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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
30/55

6-1 

 

 客が帰った後の卓を片付けていると、それまで賑やかだった別の卓の男たちの声が、一際盛り上がった。比較的よく店に来る顔ぶれだ。今日は日暮れ前からぽつぽつ集まりだし、すでに結構な時間が経っていた。

 重ねた皿を手に、朱夏しゅかは卓に近付く。取り巻く男たちの肩越しに覗くと、卓を挟んで向かい合う二人の前に、それぞれ空になった杯が五個ずつ、全部で十個並んでいる。単純な勝負だった。五つの杯の酒を、早く飲み干したほうが勝ち。ただ、用意された酒は後になるほど強くなる。そして負けたほうが二人分の勘定を持つというものだ。


「またジロの負け?」

「またって言うな!」


 尋ねた朱夏しゅかの言葉を聞き取って、負けた壮年の男・ジロが拗ねたように言い返してきた。


「だって、ジロ負け続きじゃん。あたしが知ってるだけでも、三回は負けてるよ」


 朱夏が店を手伝う前からだと、きっとかなり長い間負け続けているはずだ。それでも酒も勝負も大好きで、店に来る度に酔っ払っている。


「うるせえ、飲めねえやつがとやかく言うんじゃねえよ」

「飲めたら言ってもいいの?」

「飲めるのか?」

「ジロよりはいける気がする」

「なにぃ?」


 ジロの相手はほどほどに、朱夏しゅかは勝ったほうへと目を移す。ジロよりも若い男の名前はギイだ。おそらく、三十手前くらいだろう。ジロは牟白むじろという名前の後ろをとった呼び名だが、ギイのほうは何でギイと呼ばれているのか知らない。比較的整った容姿だが、一つ特徴を上げるとすれば目が細かった。口元には大抵いつも、柔和とも皮肉っぽいとも言えるような笑みをたたえている。


「追加のお酒がいる?」

「そうだな、軽いの一杯」


 人差し指を立てたギイに、待ったがかかる。目を赤くしたジロだ。


「ちょっと待て。お前の分も持ってこい」

「お前って、あたし?」

「そうだ」

「どうして?」

「勝負すんだよ」

「誰と?」

「俺と。お前がだ」


 ジロが自分と朱夏しゅかを順番に指差した。


「俺よりいける気がするって言ったろ。じゃあ飲んでみろ」


 大人気ない提案に内心苦笑しつつ、朱夏はどうしようかと考える。勝負となれば売られたものから逃げたくはない。自分が酒に強いかどうかも興味があった。今までも体を温めるために少量の酒を飲むことはあったけれど、こんな風に飲む量や速さを人と勝負したことはない。そもそもそんなに飲めるほどの酒が家にあることもなかった。適当に言ってかわすことはできる。もしジロを怒らせたとしても、明日には忘れているだろう。


