表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
6/55

2-2


その視界が、急にぶれる。


「立って!」


 後ろから引っ張られて、首ががくんと折れた。そのまま男とは反対側に引きずられる。引っ張っているのは矢己だった。


「矢己……」

「いいから立って!」


 その必死な形相につられて、膝を立てた。

 矢己が引っ張るまま駆け出した背中に、「無駄だ」という男の声が聞こえた。

 男は走らなかった。子供二人すぐにどうにでもなると思っているのか、走る二人が辿る道を悠然と歩いてくる。

 矢己は朱夏の家まで行くと、すでに半分ほどが焼け落ちた中に躊躇うことなく突っこもうとした。


「危ないよ!」

「待ってて!」


 止めるのもきかず、火の粉の舞う家の中に駆け込んだ矢己は、すぐに出てきた。その手には、自分の弓矢を持っていた。


「何するの?!」

「どうにかしなきゃ!」


 そう言う相手は、すでに二人の近くまで距離をつめていた。すでに矢を射る距離ではない。

 それでも弓を引き絞った矢己を見て、男の足は止まった。が、すぐに思い直したようだ。


「子供の腕で引く弓に、どれだけの威力がある」


 男が再び足を進めようとした、その時。

 矢己が放った矢が、正確に男の右目を射た。

 顔の半分を押さえ、二、三歩後ずさった男が、唸った。


「こ、の…! 餓鬼がぁ!」


 顔を上げた男に、矢己の肩が震えた。次の矢は、男を反れて飛んでいった。

 一気に距離をつめた男の剣に、弓をたたっ斬られる。矢己の体も吹っ飛んだ。


「矢己!」


 男は血だらけになった顔を歪めながら、倒れた矢己に近付く。このままでは、矢己が殺される。

 必死だった。地面に散らばった矢を掴むと、飛びつくように男の膝に突き立てた。


「ぐぁっ!」


 狙いも定めず振り回された剣が、額をかすめる。朱夏が尻餅をつくのと入れ替わりに、起き上がった矢己が男の膝に突進した。さすがの男もよろめく。勢いのまま押した男の背が、炎を纏った家にぶつかる。男の腕を逃れ、矢己が飛び離れる。その直後だった。矢己の鼻先、男の頭上に、燃えさかった屋根が崩れ落ちた。


「ああーーっ!」


 炎に包まれた男がのたうち回る。

 目の前の惨事に、二人とも顔は真っ青になっていた。


 先に立ち直ったのは、矢己だった。


「行こう」

「でも」

「早く。逃げるのが先だ」


 炎に包まれて叫ぶ男を置いて、支えあうようにしてその場を離れたが、少しもしないうちに朱夏は矢己が向かう先に抗った。


「待って!」

「何?!」

「お母さんが」

「だから……!」

「気を失ってるだけかもしれないし! 置いてけない!」


 矢己はもう何も言わなかった。駆け出した朱夏の後を、黙って追いかける。

 朋朱が倒れている場所に戻って、朱夏がその体を仰向けにすると、朋朱はかすかに呻いた。まだ生きていた。ただ、その顎から喉、胸のあたりは真っ赤になっていた。血だ。


「お母さん……」


 赤いところが多すぎて、どこを押さえればいいのかわからない。でも血は止めなくちゃいけない。朱夏は咄嗟に、赤く染まった服が破けている左の胸のあたりを押さえた。

 朋朱が咳き込む。


「朱夏……まだいたの……? はや、く……」

「お母さん、どこが痛い? どうしたらいい?」


 血が止まらない。朱夏の両手はすぐに真っ赤になった。


「ごめんね……」

「お母さん……!」

「弟……楽しみにしてたのにねぇ……」


 なぜか朋朱は、そんなことを言った。自分の命の火が消えかけているというのに、うっすら微笑みさえして。


「そんなのいいよ! もう……弟なんていらないから! ねえ!」

「朱夏……」


 口は動いていたが、何と言ったのかはわからなかった。


「待って、聞こえないよ。お母さん、待って……」


(このままじゃだめ。このままじゃ……)


 それはわかっているのに、どうすればいいのかがわからなかった。ただ傷口を押さえていると、震える朋朱の手がゆっくりと伸びてきた。

 その人差し指が、頬に当たる。


「おかあさん……?」


 その口は、何かを呟きながら。

 朱夏を見つめる瞳は優しかった。

 だが、触れていた指はするりと頬を滑り、力を失った腕が落ちる。


「待って……待ってよ」


 朱夏の引き止めもむなしく、朋朱は口元に微笑みを残しながら、ゆっくりと、その瞼を閉じた。


「おかあさん……」


 体を揺さぶったが、朋朱はもう自ら動くことはなかった。


「お母さん、お母さん……!」


 されるがままに朋朱の体は揺れ、体の上にかかっていた腕が地面に落ちた。

 温かいのに。笑っているのに。朋朱は何度呼びかけても目を開けてくれない。


「お父さん!」


 もう一人の大事な存在を呼ぶ。

 公衛が母のそばにいないわけがない。きっと逃げる時にはぐれたのだろう。でも、近くにいるはずだ。きっと、自分たちを探している。公衛が来れば、何とかしてくれる。朋朱の目も覚めるかもしれない。


