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2018年 平成30年 夏──。

 今年もやって来ました猛暑の季節──。

 現市長は知事と共に、今日はなんと海パン姿である! ご丁寧にも市長は赤、知事は白のスイミングキャップを被っている。しかも二人が並んで立っているのは、なんと大阪城の南外堀『大手口』で、堀に面して設けられた特設の飛び込み台の上である。はて? なんでまた首長の2人が裸で!? ひょっとして古式ゆかしい水難救助訓練でもおっ始めようとでもいうのか!?

 時は7月1日──。

 梅雨明けにはもう少し間があるが、今日は朝からギンギラギンに太陽満開。実はこの日、大阪人が待ちに待った『大阪城プール』の柿落としである。

 『大阪城プール』? と、聞いて訝しむ人がいるかもしれないが、このプールは現市長の肝煎で取り組んだ大阪創生事業のひとつなのだ。この計画の前進は数年前に大阪市民への注目度アップ、あっと驚く話題作りにと堺屋太一が提唱した「大阪十大名物案」のひとつ『道頓堀プール』構想であった。同プールは3年前、平成27年の道頓堀川開削400周年に合わせ、地元商店街関係者らが会社を設立し準備を進めていたが、資金集めが難航した。おまけにプール設置により運行できなくなる観光船業者との調整もつかず頓挫した。

 現市長は第20代大阪市長に初当選した時から、念願の大阪都構想実現に向けて、エポック・メーキング的な話題をと、ずっと考えていた。前市長からも「奇抜なアイデアを積み重ねて話題を集めるように」とアドバイスを受けていた。

 そうや! 安井道頓にちなんだ事業や! もういっぺん『道頓堀プール』の見直しや。安井道頓の最後は、道頓堀とちゃうで。大阪夏の陣で、豊臣秀頼に味方して大阪城で討ち死にした。そや、これや、これ! 道頓堀があかんねんやったら、大阪城があるやん! 

 『大阪城に大阪観光の新しい目玉誕生!』を、合言葉に作戦開始や!

 前市長も在任中、これまで何度も大掛かりなイベントを仕掛けてきた。一例を上げると。大阪城西の丸庭園でフリースタイル・モトクロス世界大会に、大阪城天守閣をスクリーンに立体映像を投影する大阪城3Dマッピングスーパーイルミネーション、それから御堂筋にF1カーを走らせた事もある。2016年の夏から大阪城の一角で、水の楽園『大阪城ウォーターパーク』が開かれているが、ただの大きなビニールプールという発想で、度肝を抜くようなイベントではない

 『大阪城プール』の設営運営費用は、前例の『道頓堀プール』を踏まえて30億円と見積もっている。現市長はやると決めたからには、しょぼいものには絶対にしたくなかった。問題は“ゼニ”をどうするか? そのため知事にも応援協力を要請し府市連携、新しい大阪の名物、活性化事業であることを広く世間にアピールした。就任直後から自ら資金集めに公務の間隙を縫って奔走した。大阪を代表する企業、サントリーにミズノ、パナソニック、武田薬品、りそな銀行、日本生命、竹中工務店に積水ハウス、近鉄、京阪、阪急、阪神、南海、JR西日本、上新電機などへ市長の就任直後から何度も足を運んでいる。

 さらに今年になって大阪市の枠を越え、雨後の竹の子ごとく府下にまで増殖した『OSAKAダブルキーパー』を歩兵部隊のごとく使い、『大阪城プール開設賛成署名』を百万人以上集めた。これだけでも十分な口コミPRとなり、開園1ヶ月前から今か今かと待ちわびるファンの輪が爆発的に拡大した。

 こんな風にトップセールスとベタな府市民一体となった口コミセールス、プレキャンペーンが見事に功を奏し、こうして悲願の『大阪城プール』初日を迎えることができた。

 『大阪城プール』は大阪城の南外堀を利用して設置された。南外堀は東に『玉造口』、西に『大手口』を結び総延長2キロ、堀の最大幅は75㍍もある。当初は南外堀全体を使った巨大プールを予定していたが、これは完全に予算オーバー。縮小こそされたがそれでもこのプールは全長1キロ、幅25メートル、深さ1・5メートルの巨大なプールである。このプールの工法は、テント生地を加工して創られた浮函幕式遊泳プールと呼ばれている。ただし、衛生管理上南外堀の水をそのまま入れるわけにはいかない。水道水を注入して運営する。しかも水道水はご丁寧にも二重行政の解消? の象徴として大阪府と市の水道を注水する。ほかにプールサイドバーに水上ステージ、デッキなどが随所に併設されている。

 プールサイドバーには、たくさんの来賓がゲストとして招かれた。その中に堺市長と前市長が並んでいるのは、何か大阪都構想の残滓、前世からの因縁のようなものすら感じる。

 式次第に則り、まず天神祭船渡御巡幸でおなじみ大阪北野天満宮の宮司による厄除け、安全祈願が行われた。次はオープニングセレモニー、大阪城プール注水式である。この注水式には、2台の給水車が手配された。1台は大阪府下42市町村が運営する大阪広域水道企業団、もう1台は大阪市水道局の給水車だ。プールサイドのすぐそばに2台の給水車がタンクのケツをプールに向けて整然と並んでいる。両タンクともお祝いの花輪で派手に飾られ、それぞれのタンクから太いホースがプールに伸びている。

 午前9時──。

 ポ、ポッーン! 静寂を破る音玉花火が、大阪城の上空に舞い上がった。花火の音が消えるや、昭和12年に誕生した大阪府警警察音楽隊によるファンファーレが鳴り響いた。

「大阪府の水道水、注水開始!」

「大阪市の水道水、注水開始!」

 府知事に続いて現市長がマイクを通して給水車に向かって号令した! 2台の給水車から一斉にプールへと放水が始まった。

 知事と現市長ががっちりと握手を交わした。

「大阪の水はひとつ!」

 実はこのセレモニーは前市長の肝煎りである。前市長は引退したというのに、影から執拗に大阪都構想実現を提唱し続け、なにか大阪府市民相互に強烈にアピールできる秘策はないものかと、ずっと考えていた。そんな折り、神が舞い降りたかのごとく閃いたのが、この注水式である。このセレモニーこそ、大阪府と市の水道事業統合の象徴であり二重行政の解消を府市民にアピールする絶好の機会である。こんな瑞々しくおいしいチャンスを逃すという手はない。そこで両首長を傀儡のごとく使い注水式セレモニーを無理やり押し込んだ。来賓席でセレモニーを見つめる前市長の笑みが不敵に見えるのは気のせいか!?

 このプールの利用料は2時間5千円、とちょいとばかり高いが太閤さんのお膝元、大阪城の下で泳げるとはおもろい! と、開園前から巷で話題沸騰。すでに8月末までの入園チケットはすべてソールドアウトというから驚きだ。市内のチケット屋では、すでに5倍以上のプレミアがついているという。夏の最盛期、お盆には50倍近いプレミアムがつくのではと、高額チケットとして値上がり確実である。

 今日の柿落としには、世界中から伝説のスイマーたちが集った。オーストラリア代表イアン・ソープ、アメリカ代表マイク・パケット、日本代表は初代スポーツ庁長官、鈴木大地を筆頭に北嶋康介が祝いにかけつけ、これに大阪を代表するスイマー、入江陵介、寺川綾などが花を添えた。

 現市長と府知事の両雄が並んで立っている飛び込み台は『大阪城ダイブ』と名付けられ、安全にダイブが楽しめるようにと新たに設置された。現市長がマイクを前に、プールサイドに集まった水泳客や堀上に集まった見物客に向かって叫んだ。

「大阪の皆さん、元気ですか! いつも節電ご協力ありがとうございま〜す。いよいよこれからがホントの意味での本番です。今までは長〜い予行演習でした。暑くなったら、大阪城プールです! おもろい、楽しい、うまい! 今年の夏はなにがなんでも大阪城や!」

 現市長が知事に目配せし、2人は手を取り合い観衆に向かって大きく掲げると、

「大阪の水はひとつや! バンザ〜イ!」

 市長と知事が外堀プールに、大きくバンザイダイブした。それを合図に世界のスイマー達が次々と飛び込み記念遊泳がスタートした。ステージでは、女性警察官で編成するカラーガード隊「フレッシュウイング」によるカラフルなフラッグの演舞もスタートした。

 以後、定例の記者会見は夏の間、ここのプールサイドバーで行われた。大阪府庁が外堀の目と鼻の先に位置するということで府知事も日替わりで会見に望んだ。現市長の今日のファッションは、真っ赤なハイビスカスのデザインがまぶしいアロハだ。

