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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
32/55

6-3

 

 星が綺麗だった。

 しかし、その光景に素直に感じ入れるほどの余裕が今の朱夏しゅかにはなかった。


「気持ちわる……」


 声に出したところで、胸を渦巻く気持ち悪さは出ていってくれなかった。

 ――負けてしまった。

 よほど朱夏がくやしそうな顔をしたのか、ギイのほうからおこぼれで二回目の勝負を提案してくれたが、それでもだめだった。今日はギイが顔を出す前に別の客とも勝負をしていたのだ。それがなかったところで、勝てたかどうかは定かじゃないが。それでやけになって、ギイが帰った後も客に誘われるままに勝負を受けていたら、完全に酔いが回ってしまった。しかも朱夏の場合、ふらついたり吐き気がしたりと体には酔いの症状が出るのに、意識はさして酔ってくれないからおもしろくない。


 上を向いたまま息を吐くと、寒空に白い息が消えていった。瞼を閉じる。目の奥が重く、首筋や耳の後ろが熱い。

 最初こそ勝負の杯は三杯だったが、今となっては、朱夏も男たちと同じように五杯で勝負していた。はじめは、まだ少女の朱夏を心配する声もあったが、今ではその飲みっぷりに感心しこそすれ、止めることはほとんどない。

 また勝負を持ちかけたら、ギイは受けてくれるだろうか。でも、ギイの酒の強さは底なしだ。それよりも、別の方法で頼んだほうがいいかもしれない。それこそ土下座するか、金を渡すか? ギイの姉の勤め先は、おそらく調べればすぐわかるだろうが、一度ギイに頼んでおいて、そこを飛び越え直接会いにいくというのはあまりよくないように思える。それともそんなこと、いちいち考えるべきではないのだろうか。


 万理ばんりに来てから二ヶ月が経った。知識は増えたし、城下にも詳しくなった。でも、それは知ろうと思えば誰にでも手に入る情報であって、朱夏の望む肝心なことは何一つわかっていない。

 何で、うまくいかないのか。今の自分には、周りに邪魔する人間はいないのに。まるで目に見えない何かから反対されているかのようだ。

 こうなれば、やはり途斗ととにすがるしかないのだろうか。茗野めいののことを教えてくれと。会わせてくれと。でも、それは――。


「まだ潰れてるのか」


 目を開けると、裏口から宜安ぎあんが顔を出していた。


「……今もど」


 る、と言おうとして、体を返した途端、視界がぐらりと揺れる。足を止めてこめかみを押さえると、「いい加減自分の容量を覚えたらどうだ」と、宜安ぎあんが怒っているのか呆れているのかわからない口調で寄越して、中へ戻って行った。

 しばらくすると揺れは落ち着いたが、胸のあたりはまだ気持ち悪い。それでも動けるだろうと判断して調理場に入りかけた。が、中を見た途端、朱夏はぐりんと体を返して外の壁に貼りついた。

 酔いのせいだけじゃなく、心臓の音が耳に近く聞こえた。

 しばらくしてから、そっと中を窺う。

 間違いない。

 入り口に近い壁際の卓へ座っている少年――それは、矢己しきだった。

 偶然立ち寄ったのか、誰かと待ち合わせているのか、もしかすると――。

 その最後の可能性に、朱夏は本能的に隠れていた。

 酒ではなく水を頼んだ声が聞こえる。

 朱夏は腰を屈めて、中に入った。調理場と客のいる場所はカウンターで仕切られているため、そうすれば朱夏の姿は見えない。

 宜安ぎあんの足元まで行き裾を引っ張ると、怪訝な顔が見下ろしてきた。


「何してる」

「しっ」


 人差し指を口の前に立てると、ますます宜安ぎあんの眉間に皺が寄る。


「入り口の近くに一人で座ってるやつ。あいつに、絶対に、あたしのことは言わないで」

「聞かれてないことをわざわざ言うつもりはない」

「聞かれても言わないで」

「誰が料理を運ぶんだ」

「しばらく一人でやって。あいつが帰ったら、ちゃんと働くから。お願い」


 ふん、と荒い鼻息をついたものの、宜安ぎあんは何も言わず水を手に調理場を出て行き、またすぐに戻ってきた。


「何て?」

「豚と青菜の炒めもの」

「は?」

「やつの注文だ」


 そんなのはどうだっていい。だいたい今日のメニューは豚と青菜の炒め物か青菜と根菜のスープしかない。あとは定番の固いパンと味付けした干し肉、木の実を乾燥させたもの。宜安の店は酒の種類は多いが、料理の種類は極端に少ない。

