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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
4/55

1-4


 結局、二人が家に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 シッダを追っていた矢己しきは不安定な岩を踏み当ててしまい、自分の身長の三倍くらいの高さから落ちてしまっていた。下は岩じゃなく草の生えた地面だったからよかったものの、着地の時に足を捻ったらしく、朱夏しゅかが見つけた時には足首を押さえて歯を食いしばっていた。少し離れたところでは、「仕方ないな」という顔でシッダが座っていた。


 帰り道、自分で歩くと言った矢己に合わせて歩調を抑えていた朱夏だったが、少しもしないうちにその遅さに耐え切れなくなった。固辞する矢己を無理矢理背負うと、ほとんどの道のりを矢己を負ぶって村まで帰ったのだった。



「どうして危ないところを教えてあげなかったの?」


 膝をつき目線を合わせようとする朋朱ほうしゅに、朱夏はむっつりと黙ったままだった。


「岩場のことは朱夏のほうがよく知ってるでしょう。もっと気をつけてあげるべきだった。そう思わない?」

「…………」


 一緒にいなかったんだからしょうがない。初めに登る時は教えてあげた。頭の中では言い訳がいくつか浮かんでいたが、どれも口には出来なかった。

 ちらりと目線を上げると、眉根を寄せた朋朱と目が合う。いつもは優しい表情が強張っていて、朱夏と目が合っても緩むことはない。それがわかると、もやもやとした気持ちが次第にしぼんでいった。

 朋朱に叱られると、悲しくなる。実際は叱っているというよりも諭している口調なのだが、大好きな母親を怒らせる、もしくは困らせるようなことをしたということのほうが、実際に自分が行った行為の可否よりも朱夏にとっては大きかった。朋朱が自分にがっかりしていることに悲しくなるのだ。


「……ごめんなさい」

「私に謝っても仕方がないわ。謝るなら、矢己しきに謝りなさい」


 そう言うと、朋朱は朱夏の体を座っている矢己に向けた。

 これも他の大人に言われれば嫌な顔をしていただろうが、朱夏はぐっとこらえて謝った。


「……ごめん」


 朱夏が行動を共にしていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのは確かだ。もっと気をつけてあげるべきだった。そう、思えるのも諭した相手が朋朱だからだ。


「別に……僕が勝手に落ちただけだから」


 公衛こうえの作った塗り薬を崔己さいきに塗られながら、矢己は気丈にも朱夏をかばった。が、それで朱夏の気持ちが軽くなったのはほんの少しだけだ。


「朱夏」


 朋朱の声に、朱夏の視線が動く。その目は、この上まだ何か怒られるようなことがあっただろうかと不安げだ。

 しかしそんな朱夏に、朋朱は硬かった表情を和らげた。


「でも、ここまで矢己を負ぶって帰って来たのは偉かったわね。母さんは、優しい朱夏が大好きよ」


 それを聞いた朱夏の顔こそ見ものだった。しょげていた様子など微塵も吹っ飛んで、両手を広げた母親の胸に飛び込んだ。


 お上手ですなあ、と言う崔己さいき朋朱ほうしゅが微笑を返す。


「でもその足じゃ、これからの道中つらいわね」


 抱きついて来た朱夏の頭を撫でながら、朋朱が言った。

 崔己たちも馬を一頭連れているが、それは主に荷物を背負わせるためであって、崔己や矢己が乗るためではない。


「これからまだ、東のほうへ行くのでしょ?」

「そうですね、そのつもりでしたけど……」

「馬を貸せればいいんだけど、うちのもだいぶ老いてるからな。逆に足手まといになっちゃうだろうし」


 公衛こうえが呟く。

 確かに馬に乗れば矢己の足でも旅を続けることも利布に帰ることもできるだろうが、朱夏の家の馬は、年老いて力もなければ歩みも遅かった。休憩の時間や余分に用意しなければならない食料のことを考えると、とても勧められるものではない。


