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第12話:相対

 会社からの帰り道、意を決してある人物に電話をかけた。耳元で呼び出し音が鳴る。四コール目で、相手が出た。


「どうした。飲みの誘いか」

 

 ミヨ子と話をさせて欲しい。そう切り出した私に、安城は一瞬言葉を詰まらせた。

「別に構わないが、何でだ」

 

 声に訝し気な色が混じった。馬鹿正直に理由を説明してもややこしくなるだけだ。旧知の友を前にして嘘をつくのは気が引けたが、真実を告げたところで誰が幸せになるわけでもない。

 慰謝料の件でね、と言葉を濁す。


「……分かった。後で連絡先を送る」


 寝取ろうなんて考えるんじゃねーぞ。笑えない冗談を残して、電話は切られた。



 翌日の午後六時半。駅前のファミリーレストランの扉を開けると、右奥のボックス席から手が上がるのが見えた。コーヒーを注文し席に腰を落ち着けると、彼女は愉快そうにふふと笑った。


「久しぶりね」


 私は応えなかった。

 右手で髪の毛をかき分け、ミヨ子はコーラフロートをすすった。味覚というのは年齢に応じて大きく変化していくものだが、彼女はそのルールの外にいるようだった。反面その仕草はいやに蠱惑的で、目のやり場がない。


 そういえば、と彼女は懐かし気に顔を緩めた。


「初めて食事に行った時のことを思い出すわ。貴方、食べ終わった途端にお会計とか言い出すんだもの。美味しいお店だったのに、余韻を楽しむ間もなかったわ。あれから少しは大人になったのかしら」


 思わず素直に応じてしまいそうになり、踏みとどまった。二言三言でもう彼女のペースに乗せられかけている。このゆったりとした独特のテンポに、どうも調子が狂わされる。

 しかし今日はそんなことも言っていられない。ウエイトレスがコーヒーを持ってきたタイミングで、一度会話が宙に浮いた。


 この機を逃す手はない。彼女が再び言葉を発する前に、私は口火を切った。


「この間の夜のこと、覚えているか」

「……突然何を言い出すの。話が飛び飛びになっていて分からないわ」

「とぼけるなよ。家の近くで会っただろう」

「ああ、その話ね。勿論覚えてる」


 つくづく、声音の作り方が上手い女だ。彼女を知らない者であれば、その裏に底なしの自己愛が潜んでいることなど一分たりとも嗅ぎ取れないだろう。

 街灯を背に立つ女のシルエットが、目の前に座るミヨ子と重なった。同時に、媚びた笑い声が、耳の底で響いた。


「私、神様が巡り合わせて下さったんだと本気で思った。でも、あの日の貴方はひどく具合が悪そうだったから、気を遣って帰ったのよ」


 おっとりと続ける彼女を遮るように私は言った。


「あれは偶然でも、神のいたずらでもない。必然だった。あの日でなくとも、いつかは出会っていた」

「何だかロマンチックね」

「そういう話じゃあない。はぐらかすな」

「何もはぐらかしてなんかないわ。あなたの気が立っているだけ」

「……」


 段々と苛立ってきた。しかしこちらが顔を真っ赤にして怒鳴ったところで、目の前の女には応えない。それこそ相手の思うつぼだ。


「何で気が立っているか、心当たりはないのか」

「んー……息子さんと何かあったとか?」


 皮肉を浴びせたつもりが、綺麗に意趣返しされてしまった。押し黙った私の顔を、さも心配そうに覗き込んでくる。


「あ、もしかしてアタリ?ごめんなさい。変な時にだけ当たるのよねえ、私の勘。気にしないで」


 嫌味も悪意もない、純粋な微笑み。口では謝っているが、本当は何が悪かったのか理解できていないのだろう。


 その時、入口で大きな笑い声が聞こえた。数秒ほどして、今度は叫び声のようなものが上がる。酔っ払いでも入ってきたのがと思ったが、若い男の団体客らしかった。甲高い声が耳に障る。