 大きな包丁で青菜を切り出した宜安は、手際よく料理を作っていく。その足元にしゃがんだまま、朱夏しゅかは考える。


 何で矢己しきが、ここにいるのか。

 元々いたのならばまだいい。かつて朱夏が利布りぶにいた頃も、散らばった反宋はんそう軍の連携をとるため、定期的に万理ばんりと利布を行き来していた。その滞在中にたまたま、この店にご飯を食べに来たというのなら。でもそれならば、なぜ途斗ととが一緒にいないのか。

 朱夏にとってまずいのは、知らせを聞いてわざわざ利布りぶからやって来た可能性だ。「朱夏がいた」という、その知らせを途斗ととから聞いて、朱夏を探し、連れ戻そうとしている可能性。考えるだけで、元々残っていた気持ち悪さがさらに渦を巻く。


 宜安ぎあんができた料理を皿に移し、調理場を出て行く。朱夏しゅかはそっと背を伸ばしてカウンターから店内を覗いた。

 矢己しきは壁に背を向けて、一人のまま座っていた。黒い髪はしばらく切っていないのか、目にかかるほどになっていた。そのせいか、場所が場所だからか、少し大人びて見えるような気がする。万理ばんりに来た時はいつも、こんな風に一人で店に入っているのだろうか。知らない矢己しきの一面を見たような気がして、ますます出ていく気がなくなった。


「おい、看板娘はどこいった」


 客の一人の言葉に朱夏はぎくっと固まる。

 目の前に料理を置かれた矢己しきの顔がその客のほうを見る。


「お前らのせいで酔いが回ってる」

「なんだあ、まだまだだな」

「じゃあ今勝負すればもっとただ酒が飲めるかな?」

「追い出すぞ」

「おいおい、冗談だよ」


 やりとりが一段落すると、矢己しきは顔を目の前の料理に戻し、手をつけた。ほっと胸をなで下ろす。

 戻ってきた宜安ぎあんにそっと尋ねる。


「何か言ってなかった?」

「何をだ?」


 ここに、朱夏しゅかという少女がいないか、とか。

 だが、宜安の様子だと、それはないようだ。

 それからは他の客から追加注文もあったが、すべて宜安一人で対応できた。元々一人でやっていた店だ。忙しい時は今でも、酒を注ぐだけ注ぐと「取りに来い」と客を呼びつけたりしている。客は常連が多いから、文句を言う人もいない。


「帰ったぞ」


 しばらくして降ってきた宜安ぎあんの声に、ようやく立ち上がった。矢己しきがいる間じっとしていたのもあり、気持ち悪さはだいぶ引いていた。それまで矢己がいた卓には、空の杯と皿が残っている。


「あいつ、前にも来たことある?」

「いや、初めて見る顔だ」


 特に人を探している様子もなかったし、店主である宜安ぎあんにも何も聞かなかった。となると、朱夏の考えすぎだったのか。


「皿、片付けてくる」


 朱夏しゅかは調理場から出て、それまで矢己しきが座っていた卓へ向かう。朱夏に気付いた客から「もう酔いは覚めたのか?」と聞かれ、笑ってごまかす。

 綺麗に平らげられ、空になった皿と杯に目を落とす。小さい頃から、矢己しきが食べ終わった後の器は、いつも綺麗だった。弟の續己つづきは、慌ただしく食べるせいかいつも服にこぼしたり器に麦の欠片が残ったりして真尾良まおらに注意されていたが、矢己はそんなことは一度もなかった。


