2-3
小さな二人が持っている選択肢は、そう多くなかった。
隠れるにしろ、村に留まっているのは危険すぎる。
矢己が星を見ていた丘の上か、南の岩場か。馬がいればもう少し遠く――草原の只中に暮らす民を頼って行けたが、村にいる老いた馬に乗るよりは、自分の足で走ったほうが速い。第一、その馬だって多くが炎に怯えてすでに逃げてしまっていた。
朱夏は岩場を選んだ。
たどり着くまでに見つかれば逃げ場はないが、無事着くことができれば、隠れる場所はいくらでもある。村があんな有様になっている中で、シッダのことも気になった。
永遠にたどり着かないかと思った。いくら走っても、岩場が見えてこない。暗闇で距離感がわからないというのもあるが、いつあの大きな影が追ってくるのかと思うと、後ろを振り返りながら何度も背筋が寒くなった。それでも、矢己の手は絶対に離さなかった。
岩場にたどり着くと、そこには先客がいた。隠れる場所を探そうと岩場を南側へ歩いていくと、先の岩壁の一部が、ほのかに明るかったのだ。
こっそり岩場を上り、陰から明かりのほうを見下ろすと、男の二人組だった。だが村の人じゃない。むしろ格好は、村に入って乱暴を働いている男たちと同じだった。
すぐに逃げたほうがいいか迷った。でも、他に逃げる場所が思いつかない。紅里の草原には、ここと同じような岩場が他にもある。だが距離がある上に、暗闇の中、水も体を温めるものも持たずに草原を歩くのは危険だ。
しばらく様子を見ていると、村で縦横無尽に馬を駆り剣を振り回していた男たちと、目下の二人組は少し雰囲気が違っていた。
背が低いほうが蹴った石が、大きな岩に当たって砕ける。
「何にもねえじゃんか。クソっ」
「これならあの村で家ん中漁ったほうがまだましだったかな」
忌々しげに吐き捨てた男に対して、細身で背が高いほうは少し落ち着いていた。
「何してるんだろう」
「わかんない……」
声を潜めて、朱夏と矢己は男たちの様子を見守った。
「しっかし、やることが容赦ないよな。こっちにまで燃えてるのがよく見えるぜ」
「まあ、見せしめのようなものだからな。派手なほうがいいんだろ」
村のことだというのはすぐにわかった。他人事のように言った二人に、一瞬で体がかっと熱くなる。
「朱夏」
名前を呼ばれ、服の裾を掴まれる。落ち着けという意味だとはわかったが、噛みしめた歯が小さな音を立てた。
「おっと」
男の声の調子が変わったことに、目を戻す。すると。
「ヒョウか?」
「模様がないけど……」
男たちの視線の先にいるのはシッダだった。
「シッダ!」
「朱夏、駄目だ。絶対駄目」
立ち上がりかけたところを後ろから矢己に羽交い絞めにされ、口を塞がれる。
男たちは警戒して距離を取るシッダに、物珍しそうな目線を送った。
「こりゃ、毛皮でも剥ぎゃ売れるかな」
「ここで剥ぐのか? だいぶ手間だぞ?」
「死体ごと持って帰りゃいい。肉は食えるだろ? ここまで来て何の収穫もないのも癪だろうが」
(こいつら……!)
口を覆う矢己の手をはがそうと、朱夏は暴れた。
「離してよ!」
「騒いじゃ駄目だって。気付かれる!」
「でもシッダが……」
シッダまで、こんなやつらに殺されるなんてまっぴらだった。
出て行こうとする朱夏とそれを止める矢己が岩陰で争っていると、聞いたことのない高い鳴き声がした。
矢己の腕を振り解き、身を乗り出して視線をやると、シッダの毛並み――後ろ足の付け根のあたりが汚れていた。いつの間にか男二人は剣を抜いていた。斬られたのだ。
「シッ……!」
叫びそうになった口を、再度矢己が慌てて両手で押さえた。声は少し漏れたが、手負いの獣を前にした二人には届かなかったようだ。
「いってぇ! この……!」
背の低いほうも血を流していた。左腕の肘から下に赤い線が走っている。シッダが爪で引き裂いたのだろう。
しかし、二人が腰を落とし剣を構えたところで、耳慣れない低い音があたりに響いた。同じ間隔で、三回。どうやら村のほうから聞こえてくるようだった。
朱夏と矢己が顔を見合わせると、背の高いほうが口を開いた。
「おい、引き上げの合図だ」
「でもこいつが……」
「戻らなきゃまずい」
「…………」
「収穫があったんならともかく、手ぶらで帰って罰まで受けるとなりゃ、いいことなしだぞ。俺は戻るからな」
背の高いほうが剣を納めると、もう一人もつばを吐いて構えを解いた。
