2-7
「うっ……!」
足が浮き、そのまま地面に叩きつけられる。
息が詰まる。痛みにめまいがする。それでも目を開けようとしたのは、下央の教えが染みついていたからか。
目に入った剣の切っ先を、地面を転がって避ける。地面に突き立てられた剣に一房髪を持っていかれた。
立ち上がると同時に咳き込んで、喉を通った空気で変な音が鳴った。
剣を避けてふらつく。膝が折れるが、後ろに倒れるのは何とかこらえて、目の前にあった脛に剣を薙いだ。しかし脛当てをかすっただけで、そこに血は滲まない。逆にその足で頭を蹴られた。手から剣が離れ、再び地面に倒れる。目が痛い。
何で戦ってるのか。こんなにぼろぼろになって。朱夏自身にタイゴの戦士と戦う理由などないのに。
でも逃げたところで追いつかれるのだから、戦うしかない。でなければ殺される。自分はタイゴの戦士を、戦というものを、甘く見ていたのかもしれない。
体中が痛い。傷の上からさらに傷ができ、そこに土が入り、えぐられる。
でも、戦うしかない。戦士にとって朱夏は、宋重の兵士なのだ。
殺さなければ、殺される。
起き上がると地面に手をついた低い姿勢のまま、戦士の膝裏を蹴る。一度じゃ倒れないと踏んで、すぐに軸足を変えて同じ場所に回し蹴りを入れる。
かくんと折れた戦士の膝にすかさず体当たりし、その体を倒す。
が、剣がなかった。蹴られた時に落としたままだ。
次の行動を迷ったその一瞬のうちに引き剥がされ、逆に地面に叩きつけられる。
戦士が立ち上がる姿を見ながら、朱夏は頭を切り替えた。
戦士には向かわず、落ちていた剣を掴むと走った。
このまま戦っていてもだめだ。何か策を考えないと。
利用できるもの。ここで使えるものは。
持っているのは剣しかない。それだけじゃだめだ。でもそれ以外何もない。
肩越しに振り返る。戦士は追ってきている。
「あっ」
何かに躓いて、体が前に投げ出された。
足で着地するがこらえきれず、倒れて肘から下を擦りむく。
すぐに立ち上がろうとしたがその時、目の前のものが目に入った。
どこにでもあるもの。普段なら気にも留めずに通り過ぎるもの。
でも、今なぜかそれが視界に入ったことが、何かを暗示しているように思えた。
(……使えるかもしれない)
立ち上がった頃には、タイゴの戦士が追いついてきていた。
振り返った朱夏を見た戦士の口角は、何が楽しいのか笑っている。
戦士というのは心底、戦うのが好きなのかもしれない。
「ナカナカしぶといな」
そう、戦士が言い終わらないうちに斬りかかった。難なく弾かれた剣が、ついに根元から折れる。
飛んでいく剣先の行方は追わなかった。短くなった剣を逆手に持ち替えると、戦士の胸に向かって突き立てる。が、それも叶わず、戦士の肌に触れる直前で、手首を弾かれ、掴まれ、捻られた。
「いっ……!」
掴む強さに抗えず、強引に手を開かされ、剣が落ちる。
振り払えないとわかると、その腕に噛みついた。しかし、次の瞬間。
「っ……!」
脇腹に、重い衝撃があった。衝撃はすぐに鋭い痛みに変わり、体中に脈打ち始める。
刺された。
その事実に、体中から汗が吹き出す。呼吸が乱れる。
――痛い。
戦士が腹に刺した剣を抜き、掴んでいた腕も離した。膝が崩れる。
傷口がやけに脈打っている。血が噴き出しているのかもしれない。見るのが怖い。左の脇腹が、背中が、熱い。
痛みを感じる脇腹を押さえると、布があたたかく湿っていた。血だ。
視線を下げると、傷口を押さえた指の隙間から、じわりと赤い色が滲んでくる。
浅くなる呼吸を、何とか戻そうとする。
大丈夫だ。血は噴き出してはいない。すぐに止血すれば。急所じゃない。死んだりしない。何とかここを切り抜ければ――。
そこまで思って、はっと気付いた。
戦士はどこへ。
顔を上げると、目の前に脛当てをつけた足があった。仰ぎ見ると、剣を振り下ろす戦士が――。
咄嗟に引くよりも、前に倒れこんだ。耳の後ろでザッと音がした。ぶつかるように戦士の両足にしがみつき、体全体で押しながら抱え込んだ両膝を引いた。戦士がよろめいて背中から倒れる。跳ねた膝が腹に当たって激痛が走る。痛みをこらえて噛みしめる唇から、血の味がした。
掴みかかろうとする戦士の腕を避け、起き上がろうとする肩口になびいた長い髪の毛を咄嗟に掴んだ。戦士の首ががくんと反る。それを見て、もう片方の手も髪の毛を握った。腕を掴まれる。自分も横に倒れながら、全体重をかけて掴んだ髪を引っ張る。
戦士の体が倒れる。
その頭を。
髪の毛を掴んだまま、地面の岩に思いきり叩きつけた。
短いうめき声。
すぐ体を起こし、歪んだ戦士の顔を掴んで、もう一度叩きつける。鈍い音がした。
朱夏の腕を掴んでいた戦士の手から力が抜けていき、やがて地面に落ちた。逞しい腕は、地面の上に伸びたまま動かない。
強張る手を戦士の頭から離し、尻餅をつく。
その瞬間また、ずきずきと脇腹の痛みがぶり返してきた。
鼓動が胸を突き破りそうなほど早く激しく鳴っている。
戦士の頭の下――叩きつけた岩に、血がついている。