「関電は今年は計画停電もありうると、夏本番前にもう泣き言言ってます。涼をとるにはクーラーよりプールです。大阪の皆さん、『大阪城プール』へいらっしゃ〜い!」

 太陽光など再生エネルギーはまだまだ発展途上で、原発に変わる電力源にほど遠い。それを火力やガス発電で穴埋めしている。しかしながら原発に主体を置いてきた関電の火力発電設備は老朽化が進んでいる。火力発電所がひとつでも止まれば最悪、大規模停電もありうるという危うい状況下にずっとある。おまけに火力発電はCO2を大量に吐き散らすし、石炭、重油の輸入に莫大なコストがかかり国益が損なわれていく。結果電気料金の値上げなど、高いツケを支払わされるのは中小企業に零細企業、庶民なのだ。

「今週の電力平均使用率は、88%でした。昨年のこの時期より、使用率が5%も減りました。素晴らしいことです。大阪の皆さんが一丸となれば、精神一到何事か成らざらん!  この調子で節電に日々精進し、原発に頼らない大阪を実現しましょう!」

 プールサイドに陣取った現市長は、アロハの胸元を少し開いて団扇でしきりに風を送っては、いけしゃあしゃあと言ってのけた。

『節電は、OSAKAの最大の電源です』

 市長が手にした団扇にはブルーの太い文字で、ハッキリとそう書いてあった。 

 

 現市長に煽られたのかこの夏、TV各局は『節電』をテーマにした啓発番組をこぞって制作し放映した。その代表格がMBS毎日放送の『グルッとOSAKA・節電触れ合い紀行』である。番組レポーターには同局の深夜番組『ロケみつ・ブログ旅』で地味ではあるが好感度の高い人気を誇った桜・稲垣早希を起用した。彼女は吉本興業のNSC大阪校女性タレントコース1期生で、アイドル不毛と言われる大阪で異色のお笑いアイドルとして注目された。その彼女もイメチェン、今ではすっかり大人のオンナに変身を遂げている。

「皆さん、おはようございます。私は今、旭区高殿に来ています。この当たりに緑のカーテンが並ぶ一画があると聞いて訪れたのですが……」

「早希ちゃーん!」

 早希ちゃんのアップを捉えていたカメラが、180度パーンした。カメラは画面の外から聞こえた声の主を捉えた。テレビ画面いっぱいに緑のカーテンが広がり、その真ん中当たりに50歳くらいの主婦が立っている。女性はカメラに向かって手を振っている。

「こんにちは、高殿ダブルキーパーの石田あや子さんですね。本当にここは緑一色ですね」

「はい、このカーテンはこの町内一帯に張り巡らされています。グリーンカーテンは日々増殖を続けているので、私達も正確な長さ、面積を知りません」

 道の両サイドには3階建ての建売住宅が続き、各家の前には白いプランターが延々と並び、つるまき用の紐やネットが2階、3階に向かって伸びている。

「それにしてもすっごい! 道の両サイドに緑のカーテンが延々続くので、町中やのになんかまるでバッタになった気分。草むらをピョンピョン歩いているみたいです」

 早希ちゃんは歩きながらグリーンカーテンの印象を視聴者に伝えた。

「あや子さん、グリーンカーテン効果って、実際のところどうなんですか?」

「この緑は日本の夏に対し、生活の知恵から生まれたんですよ。江戸時代に庶民がシュロ縄で、朝顔やヘチマをつるして涼を得る工夫をしたのが始まりなんです」

「そうなんですかぁ」

「自分たちの町は自分たちの手で、涼しくする! 早希ちゃんわかりますね」

 早希ちゃんに対するあや子の口調が、どういうわけか上から目線に変わってきた。

「グリーンカーテンは自然のイチオシ、夏の優れもの! 冷房費を抑え、二酸化炭素を食べてくれる食物さんのおかげで、このご町内は空気が新鮮で本当においしい!」

 あや子の口調はますます熱を帯びてきた。

「それにね、早希ちゃん、グリーンカーテンを育てることは、環境問題への関心を高めるだけでなく、食育を考えることにもなります……」

「食育ですかぁ……。そう言えば皆さん、いろいろなもの植えてはりますねぇ」

 早希ちゃんはグリーンカーテンに沿って歩きながら、蔓にぶら下がる様々な野菜をカメラに向かって紹介した。

「定番のゴーヤでしょ、ヘチマにきゅうり、なす、これは? あっ、なんと、ひょうたんも鈴なりです! それからいんげん豆……」

 早希ちゃんは、実は少しあや子のくどい説明に辟易していた。植物の名前をいちいち上げて、話題を変えようとしたが……、そこへあや子がまたも割り込んできた。

「早希ちゃん、今日は私達、高殿ダブルキーパーのメンバーさんが集まるお食事会の日なんです。メンバーさんがまわり番子で、グリーンカーテンで収穫した野菜を持ち寄り料理自慢を競い合います。早希ちゃんにもなんか一品作ってもらおっかなぁ……」

「わ、私が……?」

 早希ちゃんは本当に困った表情を浮かべた。


「……というわけで、私はご近所にお住まいのメンバーさん、藤津久美子さんのお宅におじゃましています。さっそくメンバーの方々をご紹介します。こちらが久美子さんでーす」

 藤津家のリビングには、久美子とあや子を含めたメンバー5人が勢ぞろいしている。

「今日は採れたて新鮮野菜を使ってのお食事会とお聞きしました。すごく楽しみです」

「はい、私達は輪番制で毎週一回、『高殿グリーンカーテン収穫祭』を開いています。こうしてメンバーさんが一カ所に集まることで、家庭内での節電につながります。また、みんなで材料を持ち寄るのでロスがなく節約、省エネにもなります。それに……」

 久美子はベランダからとっさに手を伸ばしてグリーンカーテンの中に右手を突っ込んだ。ちょっとガサゴソやってから手を引っこ抜くと、その手にはきゅうりが握られている。久美子はなにを思ったのか、カメラに向かってきゅうりをポキンと折ると、そのまま齧った。

「何より無農薬で、新鮮!」

 会心の合いの手を入れた、と早希ちゃんが自負したのも束の間──!

「そんな当たり前の事を言おうとしたのではありません!」

 久美子がぴしゃりと言い放った。

「えぇ────────────────────────────っ?」

 早希ちゃんは本当に驚いた。その場に居合わせた他のメンバーに救いの目を向けたが、主婦達は一様にしらこい目を早希ちゃんに向けている。

『な、なに、この状況!? やばい、この人たち恐い!』早希ちゃんは、心の中で叫んだ!

「フード・マイレージがチョー短く、地球環境に最もやさしいということです!」

「な、なんですか? そのフード・マイ……って?」

 久美子の言葉に虚を突かれた早希ちゃんは、恐る恐る尋ねた。

「あなた、節電番組のレポーターでしょ! 『フード・マイレージ』も知らないの?」

 久美子は、小馬鹿にした口調で言った。

「あ、はい。す、すんません。その勉強不足なもので……」

「フード・マイレージというのはね……」

 久美子の長い解説が始まった。ただし番組放送時には編集カットされているが……。

「20世紀末にイギリスの消費者運動家、ティム・ラングが提唱した概念なの。簡単に言うと、食物は地産地消に限るということ。生産地から食卓までの距離が短いほど、CO2の排出など輸送に伴う環境負荷が少なくなるという考えなの。マイレージの計算方法は、食料の輸送量に輸送距離を掛けます。例えば1トンの米を100キロ輸送した場合、100トン・キロマイレージという計算になります。この値に1トンの荷物を1キロ運ぶ時に排出されるCO2、二酸化炭素排出係数を掛けると、自ずと環境への負荷を把握できるというわけ。翻って我が国の食料自給率を見てみると約40%で、フード・マイレージを計算すると、お隣の韓国の3倍、ドイツなら5倍、フランスにいたってはその9倍という高い数値になるから驚きだよ」

 久美子は「おわかり?」と、ちょっと見下した目で早希ちゃんを見て、

「だから、食べ物は絶対地産地消に限るというわけ」

 久美子は誇らしげに言った。

「はい、わかりました! ベランダで収穫した野菜のフード・マイレージは、なんとゼロ!」

「はい、そうです。早希ちゃん、やっと理解できましたね」

 居合わせた主婦達から拍手が起こり、久美子の長い解説もようやく終わった。こうして主婦だけの『高殿グリーンカーテン収穫祭』が始まった。

「本日のテーマは『スーパークールベジ』です。調理に際していっさい火は使っていません。……ということは、CO2もゼロということですね」

 テーブルには町内のグリーンカーテンで育て、収穫してきたばかりの野菜料理がズラリと並んでいる。葉物野菜がボウルにてんこ盛りされたサラダに、きゅうりや茄子の浅漬け、冷製トマトのバジルソース、他にサーモンのカルパッチョやチーズ盛合せ……など。