「どうすんだ? さっき言ったことは嘘か」


 決断を迫るジロを、まあまあ、と周りの男たちがなだめる。ジロが酔っ払うのはいつものことだから、周りも半分呆れ、半分おもしろがっている状況だ。


「やる以上は、本気だからな。こっちが勝てば酒はただ。お前が勝てば二倍の料金を払ってやる。金の代わりに、何でもひとつ言うこと聞いてやってもいいぞ」

「そういや、前に宜安ぎあんもやってたな、それ」


 ギイが味をつけた干し肉をかじりながら言った。ジロと違い、ギイは五杯の早飲みもまったくこたえていないようだ。


「ま、二倍払うよりはな」

「俺昔、壊れた椅子直させられたなあ」

「俺は材料の買い出しに行かされた」

「ま、結局宜安ぎあんが強すぎて、そのうち挑戦するやつがいなくなったけどな」

「へえ」


 卓を囲む男たちが次々に言う言葉に耳を傾け、朱夏しゅかはジロに目を戻した。


「あたしが勝てば、何でも言うこと聞いてくれるの?」

「おう、男に二言はねえよ。何でも来い」


 胸をどんと叩いたジロの返答に、朱夏は口角を上げた。


「いいよ、やろう」

「いーい度胸だ」


 ジロが満足そうににやりと笑う。すると横からギイが小声で尋ねてきた。


「お前、飲めるのか?」

「さあ……わかんないけど」

「断ってもいいんだぞ。客とはいえ、今のジロはただの酔っ払いだからな」

「わかってるよ。でも、大丈夫」


 もしかしたらこの結果次第で、何かが変わるかもしれない。そんな予感があった。


「それじゃ、お手並み拝見といこうか」


 酒をたっぷり入れた瓢を持って卓に戻ってくると、すでに使い回しの杯が並べられていた。ギイが受け取って、空の杯に酒を注いでいく。


「初めてなら、三杯にしとくか」


 一応朱夏しゅかを気遣ってか、酒自体も三杯とも同じものを注いでいく。男たちに促され空いた椅子に朱夏が腰を下ろすと、なみなみに注いだ杯が目の前に置かれた。


「一杯目を持って。まだ持ち上げちゃだめだ。三、二、一で始めるぞ」


 向かいでジロの赤ら顔が笑っている。負けるとは思っていない顔だ。それを見ると、何が何でも勝ちたくなってきた。


「いくぞ……三、二、一、飲み干せ!」


 朱夏しゅかは顔に吹っかける勢いで杯を持ち上げた。

 一杯目は三口、二杯目も三口、しかし三杯目を口にした途端強烈な熱さが喉を焼いた。明らかに酒の種類が前の二杯と違う。

 目の奥が熱くなり、喉が拒むのを上を向いて無理矢理流し込んだ。

 軽くなった杯を叩きつけるように置くと、目の前にはにやりと笑うジロの顔があった。その前に置かれた杯はすでに空だ。


「俺の勝ちだ。もうとやかく言わせねえぞ」


 してやったりの顔に一瞬いらっとしたが、それよりも今は問題があった。


「何なのこれ、喉が焼ける!」


 最後の杯を覗き、口を開けて喉の奥に空気を送り込む。ギイは朱夏が渡した瓢から酒を注いだはずなのに、三杯目だけは明らかに強かった。舌を扇ぐ朱夏に、ギイが笑った。


「酒自体は一緒だけどな。これを入れてる」


 ギイが最初から卓に置いてあった小皿の赤い粉を指差した。普通は料理に使う香辛料だ。少量でも、かなりの辛さがでる。


赤芯豆せきしんとうの粉? 馬鹿じゃないの?」

「酒飲みはみんな馬鹿だ。俺たちが早飲みする時の最後の一杯はこれと決まってる。まずいか?」

「まずいも何も、ただ熱いだけじゃん」


 顔をしかめる朱夏しゅかに、周りの男たちは笑っている。


「でもまあ、一気に飲み干した根性は大したもんだ」


 ギイも喉の奥で笑いながら、自分が頼んでいた別の酒を引っかけた。

 胸のあたりがまだ熱い。飲み干しはしたものの、胃の中から戻ってきそうだ。


「水飲むか?」

「いらない」

「涙目だぞ」

「うるさいよ」


 心配というよりからかうように窺うジロに、朱夏はむっとして返した。


「これでこの酒はただだな。俺が弱くないってわかっただろ?」

「もう一回やればあたしが勝つよ」


 初めての強酒に体が驚いただけだ。あれがくるとわかっていれば、今度は息を止めて飲み干してくれる。


「威勢がいいのはいいが、初めてだろ。やめとけ」


 ギイの制止も「大丈夫」と押しのけて、あわや第二戦、というところで、「おい」という低い声が離れたところから割り込んだ。カウンターの向こうの宜安ぎあんがこっちを見ている。


「いつまで油売ってる。皿がない。洗ってこい」


 客が少なくなったといっても、営業中だ。雇い主の言葉には逆らえない。

 勝って上機嫌のジロを置いて立ち上がると、途端、足元がふらついた。


「おいおい、大丈夫かあ?」

「うるさい」


 声をかけたジロに返し、空になった杯と皿を持ってカウンターの中へ戻る。


「加減もわからないやつが、無茶するな」

「大丈夫だって」


 戻ると同時に忠告した宜安ぎあんに、言い返す。

 宜安の足元のたらいに、下げた皿を重ねる。溜まった器を盥ごと持ち上げると、朱夏は裏口から外に出た。夜気が首筋を撫でて、酒で火照った体にはちょうどいい。喉から腹にかけては今も少し熱い。でも不快ではない熱さだ。盥を置き、しゃがんで目を閉じると、無意識に頭が揺れた気がして慌てて目を開けた。ジロや宜安ぎあんは突っぱねたが、今日の結果を見ると、残念ながら自分は酒にあまり強くはないらしい。いつも負けて酔っ払っているジロのことを弱いと言っておいて、そのジロに負けるとは。


