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紅里の風  作者: 泉 五月
第一章
1/55

1 出会い



 紅里こうりの風が好きだ。


 風は、西のキスパ山脈を越えてくる。

 最も高いところは雲にも届きそうな山々から吹き下りてきた風は、草を撫で、土を撫でながら、遮るもののない草原を吹き渡るうちに日の光と混ざり合う。湿気のなくなった空気は肌にまとわりつくことはなく、さらりとひと撫でしただけで背中に流れていく。


 目を閉じて深く息を吸うと、風は紅里そのものの匂いがした。大部分は大地を覆う草で、あと少しはその下に横たわる土と、ここに来るまでに戯れてきた日の光の匂い。時期によってはかすかに花の清涼さが加わることや、雨の先触れを含んでいることもある。


 鼻から吸い込んだ風は、そのまま喉の奥を滑り、いっぱいに膨らんだ胸の中で一度小さなとぐろを巻き、そして、溶け込んでいく。こうして、それまでに風が触れてきたもののすべてを自分の中に取り込むと、この体も紅里の一部になったような気がした。足の裏に感じる地面に、肌を撫でる風に、その存在が少しだけ近付くのだ。


 ゆっくりと瞼を上げると、黄色の草原が広がっていた。紅里の地を這う草のほとんどは、緑というより黄色に近い。きっと遮るものもなく一日中日の光が当たるから、植物も全部太陽の色に近づいているのだろう。だからか、この草原にじっと立っていると、いつも足の裏から熱が伝わってくるような気がした。地面に顔を近づけると、それだけ吹く風も温かく感じる。


 朱夏しゅかは地面に片膝をつくと、隣の相棒の肩を抱き寄せた。自分よりも少し温かい体。

 目線の高さを合わせると、目の前をなだらかに下る斜面の先に立つ、小さな石柱を指差した。いつ、誰が立てたのかもわからない、朱夏が生まれるずっとずっと前からそこにある傾いた石柱だ。


「いい? 今日の目印はあそこ。手加減はなしよ。勝っても負けても、恨みっこなしだからね」


 念押しのように抱いた肩を揺すると、相棒は「はいはい」とでも言うように、ゆっくりとその腰を持ち上げ、朱夏の腕からするりと抜け出した。朱夏も、立ち上がって膝についた草を払う。

 相棒は小さな円を描くように一周すると、再び朱夏の隣に立った。ただ、その体は朱夏が指差した石柱には向いていない。石柱に向かって立つ朱夏の右半身に自分の尻を向けて、素知らぬ顔で北のほうを向いている。

 けれど、朱夏は気にしていなかった。この相棒はいつもそうなのだ。話しかけても、一緒に何かする時でも、いつも興味がなさそうな態度を取っておきながら、いざその時となると、一瞬でがらりと気配を変える。


「シッダ、いい?」


 相棒の名前を呼びながら、朱夏は帯の上に巻いた飾り紐の結び目をきつくした。以前走っている途中に飾り紐が解けて落としてしまい、だだっ広い草原の中を一日中探すはめになったのだ。それからは走ったり馬に乗ったりする前には必ず、結び目を確かめるようになった。

 真右を向いていた相棒は、待ちくたびれたのかさらに右後方へと体の向きを変えていた。でも最近は、そんなやる気のなさそうな態度も、実は自分を油断させるためのふりなんじゃないかと朱夏は思い始めている。

 横目でちらりと相棒の姿を盗み見ると、すっと息を吸った。


「よー……い」


 それを聞いたシッダの耳が、ぴくりと動く。


(ほらね)


 朱夏は笑う。

 つまりはシッダだって、この勝負が好きなのだ。


「――ドン!」


 合図と同時に、足の裏で思い切り地面を蹴った。置き去りにする景色の端で、相棒の体が向きを変えたのが見えた。

 草原を渡る風のように。地面を蹴る度に、その体は軽くなって。足を動かしている意識も薄くなり、草原の景色は太い黄色の線となって視界を流れていく。

 その黄色の中に、後方から、光の色をした塊が入ってくる。シッダだ。しなる体は、時折朱夏に近付いたり、離れたりしながら、草の端を蹴立てて同じ目標に向かって駆け続ける。


 シッダが一番かっこいいのは、草原を駆ける姿だ。地面を蹴ったその振動が足を伝わり、全身がしなり、その動きに合わせて体が光る。シッダが走る姿を見るのが好きで、でもその姿が見えるということは、シッダが自分よりも前を走っているということで、一層足を速めようとするのだけど、結局追いつけず、わずかの差で負けてしまう。それが、二人の勝負の常だった。