「さぁ、早希ちゃん、たんと召し上がれ」

「はぁい。どれからいただこうかな? どれも野菜タップリでヘルシーですねぇ」

 早希ちゃんは迷い箸しながら、料理の印象を述べた。

「早希ちゃん、夏野菜にはどんな効能があるか知ってますか?」

 早希ちゃんの右隣に座るメガネの痩せた中年オンナが尋ねた。

「やっぱりあれじゃないですか、カロリーが少ないから、ダイエットに……!」

「はい、それもありますが、夏野菜にはクールベジ、つまりクールベジタブル……!」

「冷たい野菜ですよね。冷やして食べるとおいしいですよね」

 女は右手できゅうりスティックを振って、ダメ出しをした。

「夏野菜は体を冷やしてくれる効果があります。特にきゅりはカリウムと水分が豊富です」

「カ、カリウムですか……?」

 メガネのオンナも勝ち誇ったかのように棘のある口調で解説を始めた。

「カリウムには利尿作用があり、水分と共に体の余分な熱を体外に放出してくれます。だから、ほてった体にはきゅうりを……」

 メガネのオンナもきゅうりをガブリと丸齧りした。

『やっぱ、この人たちなんか変!』

「じゃじゃーん! こんなものも獲れちゃうのよ」

 ちょっと席を外していた久美子が戻って来た。早希ちゃんの前に丸いモノをデーンと置いた。早希ちゃんの目は思わずその丸いモノに吸い寄せられた。

「ひょっとして、メロン?」

「そう、これは『ころたん』というミニメロン。ずいぶん小ぶりだけど、味はなかなかのもんよ。甘いし、なによりグリーンカーテンの家庭菜園で育てられるのがミソね」

「すごーい! 都会の真ん中、しかもお家の庭先でメロンができちゃうなんて……」

 早希ちゃんの言葉に、久美子はますます気分を良くした。

「でも、これは、家の前では育てられへんね」

 メガネのオンナが『ころたん』を掌で転がしながら、久美子に言った。

「そう。ミニサイズとはいえ、メロンやからねぇ。これだけは2階のベランダで育ててる」

「そうそう、最近この界隈で野菜泥棒が増えてるのよね。主人に男の人ばっかりで、野菜見守り隊を組織してくれるように提案してるんやけど……」

 あや子が唐突に言った。

「それに、テレビで紹介されたら、また、変なのがウロチョロすると思うよ。カメラも自主的に取り付けた方がいいかも……」

 まるでその元凶がここにいるかのように、主婦達が一斉に早希ちゃんを見た。

『ほんま、この人ら、鬱陶しい! ごはん食べる時くらい、もっと楽しい話できんの! 野菜ばっかりも飽きる! 今夜は気分転換に焼肉に行こうっと!』

 早希ちゃんは、この収録が早く終わることばかり考えていた……。


「もしもし、大川はんでっか? 今月分、まだ入ってまへんで。困りまんな……」

 俺の携帯から聞こえてきた声の主は、信用金庫の融資係だった。近頃の行員は、ミナミの帝王、万田銀次のようなため口をきく。少しムッとしたが、ぐっと堪えて言い訳を返す。

「えっ、口座から落ちてまへんかぁ? 残金あるはずなんやけど、おっかしいなぁ……」

 俺はどう答えたものかと一瞬詰まり、意に反する言葉がポロリと口をついて出た。

「明日にはちゃんと入れときます。せやから、もうちょこっとだけ待っといてちょうだい」

「市の保証協会分と府の保証協会分、元金と利息併せて9万2174円でっせ。ほんまに頼んまっせ! それから遅れる時は事前に連絡下さいや、大川はん!」

「はぁ、わかり……」

 融資係は一方的に電話を切った。俺は府と市の保証協会から融資を受けていた。大阪都構想は実現されなかったけど、2つの保証協会は二重行政解消の象徴!? ひと足早く統合され、大阪信用保証協会に1本化された。係は俺の借入先をわかりやすく説明するために、まだ昔の名前でそう呼んでいるのである。

 だけど、電話を終えたあと、俺はなんだかムカムカしてきた。

 今回のように毎月の支払いが遅れる事は毎度毎度の事ではあるが、それでも月末にはきちんと返し、月を跨ぐなんてことはめったにない。融資係はえらそうに催促の電話をしてきたが、遅れたら遅れたで、銀行は有無を言わせず延滞日数分の利息をキッチリ上乗せし、俺の会社の口座から引き落としているでは、あ〜りませんか!

 翌日、JR学研線に乗って大阪天満宮駅で下車、事務所に向かった。事務所は国道1号線と谷町筋の交差点、俗に言う空心町、今の地名で東天満交差点から一筋西に入った古い雑居ビルの2階にある。数年前までは、地下鉄南森町駅そばのオフィスビルに事務所を構えていたのだが、東日本大震災以降、また仕事が極端に減って、単独で事務所を維持できなくなった。さんざん悩んだ末に、知り合いの会社に電話だけでも置かしてくれへんかと相談に行ったら、そこの会社も火の車、逆提案された。

「こんな時代や。テナント入らん貸しビル、ごろごろある。いっそのこと皆で一緒に借りへんけ。俗に言うシェアオフィスや。これが、これからのスタイル! 節電より節約や!」

 知り合いのそのひと言で決まった。地下鉄南森町駅から少し離れるが、それでも徒歩10分圏内。当初月25万円と提示された家賃を、空室で遊ばせておくよりテナントが入っている方が見てくれ的にも建物的にも絶対ええからと、半値以下の12万円まで値切った。さらに退去する時に返金はいらんからと、保証金100万円を20万円まで値切った。

 入居の際に我々と同様に困っているイベント会社がもう2件、このシェアオフィスに加わった。4社で割ると1社当たり3万円。それまで俺は毎月15万円の家賃を払っていたから、どう考えても家賃は月とスッポンである。

 このところ連日気温35度以上の猛暑日が続いている。にもかかわらず事務所のエアコンは稼働させていない。これだけで50%の節電、節約になるのだ。代わりにバッタ屋で買った1台1980円の扇風機が2台フル活動し、モワッとした生ぬるい風を送り続けている。この夏の啓発活動、節電指導とかで、府下のダブルキーパー達が様々な場所へ出没していると聞くが、俺たちのオフィスに現れる気配はまるでない。この夏、まだ一度たりとてエアコンを入れていない我々こそ表彰ものなのだが……! 

 亜熱帯気候と化した事務所の中で、意識朦朧状態で帳簿をつける。未整理だった先月分の経理も14日まで進み、入金予定はないのになぜかこの日銀行に入金し、15日の日本政策金融公庫返済に当てている。『短期借入金、社長より借入』と、帳簿に記載する。そうだった……。先月もチケット屋でJRの回数券を換金して、返済に充てていたのだ!

 ずいぶん前、信用金庫に返済金の組み替え相談に行ったことがある。金庫のプロパーで、新たに融資を受け保証協会の借入分を一括返済する代わりに、長いスパンで毎月の返済金額を下げて欲しいと頼んでみた。で、その答えは?

「あきまへん!」

 あなたの街の信用金庫ですら、これである。貯金や土地など担保もないちっぽけな会社には、情状酌量の余地無し、無担保では絶対に貸さん! というわけである。それでも資金繰りが厳しい中小企業に、融資の返済猶予を認める『中小企業金融円滑化法(通称・金融モラトリアム法)』が施行されている間はまだなんとかなった。商売の売上ダウンを提出するだけで、毎年返済金額の減額申請に素直に応じてくれた。もっとも申請する度に、保証協会に新たに発生する保証料を別途先払いで取られた。いうなれば、借金猶予の『免罪符』を、保証料という金で買うみたいなものである。

 その『免罪符』である金融モラトリアム法が平成25年3月末で期限切れを迎えることになった。ヘタしたら銀行から一括返済を迫られる! 当時、それを実感させられたのが『中小企業信用保険第2条第4項第5号・セーフティネット保証5号』だった。

 俺は、焦った。モラトリアム法の期限が切れる前に取りあえず手は打っておこう! 

