1-3
翌日、昼までには戻ると崔己と約束して、二人は南の岩場へ行くことにした。
そこには、どこから運んできたのかわからないほどのたくさんの大きな岩があって、それらが並んだり重なったりしてかつては建物だったらしいという面影が残っている。しかし大部分が崩落しており、影の部分にはすっかり苔が生していた。もっと小さい頃に何の建物だったのか公衛に聞いたことがあるが、それは公衛も知らないということだった。ただ、今ではもうなくなっているものの、公衛の小さい頃には崩落した建物の中にも光る器や飾りがあったらしく、きっととてもお金持ちの家だったか、その頃の人たちにとって何か大切なものを祀っていた場所なんじゃないかと言っていた。
二人は横に並んだり、前後になりながら南へ向かい、岩場に辿りついた時にはうっすら汗をかいていた。
ぐるりと岩場の周りを一周したが、外から見えるところにシッダの姿はなかった。
「どこかに行っちゃったかな」
シッダと会うのは大抵いつもこの岩場だったが、実際どこで寝起きしているのか、さらに自分と会っていない時にシッダがこの草原のどこで何をしているのか、朱夏は知らない。だが、訪れた時に姿が見えなくても、大抵はしばらく待っているとふらりと現れる。ずっと待っても来ない時もあるにはあるが、それは稀だった。
せっかく矢己を連れてきたのだからシッダを待つことにし、いくつかの岩をよじ登って、草原を見下ろせる場所に座った。
正面を向けた東のほうには、はるか遠くのほうにいくつかの茶色っぽい点が見えた。羊だ。村の誰かの羊か、草原を移動しているどこかの家族の羊か、それはわからなかった。
紅里には、二種類の民がいる。家族単位で行動し、広大な草原を季節ごとに移動する者たちと、朱夏たちのようにひとつところに定住を決めた者たちである。大抵は草原を移動していた者たちが、諸々の理由で定住を決意し村に身を寄せることが多いが、いつでも両者には緩やかなつながりがあり、多少の流動もある。朱夏自身一度だけ、今でも移動生活を送っている叔父一家と共に草原を移動しながら暮らしたことがあった。
「あんたも来れば。眺めがいいわよ。あ、そっちの岩には乗っちゃだめよ、もう脆くなってるから」
所在なげに立っていた矢己を岩上に誘い、足をかける場所を注意する。最後の岩へ登るのには手を貸した。昨日の弓矢の構えから、きっと運動神経も悪くないのだろうと想像がつくが、この岩場では慣れている朱夏のほうが動きがいい。
横にずれてやると、矢己は少し間を空けて腰を下ろした。
「ほら、あんたの村はあっちでしょ? まあ、ここからじゃ何にも見えないけど」
南のほうを指差すと、岩場の比較的近くにぽつぽつと石碑が立っている以外は、本当に何もない、だだっ広い草原だった。ここからではラングル川はまだ見えない。矢己がやって来た利布もまだまだ南のほうだ。
「ねえ、あんたは、ラングルが氾濫したの見たことあるの?」
「あるけど……」
矢己は居心地が悪そうに答えた。ぶらぶらする足元が落ち着かないのか、朱夏が興味津々なのがうっとうしいのか。しかし、朱夏は気にせず続けた。二人並んで黙っているほうが退屈だ。
ラングル川の話は昨日の夜、崔己から聞いた。利布のそばを流れるラングル川の水源はキスパ山脈にある。そしてキスパ山脈では冬にしばしば雪が降る。それは紅里の草原から見てもはっきりわかるもので、山の半分から上が真っ白になるのだ。春がきてその雪が解けると、川が増水するらしい。それがひどい時は、村が川に飲み込まれるため、川が氾濫している時期だけ、村ごとそっくり山の中腹に移動するというのだ。そのために、昔から山の中腹には村人全員が移り住める仮の住まいがあるという。
「あんたも、山の家で暮らしたことがあるの?」
「あるよ」
「どうだった?」
「どうって……別に」
「あとさ、昨日も思ったんだけど、川が氾濫するのがわかってるんなら、ずっと高いとこにいればいいじゃない。何でわざわざまた川のそばに戻るの?」
「…………」
これは崔己にもぶつけた問いだった。
水が引いたからといってまた戻って家を建て直したところで、どうせまたいつか流されるのに。朱夏にはとても無駄なことをしているように思えたのだ。
崔己の答えは、