その色から、無理矢理目を引き剥がした。
このくらいではきっと死なない。今は気を失っているだけだだろう。けれど、それを確かめる気にもならない。
じっとしている場合ではない。早くこの場を離れなければ。
立ち上がり、自分の剣が折れてしまったことを思い出す。そして目に入った、戦士のそばに落ちている剣。チギが持っていた戦士の剣と同じく、持ち手は赤かった。剣先を染めているのは、朱夏の血だ。それを拾う。
逞しい戦士が扱う、相手の剣を容易に叩き折る鉄の剣。チギに持たせてもらった剣と同じく、この剣も少し短く、細かった。これなら、自分でも十分扱える。
朱夏は手にした剣の血を拭い、腰に差すと、その場を離れた。
チギには来た道を戻れと言われたが、あの合流地点を出る時すでに、違う方角へ抜けてしまっていた。しかし、進む方角を変えることはしなかった。
ここは危険だ。戦場も戦士も、甘く見すぎていた。
どこか安全なところで、自分がどうすべきかを考えなければならない。ここに居続けることが果たして、自分の復讐のためになるのか。自分がここで命をかけて戦う理由があるのか。たとえ得るものがあったとしても、死んでしまってはすべてが終わる。だが何よりもまず、傷の手当をしなければ。燃えるように熱い傷口は、地面に足をつくたび、少しでも体を捻るたびに痛みが走る。この痛みをどうにかしなければ。考えるのはそれからだ。
それから、走っているともいえない速度で走った。あまり近くで足を止めると、さっきの戦士が気付いた時追ってくるかもしれない。影のできる方向から、自分が南西に向かっているのはわかっていた。でも、それが正しいのかはわからない。西のほうは罠も奇襲もあると言っていた。方向を変えるべきだろうか。それともここらで、どこか身を潜められる場所を探すべきだろうか。
自分の荒い呼吸と、土を蹴る音しか聞こえなかった。
こんなに走ってまだ誰にも出会わないなんて、もう戦場を抜けたのだろうかと思ったが、そんなはずはない。今はオムジの山すべてが戦場だ。
しばらく、ただ走った。
足を緩めて、周囲を見渡した。木はまばらだ。人の姿もない。
傷口を押さえた左手は真っ赤になっていた。鋭い痛みは減ってきたが、それはただ痛みに慣れたのか、感覚が麻痺しかけているのかはわからなかった。汗をかいているのに、首筋から背中にかけてが寒い。
近くにあった木に寄りかかり、腰にぶら下げていた水筒をはずす。痛みのせいか背中に感じる寒さのせいか、水筒を持つ手が細かく震えていた。両膝に水筒を挟み、蓋を外して中身を煽ると、残りはあとわずかになった。合流地点で水を汲みに行く前に、奇襲があったからだ。川を見つけなきゃいけない。
しかし、そう思うのとは反対に、体はずるずると木の幹をすべり、根元に座りこむ。
(これからどうする)
走っている時は手足を動かすこと以外に頭が働かなかったが、足を止めたことで思考が回りだす。
チギたちは、どうなっただろうか。
そんな疑問がふと頭を過ぎったが、そんなことを考えている余裕はない。自分が生き延びるほうが先決だ。
ずっと傷口を押さえていた左手をそっとはずした。服の合わせを開いて覗き込むと、肌着も真っ赤だった。その色を見るだけでも、気が遠くなりそうになる。
上着を脱いで細くたたみ、傷口の上から体に巻きつける。それ以外に、止血できるものがなかった。できるだけきつく締めて結ぶと、また痛みが襲った。
こんな大怪我、初めてだ。小さい頃から擦り傷は絶えなかったが、人に刺されるなんてことはもちろんなかった。かすり傷なら公衛の塗り薬がよく効いたが、今の傷口には薬を塗ること自体が恐ろしい。胡摸の家なら、彼の背後にずらりと並ぶ入れ物のどれかに、痛みを散らす薬があったかもしれないが、キスパを発つ時は、まさか自分がタイゴの戦士と戦って怪我をするなんて想像もしていなかった。今はただ、痛みに耐えるしかない。
(父さんが薬を作る時、もっとよく見ておくべきだったな……)
たとえ薬が作れなくても、材料の草一本でも噛んでいれば、少しは痛みが和らぐかもしれないのに。
さっき水を飲んだのに、もう喉が渇いてきた。まずは水を探さなければ。
そしてここもまだ、安全とは言えない。休むのなら、もう少し周囲からの視線を遮れる場所を探したほうがいい。
そしてそれから、どうするか。
考えなければいけないことは山ほどある。
それなのに、思考はあちこちへ飛び、一向にまとまらない。
手にはまだ、戦士の髪の感触が残っている。
指を握りこんでも、もう片方の手で押さえても消えない。
もう、気がついただろうか。
朱夏がいないことに気づいたら、探すだろうか、それとも仲間の元に戻るだろうか。まさかあのくらいの血で、死んでいることはないだろう。
(立とう……)
そうは思っても、立ち上がれなかった。全身が重い。痛みもさらなる重石となって、腰が上がらない。
もう少し、呼吸が落ち着くまで。
そう思って木の幹に体を預けると、朱夏は深く息を吸った。