 その年の2月末、俺は信用金庫へ相談に乗り込んだ。案の定、窓口が殺到していて、融資係は手が回らない。スムーズに手続きを運ぶために、大阪市から救済策として打ち出された『セーフティネット保証5号』の認定を先に受けてくれと言う。

 とにかく善は急げ! 俺は用紙を大阪市のホームページからダウンロードすると、『セーフティネット保証5号』を受けるために、必要な提出書類の準備にかかった。

 必要書類は直近の決算書2期分に試算表……など。俺は仕事などそっちのけ、書類をどうにか揃え、本町にある大阪市経済戦略局、産業振興部金融課へと向かった。そこには俺のような、認定を受けようとする中小零細企業がズラズラ並んでいる。しかし、1回ではすんなりと認定してもらえなかった。毎月の売上を証明できるものとして、資産表とは別に売上を証明する直近3ヶ月分の請求書も持参するようにと申し渡された。手間を取らせるのは、出し惜しみ、もったいをつけているとしか考えられない。

 で、後日、要求された必要書類を全部揃え、これで大丈夫かと思ったが、またもすんなり事が運ばない。俺の会社が営む事業、イベント業種が総務省管轄の日本標準産業分類のコード表にない。近いところの業種で広告制作業と書いて出したら、その分類では認定を受けられないという。要は、モノづくり、製造業でないと認定しないということか?

「ええっ! 分類コードがないのは総務省のミスや! なんとかしてくれぇ!」

 俺が悲痛な叫びで訴えると、経理のおばちゃん風の担当官が「分類コードに近い業種を一緒に探しましょ」と、分類コードが載った分厚い便覧の中から、融資が受けられそうな近い業種を探してくれた。『ディスプレイ業』である。その基準は分類説明の中に「販売促進のために……」という下りがあって、この文言が俺の会社にも当てはまるという判断である。で、分類コードが見つかると、ちょっとお待ち下さいと、別室の待合室に案内され、10分ほどで認定書が渡された。

 認定書は新たな俺の業種の分類項目と、売上減少率を書いただけのペラ1枚である。

 『申請のとおり相違ないことを認定します。大阪市長』とあり、前市長の大きな角印が押してある。たった、これ1枚だけである! この判子だって大阪市経済戦略局、産業振興部金融課が持っている。わざわざ前市長にお伺いを立てて判子をもらうのではない。要は、担当官の胸先三寸で決まるのだ。

 手続きは『大阪市長』の判子をもらってから拍子抜けするほどすんなりだった。やはり大阪市長の判子のご威光たるや絶大である!

 しかしながら、なんか腑に落ちない。残金の返済期間は7年、84回払いに延長されたものの、また新たに保証料が発生し15万円ほど取られた。それに印紙代がバカにならない。会社謄本や印鑑証明、納税証明など何枚も重複して集めさせられ、これだけでも一万円近い出費である。エコ、ペーパーレス……そんな発想は役所の人間の頭にはまるでない。 

 それから中小企業救済策と言いながら、ぜんぜん中小にやさしくない。なにより皆金に困っているのに、保証料を事前に別途用意しなければならないのもおかしな話だ。この保証料は毎月の返済金の中に組み込むとか、借り換えの度に保証料を取るのだから金利を日本政策金融公庫よりもぐーんと下げるとかあってもいいのではないでしょうかね? 

 とまぁ、俺の借金も公的機関だけならまだ救いもあるが、これにプラスして個人の借金が重くのしかかる。借金の内訳は銀行系、信販系の8社からカードローンで約700万円。これだけで毎月の返済金が20万円近くいる。貸し出しローンの総量規制がかかってから、年収の3分の1までしかローンを組めなくなって久しい。総量規制がかかる前に、目一杯金を借りた。それが結果的に自分で自分の首を絞めた。借金はいっこうに減らない。 

 そんな事を考えながら帳簿をつけていると、なんだか空しくなってきた。時刻はまだ午後3時である。シェアオフィスのメンバーに、打合せで直帰と言付けて事務所を出た。大阪天満宮駅からJRに乗って、京橋駅で降りた。改札を出ると、まっすぐ緑の窓口へ向かった。ここで新大阪ー東京間の6枚綴りの新幹線回数券を2セット、クレジットカードで買い、その足で駅前のチケット屋に飛び込む。あっという間に回数券は15万ちょいの金に換わった。ただし6%の手数料は引かれているが……。

 そのまま金を懐にしまう間もなく2件の銀行、保証協会の引き落としとなる信用金庫、続いて政策金融公庫用の都市銀行をまわって入金した。カードで回数券を買い、チケット屋で現金に換えて、銀行に入金して払い終わるまで、この間たったの15分である。

 クレジットカードのキャッシング機能は停止しているのに、ショッピングはできる。その気になればやすやすと金にも替わる。これにリボ払いの契約をカード会社と締結しておけば、形を変えた一種のカードローンみたいなものである。こんなザル法の総量規制などなんの意味もない。結局薬局郵便局、貧乏人は、高い金利でしか金を借りられないのだ!

 カチャカチャ……と、通帳記入の機械音を聞きながら、ぼーっと、そんな事ばかり考えていると、通帳の取り忘れにご注意下さいと、ピーピー警告音が鳴り現実に戻された。通帳の記帳ページを見る度、俺は愕然とする。普通貯金口座に入金するや、すぐに引き落としされ“俺の金”の滞在時間はわずかに数秒だ。これでは年2回ある銀行決算日に、利息などつくはずもない。あってもせいぜい十数円単位の利息で、電車賃にもならない。

 本日は一件落着したが、来月の事を考えるとまた目眩してきた。陽はまだ高いがなんだかわびしいようなスッキリしない気分でもある。京橋といえば、立ち飲み屋のメッカである。財布にはなけなしの現金が3千円ほど残った。こんな時には一刻も早くビールでうがい、モヤモヤを一気に流すに限る! せぇの! で、駅前の立ち飲み屋に飛び込んだ。

「兄ちゃん、大瓶1本! それから串カツ盛り合わせ!」

 時刻はまだ4時前である。しかしながら駅前の立ち飲み屋はどこもすでに盛況である。

『♪京橋は、ええとこだっせ! サウナでさっぱり、ええ男、恋の花も咲きまっせ……♪』

 店外には京橋のご当地CMソングが大音量で流れ、店内はちょいとばかり疲れてはいるが、空元気だけは人一倍のオッサンたちの暑苦しい熱気でムンムンしていた。

 大瓶2本を飲んで、店を出て駅の改札に向かった。予算千円の『せんべろ』からちょいとばかりはみ出たが、そこは呑兵衛のご愛敬。それより立ち飲み屋を早々と切り上げてきたことを後悔する。外はまだ灼熱地獄だった。アルコールのせいで、体温も上がっている。

 ちょうど夕方のラッシュアワーの時刻だ。車内は節電中で温度設定も高めとはいえ、やはりクーラーが利いて涼しい。俺はつり革にぶら下がって、ほろ酔い気分。無意識に舌の先で奥歯を突っつく事が癖になってしまった。歯は動いてはいるが、まだ根本に必死でくらいついている。少し安堵すると、目蓋が急に重くなってきた。これに電車の揺れとアルコールが相乗効果を生んで、俺の思考は完全に停止した。同時に、意識がすーと飛んだ。

「ちょっとどいて、じゃまや!」

 俺の前の座席から小太りのオッサンが突然立ち上がり、俺を押しのけた。その拍子、ハッとして俺も目が醒めた。外を見ると見覚えのある風景。俺も慌てて飛び降りた。

 電車は住道駅に到着していた。もう少しで乗り過ごすところであった。もっとも乗り過ごしたところで、どうってこともない。快速電車の中であのままもう少しまどろんでいた方が気持よかったかもしれない。個人的には節電にもなるし、なによりずっと涼しい。

『そうや! 今度、暇な時に学研都市線で始発駅から終点駅まで何回もピストン往復したろ! 電車賃1日乗っても初乗り120円。なんちゅうても電車に乗ってる間はチョー涼しいし、俺の電気代ゼロ。これぞ究極の節電や! たまには電車男でもしてみるかぁ!』

 ほろ酔い気分のぼーっとした頭でそんなことを夢想しながら、家路に続く路地に差しかかると、明るいライトが目に飛び込んできた。夕闇を切り裂くように回転燈がくるくる回って、鮮やかな青い光を放っている。光源を探ると、俺の家付近だ。

『はて? なんかあったんかな? でも、あの青い光はポリとはちゃうし……』

 案の定俺の家の前にEV仕様の超小型車が1台止まっていた。近所の連中は関わりを恐れてか、そっと家の中から様子を窺っているようだ。

 その超小型車はシルバーメタリックのボディに、『W』のロゴがオレンジ色で大きく描かれている。回転する青い光の中に、オンナが立っていた。オンナは俺の家の玄関先で、タブレットPCに何やら打ち込んでいる。オンナと言えども、断りもなく人の家の前で勝手にウロチョロされるのは気分のいいものではない。ましてこれが噂のダブルキーパーというだけで、警察でもなんでもないのにである! 俺は酒が入って、少々気が大きくなっている。ちょいとばかりおちょくってやるかぁと妙な考えを起こしてしまった。