「ラングルは毎年氾濫するわけじゃないし、水が溢れた後の土は豊かになってシグルはもちろん他の作物もよく育つから、やっぱりラングルのそばを離れられないんだよ」
というものだった。
矢己はぶらぶらとさせた自分の足先を見つめながら言った。
「やっぱり山の家は、仮の家でほんとの家じゃないし」
「じゃあほんとの家を作っとけばいいんじゃないの?」
「だからほんとの家は、川のそばの家なんだってば」
「でもその家は、流されちゃうんでしょ?」
「造り慣れてるから、すぐ建てられる」
「山の上のは違うの?」
「山の家は土を掘って、岩で囲ってある」
だから少し、暗いし窮屈な感じがする、と矢己は付け加えた。
矢己が記憶している限りでは、山の家で過ごしたのは二年前に一度、十日間だけらしい。それでも早く前の家に戻りたいと思ったという。ただ、戻った家は流されてはいなかったものの、床や壁に砂泥や草がべったりついていて、大掃除をした後結局何枚かの板を張り替えたらしい。
「でもさ……、あ」
「?」
「シッダ!」
朱夏が呼んだ名前に、矢己も振り返ってその視線の先を追った。
草原に溶け込むような色のしなやかな体は、岩場のすぐそばまで来ていた。朱夏の声に足を止め顔を上げたシッダは、二人の姿を見つけても自分から近付いてこようとはしない。ただ、逃げることもない。
朱夏は腰掛けていた岩から飛び下りると、身軽に岩の上を駆けだした。最後の岩を飛び降りてシッダに両手を伸ばすと、その首に思いきり抱きついて顔を埋めた。日に干した後の敷布の匂いがする。でもそれよりも手触りはなめらかで、暖かくて、少し埃っぽい。何より、生きているものの匂いがした。満足して腕を緩めると、最後の岩から足を離そうとしていた矢己を振り返り、その到着を待った。
しかし、シッダと向かい合った矢己は、あと三歩の距離を残してその足を止めた。
「どうしたの?」
「うん……」
返事をした矢己はしかし、シッダを見つめたまま動かない。
「もしかして、怖いの?」
「別に、そういうわけじゃ……」
口を尖らせた矢己は、朱夏の言葉を振り払うように足を踏み出した。シッダの目の前まで近付いて見下ろすと、おずおずと右手を伸ばす。すると、その手が触れるか触れないかのところで、シッダが鼻に皺をよせて短く唸った。矢己が慌てて伸ばしていた手を引っ込める。
「やっぱり、昨日矢を向けたこと、覚えてるんじゃ……」
矢己の不安に、朱夏はきょとんとした。だから矢己は、躊躇っていたのか。
朱夏はシッダの横に膝をつくと、その首のあたりをがしがしと掻いた。
「シッダは賢いから覚えてるかもしれないけど、大丈夫」
「でも、今……」
「それはあんただって、そんな近くからずっと見下ろされて、いい気分はしないでしょ」
朱夏が指摘すると、矢己ははっとして素直に正面から体をずらし、シッダと目線を合わせるように自身もしゃがんだ。シッダが一度ぶるんと体を震わせると、鼻の頭によっていた皺は消えていた。
「ほら、触ってみなよ。気持ちいいよ」
欲しいのは朱夏ではなくシッダ本人の了承だろうが、ここまでくればと思ったのか、矢己は再び手を上げると、そっとその毛並みに触れた。
「……あったかい」
「でしょ?」
朱夏が自慢げに歯を見せる。
「シッダももうすぐ、お母さんになるのよ」
実は、昨日朱夏が競争に勝てたのは、純粋な実力ではなくそれが原因だとわかっていた。シッダのお腹には、朱夏の母、朋朱と同じように子供ができていた。身重の体になって、シッダもこれまでと勝手が違うのだろう。でも、勝ちは勝ちだ。
「お前も、元気な子を生まなきゃね」
すでに地面に腰を落ち着けた朱夏がシッダの背中を撫でる。
「雌なの?」
「そうよ。こんなに美人なんだから、雌に決まってるでしょ」
言い切った朱夏だが、顔を見るだけでは矢己にはわからないらしい。屈んで腹や足の間を見れば雌雄の別がわかるだろうが、こういう獣が進んで人間に腹を見せることはないから仕方がない。確かに雄と言われても仕方がないほどシッダの姿は凛々しく、かっこいい。けれどそれ以前に、朱夏の目にシッダは〈美しい生き物〉として映っていた。
矢己も慣れてきたようで、その毛並みを撫でる手に、次第に戸惑いは見られなくなった。