 しかし今日は、石柱まであと少しというところで、いつもと違うことが起こった。斜め前方を走るシッダの足が、わずかに鈍くなったのだ。

 あと七秒のところでその後ろ足に並び、あと五秒のところで肩に並び、あと三秒のところで鼻に並び、そして石柱を通り過ぎた時には視界からシッダの姿は消えていた。


「やったー―っ!」


 朱夏しゅかは両手を広げて声を上げると、速度を緩めながら大きな弧を描き、通り過ぎた石柱に戻る。朱夏に抜かれた時点であきらめたのかそれとも着いてから急停止したのか、シッダの姿はすでに石柱のそばにあった。

 走りながら背をかがめると、朱夏は逃げようとした相棒の体に抱きついた。耳元でシャッ、とシッダが牙をむいたのがわかったが、構わずにその首を抱きしめて地面に倒れこむ。ごろごろと上下を入れ替わりながらも、腕の中の体が跳ね、逃れようと足で蹴りつけてくる。


「あっはっはー! そんなに悔しい? でも勝ちは勝ちだもんねー」


 勝ったのはいつぶりだろう。初めのうちは確かに、自分がシッダより先に目標にたどり着くこともあった。しかし、「よーいドン」という合図で始まるものを、シッダが「勝負」だと理解してからは、もしかしたら初めてかもしれない。


 シッダが上になって、二人の回転は止まった。両肩を押さえられ、後ろ足の片方も腹に乗せられ、全力疾走した挙句に大笑いした身としては少し苦しい。


「いてっ、ちょっと怒んないでよ。悔しいのはわかるけどさ」


 顔を叩こうとするのを首を捻って避け、首を狙う口に自分の右腕を噛ませながら、朱夏は笑っていた。額には汗がにじんでいる。息は全然整わないし、腕を噛んだシッダの体も口の中も、いつもより熱かった。

 勝負の後に、シッダがこんなに絡んでくるのも初めてだ。よっぽど悔しかったのか、それともこれは褒めているのか。


 しかし、そうして楽しくじゃれあっているところで、急にシッダの表情が変わった。

 反応は早かった。

 シッダが朱夏の上から飛び退くと同時に体を返すと、シッダの牙が向くほうを見た。

 風を切る鋭い音が耳をかすめたかと思うと、朱夏の鼻先数歩手前の地面に、矢が突き立った。青みがかった茶色い矢羽が小さく震えている。



「大丈夫か!」


 視線を転じると、矢が飛んできた方角に、大小二つの影が見えた。

 ひどく慌てた様子で近付いてきたのは、そう背の高くない細身の中年男と、自分と同じ歳くらいの少年だった。すでに次の矢を準備しているのは、大人ではなく少年のほうだ。

 朱夏は伏せていた体を起こすと、目の前に突き立った矢を掴んで引き抜いた。その場で姿勢を正すと、近付いてくる二人をきっと睨む。


「何のつもり?」

「え?」


 朱夏の発した言葉に、二人ともが足を止めてきょとんとした。

 明らかに怒っている朱夏と、その向こうのシッダを交互に見て、年かさの男は戸惑いの表情を見せる。それを尻目に、朱夏は少年の番えた矢がまだ自分の相棒に向いているのを見て、思い切り眉をしかめた。


「それを下ろして」


 朱夏の要求に、少年は迷いを見せるようにちらりと大人のほうを見た。


「早く下ろして!」


 言うが早いか、朱夏は少年に近付くと、その手が持つ弓を引っ張った。驚いた少年の構えは崩れたが、弓を手放そうとはしなかった。


「何するんだよ」


 発した声は、思ったよりも幼かった。足を踏み出した少年が、奪われまいと弓を握る手に力をこめながら朱夏を睨む。


「そっちこそいきなり何なのよ」


 自分に引き寄せた弓を握り締めて、朱夏も少年を睨み返した。

 しかしそこで、大人のほうが「あ」と声を漏らした。つられて振り返ると、シッダがこちらに背を向けて、三人から離れていくところだった。その足取りは悠然としていて、その場を去ることにまったく未練などなさそうだった。