「このクルマ、けっこうするんでしょうね?」

 俺は超小型車の前に立ち、そのクルマをしげしげと見回した。

「はぁ? あなたは……?」

 オンナは警戒レベルを上げた。胸元のバッジに手をかけた。バッジはたぶんSOS発信機みたいになっているのだろう。たぶんGPS機能も搭載されているだろう。

『待てよぉ、こんな光景どっかで見たことがある気がするなぁ。あっ、そうや! ウルトラマンシリーズに登場してた女性隊員がこんなスタイルやったなぁ! かっこいい!』

「あっ、すんません。けっして怪しいもんやおません。ここの家のもんです」

 俺は建物を人差し指で示した。オンナは俺と建物を交互に見た。

「あ、大川さんですね」

 オンナは、俺の素性が明らかにされたことで、少し警戒レベルを下げた。手に持っていたリモコンを操作して青色回転燈を止めると、しっかりと俺の目を見て宣言した。

「今日、私がお宅へお伺いしたのは、節電指導です」

「──!?」

 オンナはタブレットを操作して、逮捕状を読み上げるかのごとく唐突に説明をはじめた。

「先日の7月15日、日曜日、20時15分から電気が点けっぱなしであったという通報がありました。これが、その時の証拠写真です」

 オンナは、タブレットの画面を俺に突きつけた。画面いっぱいに、俺の家の外観が映し出され、風呂場の窓とトイレの小窓からはオレンジ色の光が放たれている。

「お風呂場は20時35分に消灯されていますが、トイレの電気はそのあともずっと点いていて、21時55分の時点でもまだ点いてました」

「はぁ? そ、そうでっか? せやけど誰が、いつ、こんな写真を?」

 俺は今更のように自分の家を見上げ、先日新聞に載っていたある読者の投稿記事を思い出した。その投稿者は関電社員の妻で、夏の間、ダブルキーパーたちがずっと家の周りを巡回していると……。おかげで猛暑日も熱帯夜もへったくれもない。クーラーをつけるのが怖くて、今年の夏まだ一度も使っていないという。乳飲み子を抱え、この子が熱中症にかからないか心配でしんぱいで……云々という内容だったと思う。

『まさか、俺の家が巷で噂の節電指導にブチ当たるとは……!』

 あの主婦の投書と同じやんか! なんで俺の私生活まで監視されなあかんのや! プライバシーの侵害や! 俺はなんか憤りのようなものさえ感じ始めていた。

「この網戸見てもろたらわかるでしょ。熱帯夜でもクーラーつけてまへんで!」

 俺はタブレットの画面に人差し指をベタッと押し付けて、オンナに抗議の意志を示した。

「いいですか、大川さん、ちょっとこっちへ来て、これを見て下さい」

 俺はオンナに手招きされて、家の正面左角、雨樋の横に設置された電気メーターを見た。

「電気メーターの円盤が回ってますよね」

「……?」

 電気メーターをまじまじと見るのは初めてである。電気メーターは、俺の頭の位置から30センチほど上にある。壁に両手をついて踵をおもいっきり上げて、背を反らせて見上げた。俺は極度の近眼なので最初はよく見えなかったが、眼鏡越しに目を細めて見つめていると、銀色の円盤がゆっくり回っているのが見えた。

「回転板の上のカウンターを見ていてください」

「……今のところ変化ありませんねぇ」

「カウンターの4桁の黒い部分ではなく、一番右側の白い部分を見ていて下さい。大川さんが留守でも電気は使用されています。電気メーターのカウンターが回って……」

「そら、そうです。冷蔵庫とかDVDの予約とかありますもんね」

「このカウンターから察するに、他にもずいぶんと電気の無駄遣いをされているようです」

「……それで? 俺にどうせいと?」

 俺はそろそろオンナとしゃべっていること自体鬱陶しく感じ始めていた。

「これから、家の内部の電気使用状況をチェックさせていただき、節電指導をさせていただきたく思います。申し遅れましたが、私、こういうものです」

 オンナの首には『ダブルキーパー・大東ブランチ』の写真入り身分証明書がぶら下がっている。オンナはその身分証とは別に、もう一枚の証明書を俺の顔の前に突き出した。

『財団法人省エネルギーセンター・家庭の省エネ診断エキスパート 山本令子』

 令子と名乗るオンナは俺の目に釘付けの身分証を下げ、俺を促すようにニッコリと微笑んだ。俺はその微笑に魅せられ、ついコクリと頷いてしまった。

 『家庭の省エネ診断エキスパート・山本令子』は俺の案内で、すぐにテキパキと家の電気の点検を始めた。標準語で話すのが、ちょいと鼻につくが、歳は40歳前後か? 省エネの指導員もするくらいだから、かなりの才媛かもしれない。なにより会ったばかりで、見ず知らずのオンナが俺の家の中を勝手にウロついているのも、なんとも妙な気分である。

 家の中は、昼間の熱気がどの部屋にも立ち込めていた。その暑苦しいねっとり感がべっとり体にまとわりついてきて、不快指数ばかりがグングン増す。しかも俺のすぐそばには刺激的な香水の匂いと艶めかしい体のぬくもりを放つオンナがいて……。久しく忘れていた女の色香に……!

「この部屋の照明器具は、まだ蛍光灯なんですね」

 2階の小部屋で、オンナこと令子はタブレットPCを操作しながら尋ねた。

「えっ!? あ、そうです。……あ、あきまへんか?」

 俺は令子の質問で、現実に引き戻された。

「いえ、今時、蛍光灯の照明器具を見るのも久しぶりだなと思ったものですから……」

「この部屋は今流で言うところのクローゼット、俺にとっては納戸みたいなもんです。この部屋に入るのは半月ぶりかなぁ。せやから、電気を点けることもめったにないし……」

 令子は俺の話を聞き流し、隣の部屋に移動した。2階には部屋が3つあり、俺が寝室に使っている西向きの部屋を除いて、あとは倉庫状態である。令子が次の部屋を調査している隙を見て、俺は寝室に飛び込み、ベッドを整え散乱する新聞をゴミ箱に突っ込んだ……。

「大川さん、この部屋の電灯スイッチはどこですか……?」

 俺の部屋の外から令子が尋ねた。

「スイッチは廊下です! ドアの左側にあります」

 俺は部屋の隅に雑誌の山を崩れないように積みながら、振り返らずに言った。

「これですね。わかりま……、な、なにこれ?」

 令子の驚く声が俺の寝室まで届き、俺は廊下に飛び出た。

「このトイレットペーパーでしょ! そら、びっくりしますわな。俺も、いつの間にこんなに溜まったんやと感心したくらいですわ」

 その部屋はドアの間際に迫るまで大量のトイレットペーパー、ティッシュの山にこれでもかと占拠されていた。どの山も天井まで届かんばかりの高さである。

「これは、死んだオカンの病気ですわ!」

「……!?」

「もうかれこれ40年以上前になるかなぁ……。あれは確か1970年代やったなぁ。オイルショックが2回あったでしょ? えっ、オイルショック、知りまへんか?」

 令子は自分の無知を指摘され、恥じ入るように小さく頷いた。

「お宅らまだ生まれてなかったもんね。今でも中東は物騒ですけど、20世紀、1970年代前半に第4次中東戦争が勃発しまして……。ま、アラブとイスラエルの喧嘩ですな」

 オンナはキョトンとした顔で俺を見つめている。どうやら経済や歴史問題は苦手のようだ。そんな令子の様子を察した俺は、ちょっと得意げな気分になってきた。

「これがきっかけで、石油危機に陥ったわけですな。アラブの産油国は石油を減産するわ、イスラエルへの支援国に供給を停止するわで、そら、もう、大変やったんでっせ」

「それが、トイレットペーパーとどうつながるの?」

「その時、誰もが石油がなくなる、モノの値段が上がる、モノが不足するという危機感を抱いた。結果、狂乱物価、インフレを招いて売り惜しみ、買い占めが当たり前になってしまいました。その最たるモノがトイレットペーパー、なんと店頭から消えてしもうたんです。そのトラウマが死ぬまでずっと消えんかったんやろなぁ。オカンはチラシで安売り見つけたら、一駅離れた鴻池新田でもどこでも自転車こいで買いに行っとったくらいや」

 俺は、懐かしむようにトイレットペーパーの山を見上げた。

「考えてみれば、あの時のオイルショックがあればこそ、日本がエネルギー問題を真剣に考えるようになったんとちゃうかな? その選択肢のひとつに原発もあり……」

「それはずっと昔の話でしょ! 今は節電と省エネが一番の選択肢です!」

 令子も負けていない。

「でも、このようにようさんあるから、俺はもうこの先一生トイレットペーパは買わんで済むでしょ。備えあれば憂いなし! 汝、他人を労れ! おひとつどうぞ!」

 俺は令子にトイレットペーパーのパッケージを差し出した。

「結構です! 私は心配性でも買い物依存症でもありません」

 令子は踵を返すと部屋を出て、階段を一気に駆け下りた。

 『家庭の省エネ診断エキスパート・山本令子』の1階での調査は打って変わり徹底した。電球のワット数や様々な電化製品の消費電力を事細かにPCに打ち込んでいる。ほかにガスコンロの口数や冷蔵庫の中身、カーテンの取り付け状況なども調査している。それから黙々と家の中を嗅ぎ回り、1時間ほどたってようやく終わった。