「お父さんどこ?! お母さんが……!」

「……朱夏」


 押し殺すような低い声を発したのが矢己だとは、はじめわからなかった。ただ声が聞こえたほうを振り返ると、そこにいたのが矢己だった。


「矢己……お父さん知らない?」


 矢己は答えなかった。


「ねえ、お父さん……」

「朱夏、もう行こう」

「何言ってるの? だめだよ」


 矢己の眉がぐっと寄った。

 朱夏の顔から、未だに朋朱の胸を押さえている真っ赤に染まった両手を見つめると、また真っ直ぐに朱夏を見た。再び同じ言葉を繰り返す。


「行こう」

「やだ」

「…………」

「やだってば!」


 激しく首を振ると、両目からぼたぼたと涙が溢れた。離れたくない。


「おじさんは……あそこにいる」


 矢己のその言葉に、はっと顔が強張った。


(あそこにいる?)


 いるのなら、何でここに来てくれないのか。朋朱が倒れていて、朱夏も怪我していて、こんなに大変な状況なのに。いつもの公衛なら、何を置いてもすぐに駆けつけるはずなのに。

 矢己が指差した先には、燃え崩れる家があった。そして、朱夏の家よりも少し大きなその陰から、伸びた上半身が見えた。両腕を頭上に伸ばし、額は地面についている。さっきまでは気付かなかった。でも、顔を見なくてもわかった。あれは、公衛が来ていた服だ。公衛の頭だ。体は動かない。ということはつまり、公衛も――。


「朱夏、逃げよう」

「やだ……」


 伸びた上半身から目をそらして、弱々しく首を振った。


「ねえ……」

「やだってば」

「朱夏」

「やだ!」


 矢己に完全に背を向けると、目を開けない朋朱の顔が再び視界に入った。

 ――何でこんなことに。

 ――誰がこんなことを。

 立ち去る気配のない矢己に言葉を投げる。


「行かない」

「……だめだよ」

「ほっといて」

「ここにいたら殺される」


 さっきの男は、もう追いかけては来ないだろう。

 でも、村にはまだ、たくさんの兵士がいる。

 もし、見つかれば。

 いや、それでも――。


「……それでもいい」

「朱夏」

「うるさい! あんただけ逃げればいいでしょ」

「そんなのできな」

「いいから行ってよ!」

「しゅ……」

「うるさいってば! あっちに……」

「……」

「あっちに行っ」

「お願いだから!!」



 自分を凌ぐ怒鳴り声に、思わず口をつぐんだ。

 ゆっくりと顔を上げて、そばに立つ矢己も泣いていることに、朱夏はその時初めて気がついた。


「お願いだから……言うこと聞けよ!」


 炎が照らした頬で、幾筋もの涙の跡が光っていた。体の横で強く握った拳は、細かく震えている。その拳の隙間から、血が垂れていた。矢己はいつ、怪我をしたのだろう。


「…………」


 離れたくはなかった。そばにいたかった。けれどその時朱夏は、そうしなければならないと思った。涙を流している矢己を見て、考えるより先に体が動いていた。

 腕で乱暴に顔を擦ると、立ち上がり、矢己の手を取った。

 矢己は小さく身じろぎしたが、次第に拳の力は抜けていった。その手を開かせると、尋ねた。


「怪我したの?」

「……え?」


 矢己はぽかんと口を開けた。炎に照らされた左側の頬に、涙の跡がはっきりと見えた。

 血の滲んだ手のひらに、傷はなかった。ならば別のところかと上半身に目を走らせると、肩口が赤黒く染まっていた。

 朱夏の視線が辿り着いた場所を悟って、矢己が首を振る。


「これくらい、大丈夫だから」


 それは強がりだと思ったが、今は追及しないことにした。それより先に、しなければならないことがある。

 朱夏は怪我をしていないほうの矢己の手を握った。斬られた自分の腕に痛みが走ったが、手は離さなかった。


「……行こう」


 行かなきゃいけない。

 矢己を、連れて行かなきゃ。

 朱夏が口にした言葉に、矢己は一瞬呆然としていた。しかし握った手に力を込めると、我に返ったように 瞬きをした。頬の涙を拭うと、再び顔を上げた時には、朱夏が握っていた手に、矢己のほうからも力が込められた。

 朱夏はもう一度だけ、地面に横たわる朋朱の顔に目を落とし、上半身だけが見える公衛に顔を向けた。

 唇を噛みしめる。そうしないと、いつまで経っても悲しみに支配されそうだった。

 

「行こう」


 朱夏は自分に決意させるようにもう一度繰り返すと、矢己の手を握ったまま、燃えさかる村から走り出した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