「うるさいわね。嫌になるわ、もう」


 ミヨ子はわざわざ声のした方を見やり、これ見よがしに鼻を鳴らしている。周囲の客も一様にしかめ面だ。

 確かに柄の良い連中ではないようだ。席ごしに頭だけがちらりと見えたが、汚く脱色した髪の毛が垣間見えた。騒ぎ声はそのまま店の奥へと移動していった。

 会話が途切れた。再び彼女の調子に乗せられるところだったが、神はまだこの小汚いオヤジを見捨てる気はないらしい。

 迂遠な言い回しでは効果はない。コーヒーで唇を湿らすと、単刀直入に本題に入った。


「はっきり言う。ここ暫く、家の周りをうろついてたろう。私のこともつけてたな」

「……」

「黙っても駄目だ。妻が昼間に君の姿を見てる。もう何度もだ」


 実際には加奈はミヨ子を知らないが、ストーカーは彼女で間違いないと私は確信していた。

 ミヨ子は不思議そうに首を傾げた。


「だから?」


 あまりに平然と言ってのけるので背筋がうすら寒くなったが、ここで気弱になってはまた言いくるめられる。膝の上で握る拳に力を込めた。


「良い加減にしないか。今はもうお互い伴侶がいる身だろう。軽々しくああいったことをするなと言ってるんだ」

「そんなに睨まないで。怖いわ。……確かに、何度かお家の前まで遊びに行ったわよ。でも何もしてないじゃない」

「何言ってるんだ。君のしていることはストーカーのそれだぞ。そもそも、どうやって家の場所を調べたんだ」


 別れて以来、転居先について彼女に知らせたことは一度もない。安城に聞いたのだろうか。だが私が安城だったら、結婚したばかりの妻に元夫の現住所を訊かれても素直に教えたりなんかしない。むしろ何かあるのではと勘繰るだろう。


 ミヨ子はにんまりと笑うと、再びストローに口をつけた。


「理屈じゃないのよ。私たち、分かちがたく結びついていたんだから。いや、今だってそうよ」

「何言ってる。今はもう、諸人がその相手だろう。私じゃない」

「……あの人とのことは、別にどうだって良いの」


 言葉の通り、その声音には底なしの無関心がこめられていた。呆然としている私に微笑みかけてくる。


「昔みたいに、こっちから貴方をあてどなく探すのには疲れたの。だから発想を変えて、貴方から探しにきてもらうことにした。昔から貴方とあの人、仲が良かったものね」


 暫く会わない間に、彼女は一層酷く歪んでしまったらしい。これでは安城が不憫だ。結婚を報告してきた彼の嬉しそうな顔が脳裏に浮かび、私は歯を食いしばった。


「そんな言い方をするのはやめろ。諸人は、君と結婚できたことを心底嬉しそうにしてた」


 だが私の言葉が響いた様子は全くない。


「いやね、気配りはしてるわ。本当は貴方の連絡先とか住所とか色々聞きたかったけど、流石に品がないものね。結局こうしてまた会えたんだし、もう良いけど」


 やはり住所は安城から聞き出したわけではなさそうだ。すると私の後をつけたのだろうか。それとも住所の書かれた手紙などを漁ったのだろうか。しかし、今更手紙なんて……。


 そこまで考えて、霧が晴れた。


「年賀状か」


 アイスクリームを口に含んでいたミヨ子の目が見開かれたのが分かった。氷だけになったグラスを名残惜しそうに見て、こちらに向き直る。


「やっぱり貴方って、私のこと何でも分かってるのね」


 どこか恍惚とした表情を浮かべている。


「やり直せそうね、私たち」


 とんでもない台詞が飛び出してきて、反応ができなかった。喉の奥から下水管が詰まったような音が漏れてくる。

 驚きの次に胸に去来したのは、怒りと悲しみだった。歪んだ価値観を振りかざし人の気持ちを踏みにじる。しかし、そこに悪意はない。あるのは純粋な欲望。混じりっ気のない、宝石のようにキラキラと輝く欲望。