「お疲れさまでした。今夜の調査はこれまでとします。データを元に、大川家の省エネプランを組み立てご指導していきたいと思います。ご予定はいかがですか?」

「予定と言われても? ひょっとして、うちの家にあんさん、つまり令子さんがまた来られるということですか!?」

 俺は令子の身分証明書を改めて見つめて、初対面なのに名前を呼んでしまった。

「そ、それって、義務でもなんでもないんでしょ。俺とこみたいな寂しい独身男の家より、子供がぎょうさんおって電気をいっぱい使うような家を指導された方が……」

「皆さん、そうおっしゃいます。ですが私達がこうして個別にご家庭の診断を行い節電、省エネをご指導申し上げることで、原発に依存しない……」

 令子のスイッチを入れてしまったようだ。俺はやばいと感じ、思わず叫んでしまった。

「わ、わかりました! ご指導をよろしくお願いします」

 令子は俺の答えに一瞬びっくりした表情を浮かべたが、すぐにまたパァーとまぶしい笑顔に変わった。令子はタブレットPCを操作して、スケジュール表を画面に出した。

「大川さんは仕事をお持ちなので……、今週の土曜か日曜の昼間に第1回ご指導会というのはどうですか?」

「ダメ、ダメ! 土日はお仕事です。ちっちゃいイベントの仕事があって、これ飛ばしたらおまんま食い上げです。できたら、きょうみたいな平日の夜にしてください」

「わかりました。それでは毎週、水曜の夜はどうですか? 大川さんの心がけ次第ですが、5回くらいの講習は予定しておいてください」

「はぁ……!?」

「それでは、来週の水曜日6時半にお伺いします。よろしいですね。何か不都合があれば、ダブルキーパー・大東ブランチまでご連絡ください。それでは、本日はこれで失礼します」

 『家庭の省エネ診断エキスパート・令子』は、超小型車に乗って音もなく帰って行った。


「こんばんは。おじゃまします」

 水曜日の午後6時30分ピッタリに、令子はやって来た。令子と俺はダイニングテーブルに向かい合わせで座っている。俺は冷たいウーロン茶でもどうですか? と勧めたが、きっぱりと断られた。令子はキャップの付いた保冷効果の高いマグ水筒を持参していた。会計監査に訪れた税務署員のような実直さで、ある意味その潔癖さに感心してしまった。

「結論から言うと、大川家の消費電力は昨年のこの時期に比べ30%節電されています」

「やったぁー! 表彰もんや! ほなら、講習会はこれにて終了でよろしいな!」

「いえ、指導は別です」

 令子は、したり顔で俺の目を見た。

「昨年の夏はお母様がまだご健在でした。失礼なことを言いますが、怒らないでくださいね。今は大川さん、お一人です。ですから電気の消費量が減って当然です」

「それだけとちゃいまっせ。この夏、家ではまだ1回もクーラー入れてまへんで! 熱帯夜でも氷枕と扇風機で我慢してます。朝起きたら、汗で全身ビチョビチョですけどね」

 部屋の隅では扇風機が首を振っていた。令子はさすがに『家庭の省エネ診断エキスパート』だ。令子はダブルキーパーのユニフォーム姿なのに、涼しい顔をしている。

「私達が感じる体感温度というのは、湿度や気流、輻射熱などさまざまな要因で変わります。この部屋のように扇風機の風を受けるだけでも、体感温度は2度下がります」

 いつの間にか、令子の講義はスタートしていた。

「まず、大川家の電気の使用状況から点検していきましょう」

 令子は、タブレットPCのファイルを開いて、俺の家のデータを見せた。そこには、予想していた通り俺の家の間取り図が現れた。

「大川家の主な生活スペースは1階ですね。ですから、2階は今の時点では考えなくても良いでしょう。では1階各部屋の電気器具の配置と容量から順に見ていきましょう」

 令子は玄関から廊下、洗面所、風呂、キッチン、リビングの順に各部屋に設置されている電気器具の種類と容量について表にまとめていて、それを元に事細かに説明をはじめた。

「キッチンには電子レンジ15アンペア、冷蔵庫2・5A、IHジャー炊飯器13A、電球型蛍光ランプ1A……」

「キッチンだけで、合計50Aですか。で、ほかの電気器具はテレビ2・1A、エアコン5・8A、掃除機10A……、意外と掃除機も電気食いますなぁ」

 俺は令子がまとめたPCの画面を差してなぞりながら感想を言った。

「1階にある電気器具の容量をすべて合わせると、100Aを越えます。でも、実際はこれらの電気器具を一度に全部使うわけではないですから……」

「はぁ?」 

 俺には令子がなぜ電気容量など持ち出すのか? 言わんとすることがわからない。

「結論から言いますと……、大川さんに電気容量の見直しを提案します」

「電気容量の見直し?」

「はい、電気プランの見直しですね。大川家の電気容量は現在30Aで契約されています。これを15Aに変更するわけです。ダウンアンペアすると、基本料金も下がりますし……」

「ダウンアンペア? 電気容量少ななったら、すぐにショートするやん!」

「大川さんの生活スタイルをお聞きした時、炊飯器でご飯を炊くのは1週間に1度、週末だけと仰ってました。だから実際は炊飯器を使いながら、電子レンジでチンすることなどほとんどないと思います。ということは、使うのは電子レンジが中心ですよね」

「ま、基本的にはチンして温めるだけですからね。せやけど、なんか不安やな……」

「大川さんは節電意識も高く、ホントは私、一気に10Aをお奨めしたいくらいなんです」

「えっ! 10A!」

「だって、クーラーを使っていらっしゃらないでしょう。思いきって10Aに下げてしまえば、たえず電気容量が気になって電灯の消し忘れも自ずと無くなります」

 電気代が安くなるならアンペアを下げることになんら問題もない。むしろ、ありがとうと感謝したいくらいだ。だけど、なんか素直になれない。間違いでもないのにおかしいと赤の他人から指摘され、納得してもいないのに無理矢理更生させられてるようで……。

「ところで、令子さんの家は何アンペアなんですか?」

「えっ!」

 令子は盲点を突かれて、一瞬、戸惑いを見せた。

「30A……」

「何人暮らしですか?」

「夫と2人……!」

 俺はしたりとばかり膝を打った。

「ひやぁー! それは、容量がちょっと大き過ぎるのとちゃいます?」

 令子は俺の予期せぬ質問に少しの間考え、すぐに反撃に出た。

「以前は50Aだったのよ。家はオール電化だし……。原発のない社会の実現に向けて私達もできることからはじめようと、夫と相談してアンペアを下げたの。その時に使用電力を計算できるデジタルメーターにも取り替えたし、照明器具もすべてLEDに替えました」

「アンペアに関係なく、要は使わんこっちゃ。これこそホンマの省エネ、節電や!」

 俺は令子が現れるまで、世の中に省エネ診断士なるライセンスがあることなどまったく知らなかった。免許を取得すれば、なにかいい事があるのだろう! そのうち宅建免許のように、新築の家を建てたり売買する場合、この家は『家庭の省エネ診断エキスパートの診断済み!』という証明書がないと、売買できなくなるのかもしれない。

 俺は、いいかげん飽きてきた。それより、腹が減って、令子の話に茶々を入れる気力もなくなってきた。

「大川さんのお宅があるこの地区は、計画停電エリアに組み込まれています。実際、計画停電が発令された場合、停電終了直後がもっとも電力供給が不安定になります。ですから計画停電が発令されたら、ブレーカーを落とし、復旧を確認してから上げてくださいね」

 今夜のところ令子の講義は、これにて終了した。おかしな事に令子に洗脳されたのか、俺の中で急に節電意識が高まった。冷蔵庫の扉を手が入る最小角で開き、腕を伸ばしてさっと缶ビールを取りだしたのだ。プルトップを抜き、ひと口ゴクリとビールを飲んだ。テーブルを見ると、手作りと思われる小冊子が置いてあった。それは、節電料理レシピ集だった。俺が手に取ってパラパラとめくると、一枚の手書きのメッセージカードが出てきた。

『大川様、お疲れさまでした。今日は、貴重なお時間をいただきありがとうございました。参考までにご覧ください。令子』

 惚れ惚れするような達筆文字を、俺はしばらくの間呆けたように見つめていた……。


 翌朝早く、令子から俺の携帯に電話がかかってきた。アンペアの変更の件である。

「10Aで十分じゃないですか? 大川さんがご結婚でもされたら、その時は……」

 令子はほかにスマートメーターやらHEMS……など、わけのわからん専門用語を並べている。俺は面倒くさくなって、まかせるわと、曖昧に返事してしまった。どうも朝は苦手である。電話を切ったら、どっと疲れが増してきた。もうちびっと寝るでぇ〜と、ゴロリとベッドに倒れ込んだら、今度はクマゼミが一斉に合唱を始めた。

 シャアーシャアーシャシャ……!