 袖をまくると、汲んでおいた水をたらいに移し、束子で擦り始めた。

 やはり思いつきではうまくいかないものだ。勝てば何でもひとつ言うことをきいてくれるという条件。聞いた瞬間、これは使えると思ったのだが。


 下央かおうと離れ一人になり、はじめこそ何をするにも手探りだったが、店を手伝うにつれ、そこにいるだけで結構な情報が入ってくることに朱夏は気が付いた。

 麦の値段が下がったとか、どこの関所の検査が厳しくなったとか、南の村に盗賊が出ただとか。親父の耳が遠くなったとか、隣の男がまた浮気したらしいとか、どうでもいい話も多かったが、注意して耳をそばだてていれば、情報はいくつも拾うことができる。そのうち馴染みの客とは会話を増やすようにし、わからないことがあればすぐに尋ねた。酒を飲んで気をよくした男たちは、大抵のことはすぐに教えてくれた。少しずつだが、朱夏の頭の中の地図は広く、より詳しくなっている。


 しかし一番欲しい、茗野めいの宋重そうじゅうの情報は、なかなか入ってこなかった。人々の噂を集めたり、城の周りを探ってみたり、朱夏なりにできることをしているつもりだが、これという手ごたえは掴めていない。そもそも、城下の人々は、茗野が万理ばんりにいることはおろか、反宋はんそう軍に関わっていること自体知らないようだった。つまり、途斗ととから聞いた以上のことは、まだ何もわかっていないのだ。宋重に関しても同じである。


 だから、ジロがあの条件を出してきた時、漠然とはいえ、これは何かの突破口になるかもしれないと感じたのだ。たかが酒の勝負だから、大したことは頼めない。それに茗野めいのの居場所を探って欲しいとか、具体的すぎるのもだめだ。そもそも、そんなことを頼んだところで普通の人には調べられないし、何でそんなことが知りたいのかと、必ず尋ねられるだろう。だが朱夏は、誰彼かまわずに自分の過去を話す気はない。楽しい思い出じゃないというのもあるが、それに加え、朱夏しゅかを慎重にさせたのは、今、万理ばんりは平和だという事実だ。


 万理に来るまでは、反宋軍というものはもっと表に出た存在かと思っていた。姿かたちがではない。人々の間で、その存在が期待を持って囁かれるような存在だと思っていたのだ。けれどここで暮らす人たちにとって、反宋軍は必ずしも好意の対象ではないらしい。そもそも、こちらが水を向けなければ話題にすら上がらない。年月が経って穏やかな生活に慣れた人の中には、もう余計な波風は立たせたくないと願う人も多いらしい。利布りぶで暮らしていた時もうっすら感じていたことではあるが、それは朱夏にとって少なからず衝撃だった。


 さらには、別の気がかりもある。店を訪れる誰かが、反宋はんそう軍の一員である可能性だ。普通に客としてくるぶんにはいい。彼らなら普通の人が知らない情報も持っているだろう。だが逆に、その人の口から朱夏のことが伝わってしまう可能性もあるのだ。反宋軍の一員である、途斗とと矢己しきに。彼らに自分がここにいることがばれたらどうなるか。それは避けたかった。

 酒の勝負の後に出しても不自然じゃなく、かつ自分の今後に役立つこと。何を提示するかは慎重に考える必要がありそうだった。


 盥の器を洗い終える頃になっても、外の寒さは朱夏にとって心地よいままだった。けれど、思考ははっきりしている。中からはまだ、にぎやかな男たちの声が聞こえていた。今日は店じまいが遅くなりそうだ。

 万理ばんりにやって来てしばらくは、このにぎやかさが新鮮だった。紅里こうり利布りぶも、夜は早かったし、その後しばらくはキスパの山中で下央かおうと二人だけだった。夜は静かなもの、という常識が、万理ばんりへ来て変わった。そもそも、住んでいる人の数が違う。

 ただ時々、静かな夜が恋しくなる。静かなといっても、無音ということではない。虫や動物の気配が満ちた、キスパの濃密な闇。ラングルの流れや、シグルの葉擦れの音が絶えることのない利布の夜。渇いた風が草原を吹き渡る音を聞きながら、火を囲んだ紅里の夜。万理の夜は、それらのどれとも違っていて、慣れはしたものの、決して馴染むものではなかった。

 中からは酔った男――おそらくジロが、酒の追加を頼む声が聞こえてくる。あの調子では今日も、店を出る頃には誰かの肩を借りていることだろう。

 束子を戻し腰を上げると、朱夏はたらいを持ち上げ中へ戻った。



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