第1話:普段通りの朝
ねぇ、あなたちょっと、康に甘すぎるんじゃあないの。
寝起きの淀んだ頭に、加奈のキンキン声は良く響いた。私の頭がからっぽのせいもあるだろうが、うわんうわんと頭の内側を跳ね回っている。
妻は白米を器によそうと、不愛想に私の前に置いた。
「もうこれ以上あの子を甘やかすのはやめて。そろそろ受験も考えなくちゃいけない時期なのよ」
「ん……まあ、今回のことと、頭の良し悪しは関係ないよ。大丈夫さ」
目をこすりながら椅子に腰かける。大きく開けた口から、間抜けな声とともに欠伸が出ていく。頭の中では先ほどのキンキン声が、まだうっすらとやまびこのように反響していた。
そんな私の姿を見て、加奈は腹立たしそうに鼻を鳴らした。
世間一般で言えば、高校二年生と言えば受験を意識し始める時期だ。早い内から備えておけば、康でもそこそこの大学には入れる。それが最近の彼女の口癖だった。
加奈はこちらに背を向けると、続いてベーコンを焼き始めた。菜箸を動かす手つきが荒々しい。ぼうっとテレビを見ていたら、今回ばかりは許すまいとばかりに厳しい声が飛んできた。
「今回に関してはそういう問題じゃ済まない。タバコよ、タバコ」
昨日の夜、仕事から帰って来ると見覚えのない男が二人客間で加奈と話し込んでいた。康のクラスの担任と学年主任だった。担任は痩せさらばえたロバのような男で、話すとその唇がぶるぶると震えた。
ロバは、その日康が校舎裏でタバコをふかしていたことを、まるで校内で殺人でも起きたかのような調子で話した。話の合間合間にでっぷりと肥えた鳩のような学年主任が、気でも違えたのかと思う勢いで首を縦に振って同意を示した。
確かに高校生でタバコはまずいが、いくら何でも大袈裟過ぎる。
「康はちゃんと分かってるよ。今回はきっちり指導が入ったみたいだし、次はないだろ」
「何であなたはそう良い加減なの。私たち親からもしっかり言っておかないと、あの子はまたやるかもしれない。あの子自身に問題はなくても、お友達に乗せられてしまうことだって充分考えられるわ。ここは父親であるあなたからガツンと……」
「親がいくら口出ししたって、子どもには鬱陶しいだけさ」
私の回答が頭にきたのか、それとも呆れて物も言えなくなったのか、加奈からそれ以上言葉は返ってこなかった。
支度を済ませて玄関で靴紐を結んでいると、二階から階段を下りてくる音が聞こえた。
「おはよう」
半分眠っているような声だ。欠伸が混じっている。
「昨日も遅かったのか、康」
「まさか。十一時にはもうベッド入ってたよ。朝早いのが辛いだけ」
いってらっしゃい、と残して、のそのそと居間へと入っていった。加奈がまた何か喚いているが、あの調子では馬耳東風だろう。
お気に入りのステッキを手に取る。杖の部分は深みのある茶色だが、柄の部分が鼈甲でしつらえてある。継ぎ目はゴールド調だ。生まれつき足が悪く、長い距離を移動する際はステッキを使う。毎日の通勤には欠かせない。
外に出ると、氷のように冷たい風が頬をなでた。トレンチコートの襟を立てて、歩き出す。十一月も末だから寒いは当たり前だが、二週間前は薄着一枚で過ごせていた分、冷え込みが激しく感じられる。それでも、駅までの道を歩く間に大分身体は温まった。