「じゃかましい!」

 近頃はクマゼミやアブラゼミばかりで、小さいニイニイゼミの声をトンと聞かなくなった。これも地球温暖化の影響かい? などと考えてたら、すっかり目が覚めてしまった。

 昼間、事務所で住宅メーカー向け、秋の集客イベントの企画書を書いていたら、関西電力東大阪支店から俺の携帯に電話がかかってきた。はて?

「大川さんですね。お忙しいところすいません。今週、ダウンアンペア工事に寄せていただきたいのですが、ご予定は……」

「はぁ? そんな工事頼んでませんで!」

「家庭の省エネ診断エキスパート・山本令子さんはご存知ですね」

「はい。えっ! 山本令子!? 彼女の発注ですかぁ?」

「はい、あの方に言われたら、私らどうしようもありませんねん」

「そうかぁ。なるほどね。これもOSAKAダブル条例の影響? あんたら電気売るのが商売やのに、節電の片棒担がされてつらいでんな」

「……」

 録音でもされているのか、関電の担当者は俺のジョークにまったく乗ってこない。

「こちらの勝手な希望ですけど、今度の金曜日はどうです? 山本さんがお盆までに、工事してもらわんと意味無いと強くおっしゃるもので……」

「うーん、どうしようかなぁ? ちょっと待ってくださいや」

 それにしても、なにか変である。俺も嫌なら嫌ではっきりと断ればいいのに、泣く子も黙る【節電】を合い言葉にされると、どうにも断りにくい。電話をかけてきた関電担当者の気の毒そうな顔も浮かんで、本意でないのに了解した旨を伝えてしまった。

「えーと、そしたら、金曜日ですね。来る前に、朝もう1回電話入れてもらえますか?」

「はい、わかりました。ご近所まで行きましたら、必ず大川さんに電話を入れるように担当者に伝えておきます。ありがとうございました。では、金曜日、よろしくお願いします」

 担当者は丁寧に電話を切った。信用金庫の係とは、えらい違いである。電話の向こうで深々と頭を下げている姿が目に浮かぶようだ。

 令子が俺の家に指導に現れて以来、どうにもしっくりこない。節電は大事だが、電気を使うのは俺で金を払うのも俺だ。見ず知らずのオンナに電気のあれこれ指導され、電気の利用まで制限される。以来、俺の家すべてが監視されているようで、なんか落ち着かない。

「ま、令子がけっこういいオンナなので、鬱陶しいよりも逢える楽しみの方が少し勝っているから、ま、しゃあないかぁ……」

 金曜日の朝ピッタリ9時に、関西電力の工事担当者2名が玄関に立っていた。背の低いオッサンと、背の高い若い衆のみごとな凸凹ペア。ベージュ色のヘルメットを被り、きっちりと緑の作業服を着ている。工事の担当は関西電力系列の下請け会社のようである。

 2人は挨拶もそこそこ、すぐに工事を始めた。次の現場が詰まっているのだろう。ちょっといらついているような感じすら受ける。そら、そうだろう。関電もここ数年ずっと赤字続きだから下請けに回る外注費用も相当にきついのであろう。

 凸凹ペアは、テキパキと仕事をこなした。オッサンは脚立に跨った状態でブレーカーを外し、若い衆が新しい10Aのブレーカーを渡す。分電盤の工事が終わると、表に回り今度は電気メーターの取り替え工事を始めた。工事が終わる頃になると令子が、超小型車で音もなくやってきた。事前に、工事の終了時刻が令子に伝えられていたのだろう。

「ごくろうさまでした」

 令子が凸凹ペアに目配せして、頭をちょっと下げた。

「私らは、これで……。次の現場のアップは2時の予定です」

 凸凹ペアが令子に報告を終えると、二人は直ちに次の現場へと向かった。

「もうすぐ、このエリアにもすべてスマートメーターが設置されるわ。ダウンアンペアと時間帯別に電気使用量を計量できるデジタルメーターの交換はその先駆けね」

 令子は自分をちょっと誇示するように俺に言った。大阪市内では徐々に、関西電力と使用者を双方向で結び通信機能を備えた電力計、スマートメーターが装備され始めていた。これにより遠隔操作で電力供給を制御できるようになるという。

「ほな、なんですな。そのスマートメーターなんたらと呼ぶやつが普及したら、こないに節電、節電と叫ばんでも、電力会社がちゃんとコントロールできるようになるっちゅうことでんな。電力が不足したら強制的に電源を切ったらええわけですもんね」

「いずれにしろ節電は私たち一人一人の意識の問題です。あっ、そうそう。大川さん用に節電チェックシートを作ってきました」

「……!?」

 令子は手にしていたファイルの中からシートを抜き出し、俺に差し出した。シートには日付と毎日の電気使用量を記入する欄があった。

「大川さん、そのチェックシートに、毎日定時にデジタルメーターを確認して電気使用量を記録してください」

 令子は当たり前のように言った。

『おまえは俺のオカンか! ほんまにこれ書いて埋めなあかんの!?』

 俺は節電チェックシートから顔を上げると、恨めしそうに令子をみた。

 しかし、俺は意に反しその日以来、毎日欠かさず電気使用量を節電チェックシートに記入している。小学生が夏休みの自由課題をやらされている心境である。確かに毎日記録を続けていると、節電意識が高くなった。例えば昨日は2㌔㍗だったが、今日は3㌔㍗と記録すると、たった1㌔㍗のオーバーなのに、電気を使いすぎたという意識が芽生えてくる。その結果、今日は1日大節電だ! 電気は使わん! と思い込むようになるから不思議だ。


 毎週水曜日、午後6時30分ピッタリ、計ったように令子はやってきた。しかし、2度目からはもう一人別に節電のプロとやらを必ず伴って現れるようになった。

「今日は大川さんに、家庭での新しい電力システムのご提案をしたく、その道の専門職にご同行をお願いしました」

 令子は、連れの男を俺に紹介した。男は俺に名刺を差し出した。

「HEMSホーム・エネルギーマネジメントシステム・アドバイザー、速見誠と申します」

 令子と同様、速見はクールビズが当たり前の世間の風潮にもかかわらず、スーツ姿にきっちりネクタイを締めている。

「大川様にきょうご説明させていただくのは、HEMS、ホーム・エネルギーマネジメントシステム、つまり住宅におけるエネルギー管理のご提案です」

「そのHEMS……初耳やけど、俺とこの家にどない関係がありまんのん!?」

 俺は早くも投げやりである。

「大川さん、先日のダウンアンペアの変更やデジタルメーターへの取替工事は電気使用量の数値を認識することで、節電意識を高めようとするもの。本日、速見さんに提案していただくのは、いいですか、ここがポイントです。これからは極力電力会社に頼らず自分で電気を作って、使う電気はすべて自分で賄ってしまおうというシステムのご提案です」

 令子は俺の素っ気ない態度を察したように、釘を刺した。

「今、戸建て住宅の主流はスマートハウスだというのはご存知ですよね」

「はぁ、なんか新聞の経済欄で読んだような事があります」

 俺は速見の問いに曖昧に答えた。

「震災以後、急速にエコ住宅への関心が高まりました。家庭内から二酸化炭素を極力排出せず、太陽光など自然エネルギーを上手に作って蓄え……」

「IT技術を駆使して管理する、スマートな暮らし!」

 令子が合いの手を入れる。

「そう、それがスマートハウスであり、実現の鍵となるのが……」

「家庭にいながらエネルギーの制御、管理を行うHEMS!」

 速見と令子の掛け合いは、通販ショッピングを見ているような絶妙な間合いである。

「HEMSは、資源の少ない日本を救う究極のエネルギー再生管理システムです」

 速見はタブレットを取りだし、企画書のようなものを液晶画面に出して説明を始めた。

「HEMSは定置用蓄電システムを使って、太陽光発電で作った電気を蓄電し、家庭全体の電力をきちんと管理制御しようというものです」

 俺は事務所に行くのにJR学研都市線を利用している。車窓から見える景色、住宅の屋根に太陽光パネルが増えてきたことは実感している。といっても郊外の新築住宅に限ってである。電車が放出から鴫野、京橋へと大阪市内に向かうに連れ、太陽パネルの数がめっきり減る。老朽化している木造家屋が多く、構造上に問題があるのだろう。狭い土地に密接しているために建て替えも難しいのであろう。なにより金のない貧乏人は置き去りにされる……。速見と令子は、説得するターゲットを明らかに間違えている。

