いたいけなる花のこと
今は昔、帝に女御更衣数多さぶらいたまいける頃。平安の都に一人の女が住んでいた。
名を宗子。皇居外郭の警備を司る左兵衛府に勤務する左兵衛佐兼俊を兄に持つ空想好きな少女である。
○
『源氏物語』を読み終え、宗子は息を吐き出した。集中しすぎて最後の数行を読んでいる間は息を止めてしまっていたのだ。早く続きを読みたいが、兄が持ってきてくれるのを待つしかない。早く手に入れられますように。そう祈りながら文机から離れる。
簀子縁に出て外を見てみると、庭の桜が小さな蕾を膨らませているのが見えた。もうそろそろ咲くだろうか。それぞれの花弁は小さくとも、集まれば見事なものである。
きっと今年も綺麗ね。そう吐息と共に漏らすと、傍に控えていた女房が恭しく頷いた。いつまでも美しく咲いていればいいのに。どうして花は散ってしまうのだろう。幼い胸にそんな思いを抱きながら、宗子は桜を眺めた。
女房と春を詠う歌を何首か作っていると、邸に牛車の車輪が回る音が近付いてきた。そして、騒々しい足音が簀子縁に響き渡る。
「ただいまあっ!」
兄・兼俊が公務を終えて帰ってきたのである。真面目な兄は宮中でしっかりと職務をこなしている。しかし、そんな兄には一つ欠点があった。
「宗子ぃっ! お兄ちゃんが帰って来たよおっ!」
滑り込む勢いで駆けてきた兼俊が宗子の目の前で慌てて止まる。
「お帰りなさい兄上様」
「ただいま」
兼俊は異常と言っていいくらい宗子を溺愛しているのである。自らに届く恋文を読むことを忘れ、宗子への手紙を片っ端から破り捨てる勢いである。妹のためならば何でもできる気がするのだと兼俊は語る。頼まれたものは手に入れ、近付く虫を追い払い、手紙はこの手で選別するのだ。千年のちの世では兼俊のような者のことをシスコンと呼ぶ。
兼俊の宗子への愛はかねてよりからかいの対象であった。そして、宮中を歩く貴公子や女房達が兼俊へ向ける好奇の目は昨年の夏を境により一層増えたのだ。その頃、都にはとある怪異の話題が溢れていた。偶然怪異に遭遇した兼俊は一時有名になったのだが、それはまた別の話である。数か月後に友人の右兵衛佐定真も不思議な童を見たと言って注目の的となったため、仲良し二人がおかしくなったと皆に指を差されて笑われたのだ。しかしそれもまた別の話である。
兄は自らが遭遇した怪異について記し、一篇の物語を紡いだ。宗子しか読むことのできない秘密のお話である。宗子はしつこい兄のことを冷たくあしらうこともあるが、邸の外へ出ることの少ない自分のために兄が集めてくる物語や噂話が好きだった。
宗子の隣に腰を下ろした兼俊は、今日宮中で起こったことを話し始めた。兄妹が楽しげに会話するのを見て、女房は嬉しそうに微笑みながら退いた。
「ねえ兄上様、どうしてお花は散ってしまうの?」
小さな妹の疑問に兄は苦笑いを返した。かわいい妹に訊かれたことは何から何まで答えてあげたい。しかし、答えるべき答えが思いつかない。植物が芽を出し葉を広げ花を咲かせて散るのは当たり前のことなのだ。そう言ってしまったら妹の夢や希望を壊してしまわないだろうか。不安に苛まれる兄のことを宗子は不思議そうに見る。
「そ、そうだ、宗子。今度寺にでも行かないか。偉いお坊さんに訊いてみたらどうだろう」
「あら、兄上様はご存じないんですか」
宗子はからかうように笑うが、そんな嘲笑さえも兼俊にとってはかわいいものなのだ。顔をとろけさせる兄を見て宗子は更に顔を歪めるが、余計に兼俊を喜ばせてしまう。困った兄だ、と呆れて溜息をついた宗子を見て、兼俊はだらしなく笑い続けた。
後日、兄妹は牛車に揺られて寺へやって来た。物見窓から外を見て、宗子は「あはれ」と声を上げた。
「光源氏が若紫を見付けた山もこのような森だったのかしら」
「あれは北山だったかな」
「兄上様っ、わたくしもこのような森の中で待っていたら光源氏のような素敵な殿方に見初めてもらえるかしら!」
「あなや!?」
素っ頓狂な叫び声を上げた兼俊のことを宗子は驚いて見る。
「なっ、何、をっ、言って、言ってるんだ」
宗子の肩を掴み、兼俊は顔を近付ける。
「御前が光源氏のような男に誑かされるなんてお兄ちゃんは許しません。全力で叩き潰します。鞠のように蹴飛ばしてしまいます」
「兄上様怖い」
怯える姿すらかわいい。兄の思考が見えてしまうようで、宗子は体を震わせた。
若い男女が恋をするのは当然のことで、都ではいつも恋文が飛び回っている。相手を褒める歌、逢えないことを嘆く歌、面白かったことを伝える歌。歌は貴族の嗜みであり、想いを伝える大切な手段である。それを紙にしたためて、送り合うのだ。今はまだ少ないが、いずれ宗子の元にも大量の恋文が届いたり、垣間見に訪れる男が現れたりするだろう。兼俊による手紙の選別や周囲の監視が追いつかないほどに。
