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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
2/55

1-2


 利布りぶ紅里こうりより南にある村だ。

 紅里の草原をずっと南に下り、草の色が次第に濃くなり、丈が長くなるとその向こうにラングル川が現れる。季節によってその川幅が変わるラングルを越えれば、そこが利布だ。

 川辺には昔からシグルという植物が自生しており、それを煮出した汁に布をつけておくときれいな藍色に染まる。利布の人々は、今では畑を作ってシグルを栽培し、その汁で染めた布を、他の村で売ったり、別のものと交換したりして生計を立てている。シグルで染めた布は手触りがよく、その深い藍色は悪いものを払うとも言われていた。


 村まで案内した崔己さいきたちはそのまま、まず一番に朱夏しゅかの家にやって来た。木組みと不織布で丸く囲われた家の中、朱夏の母である朋朱ほうしゅは、崔己から藍色の布を受け取ると、手触りを確かめるようにその表面を撫でた。


「そうねえ、そろそろ産着を作り始めようと思っていたところだけど……」


 朋朱の腹部はまだそこまで目立っていなかったが、口にした言葉に加え、直後に腹部に触れた手の動きからも、そこに新しい命が宿っているのは明らかだった。


「いつ頃生まれる予定ですか?」

「きっと、あと五回ほど月が満ち欠けすれば」


 朋朱の目が、柔らかく細められる。その笑みは、見ている人まで幸せにするような、温かい笑みだった。朱夏は、母親のその笑顔が大好きだった。


「きっと弟よ」


 朋朱の横でごろごろしていた朱夏は、腹ばいになって母の膝に甘えた。


「まだわからないわよ」

「弟がいい。弟にして」

「それは、お母さんには決められないの」


 朱夏の駄々に、朋朱がくすくすと笑ってその頭を撫でた。


「どうして弟がいいんだい?」


 すでに妹がいるならともかく、この家に子供はまだ一人だ。崔己の問いに、朱夏は迷うことなく答えた。


「だって男の子のほうが元気だし、一緒に遊べるし、きっとシッダを怖がらないから」

「女の子でも元気で、怖がらない子かもしれないよ」

「いや。弟がいいの」


 頑なな朱夏に崔己さいき朋朱ほうしゅを見ると、朋朱はその指先で娘の前髪を分けながら答えた。


「この子は男の子が生まれたら、自分の子分にしてこき使うつもりなんですよ」


 でも、と朋朱が露わにした娘の額に人差し指を押し付ける。


「生まれるのが弟でも妹でも、お姉ちゃんは、優しくしてあげないとだめなのよ」

「わかってるよ」


 その指から逃れるように体を横にすると、朱夏は崔己が布と一緒に取り出していた、糸の束を取っていじり始めた。その糸ももちろん、シグルで染めてある。

 顔を上げた朋朱と崔己の目が合い、苦笑した朋朱が補足する。


「この子と同じ歳くらいの女の子は、もうみんなかけっこや棒遊びからは卒業してしまってるんです。機織りやお話を聞くほうに興味があって」

「話を聞くのはあたしだって好きよ」


 朱夏が口を尖らせる。娘のそんな表情に、朋朱が温かい視線を注ぐ。


「きっと妹が生まれたら、その子も他の女の子と同じようになると思ってるんだわ。でも、この子が欲しいのは、一緒に遊べる相手だから。体が丈夫で、走り回るのが好きで、シッダを怖がらないことが一番大事なの。……そうでしょ?」