「どうしたものかな……」

「いいよ、行って」


 崔己が思案顔で顎をさすっていると、矢己がはっきりと言った。


「平気になったら自分で村まで帰るから、父さんは残りの布を売ってきなよ」

「でもお前を置いていくと、ここの迷惑になるだろう」

「二人いるより、一人のほうがまだましだよ」

「うーん……」


 崔己が息子の提案に唸る。その頃には、朱夏も朋朱の胸から顔を上げて周りの相談に耳を傾けていた。


「矢己はずいぶんしっかりしてるのね」


 朋朱が膝の上の朱夏を抱え直しながら言った。


「うちは構わないわ。朱夏にも新しいお友達ができて嬉しいし」

「ですが……」

「こんな土地だもの。困った時はお互い様です」


 崔己は家の主である公衛に目を向けたが、その公衛も何の屈託もなく頷いて見せた。再び朋朱、朱夏の順に視線をめぐらせ、最後に矢己の腫れた足を見た後、頭を下げた。


「それじゃあ……お願いします。このお礼は、必ずしますから。布もただでいい。昨日もらったものはお返しします」

「駄目よ。お代はちゃんと受け取らなきゃ。大丈夫よ、気にしないで」


 心の広い一家に、崔己は改めて頭を下げると、横に座る息子を見た。


「矢己、迷惑かけるんじゃないぞ」

「わかってる」

「朱夏、おじさんが戻るまで、矢己を頼むね」

「うん」


 言われなくても、面倒は見るつもりだった。今しがた朋朱に怒られたばかりだ。これ以上怪我はしないように、岩場じゃなくても、ちゃんと気をつけて見てあげようと心に決めた。




     *     *     *




 崔己さいきがこの村を発って、十日が経った。

 その夜、朱夏は石で囲った炉のそばに寝そべり、朋朱の語りに耳を傾けていた。

 時折朋朱が膝に置いた楽器を爪弾き、びぃん、と低い音が響く。動物の角のようにも見える古びた弧を描いた木に、羊の腸を縒った弦が何本も張ってある。公衛が朋朱のために作った楽器だ。朋朱は物語る時に、よくこの楽器を使った。話の調子を変える時に鳴らしたり、時には人の台詞を歌うように、旋律を奏でながら物語る。

 昔語りをする人間はこの村にも何人かいるが、このように楽器を奏でながら語るのは朋朱だけだった。かつて朋朱はこうして物語り、時には踊りを見せたりしながら、各地を旅する一座に身を置いていたことがあるのだという。行く先々で物語りつつ、自分もまたその土地の話を聞くにつれ、朋朱の知る物語は膨大な数になっていた。

 時折話をせがむ朱夏に、朋朱が困った顔を見せたことはない。だが、その結末は決して、子供にとって楽しいものばかりではなかった。


「それで? 二人はどうしたの?」

「娘は恋人を逃がして、自分はお屋敷に戻ったのよ」


 身分違いの恋を反対された二人の結末に、朱夏は首を捻った。


「それでいいの?」

「いいかどうかはわからないわ。でも、彼女はそうしたの」

「じゃあ、別の人と結婚したの?」

「さあ……そこまでは知らないわ。私が聞いたお話は、ここで終わりなの」

「…………」


 ずっと黙って皮をなめしていた公衛こうえが、出来栄えを確かめるために目の前に持ち上げた。

 頬杖をついて納得のいかない顔をしている朱夏の頬を、朋朱が撫でる。


「前も言ったでしょう? お話だって、楽しいものもあれば、そうじゃないものもあるのよ」


 楽しいものだけ聞かせてくれればいいのにと思うが、以前そう言った朱夏に朋朱は言った。


「でも、どのお話をおもしろいと思うかは人それぞれだし、聞いた時はおもしろくなくても、いつかどこかで、そのお話が朱夏の役に立つかもしれないでしょ?」


 その時は確か、一つの珍しい果実を取り合った二人の男の話だった。どちらが食べるかで揉めた結果、色んなどたばたがあり、結局は二人とも食べられなかったという、だから何なのだと言いたくなるようなよくわからない話だった。

 それが一体今後の朱夏の人生の何の役に立つのかはさっぱりわからなかったが、母の言うことと、とりあえず頷いたことを覚えている。


「ねえ、母さんの歌、歌って」


 頬を撫でた母の手が離れるのと同時に、朱夏はねだった。母の故郷の歌だ。この村の他の誰も歌わない、不思議な、でもどこか落ち着く旋律を、朱夏は勝手に〈母さんの歌〉と言っていた。


