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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
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3 利布


 川を渡ってしばらくすると、さやさやと、シグルの葉が擦れる音が耳を撫でた。この音を聞くといつも、ああ、帰ってきたんだなと実感する。


「お、だいぶ緑が濃くなったなあ」


 馬に乗ったまま隣に並んだ男を、矢己しきは見上げた。自分より頭一つ分背が高く、腕も胸も、矢己よりだいぶ逞しい。日に焼けた茶色の短い髪と、人好きのする黒い瞳を持つ男は、その名前を途斗ととという。


「今年は、いつもより収穫が早くなりそうだな」

「ああ……」


 途斗が顎で示したほうを見て、「そうなるだろうな」と矢己は呟く。

 緩やかに流れるラングル川に沿って広がるシグルの畑は、旅立った時に比べてかなり緑が濃くなっていた。


「今年はラングルが溢れたからなあ」


 途斗は眩しそうに、遠景に広がる緑を眺める。

 矢己がシグルの畑から途斗の横顔に目を移すと、途斗はこちらを見てにやっと笑った。


「帰って早々、忙しくなるぞ」


 初めから返事は期待していないのか、途斗は言うだけ言うと、馬の腹を蹴った。矢己も手綱を握り直し、途斗の後に続く。

 ラングルが流れてくる先、シグルの畑の向こうに利布の村がある。久々に見える家々はまだ視界に小さいが、駆けて行くほどもう子供でもない。

 さやさや、さやさやと、シグルが鳴る。

 半月ぶりの故郷が、矢己を呼んでいた。




     *    *    *




「ただいま」

「ああ矢己。おかえり」


 帰ってきた矢己しきを迎えたのは母の真尾良まおらだった。身長は矢己がとうに追い越しているが、全体的な肉付きは真尾良のほうがふくよかだ。

 久しぶりに帰った息子に、真尾良は作業する手を止めて、少し日焼けしたその顔を見た。


「どうだった。途斗に迷惑かけなかったかい?」

「たぶん。布も全部売れたよ。やっぱり城下は違う」

「そりゃよかった」


 矢己は肩に背負っていた荷物を下ろし、さばけなかった糸と、売れた布のお代、交換した品々を真尾良の前に並べた。真尾良は広げられた品々を検分してから、お代の硬貨を五枚取ると矢己に握らせた。


「いいよ、いらない」

「取っときな。手間賃だよ」


 返そうとする矢己に手を振り、真尾良は矢己が広げた品をそれぞれあるべき場所にしまっていく。


「ついでなんだから手間なんてかかってないけど」

「いちいちうるさいね。あげるって言ってんだからもらっとけばいいんだよ。好きな子に髪飾りでも買おうとした時に、金がなきゃ困るだろ」

「困らないよ、そんな子いないし」

「いないのかい?」


 真尾良が信じられないという顔を向けた。


「そんな歳にもなって……ま、これからできるかもしれないだろ」


 頑としてやると言う母に、矢己もここまでにして腕を引っ込めた。


「こっちは。変わったことは?」

「いつもよりシグルの成長がいい」

「それは帰ってくる時に見えた」

「ジイロの乳の出が悪いね」


 飼っているヤギの名前だった。搾った乳をそのまま飲むのはもちろん、酒やチーズを作ったりもする。ここの暮らしでの貴重な栄養源だ。


「もう歳なのかもしれないね」

「父さんと續己は?」

「あいかわらずだよ」


 真尾良の返事は早くて簡潔だ。

 以前は父親のものだった使い込んだ外套を脱ぎながら、矢己はもうひとつ質問した。


朱夏しゅかは」

「大人しかったね」


 その答えは意外だった。

 そう思ったのが表情に出ていたのか、真尾良が肩をすくめた。


途斗ととがいなかったからだろ。今頃、とっつかまえてるんじゃないかい?」

「帰ったばかりなのに」

「あの子には関係ないだろ」


 矢己はため息をついた。


「母さんは、何で止めないの?」

「止めて聞くような子かね。他のことは聞きわけがいいのに、あれだけは譲らないからね。あたしだって、いいと思ってるわけじゃない。……貸しな。干しとくから」


 手を差し出した真尾良に、脱いだ外套を預ける。


「朱夏、どこにいる?」

「あんたたちが帰ってきたことをまだ知らないなら、紡ぎ場じゃないかね。最近は子守りしてることが多いから」

「子守り? 朱夏が?」

「あたしも最近知ったんだけどね、あの子、赤ん坊を泣き止ませる才能があるんだよ」


 真尾良の言葉に矢己は片方の眉を上げた。

 朱夏とはもう四年以上一緒にいるが、それは初耳だ。「泣き止ませる」ではなく「黙らせる」というならば、すんなり信じられるのだが。



 紡ぎ場に行くと、村の女たちが持ち寄った椅子や地べたに座って思い思いの作業をしていた。紡ぎ場と呼んではいるが、実際は簡単な日差し避けの屋根があるだけの解放的な空間だ。糸を紡ぐ時はもちろん、服を繕う時もおしゃべりする時も女たちはここに集まる。今も、糸を紡いでいる女は一人もいない。そもそも、その季節ではない。一人は籠を編み、一人は豆の皮を剥いている。おしゃべりをしている二人の女の足元では、小さな子供が泥団子を作って遊んでいた。