「……何してくれたのよ」

「え?」


朱夏はくるりと首を戻す。


「せっかくの楽しい気分が、台無し!」


 引っ張り合っていた弓を少年の胸に押し返すと、ぷいと顔をそらしてその場を離れようとした。シッダが帰るなら、自分もここに用はない。


「あ、君……」


 男の呼び止める声に、朱夏はぐりんと首だけ回した。不機嫌さを隠さないふてぶてしい態度の朱夏に、男は苦笑を浮かべた。


「襲われてたんじゃないんだね?」

「襲われてた?」


 男の勘違いに、朱夏は首だけでなく体も全部向け直した。


「シッダがあたしを襲うわけないじゃない。遊んでただけよ」

「血が出てるけど、大丈夫かい?」


 言われて朱夏も目を落とす。指差された腕には確かに赤い線が走っていたが、こんなのは大したことではなかった。じゃれている時にシッダの牙か爪が当たったのだろう。


「こんなの、いつものことだもん」


 強がりではなかった。それに、もしもシッダがこの傷に気付いていれば、真っ先に舐めてくれるはずだ。


「ねえ」


 今度は幼い声がかかった。幼いけれども、落ち着いた声だ。だから朱夏も目を向けた。


「それ、返して」


 少年が、矢を握ったままの朱夏の右手を指していた。

 気持ち的には地面に投げつけてもよかったのだが、矢はたった一本でも作るのには時間がかかる。それを知っているから朱夏は唇を噛んだ。

 大きな歩幅で再び少年に近付くと、握っていた矢を顔の目の前に突き出した。


「へたくそ」

「っ!」

「もしシッダを傷付けてたら、ただじゃ済まなかったわよ」

「……どういうこと」


 矢の向こうの目は真っ直ぐ睨み返してくる。見た目は自分より背も低く年下に見えるが、さっきの弓の構えといい、その目つきといい、中身はそう幼くはなさそうだ。朱夏と同じように不満げな空気は垂れ流しだが、あたり構わず激昂しそうな様子はない。

 でも、それが何だ。そんなこと今は関係なかった。


「もしもシッダを傷付けてたら、この矢でシッダが傷付いたのと同じところを、あたしが刺してやる」


 朱夏の言葉に、少年がかすかに目を丸くした。大人のほうもまったく同じように表情を変えたのを見て、この二人は親子なのだと思った。


「当然でしょ。シッダはあたしの大事な友達だもの」

「友達……?」


 朱夏の言葉に反応したのは少年のほうだった。その表情から、かすかな驚きが読み取れる。


「何よ」

「…………」


 朱夏の問いかけに、少年は黙ったままだった。代わりに父親が腕を伸ばし、朱夏が突き出していた矢を受け取った。


「君は、この先の村の子かい?」

「そうだけど?」

「名前は?」

「朱夏。公衛こうえ朋朱ほうしゅの娘。紅里こうり朱夏しゅか


 はっきりと名乗った朱夏に、男が名乗りを返す。


「私は崔己さいきだ。利布りぶの崔己。この子は息子の矢己しき


 崔己は隣に立つ少年の肩に手を置いた。


「悪いことをしたね。僕らはてっきり、君が襲われてると思ったんだ。でも君の友達を、本気で射ようとしたわけじゃない。それは、わかってくれるかい?」


 素直に謝罪を口にした崔己に、朱夏は少しだけ刺々しい態度を収めて、頷いた。

 本気でシッダを狙ってあの位置に矢が刺さったのなら、本当のへたくそだ。そもそもそんな腕なら、もつれあってどちらに当たるかわからない状況で矢を射たりはしないだろう。それでも「へたくそ」と言ったのは、楽しい時間を邪魔されたからだ。


 頷いた朱夏に、崔己は「ありがとう」と、ほっとしたように微笑んだ。

ゆっくり話すところが、父の公衛に似ていた。しかしその息子、矢己は父親の穏やかさをあまり引き継いでいないように思われる。

 黙ったままの矢己に、朱夏はすぐに興味を失った。飾り紐がついていることを触って確認して、今度こそその場を去ろうとする。それを、またしても崔己が止めた。


「ああ待って。家に帰るのかい?」

「そうだけど?」

「それなら、一緒に行ってもいいかい?」


 崔己さいきの申し出に、朱夏は首を捻った。


「いいけど、何で?」

「僕らは利布から来たんだ。これを……」


 崔己は背に負っていた荷の肩紐をはずし、籠からきれいな藍色に染められた布を取り出した。


「色んな村に行って、売ってるんだよ。これから、君の村に行くところだった」


 崔己の手の布に目を落とした朱夏は、少しだけ口を尖らせた。


「他の色はないの?」

「え?」

「あたし、青より赤のほうが好き」

「それは残念だ」


 気遣いなしの朱夏の言葉に、崔己は怒ることなく苦笑しただけだった。





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