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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
5/55

2 襲撃


 誰かの悲鳴が聞こえる。


「何……?」


 朱夏しゅかの耳に届いたのはかすれた悲鳴だったが、ここまで聞こえるということは、相当大きな声だったはずだ。胸騒ぎがする。


 炎の群れは、村にぶつかると拡散していき、どんどん中へと侵入してきた。小さな炎が駆け抜けると、そこに大きな炎が上がる。その配置から、火種は村の家だとわかった。村が――家が、燃えているのだ。

 とっさに自分の家を探した。暗闇でぼんやりとしか見えないが、炎は朱夏の家にも近付いていく。


「だめ……」


 無意識に呟いていた。悲鳴に怒声、羊の鳴き声、馬の嘶きも聞こえてくる。

 朱夏の家の横を、一つの小さな炎が駆け抜けた。


「だめ!」


 しかし、朱夏の制止もむなしく、炎は燃え移り、明かりは一層大きくなった。

 息を飲んだ直後、朱夏は自分に火がついたように駆け出した。

 家には朋朱ほうしゅ公衛こうえがいる。


 朱夏が村の端の家にたどり着いた時、まだそのあたりの家には火がついていなかった。けれど、その先に見える光景は、異様なほど明るかった。紅里の乾いた風に吹かれて、炎はどんどん大きくなり、火の粉は夜空に向かって舞い上がる。その下を、村の人たちが走り惑っていた。


「朱夏、戻っちゃ駄目だよ!」

「早く逃げなさい!」


 逃げてくる人とすれ違いながら叫ばれるが、朱夏は真っ直ぐ自分の家へ走り続けた。

 次第に肌に感じる空気が熱くなる。一番家が集まっている、火の粉の舞う空間に足を踏み入れた、その時。


「うわぁっ、やめてくれ! 助け」


 耳に飛び込んできた声は、そこで途切れた。反射的に目をやると、見えたのは黒い大きな影だった。馬に乗った、大きな影。その向こうで、痩せた体が膝をつき、崩れていくのが見えた。


「あ……」


 影は馬の向きを変え、駆け去っていく。視界を埋めていた大きな影が消え、代わりに朱夏の目の前に広がったのは、逃げ惑う人と、それを追う騎乗の兵だった。すでに倒れている人、今まさに斬られる人、兵士に鍬を向けて対峙している人もいた。どこかで子供の泣き声が聞こえる。目の前で倒れた人はもう動かない。その顔ももちろん知っていた。

 背中に暑さからか目の前の光景の悲惨さからか、一筋の汗が滑った。


(これは、何……?)


 握った拳が震える。朱夏の足は完全に地面に縫いつけられていた。心は離れたがっているのに、目の前の光景から、倒れた男の顔から目が離せない。次第に耳を塞いだ時のように、周りの音が遠くなっていった。心臓が早鐘を打っている。鼓膜が内側からどんどんと叩かれているようだった。自分の息ばかりがやけに大きく聞こえる。またどこかで悲鳴が上がる。


 突如、何かに突き飛ばされた。

 それが馬だとわかったのは、肘と膝を地面に擦り付けた後だった。荒々しい蹄の音が遠ざかっていく。離れて行く後ろ姿は、鈍く光る鎧を纏った兵士を乗せていた。あんなに立派で、速く走る馬はこの村にはいない。立ち上がろうとして、擦りむいた膝の痛みを感じた時には、すべての喧騒が戻ってきた。


「おかあさん……」


 朱夏は立ち上がると、よろよろと走り出した。


「おとうさん」


 朱夏の家はこの向こうだ。でも、この阿鼻叫喚の中を突っ切る勇気はとてもなかった。

 家々の裏を回り、何度も躓きそうになりながら走った。蹄の音が近付くと足を止め、息を潜めて通り過ぎるのを待った。

 やっと視界に入った家はやはり燃えていた。

 きっと逃げているはず。そう言い聞かせながらひたすら足を動かした。家が遠い。空気が薄い。少ししか走っていないのに、喉がぜいぜいと鳴っていた。


「ひっ……!」


 思わず声が出たのは、家まであと少しというところで、何かに足を掴まれたからだった。

 怖々と見下ろすと、そばで燃えているその家のおばさんだった。


「朱夏、かい……? うちの……うちのミヤトを見なかった? ミヤトを……」


 おばさんの顔の半分は、血と土でひどく汚れていた。火傷をしたのか、朱夏を掴む手の甲も赤くなっている。

 一瞬、動けなくなった。そして、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。浅かった呼吸が、さらに早くなる。全身を這い上がってくる恐怖に、押しつぶされそうだった。