「朱夏はあの歌が好きね」


 ことあるごとにこの歌をねだる朱夏に朋朱は微笑んだが、そのまま歌い始めることはなく、爪弾いていた楽器を膝から下ろした。


「でも、そろそろ矢己しきを呼んできてあげて。風邪を引くわ。戻ってきたら、聞かせてあげる」

「うん」


 言われた朱夏は、素直に立ち上がった。

 矢己は毎日、夜になると空を見上げていた。最初のうちは足の痛みもあってかせいぜい家の裏手に回って座っているだけだったが、四、五日目からは痛みも引いてきたのか、村の家々からは少し離れた丘の上まで行って、そこに忘れ去られたように横たわっている岩の一つに腰掛けて夜空を眺めるようになった。

 最初の二日は呼ばれずとも戻ってきていたが、その次の日からは明かりを消す時間になっても戻ってこなくなり、朋朱に促された朱夏が呼びに行くようになった。「自分で戻るから呼びに来なくてもいい」と矢己は言ったが、すでに矢己の面倒は自分が見なくてはという意識が芽生えていた。呼びに行くのは別段面倒ではなかったし、むしろ夜に外を歩くという行為は意外と気分が高揚するものだった。いつもより自分の足音が大きく聞こえることや、他の家が寝入る時間に、誰の注意も向いていないいわば空っぽの村の中を歩くことは、不思議と朱夏の胸をどきどきさせた。

 ただ、星を見上げる矢己のもとへたどり着くと、そのどきどきも治まっていく。呼びに来たのだから矢己がそこにいるのは当然なのだが、岩に腰掛けてぼうっとしている矢己の姿が目に入った瞬間、飽きもせず同じ姿勢でいる矢己に呆れるのだ。むしろそんなに長い間空を見上げていて、よく首が痛くならないものだと感心した。


 何で星が好きなの、と聞いたことがある。初めて丘に迎えに行った時だ。

 昔祖母から星にまつわる伝承を聞いたこともあったが、朱夏にとって星は意識して眺めるほど情熱を傾ける対象ではない。草や、岩や、川と同じ。ただ、そこにあるものだ。確かに草や岩よりは、きらきらしててきれいだなと思うこともあるが。

 矢己はすぐには答えなかった。でもそれは答えるのを嫌がっている沈黙ではなく、どう説明すればいいのか考えている様子だったので、朱夏は待つことにした。たった数日だが一緒に過ごすことで、矢己のことを少しはわかるようになっていた。


「……自分がどこにいるか、わかるから」

「どういうこと?」

「布を売るのに、色んなとこを父さんと歩いてきたけど、見渡す限り周りに何もないとこもあって、そういうところを歩いてると、自分がどこにいるのかわからなくなる時があって」


 最初の沈黙ですっかり頭は整理できたのか、返ってくる答えは早かった。


「でも星は、ここがどこだか教えてくれるから。景色は違っても、同じ空の下で、同じ地面の続いた場所だって教えてくれるから、見てると、安心する」

「ふうん」


 相槌を打ちながらも、朱夏には矢己の言うことがいまいちぴんとこなかった。これまで自分の居場所がわからなくなるほど遠くに行ったことはなかったし、行きたいと思ったこともなかった。朱夏にとっては、紅里こうりの草原がすべてだった。


 村で一番端にある家を通り過ぎてしばらくすると、地面が緩やかな上り坂になる。草を踏みしめながら、上りになってからの歩数を頭の中で数えていく。

 そしてそれが、四十七になった時、かすかな地鳴りが耳をかすめた。

 足を止めて顔を上げたが、そこには変わったものは何もない。矢己の姿もまだ見えていなかった。しかし振り返ってみると、村の北西、草原の向こうの暗闇に、いくつかの小さな明かりが見えた。はじめは少数だった明かりは、次第に縦横に広がってこちらに近づいてくる。その速度が、異様に速い。かすかだった音は、どんどん大きくなってきた。


 嫌な予感がした。暗闇の中で見る炎は温かさを感じるはずなのに、あれは何か、とてつもなく悪いものに思えた。

 群になって近付いてくる明かりは、十を軽く越えていた。少なくとも二十はある。草原の向こうから真っ直ぐこの村を目指してきて、その先頭の明かりが村に差し掛かった時――。


 そこで、一つ大きな炎が上がった。



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