「うん」


 その子が一緒に遊べるくらいまで成長した頃には、朱夏のほうがやんちゃな遊びに興味を失っているかもしれないが、そんなことは今子供の朱夏は思いもしないのだろう。


「なるほどね」


 崔己は大人のおおらかさでもって朱夏の理屈に頷いた。朋朱が顔を上げる。


「そちらは、お子さんは一人? さっきの……」

矢己しきといいます。あれは一番目で、下にもう一人男の子が。これがもうやんちゃで、手を焼いてますよ」

「まあ。元気なのはいいことよ」


 話題に上った矢己といえば家には入らず、外で自分たちが連れていた老馬に水をやっている。


「うちの子二人も、産着はこの布で作ったんです。男の子にしろ女の子にしろ、シグルの青は魔よけの色だから、きっと悪いものから赤ちゃんを守ってくれますよ」


 ただいじるのに飽きた朱夏が、両手にかけた糸を指で取り合って遊びだしたのをそっと取り上げると、朋朱はその糸を撫でた。


「そうね……布を一着分もらう余裕は、ちょっとないんだけれど。糸を少しだけでもいいかしら?」

「もちろん」

「それならこの束をもらって、織り込みましょう。刺繍もいいかもしれないわね。……ね、いいかしら、あなた」

「ああ。お前に任せるよ」


 石の器で薬草を擦り潰しながら、黙って会話に耳を傾けていた公衛こうえが目を細めた。


「今、硬貨はあまり手持ちがないの。物々交換でもいいかしら?」

「いいですよ」


 了承を得た朋朱が、膝に乗っていた朱夏の頭を下ろし、糸と交換するものを探しに家の奥へ向かう。丸く囲われた家の中に仕切りはないが、どこで何をするか、何を置くかはだいたい決まっている。


「朱夏、こっちにおいで」


 母のぬくもりがなくなった代わりに公衛に呼ばれ、朱夏は寝そべっていた体を起こし四つん這いで父親に近付いた。


「右手を出してごらん」


 ぺたんと座り素直に右腕を出すと、公衛はそれまですり潰していた薬草をすくい、朱夏の腕に乗せていった。シッダの牙がかすって、血が滲んでいたところだ。


「放っといても治るのに」

「そうだな」

「じゃあ何でつけるの?」


 傷口を薬草で覆うと、公衛はその上に布を当てた。


「次に会った時この傷をシッダが見たら、自分が朱夏を傷つけてしまったんだって、後悔するかもしれないだろう?」

「そうかな? わざとじゃないのに」

「だって、朱夏とシッダは友達なんだろう?」

「うん」

「朱夏はもし友達に怪我させてしまっても、平気かい? わざとじゃなくても?」


 公衛の問いかけに、朱夏は視線を一旦上に上げて、布が巻かれていく自分の腕に戻した。


「平気じゃない……かも」


 自分がシッダの綺麗な体に怪我させてしまうなんて、考えたくもない。


「だから、早く治すためにつけるんだよ」

「シッダが見ても、気にならないように?」

「そう」

「わかった」


 朱夏しゅかが頷くと、微笑んだ公衛こうえの瞳の茶色が深くなった。公衛の瞳は、光の加減や見る角度で少しだけ色が変わる。茶色から、一匙の緑を加えたような深い色に。そんな父の瞳も、朱夏は大好きだった。

 公衛は傷の上を覆った布の端と端を結ぶと、朱夏の右手を解放した。

 朋朱ほうしゅが両手にいくつかの物を抱えて崔己さいきの前に戻ってくる。


「この中に、釣り合うものがあるかしら」


 夏に刈った羊毛で作った不織布に、同じく羊の胃袋で作った水袋。何かの角の欠片に、鳥やウサギの干し肉、そして手のひらより少し小さな小箱がひとつ。朋朱が蓋を開けると、羽の耳飾りが入っていた。

 敷物の上に置かれたものの中から、崔己は畳まれた不織布に手を伸ばす。


「これから冬なのに、これはいらないんですか?」

「ええ。屋根の補修分はもうまかなえたし。あればあったで使い道はあるけど、急いで作らなきゃいけないものはないから。一着作るのに少し足りないのが申し訳ないけど、冬はこれを服と服の間に挟むだけでも暖かいのよ」


