のような足並みでゆっくりと飼い犬の散歩をする老人。
見慣れた街の、見慣れた風景。退屈するほど平和で穏やかな、夜の帳が降りる寸前の夕刻。
そんな風景の中に一瞬、妙なものが見えた。
バスケットボールほどの大きさの白い何か。それが物影から私を覗いている気がしたのだ。
一瞬、ひやりとした感覚が胸の底に落ちた。
勿論。気のせいに決まっている。仕事の疲れが溜まっているのだ。
毎日定時帰りの中年が、仕事疲れかよ。
自分の中で嘲るような笑いが響いた。頭を振って幻聴を掻き消すと、気を取り直して歩き出す。声は消えたが、視界の先の白い何かは徐々に近づいてきていた。いや、正確に言えば、私が距離を詰めているのだ。
あれが覗いている曲がり角が近づいてくる。
三十メートル。
十五メートル。
輪郭がはっきりしてくる。見まいと努めても、どうしても視界の端に入ってくる。
できることなら、目を閉じてしまいたい。
十メートル。
あと、もう五メートルほどしかない。
心臓が痛いほどに高鳴り、胸から飛び出そうになっていた。私は、まるで気がつかない風を装って通り過ぎた。わざと視線を正面に固定し、気持ち早足で通り過ぎる。知らぬ間に息を止めていたようで、通り過ぎると何度も深呼吸した。
大丈夫だ。何もいない。
あれはただの、幻だ。
暫く行ったところで恐る恐る振り向いたが、便所ブラシのように汚い猫が一匹鳴いているだけで、おかしなところは何もなかった。