駄々をこねる幼子のように、兼俊は嫌だ嫌だと首を横に振った。
「私は許さないからなあ」
「兄上様も早くお相手をお探しになられた方がいいのでは」
「宗子より素敵な女子なんているわけないだろう」
いつになく真剣な顔をしてそんなことを言う兼俊を見て、宗子は柔らかな頬を膨らませた。
「もう! 兄上様ったら!」
しかし、やはりそれも兼俊にはかわいらしいと思われてしまうのだが。
ほどなくして牛車が停まり、牛飼童から声が掛けられた。二人は牛車から降り、草を踏みながら森を行く。すぐ目の前にそびえているのが目的の寺である。
門前に貴公子が三人立っているのが見えた。宮中の女達を騒がせるあてなるをのこな二人組、中納言業久と頭左大弁宣忠。そして、宣忠の親友である左中弁隆光であった。兼俊達に気が付いた宣忠が軽く手を上げる。
「左兵衛佐、奇遇だなこんなところで会うなんて」
「左大弁様」
「今日は右兵衛佐と一緒じゃないんだな。……その子は?」
「ああ、妹の……」
兼俊の背に隠れていた宗子はちらりと三人を見る。そして、業久を捉えた瞬間顔が真紅に染まった。兄の後ろから前に躍り出る。
「中納言様! わたくし、宗子です! わたくしが大きくなったら結婚してください!」
場が静まり返る。そして、閑散とした門前の森に兼俊の叫び声が響き渡った。葉がざわざわと音を立て、鳥が飛び立ち、小動物が逃げだした。
「なななななななな何を言っているんだ!」
「あら兄上様、だって中納言様はこんなに素敵な殿方なのよ」
「だからって……」
慌てふためく兼俊を見て業久は乾いた笑いを零した。
「安心しろ左兵衛佐、私には心に決めた者がいるからな。汝の妹などに手は出さぬ」
業久の目は下の者を見下すものだった。その冷たい雰囲気に惹かれる女子も一定数居るが、宗子はその中には入らないようだ。不服そうに長身の業久を見上げる。妹「など」と言われて兼俊もやや怪訝そうな顔になる。
険悪な状態になりそうだと判断した宣忠と隆光が兄妹と業久の間に割って入る。
「左兵衛佐、業久はこういうやつだから気にするな」
「中納言様、それくらいに」
雲居の満月が描かれた扇を広げ、業久はつまらなさそうに欠伸をする。宗子にも兼俊にも特に興味はないようだ。
三人で寺にやって来たのだと隆光は言う。この世界に仏の救済などないし、極楽浄土なども存在しない。日頃からそう語る業久に、僧の素晴らしい話でも聞かせようと宣忠が言い出したらしい。しかし、門前まで来てやはり帰ると踵を返したところに兼俊達がやって来たのだ。
左兵衛佐は何をしに? と隆光に訊ねられ、兼俊は桜の話を聞きに来たのだと答えた。
「花は美しいものなのに、どうして散ってしまうのかと妹に訊かれたのです。うまい返答が思いつかなかったので、僧に訊ねればよい答えをしてくれるかと」
「まあ花は散るもんだろ。人が死ぬのと同じ……」
「左大弁様っ!」
隆光が宣忠の口を押さえつける。幼子の夢と希望を打ち砕くのは感心できない。親友からの攻撃を受けてもがく宣忠を冷え切った目で眺めながら、業久が形の良い唇を動かした。
「桜は散るから美しいのだろう」
静かで小さな、凛とした声だった。皆の視線が業久に向けられる。
「散る花びらも綺麗なものだとは思わないか、小娘。確かに咲いている花は美しい。されど、同じ花がずっと咲いていればどうであろうか。他の花が咲く場所や時間がなくなってしまうだろう? 様々な花が咲いている様を見たいとは思わないか」
宗子は業久を見つめる。切れ長の目は宗子には向けられていない。お気に入りの扇を眺めている業久の瞳は、青瑪瑙のように美しいと小さな姫君は思った。やはり自分はこの男に魅せられているのだろう、と。
「私は桜が好きだ。蕾の時も、咲いている時も、散っている時も。時と共に移ろうから美しいのだ」
なるほど、と誰かが零した。業久は得意げに笑い、宗子の頭を撫でる。
「私の相手になりたいのであれば、私と同じように情趣を味わうことができるようになってから出直すことだな」
扇を畳み、業久は停めてある牛車の方へ歩いて行く。兼俊達が乗って来たものよりも豪奢な車体は、藤原北家の力を感じさせるものだ。
「風は感じるものだ。風の流れと書いて風流というのだから、風の流れを感じればいいんだよ」
そう言って、宣忠は業久の後を追う。
「では、私達はこれで」
牛車の横で手を振る宣忠に呼ばれ、隆光はそう言い残して二人の前から立ち去った。残された兄妹は豪奢な牛車が遠退いていくのを見送った。