「子供がいるなら、お父さんはどこにいるの?」
「知らない。見たことないから」
「一度に何匹くらい生むのかな」
「さあ。三匹くらい?」
姿かたちが似ているヒョウは確かそれくらいは生むはずだ。
二人してシッダの体を撫でながらそのお腹を見つめていたが、途中で考えるのはあきらめた。
「あんた、弟がいるんだっけ」
昨日の親同士の会話を思い出して尋ねる。
「いる。一人」
「ふうん。いいなあ」
「そっちだってもうすぐ生まれるんでしょ」
「そうだよ。あーあ、早く生まれないかなぁ」
実は数年前、弟か妹が生まれそうになったことがあったらしい。ただ、それがどちらだったのかは、わからないままその命を終えてしまった。その年の秋から冬にかけては例年になく昼夜の寒暖の差が激しくて、朋朱は体調を崩し、身ごもったばかりの子は流れてしまった。それからようやくの、待望の第二子だ。
両親はもちろん、朱夏もその誕生が待ち遠しくてたまらなかった。知らされてからというもの、母親のお腹を撫でながらの「おはよう」と「おやすみ」の挨拶は欠かしたことがない。
だから、常日頃から男の子がいいと言ってはいるが、もし女の子が生まれたとしても、朱夏はちゃんと可愛がってあげるつもりだった。男の子だったら、一緒に遊んで、喧嘩も強くしてあげる。女の子だったら、それは確かに少しは残念だろうけど、きちんと面倒を見て、意地悪な子から守ってあげる。
するとふいに、撫で回されるのに嫌気がさしたのか、シッダが立ち上がって二人の腕をするりと抜けた。
「どこ行くの?」
「さあ……岩場をぐるっと回るときもあるし、そのまま離れちゃう時もあるけど……」
「ついて行っても大丈夫?」
「うん。でも、あんまり追いかけると隠れちゃうから、ほどほどにしたほうがいいよ」
自分の経験からそう注意してやると、矢己は「わかった」と言い残して、シッダの後ろ姿を追いかけていった。
その姿が岩の向こうに消えてから、朱夏はごろんと草の上に寝転がった。首筋に当たる草がくすぐったい。
(弟ができたら、こんな感じかな)
昨日こそ無愛想な子だと思ったが、シッダを目の前にしてからの矢己はといえば素直なものだ。矢を放ったことを気にしていたところなんて、今思えばすごく可愛い。
昨日は朱夏もついかっとなってしまったが、矢己の態度が頑なだったのは、朱夏のせいもあったのだろう。勘違いとはいえ父親と一緒に助けようとしてくれたことからも、本当は、勇気のある優しい子なのかもしれない。
村の子を、今日の矢己のようにシッダと会わせたこともあるが、怖がって遠巻きに見るだけか、悪戯がすぎて怒ったシッダに驚いて、二度と近付きたがらないかのどちらかだった。
もしも今日矢己がシッダと仲良くなれたなら、すごく嬉しい。矢己の家は利布だからそう頻繁には来ないだろうが、矢己と、これから生まれる弟と、シッダと。みんなで競争ができたら、それは楽しいだろう。弟が生まれてから一緒に遊べるようになるまでにはしばらくかかるだろうが、きっとその時間を待つことすら楽しいだろうと思った。でももしかしたら、弟が一緒に遊べるくらい大きくなった時には、仲良くなるのはシッダではなく、その子供のほうかもしれない。動物は人よりも子供を産むのが早いから、シッダの子供のほうが、朱夏の弟より先にこの草原を踏むことになるのだろう。
想像して口元が緩む。うんと伸びをして両腕を地面に投げ出すと、瞼を閉じた。今日もいい風が吹いている。草を撫でる音が耳に心地いい。一つ大きな深呼吸をすると、朱夏は目を開けた。空を薄い雲が流れていく。
矢己はまだ戻ってこない。どこまで追いかけて行ったのか。せっかくシッダに会いに来たのに、自分だけ一人でぼーっとしているのももったいない。競争にでも誘ってみようと起き上がり、朱夏は髪の毛に付いた草を払いながら二人が消えたほうに足を向けた。
ちょうどその時だ。
岩の向こうから「うわっ」という声が聞こえた。続いて、がらがらっと何かが崩れる音。いや、何かではない。ここで崩れるといったら岩しかない。
「矢己?」
名前を呼んで耳を澄ますが、返事はない。
まさか。
嫌な想像が頭を過ぎる。
「矢己!」
それまでのほっこりした気持ちは吹き飛んで、朱夏は声のしたほうに急いだ。