「これからは電気も自分で創る時代!」

「低地用蓄電池システムを導入すれば、夜間に系統電力で蓄電池に蓄えた電力を、需要が最大になる昼間の時間帯に回せます。いうなれば、我が家のピークシフト!」

「最近はリチウムイオン2次電池の性能が飛躍的にアップしました。それにリチウムイオン電池は非常用電源としても使えるから、計画停電も恐くない!」

 速見と令子の息はさらに合ってきた。

「大川さんはエネファームをご存知ですよね。ガスから抽出した水素と空気中の酸素を化学反応させ電気を創って蓄える家庭用燃料電池がエネファーム。太陽光とガスを使ってダブル発電すれば、電力会社に頼る必要もありません」

 速見の説明に俺が沈黙していると、令子がまた被せてきた。

「日本の未来は、マイホーム発電で電気代ゼロ! なんていう夢の時代はもうそこまで来ています。だから、大川さんも乗り遅れちゃダメ!」

「海外ではプロシューマーと呼ばれる人々が増えてきているのをご存知ですか?」

「プ、プロシューマーですか? ひょっとして、シュークリーム作りの達人?」

 俺はちょっと考えるふりをして、無知を隠すために戯けてみせた。

「もう、大川さん! ご冗談を!」速見は笑みを浮かべているが、その目は笑ってない。

「プロシューマーは、英語でPROSUMERと綴ります。つまりPRODUCER AND CONSUMERの略で、生産者であり消費者という意味です。つまり発電して売電する個人事業者の事です」

「昔、人間発電所、ブルーノ・サンマルチノという伝説のプロレスラーがおったけどもなぁ。サバ折り固めが得意やったなぁ。あの技繰り出す時に、発電しとったんかぁ……!」

 速見は俺のジョークにまったく乗ってこない。

「プロシューマーは屋根の上や近所の川で創った再生可能エネルギーを電力会社に売電するだけでなく、例えばお隣さんやご近所さんの知り合いに直接売電できます」

「ね、大川さん、速見さんの言っている意味がわかるでしょ! プロシューマーつまり個人発電所がたくさんできたら、原発なんかいらない! と思いません?」

「はぁ……? でも、なんか心許ない感じやなぁ……。そのプロシューマー、なんちゃらいう人と仲悪なったら、電気回してもらえんようになるんとちゃう?」

 それに近頃はとにかく異常気象の連続である。災害時に故障したり、トラブルが発生した時、はたしてすぐに修理に飛んできてくれるのか!? それにはメーカーとのバカ高いメンテナンス契約、損害保険などいろいろ加入しとかんとあかんのやろなぁ……!

「大川さん、真剣に私達の暮らしの事考えましょうよ! なかでも暮らしを支えてくれる電気は最重要項目! 家の血液みたいなもので、なくてはならぬもの。自分で電気を創って、ほかの人にも分けてあげる! とっても素晴らしいシステムだと思いません!?」

 今夜は令子がやけに押し付けがましい。

「そら、そうやと思いますけど、それには、先立つものが……」

 俺は右手の親指と人差し指で丸を作って、胸の前で上下に振って見せた。

「大川さん、今がチャンスです。今年いっぱい国の補助金制度が優先的に受けられます。低金利の省エネ節電ローンも利用でき、エコポイントもつき、税の控除もあって……」

 速見はなにを勘違いしているのであろう? 俺は親の財産を譲り受けたとはいえ、土地は借地、資産価値などほとんどない築40年の家屋のみが財産である。なのに一軒家の一人暮らしという情報だけで、傍目には優雅に暮らす中年セレブと映るのかもしれない。  

「……というわけで、大川さんも真剣に考え、想像してみてください。電気を作り、蓄え、使い、販売する、私達の豊かなライフスタイルを──。ご連絡をお待ちしてます」

 二人が帰ったあとダイニングテーブルの上には、速見の名刺が残されていた。俺はその名刺を手に取り、改めてまじまじと見つめてみると住所の下の方に、小さな字で大手電機メーカー関西支社の名前が書かれてある。

『なるほど、そういう仕組みか!?』

 節電のプロと言っても、体裁のいい大企業の営業マンである。令子のようなダブルキーパーと共に効率よく訪問先を回り『HEMS』を売り込んでいるのだ。ある意味これは新手の紹介ビジネスであり、企業にとって実にうまくできた営業手法である。企業としては販売、広告宣伝費を極力抑え、ターゲット、このケースでは戸建ての富裕層に向けて効率よくストレートにアプローチしていく。

 商談が成立すれば工事費用に加えて、ついでだからと住宅リフォーム、継続したメンテナンス契約も必用だろう。ほかに損害保険への加入、はたまた売電契約による取扱手数料……と、『HEMS』が1件成立する度に電気、ガス、住宅、保険、銀行……と業界の壁を越えてそれぞれに利益が派生するのである。俺の推測だが契約が成立すれば、ダブルキーパー支部に支援金や協力金という名目で何らかのお金がキックバックされるのかも? 

 ある意味、現代版“護摩の灰”、権利という胡麻に群がる蠅の群──。

 

 『家庭の省エネ診断エキスパート・山本令子』が次に連れて来た節電指導者は、エコカー推進協議会のEVアドバイザーだった。アドバイザーは、長袖の整備服を着用し、やっぱり額に汗の玉ひとつ浮かべていない。

「大川さん、EV車は自動車の便利な機能を持った家電だと考えてください」

 EVアドバイザーは意外な視点から説明をはじめた。確かに最近の小型EV車はディーラーのショールームより、むしろ大手家電量販店での扱いが増えている。大型ショッピングセンターやホームセンターの駐車場には、EV車用の充電スタンドも併設されている。

「プロシューマー、個人発電所という構想が最近話題になっています。EV車は、その個人発電所には欠かせない充電器のひとつになるのです」

 EVアドバイザーは、EV車の新たな活用方法を熱く語りだした。その有効活用のひとつが太陽光発電で創った電気をEV車のバッテリーに蓄電する。いうなれば誰でも簡単にできる自家発電所というわけである。

「EV車のある家は、電気の補給基地にもなります。停電時もこのクルマがあれば心配いらず。ただ今、夏の特別大試乗会を実施しています。ご試乗いただくだけで繰り返し何度も使える充電式バッテリーセットを差し上げます。今が購入のチャンスです」

 最後に令子が連れてきたのは、なんとファイナンシャルプランナーだった。プランナーは、俺の家をなんと勝手にリフォームしようとしていたのだ。といっても、あくまで見積上の話ではあるが……。

 見積には太陽光パネル、どこで調べたのか俺の家の屋根の平米数から割り出されたパネル枚数まできっちりと計算されていた。ほかに小型リチウムイオン2次電池にエネファーム、笑っちゃったのは、2人乗りEV車もマイカーローンにきっちり組み込まれていた。

「自分の使う電気は自分で賄い、余った分は売電してローンの支払い、あるいは貯金に回す。家計にもやさしい。今がその時です。大川さん!」

 このフィナンシャルプランナーは、最後の営業マンの砦なのかもしれない。具体的に資金計画などを勝手に組み込み無理なく払えますよと、俺を説得するのだ。そしてトドメにダブルキーパーの令子が、俺をよく知っている紹介者として、さらに後押し決断を迫る。

「私達が一丸となって日本のエネルギーを変えていく。やるなら、今でしょ! 大川さん、大東市から大阪、日本、さらには地球規模へとこの活動を広げていきましょう」

 ほんと、令子もやりすぎ! これって、節電指導に名を借りたダブルキーパーの紹介商法と言うか、指導商法とでも呼ぶべきか!? 俺はいいかげんうんざりしてきた。

「おたくらの言うてることは、ようわかりました。でも、今は無理、あきまへん! なんせ、うちのオカンが亡くなってからまだ日も浅い。急に家いろたら、罰当たります。来週は初盆ですわ。今はその準備で、家のリフォームどころではおまへん」

 さすがにこのひと言が効いたのか、令子もファイナンシャルプランナーもそれ以上勧めてこず、すごすごと帰っていった。

 次の週、水曜日の午後6時30分、令子は現れなかった。以後、顔を見ていない。盆と共に節電のピークも終わり、使命を終えたというわけか……? 

 こうして俺の夏は終わった──。

 なのに、俺は令子から渡された節電チェックシートの記入を今も続けている。いつになく想い出の深い夏であった……。嗚呼!

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