 矢己しき朱夏しゅかがいなくなったことを、どう思っているのだろうか。今も怒っているだろうか。それとも、もうどうでもいいと思っているだろうか。

 あの日矢己は、シグルの畑の向こうで、いつまで朱夏を待っていたのだろう。

 たまにふと、思い出す。久しぶりに見た横顔に感じた懐かしさに、苦いものが混じる。


 そう――結局矢己しきは、朱夏に甘いのだ。途斗ととを負かそうと朱夏が剣の相手を望んだ時も、逃げようと思えば逃げられたはずなのに、いつも朱夏の剣を受けてくれた。茗野めいのが連れて行かれた時は、あの途斗でさえ怒りを見せたのに、矢己は朱夏を責めなかった。と言って、朱夏のすべてをわかってくれているかというとそうではないが。それでも、矢己がいつも一番近くにいたことには変わりがない。

 器を重ねた手が止まっていた。


(――矢己しきなら)


 戻れと説得されることを想像して反射的に隠れてしまったが、矢己しきが今も反宋軍のために動いているのなら、途斗ととと同等の情報を持っているのではないか。そして矢己なら、もしかしたら。


「ごめん、すぐ戻るっ」


 まともに顔も向けず宜安ぎあんに言葉を投げると、朱夏しゅかは駆け出し店を出た。

 左右を見渡すと、大通りのほうへ歩いて行く背中が見えた。その背中が、路地を折れる。朱夏は地面を蹴った。

 本気なら土下座でも何でもすればいいと、下央かおうは言った。情報がなかなか集まらない中、反宋軍の住処を調べ途斗ととを探そうかとも思ったが、そうしたところで、途斗が朱夏に何かを教えてくれるとはどうしても思えなかった。だが、矢己しきなら。途斗が教えてくれなかった何かを、矢己なら教えてくれるかもしれない。


 路地を曲がり、見覚えのある背中を捉え距離を詰めると、その腕を掴んだ。

 驚きに目を見開いた顔が、こちらを振り返る。そして。


「っ朱夏しゅか?」


 名前を口にした矢己しきを、何も言わずに引っ張った。

 誰かの家の裏口の横、詰まれた木箱の陰に引っ張り込むと、掴んでいた腕を放した。息が整うのも待たず、前置きもなく言った。


茗野めいののことを教えて」

「今までどこに……」

「そんなことどうでもいい。いいから教えて」


 問いを遮った朱夏に、矢己しきの顔から驚きが消えて、眉間がわずかに険しくなる。やはり前髪が少し長いようだ。額にかかった髪が目元に陰を作って、前より表情が見えにくい。


「茗野は今、どこにいるの?」

「教えられない」

「教えて」

「教えたら、そこに行くんだろ」

「そうなるかもしれない」

「だめだ」


 まずは、予想通りの返答だった。矢己しきだって馬鹿ではない。朱夏が詰め寄る理由は想像がつくだろうし、そうならば安易に教えようとはしないはずだ。


茗野めいのがどこにいるかは教えない。ただ、無事なのは確かだ」

「それが本当だって証拠は?」

「見せられる証拠はない。でも本当だ」


 矢己しきに譲る様子は見られない。話の方向を少し変えてみる。


「何でさっさと助けないの? あれからもう半年以上経った。場所もわかってるなら、どうして動かないの」

「まだその時じゃない」

「何よ、その時って」

「出るべき時じゃない」

「ってことは、城内にいるっていうのは、本当なのね」


 矢己しきの目尻がぴくりと動いた。途斗とと朱夏しゅかに話したことを、そもそも朱夏に会ったことを、矢己に言っていないのだろうか。しかし、今はそんなことよりも、聞かなければならないことがある。