「ミヤトを……」

「待って、待ってね。お母さんがいるの。お父さんが、お母さんが家にいるから。ごめんねおばさん、ちゃんと戻ってくるから……ごめんね……」


 言いながら、足を掴む手を何とかはずした。涙が止まらなかった。その場を離れても、名前を呼ぶ声が背中を引っ張った。掴まれた手の感触が足から消えなかった。

 申し訳ない気持ちと焦る気持ちと、何より恐怖で胸が張り裂けそうになりながら、朱夏は走った。


 たどり着いた家の屋根は勢いよく燃えていた。かろうじて入り口は残っているが、とても中には入れない。


「お父さん、お母さん……!」


 あたりを見回したが、その姿がない。


「お父さん! お母さん!」


 家を一周して、また入り口に戻り、他の家もぐるりと見渡す。背後から、蹄の音が聞こえた。

 とっさに家の陰に隠れようとしたが、そこに聞こえてきたのは朋朱ほうしゅの声だった。


「放して!」

「っお母さん!」


 声を頼りに隣の家を通り過ぎ、つながれたまま炎に怯える老いた馬も見過ごして、その向こうの井戸のそばで、ようやく朋朱を見つけた。


「お母さん!」

「朱夏?! 来ちゃ駄目……あっ!」

「お母さん!」


 膝をついた朋朱の後ろには、またしてもあの影があった。馬には乗っていなかったが、炎を背に立つ、大きな影。その影が、朋朱の胸ぐらを掴んでいた。下げた剣が炎の明かりを受けて光っていた。その先が、黒い。

 地面に膝をついた朋朱は、右肩を押さえていた。朱夏は何も考えずに駆け寄った。


「やめて!」

「邪魔だ!」


 朱夏が朋朱に抱きつくと、影がすぐにそれを引き剥がした。近くで見てようやく、その顔が影の化け物なんかではなく、自分たちと同じ人間だということがわかった。けれど、その表情に慈悲や躊躇いというものはない。


「何でこんなことするの! やめてよ! やめて!」

「朱夏! あっ!」


 男が朋朱の胸ぐらを掴んだまま引きずろうとする。


「やめて! 放して! 放して!」


 剥がされても剥がされても男の手に掴みかかり、朋朱からその指をはずそうとしがみつくと、何か硬いものでいきなりこめかみを殴られた。ぐわんと景色が揺れたかと思うと、今度は腹に強烈な蹴りが入り、体が吹っ飛んだ。井戸のそばに置いてあった木桶に当たって倒れ、中の水がぶちまけられる。


「朱夏っ! やめて! 子供には手を出さないで!」

「おかあさ……っ!」


 起き上がろうとして叫ぶと、腹の痛みに息が詰まり、頭がきーんとした。涙がこぼれる。地面に倒れた服に水が染み込む。


「おばさん!」


 割り込んできた第三者は、矢己しきだった。火の粉をかぶったのかところどころ顔や服が黒くなっていたが、目立った怪我はなさそうだ。

 朋朱は矢己に気付くと、すがるように叫んだ。


「朱夏を連れて行って!」

「でも」

「いいから! 早く逃げて!」


 それまでは必死で離れようとしていた男にしがみついて、朋朱は叫んでいた。


「行って!」

「……っ」


 矢己は苦いものを飲み込むように顔をしかめると、踵を返した。体のあちこちが痛んで足元がおぼつかない朱夏の腕を取ると、強引に引っ張る。


「行こう」

「……なに?」

「逃げるんだ」


 踏ん張りがきかずに二、三歩引っ張られたところで、ようやく矢己の言葉が頭に染み込み、その腕を振り解いた。


「やだ!」


 叫ぶと、また頭がずきんとした。


「いいから行くんだよ」

「やだってば! あっ……!」


 再び腕を掴んだ矢己が、強引に引っ張った。両足を踏んばり、引っ張られる腕を乱暴に振って逃れようとしたが、矢己の腕は取れない。振り返ると、膝をついた朋朱が男に髪を掴まれていた。


「放して! はーなーしーて!」


 矢己しきは止まらない。振り返りもしなかった。血が止まりそうなほどの力で朱夏の腕を掴み、ぐいぐい引っ張っていく。

 燃えさかる家に沿って曲がったところで突風が吹いてきた。降りかかってきた火の粉に矢己の足が止まり、片手で顔を覆う。その隙に、朱夏は思い切り矢己の足を踏んだ。怪我したほうの足を。


「いっ……!」


 緩んだ力に、瞬時に腕を取り返し、今来た道を引き返す。


「朱夏! 待って!」


 残した矢己が名前を呼んだが、朱夏は止まらなかった。

 倒れている人がいた。目の前で斬られた人がいた。朋朱も、肩を斬られていた。脳裡に残っているのは、髪を掴まれた朋朱の姿だ。

 景色が歪む。


(斬られちゃってたらどうしよう。倒れてたら……)


 怖い。怖い。怖い。

 見えてきた場所に男はいない。地面に一人、倒れている。朋朱だ。


「おかあさ……!」

「朱夏!」


 名前を呼ばれると同時に、突き飛ばされた。

 予期せぬ衝撃に、思いきりこけて顔を地面に擦った。

 名前を呼んだのは、矢己の声だった。まだ邪魔するつもりなのか。

 起き上がろうとすると、地面に着いた左腕が熱かった。見ると服が裂け、血が滲んでいる。

 はっと顔を上げると、そこにはさっきの鎧の男が立っていた。


「わざわざ戻ってくるとは、手間が省ける」


 朱夏を見下ろした男は、低い声でそう言った。

 近付いてくる男が剣を振り上げる動作が、やけにゆっくりに見えた。



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