桜がなぜ散るのか、という疑問には業久が答えを出してくれた。僧に訊かずともよくなったが、ここまで来たのだからお参りはしていこう。門をくぐろうとした兼俊だったが、動こうとしない宗子を見て立ち止まる。宗子は小さな手をぎゅっと握って、口を真っ直ぐに結んでいる。
悔しいのか、悲しいのか、宗子には分からなかった。目の前でおろおろとする兄の姿が、少しずつ水の向こうに消えていった。
牛車に揺られながら宗子は涙を零した。泣き出した妹を連れて寺に入るのを兼俊が躊躇ったため、門前から引き返したのだ。邸に戻ると、目を赤くした宗子を見て女房達が仰天した。
心配そうな兼俊を振り払い、宗子は自室に入る。
自分に自信があった? 違う。自分はまだまだお子様なのだから中納言が振り向くわけがない。でも、悔しかった。悲しかった。思っている以上に子ども扱いされた気がした。
そして、宗子の気持ちはやる気へと変わる。美しい女性になって、中納言に近付いてみせる。兄の制止を振り切って、彼の元へ行きたい。心に決めた人という女のことも負かしてやろう。幼い恋心は暴走する。
良い歌を作りたいと宗子は言った。想いを伝えるには歌が一番である。まだあきらめていないのかと兼俊は顔を顰めたが、大好きな妹の頼みを拒むことはできない。
「側室でもよいのです」
「そんなに好きか」
しかし、業久は心に決めたと語る妹背の仲の女性以外から送られる恋文は全て破り捨てることで有名な男である。丹精込めてしたためた妹の恋文が無碍にされれば、兼俊は宮中で出くわした時業久に殴り掛かるかもしれない。もしそうなれば、藤原北家の公卿を殴ったとして兼俊は皆に指を差され、足蹴にされ、政治の表舞台から抹消されるであろう。北家の内でも業久や宣忠の家系は何やら危ない噂があるのも事実である。二人は従兄弟だが、その叔母である雷の壺の更衣が中宮になることなく更衣に留まっているのも理由があるという。
兄の心配をよそに、宗子は業久に想いを伝えるための歌を詠んだ。ただ一目見ただけでこのように虜になってしまうのか。大切な妹がどこかへ行ってしまいそうだと嘆く兼俊の姿は宗子の目には入らない。『伊勢物語』や『源氏物語』を読みふけって来た少女は、若紫を見付けた時の光源氏のように業久をその目に捉えてしまった。何通も手紙を出した。しかし、返事は来ない。
寝ても覚めても業久のことばかり口にする宗子の元に、兼俊が新たな物語を紡いで持ってきた。病に憑りつかれたかのように筆を手にしていた宗子は、兄が作った物語を読んで久方ぶりの笑顔を見せた。
「宗子、いつか本当に御前の気に入った相手が現れたなら私は喜んで送り出す。私が気に入ったらだがな。されど、中納言様にこれ以上ご迷惑をかけてはいけないよ」
宗子は兄に向き直る。白と淡紅の薄花桜の襲が衣擦れの音を立てた。
「……わたくしはきっと恋をしてみたかったのです。中納言様は美しいお方でした。ですから、相手に相応しいと思ったのですわ。……ご迷惑になっているならば、もうやめにします」
兼俊が持って来た物語を手に、宗子は庭を見る。
「わたくし、光源氏になりたい!」
「は?」
「中納言様は始まりに過ぎないのです! わたくしはっ、これからたくさん恋をするのですっ! たくさんの殿方にたくさん文を送ります。素敵です! 大好きなお話の主人公と一緒です!」
簀子縁から響き渡る兼俊の叫び声に邸中の使用人達が振り向き、駆け付ける。そこには恍惚とした表情を浮かべる宗子と、真っ青になり頭を抱える兼俊の姿があった。
今まで読ませてきた物語は選出間違えだっただろうかと苦悶の表情になる兼俊だったが、宗子は庭の桜を見つめていて兄のことなど気にしていない。
「移ろいゆくから美しい。わたくしのことも時の流れが美しくしてくださるでしょう。そう、いずれ女光源氏と呼ばれるのです!」
『伊勢物語』を読んで恋愛の復習をしておきましょう。と言いだす始末である。兼俊はのたうち回るように声にならない叫び声を上げて転がった。
妹のことが大好きな兄は、妹のために面白い話を集めた。その物語は妹を空想の世界へ連れて行き、恋多き主人公に憧れさせてしまった。光源氏に恋をするのであればまだ許せる、しかし、自らが光源氏になろうなどと言う発言は兄にとって大きな傷を残すこととなったのである。
まだ見ぬ数多の男達を思い描きながら、宗子は兼俊が紡いだ物語を手に取る。絶望に打ちひしがれる兄を前に妹が見せたのは愛らしい笑顔であった。兄が作る物語は大好きなのだ。しかし、その笑顔は倒れている兼俊には見えていない。
庭の桜が咲いていた。
幼い少女のまだ始まらない恋を乗せて、小さな花弁が地面に舞い下りる。