 崔己は他のものにも順番に目をやったが、そう悩むこともなく決断した。


「今使ってるのがだいぶくたびれてるから、これにします。これからの季節、この不織布ほど温かいものはないですから。……でも、これじゃこっちがもらい過ぎだ」


 言うと崔己は、自分が持ってきたシグルの布を取り上げた。


「これだけのものをもらうなら、やっぱりそちらも、糸じゃなく布をどうぞ」

「え……いいんですか?」


 若干の戸惑いを見せた朋朱の手に、崔己が布を持たせる。


「ええ。それで等価です」


 頷いた崔己に、朋朱も笑顔になった。


「ありがとう」


 じゃあ、と耳飾りの小箱に手を伸ばす。


「これは、私から贈り物です。奥さんへのお土産にしてください」


 耳飾りに使われていたのは、鳥の風切り羽根だった。先にいくほど濃い鳶色になる羽は、左右に傾けると緑のような臙脂のような不思議な輝きを見せる。根元の柔らかそうな羽毛の上には、赤い小さな石が二つ嵌めてあり、耳に引っかけるカーブへと続く。


「以前夫が射た鳥の羽が綺麗だったから、いくつか身を飾るものを作ったの」

「こんな素敵なもの、もらえません。第一、妻は着飾ることにはあまり興味がないですし……」


 やんわりと崔己が押し戻すと、朋朱が小さく首を振った。


「女性なら、普段身につけない人でも、持っているだけで気持ちがうきうきするものなんですよ」

「しかし……」

「使っている石も、元々私が持っていた古い装飾品の使い回しだし、本当に大したものじゃないの。だから、遠慮しないで」


 蓋をして小箱を差し出した朋朱に、しばらく迷った後、崔己は礼を言い受け取った。




     *    *    *




 草原の夜は寒い。それを身をもって知っている紅里こうりの村人は、総じてやってくる旅人に優しかった。村をひと巡りしシグルの布をいくつかのものと交換した崔己さいき親子は、夜になり、朱夏しゅかの家に泊まることになった。

 ささやかな食事を終え、互いの村のことを話し、夜も更けた頃、自分の荷物から毛皮を取り出していた崔己のそばに、矢己しきの姿がないことに朱夏は気がついた。


「ねえ、あの子は?」


 袋の口を閉めている崔己の肩をつつくと、崔己は息子の不在をとっくに知っていたようだった。


「矢己なら外だよ。きっと星を見てるんだろう。あの子は星を眺めるのが好きだから」

「もう明かりを消すわ。朱夏、呼んできてあげなさい」


 明かりを消すと、家の中は真っ暗になる。満月だと煙を逃がす穴から月明かりが入ってきて多少物の判別がつくが、今日の月明かりは弱かった。後から家に入ってきて、足でも踏まれると困る。

 朋朱ほうしゅに促された朱夏は素直に家を出て、左右を見渡した。まだ細い煙が上って入り口からぼんやり光が漏れている家もあるが、ほとんどの家はすでに眠りについているようだった。昼間は熱を孕んだ風が、今は冷たい手を伸ばして首筋を撫でていく。

 すると、家の裏側から小さなくしゃみが聞こえてきた。回りこむとそこには、膝を抱えた矢己がいた。昼間はかぶっていなかった耳まで覆う帽子をかぶり、背中を家の壁に預け、じっと空を眺めている。


「もう明かりを消すから、中に入って」


 しかし声をかけた矢己は、ちらりとこちらを見ただけで、動こうとしなかった。案内の道中や食事の間に崔己とはすでに打ち解けていた朱夏だったが、息子の矢己とはほとんど言葉を交わしていない。


 矢己しきは、昼間シッダのことで脅しをかけたのをまだ引きずっているのか、声をかけた朱夏を見た途端、表情が硬くなったようにも見えた。

 その態度に朱夏もいい気はしなかったが、顔には出さずに近付いた。崔己が言うには、矢己は今九歳らしい。このあいだ十歳になった朱夏からすれば、一つとはいえ年下だ。それなら多少引っかかることがあっても、おおらかな気持ちで見てやらなければいけない。自分に弟か妹ができると知ってからとるようになったその「お姉さんぶる」態度が、周りから見るとおかしくもあり、微笑ましくもあるのだが、朱夏は自分が大人たちからそんな目で見られていることはまったく知らなかった。


「いつからこうしてるの? 寒いでしょ?」


 ご飯を食べる時は一緒に炉を囲んでいたから、外に出たのはそれからだろう。崔己さいきの話す利布りぶの様子に耳を傾けていた朱夏は、矢己が出て行ったのに気がつかなかった。