茗野めいのは、自分で望んで入ったわけじゃないのよ?」

「それでもだ。……今は留まっていたほうがいい」

「どうしてよ」

「無理に逃げれば必ず追っ手がかかる。重要人物である茗野が逃げれば町への警戒も強くなる。そうなれば茗野が戻ったところで、俺たちは動けない」

「…………」

「今は監視下にあるとはいえ、連絡は取れてるし、そこにいないと得られない情報もある。今はそれが必要だ」

「それは、茗野も望んでることなの?」

「そうだ」

「自分が外に出ることより?」

「そうだ」


 下央かおうが言っていた、「助けない選択肢」。今矢己しきが言ったのが、そういうことなのだろう。だが、茗野めいの自身が望んでいると聞いても、すぐには納得ができない。

 下央に聞かれた。何で助けたいのかと。

 その理由が、今、わかった気がした。


「それでも、あたしは……茗野に会いたい」

「…………」

「会いたい…………謝りたい」


 その言葉に、矢己しきの目が、わずかに揺れた気がした。

 茗野が逃げることを望んでいないのならそれでもいい。

 助けないという選択肢も受け入れよう。

 でも――会いたいのだ。

 そう、思う理由は。


 茗野めいのは自分のせいで捕まってしまった。

 だから。

 会って、謝りたいのだ。

 それが、茗野を助けたかった理由。

 力が抜けるように、頭を垂れた。そのまま、腿に手を当て、腰を折る。


「お願い……教えてください」


 矢己しきが、息を詰めたのがわかった。

 これまで、矢己に頭を下げたことなどない。剣の相手をしろと迫った時も、反宋はんそう軍の情報を教えろと言った時も、一方的に要求するだけで、頭を下げて何かを頼んだことなどなかった。

 屈辱だとは思わなかった。頭を下げたのは無意識だ。けれどそうしたことに気付いてからも、茗野に謝る機会を得られるのなら、構わないと思った。

 しかし、結局は無駄に終わった。


「……だめだ。何度言われても……教えられない」


 無慈悲な矢己しきの答えに、服の裾を握り締めた。

 それはやっぱり、相手が自分だからか。だから、教えないのか。矢己もやっぱり、途斗ととと同じ目で朱夏を見ている。それはある意味間違いではないが、朱夏を落胆させた。いや、落胆と言う言葉では足りないほど、暗い気持ちにさせた。


「……もういい」


 頭を上げると、まともに顔を見ることもなく背中を向けた。


朱夏しゅか


 腕を掴まれて足を止める。


「若い男が一緒だって聞いた。今もそうなのか?」

「だったら何なの?」


 途斗ととはやっぱり、話していたのか。正確に言えば、今は下央かおうとは一緒じゃないが、細かいことを教える義務はない。

 しかし立ち去ろうとする朱夏の腕を、矢己は放さなかった。それどころか、力をこめて意外なことを口にした。


「反宋軍に入れ、朱夏」

「……何言ってるの?」


 散々反対していたくせに。受け入れる気はないと示したくせに。しかし、矢己しきは引かなかった。


「反宋軍に入れば、いつかは茗野めいのと会える」

「いつかっていつよ」

「それはわからない」

「適当なこと言って、あきらめさせる気?」

「そうじゃない。反宋軍にいれば、茗野と会える時は必ずくる。だから」

「今さらあたしが、反宋軍に入ると思う?」


 あれだけ拒否しておいて。その選択肢は朱夏の中で、とうの昔に消えている。


途斗ととには、俺からも頼む」

「入らない」


 朱夏はきっぱりと言った。


「たとえ途斗がいいって言っても、もう反宋軍に入る気はない」

「朱夏」

「あたしの知りたいことは何も教えてくれないくせに、自分たちだけ都合のいいように人を動かせると思わないで!」


 腕を取り返すと、矢己しきを睨んだ。


「もう二度と、矢己には頼らない。どこかで見かけても話しかけない。そっちも探さないで」


 矢己の頬が歪んだ。

 何だ、その顔は。苦しいのはこっちだ。

 知りたいことは教えられず、今さら仲間になれと言われて、喜ぶとでも思ったのか。


「じゃあね」


 これ以上その顔を見たくなくて踵を返すと、朱夏はもと来た道を駆け出した。



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