 そんな光景の中に、朱夏しゅかもいた。どうやらまだ矢己しき途斗ととの帰着を知らなかったようだ。その腕は、泣いている赤ん坊を抱いている。そして、歌っていた。

 優しい声だった。赤ん坊を見つめる目も柔らかい。ゆっくり左右に揺らしながら、歌を紡いでいる。耳慣れない歌だった。だが、どこか懐かしい感じのする調べだ。泣いていた赤ん坊の声が、次第に小さくなっていく。


 腕の中の赤ん坊が完全に泣き止んだのを確認して、朱夏は歌うのをやめ、屋根の梁から紐で吊るした籠に赤ん坊を寝かせた。

 少しぐずりそうになったが、紐を引っ張ってゆっくりと籠を揺らすと、赤ん坊はやがてすやすやと寝息をたて始めた。

 そばで籠を編んでいた赤ん坊の母親が口を開く。


「ありがとうね。本当に、朱夏の歌はよくきくねえ」

「赤子じゃなくても気持ちが落ち着くよ。なあんか、聴いてると手の動きもゆっくりになっちまうんだよね」


 返事も頷きもしなかったが、朱夏は微笑んだ。

 その時、豆を剥き終えた女が矢己に気がついた。


「あれ、矢己じゃない。いつ帰ってきたの」

「さっき」


 赤ん坊の眠る籠から手を離した朱夏がこちらを見る。


「途斗は?」


 さっきまで赤子に向けていた表情はどこへやら、その気配が急に硬くなった。

 予想したとおりの朱夏の反応に、矢己はため息をつく。


「少しはゆっくりさせてやれよ」

茗野めいのにはもう了解を取ってあるもの」


 朱夏は言い置くと、約半月ぶりの矢己にねぎらいの言葉一つかけることもなく、紡ぎ場から去っていった。

 赤ん坊の母親が矢己を呼んだ。


「まだあの子、あきらめてないのかい?」


 その質問に矢己は肩をすくめる。見てのとおりという意味だ。


「止めてあげなよ」


 言ったのは別の女だ。その言葉を、矢己はここ数年何度も聞いている。そして矢己の答えも一緒だ。


「何度も止めてるよ。でも、俺が言ってもきかない」

「きかなくても、止めるんだよ。じゃなきゃ、いつか本当に大怪我するよ」

「わかってる」


 でも、矢己にはどうしたら朱夏が止まるのかわからないのだ。

 女たちに急かされるまでもなく、矢己は途斗の家に向かった。途斗の家は紡ぎ場からそう遠くない。案の定、家の前には朱夏と途斗、そして途斗の妻の茗野がいた。途斗の表情は明らかに面倒くさがっている。


「ったく、夫婦水入らずの再会を邪魔すんなよ」

「出かける前に言ったでしょ。帰ってきたら勝負だって」

「お前が勝手に言ってただけだろう」


 途斗が旅で埃っぽくなった短髪をがしがしかくと、横の茗野が笑った。途斗と同じ髪の色をした、頬にそばかすのある美人だ。


「まあ、勝負くらいしてあげてもいいでしょ。勝つ自信がないなら別だけど?」


 途斗が「お前なぁ」と茗野を軽く睨む。それを受け流して茗野は朱夏に言った。


「いいよ朱夏。連れて行きな」

「ありがとう」


 茗野がそう言えば、途斗は逆らえない。似合いの夫婦と言われているこの二人の力関係ははっきりしている。


「ほら、早く」


 茗野の後押しもあり、朱夏はおかまいなしに途斗の服を引っ張った。


「お前こら……ちっ、一回だけだからな。ちょっとはこっちの都合も考えろってんだ」


 ぶつぶつ言いながらも、朱夏に引っ張られるまま、途斗は茗野の隣を離れていく。


「勝ったら認めてくれるって、条件出したのは途斗のほうだからね」

「くそっ、機会は年に一回って言っときゃよかったぜ」

「一回だろうが十回だろうが、認めてくれるまで続くんだから」

「ほんっと、あきらめの悪いやつだな……」


 あーあと首を反らせた途斗と、目が合った。

 茗野とともに二人の後ろを歩いていた矢己は、その表情を見て複雑な気持ちになる。

 途斗の顔は、朱夏に見せていたどの表情とも違っていた。そしてそれに対して矢己が返せるものは、あきらめと戸惑いが混じった、微妙な苦笑だけだった。



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