「無理だ」


 数泊の後、私は断固とした口調で答えた。ミヨ子の表情は一瞬怪訝そうに眉根を寄せ、私の口にした言葉を完全に咀嚼し終えると、戸惑いが津波のように広がった。


「どうして。なら、どういうつもり?わざわざ二人で話そうなんて呼びつけて」

「謝罪と、お願いをしにきた」


 今まで、本当にすまなかった。


 そう言って、状況を飲み込めていないミヨ子の前に頭を下げた。八年前に家を飛び出して以来、彼女にこうして謝るのは初めてのことだった。


「会社をクビになって、お前たちに当たり散らして、……挙句あの事件だ。お前と……真希には、いくら謝っても謝り切れない。本当にすまない」


 私は頭を下げ続けた。ミヨ子から応じる言葉はない。


 コーヒーに、私の顔が映っている。都合の良い男。逃げ出した挙句、謝っただけで全てを清算しようと思っている自分勝手な男。その萎びた植物のような顔が、力なく首からぶら下がっている。口から、汚臭のする言葉たちがとめどなく溢れていく。


「もし不満があるなら、可能な限り沿うよう努力する。だから……だから、もう家の前には現れないでくれ。私を付け回すのも、やめてくれ。頼む」


 返事はなかった。周りのざわめきが、いやに大きく感じられる。


 生暖かい、べとついた汗が一筋、脇を滑り落ちた。


 恐る恐る顔を上げると、彼女の目は真っ赤になっていた。唇を引き絞り、頬が震えている。八年前、離婚をすると宣言した時と同じ顔だった。


「全て私の責任だ。だから……」

「ふざけるな」


 ひやりとした感覚が、胸の底に波紋を生んだ。彼女の瞳の奥で、得体の知れない何かが動いた気がした。


「ミヨ子……」

「いや。絶対にいや。ずっと、貴方を探してた。何年経っても良いから、会いたいって、その気持ちだけで今まできた。それがやっと出会えたのに……貴方が棄てたくせに。私たちを棄てたのは貴方じゃないの。てめぇが、棄てたんだろうが」


 語気のあまりの強さに、私はたじろいだ。周囲の耳目が集まっているのを感じる。


「落ち着けよ。何も離れ離れになるわけじゃない。近くに住んでいるのは変わらない」

「なら貴方のお家に遊びに行っても良いじゃない」

「家族がいる。妻と息子には何て説明したら良いんだ」

「本当の家族は私でしょ!後から出てきたそいつらの顔色ばかり窺って、棄てた私はどうなっても良いってわけ」


 まるで会話が成り立たない。

 目の前の女の顔は引きつったままだった。口元がぎゅっと寄って、梅干しのようになっている。あの固く引き絞られた唇が開かれたら……。聞くに堪えない金切り声が鼓膜を揺らして、頭には一生消えない痕が残るだろう。


 呼吸が荒くなる。それを悟られぬよう、生唾を飲み込んだ。

 彼女の顔はみるみる赤黒く変色していく。

 背に腹は代えられない。本当に、最後の手段として用意しておいた奥の手。根本解決にはなり得ないが、この場を糊塗する最善手。


 その奥の手を、私は使った。


「時々だったら……会っても良い。食事くらいだったら、付き合うよ」


 効果はてきめんだった。憑き物が落ちたように彼女は静かになった。玩具を買ってもらった駄々っ子のように、その顔には嘘のように笑顔が戻った。


 安堵の息をつくと、身体の力が抜けていくようだった。踏ん張っていないと、腰から崩れ落ちてしまいそうだ。その時になって初めて、私は自分が酷く緊張していたことに気づいた。


「その代わり、私の約束も守ってくれよ」


 彼女は先ほどとは打って変わって満面の笑みでこっくりと頷いた。

 それから暫く他愛のない話をしてから、私は勘定を済ませて先に店を出た。本当はすぐにその場を立ち去りたかったのだが、ミヨ子が休むことなく話し続けるせいで、席を立つタイミングを誤った。彼女は先ほどまでの態度が噓のように上機嫌になり、緩んだ唇からはこんこんと言葉が湧き出てきた。

 去り際についてこようとしたのを止めた時にはいささか不満げだったが、今しがた釘を刺したばかりなのだ。まさか、一日も経たぬ内に約束を反故にすることはあるまい。今日ばかりは彼女も真っ直ぐ家に帰るだろう。


 一呼吸置いて、歩き出す。


 正直、上手くいったと思った。確かにまた会う約束をしてしまったが、月に一度程度であれば問題はないだろう。ミヨ子もあれで伴侶を見つけた身だ。時が経てば、気持ちはきっと私から離れていく。暫くは視線にも悩まされることはない。



 だから、気のせいに違いないのだ。

 店を出る時、背後に視線を感じたのは。

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