「くそっ……」
怪我したほうの男はまだ未練がありそうだったが、結局は馬に跨り、二人して村のほうへ駆けていった。
朱夏は矢己の腕から抜け出すと、シッダの姿を探した。男たちが離れていくのと同時に、シッダも岩場の中に消えていた。
明かりを持っていない二人が一度見失ったシッダを探すのは一苦労だったが、しばらくすると、狭い岩の隙間に、その息遣いをとらえた。大人には無理かもしれないが、子供なら入れる隙間だ。覗くと、暗闇の中で二つの目が光った。
「いた! シッダ!」
朱夏は安堵の声を上げたがしかし、そこで、信じられないことが起きた。シッダが激しく唸ったのだ。
「待って」
後ろから、矢己に肩を引かれる。隙間から月の光が入り、シッダの顔が見えた。その顔に、思わずかける言葉が出なかった。
シッダは、こちらに向かって牙を剥き出しにしていた。
こんな顔は見たことがない。これは、本気で怒っている顔だ。息が荒い。鼻に深い皺を寄せ、牙を見せ、唸っている。
「警戒してる」
「でも、手当てしなきゃ。血が出てる。足を斬られてた」
「今触ろうとしたら、きっと噛まれる」
「…………」
「大丈夫だよ、野生の動物は強いから」
それは、矢己自身、自分に言い聞かせているような口調だった。
シッダの様子がすぐにはやわらがないのを見て、朱夏もあきらめて待つことにした。シッダがいる岩の隙間からは距離を取り、でも出入り口は見える場所に矢己と座ってじっと待った。
怪我したのは後ろ足だ。命に別状はないはず。お腹の子も、きっと大丈夫なはず。
今は傷つけられて、人間の姿に敏感になっているだけだ。時間が経てば落ち着いて、朱夏のこともわかって、手当てをさせてくれる。
膝を抱え、岩の裂け目をじっと見つめて、一言も喋らずに朱夏は待った。矢己も朱夏の隣に座ったが、朱夏とは別のほうを向いて、誰か来ないかを見張っていた。
眠くはならなかった。それどころか目は冴えていた。寒いはずの夜の草原の風も、まったく気にならなかった。
「朱夏」
名前を呼ばれたのは、まだそう時間の経っていない時だった。返事もせずに、目だけを矢己のほうへ動かした。
「変だ……。空が、明るい」
矢己の言葉に、朱夏も顔を上げた。
確かに、この時間にしては異様な明るさだった。村の火は岩場からも見えていたが、こんなに空を染めてはいなかったはず。
矢己が立ち上がり、朱夏もそれに続いた。
二人が背にしていた岩から向こうを覗く。
すると、信じられない光景がそこにあった。
「燃えてる……」
呟いたのは、矢己だった。
草原が、燃えていた。
夜の帳を引き裂くように、橙の炎が地平に沿って真横に走っていた。村から東のほうへ炎が広がっている。
「あいつらが燃やしたの……? あいつらが、火を点けたの?」
「わからない……ただ、風に乗って、火が移ったのかもしれないし……でも、本当に火を点けたのかも……」
答えた矢己も、呆然としていた。
幸い、風は西から東に吹いている。村から南に位置しているこの岩場には、そうすぐ炎が伸びてくることはないだろう。
だが、問題はそういうことではない。
「何で……何のために……」
どうしてこんなことをするのか。
紅里の風が吹いている。
風は、大地を舐める炎をじわじわと広げていく。
シッダと駆けた草原が。
みんながいた平和な村が。
すべて――燃えていく。
「どうして……」
両目から、また涙が溢れていた。
ただ呆然としていた。
そうすることしか、できなかった。
その触手を伸ばしていく炎をじっと見つめながら、朱夏は一睡もせずに夜を明かした。矢己は何も言わないまま、ただ隣に座って、同じように燃える草原を見つめていた。
夜明け近くになり風が弱くなり、さらに東から西に風向きが変わると、燃やすものがなくなった炎は勢いを弱め、次第に小さくなっていった。
迎えた翌朝、太陽は変わらず顔を出した。しかし、その光が照らしたのは、黄色に輝く草原ではなく、炎に焼き尽くされ、黒く焼け焦げた大地だった。光の下露わになった光景は、昨日までとは違いすぎた。
先に立ち上がったのは矢己だった。シッダを見てくると言われ、朱夏も重い体を引きずって岩を下りた。
しかし、矢己の後ろから岩の隙間を覗くと、そこにはがらんどうの狭い穴があるだけだった。岩の上に血の跡だけを残して、シッダの姿は消えていた。