 朱夏に話しかけられた矢己は空を見るのもやめて、少し前方の地面に目を落としていた。うんともすんとも言わない矢己に、朱夏は早くも苛々してくる。


「ねえ、中に入ってよ。明かりが消せないじゃない」


 声に含まれる苛立ちに気付いたのか、ようやく矢己が口を開いた。


「朱夏は……」

「何よ」

「あのヒョウのこと……いつから知ってるの?」

「ヒョウ……? ヒョウって何よ」


 その問いは意外だったらしい。矢己は一瞬虚をつかれたような顔をして、その後しばらく考える様子を見せてから言葉を変えた。


「昼間の……友達だって言ってた、四本足の」

「シッダのこと?」


 確認すると、矢己はかすかに頷いた。


「シッダはヒョウじゃないわよ」

「じゃあ何なの」

「シッダはシッダよ」

「…………」


 矢己が言う「ヒョウ」を、朱夏も知っている。でも、シッダにはヒョウ特有の模様がない。シッダ以外の同じ動物を見たこともない。祖母が生きていた頃、彼女はシッダのことを「ジャヤ」と呼んでいた。ジャヤは草原の神様が地上の空気を楽しむための、かりそめの姿だと。だからその姿は紅里の草原から生まれたみたいに、全身が輝く黄土色なんだと。

 シッダの場合は右耳の後ろに唯一、少しだけ濃い色の毛が混じっている。だが、朱夏がシッダのことを神様の仮の姿だと思ったことは一度もない。シッダはシッダだ。気まぐれで、でも寂しい時はそばにいてくれる、朱夏の一番の友達だった。


 矢己がなぜ今シッダのことを聞いてくるのかわからず、朱夏は首を傾げた。しかし、矢己がまた黙ってしまったので、仕方なく質問に答えることにした。


「仲良くなったのは、三年くらい前だと思うけど」

「どこで?」

「ここから南にちょっと行ったところに、崩れた岩場があるの知ってる? あそこにいたの。最初は素っ気なかったけど、通ってるうちに仲良くなったの」


 ごく簡単に説明したが、実は最初の頃は朱夏も初めて見るシッダのことが珍しくて、姿を隠そうとする尻尾に付きまとって、怒らせてしまったことが何度もある。


「それがどうかしたの?」

「別に……」


 説明させておいて「別に」とは何事だと思ったが、口を閉じた矢己に、朱夏は一つ、思い至ることがあった。


「……あ」


 声を漏らした朱夏に、矢己が顔を上げる。


「あんた、あんたもシッダと仲良くなりたいんでしょ」

「っ……」


 ぎくりと表情が固まって、矢己が慌てて顔をそらした。その反応は、図星だ。


「ほら、やっぱり。そうならそうって言いなさいよ」


 うらやましかっただけなんだとわかると、急に目の前の少年が可愛く見えてきた。


「別にそんな、仲良くなりたいとかじゃなくて……」

「じゃあ何なの?」

「だって、ああいう動物って……人に懐きそうになかったから、驚いただけで……」


 とか言いつつも、朱夏にはもう誤魔化しているようにしか思えなかった。


「じゃあ明日、あんたも岩場に行ってみる?」


 わざわざそんな気遣いをしたのは、慌てる矢己が可愛く見えたのもあるが、シッダに興味を持ってくれる子がいたことが嬉しかったからだ。


「行ったら、いるの?」


 申し出に飛びつくのが嫌なのか、矢己はもごもごと聞いてきた。


「会える時も、会えない時もあるわ。でも、シッダは村の近くまでは来ないから、会いたいならあたしたちから行かなきゃだめよ」

「…………」


 矢己の答えを待つ間に、朱夏の体も冷えてきた。矢己はよくこんなに長い間、外でじっとしているものだ。朱夏は自分の体を抱いて、答えを催促する。


「行くの? 行かないの?」


 あたしはどっちでもいいけど、と付け加えると、矢己はまたしばらく迷った末に、小さな声で「行く」と呟いた。



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