キツネ姫と風邪の菌
「おーい大丈夫か? 今キツネ姫呼んでくるから」
朦朧とする頭で目を開くと、皿の上の茶色い塊が言った。それはチョコレートの妖怪トロトロだ。
「トロトロ、待って」
僕が呼び止めた時にはもうそこにトロトロの姿はなかった。ここで働く狐の背に乗ってトロトロはあっという間に隣の部屋へと行ってしまったのだ。
僕はある自然保護団体の職員として住み込みで働いている。「九重会」は人間に化けることのできる狐たちが動物と人間との間に入り、問題を解決する特殊な組織だった。そして僕はそこで雇われた初めての人間だ。トロトロが呼びに行ったのは僕の小学校の同級生であり九重会横須賀支所長を務めるアヤメさんだった。
もちろんアヤメさんの正体は人間ではない。彼女は九尾狐を母に持ち、800歳以上生きている妖狐だった。彼女は妖怪たちから「キツネ姫」と呼ばれている。でも僕にとって彼女は支所長でも姫でもなく、優しくてきれいな普通の女の子だった。
ぶるっと悪寒が走り、関節がズキズキと痛む。昨日、僕は溺れかけたアヤメさんを助けるためにまだ寒い海の中へと入った。結果的に助けられたのは僕の方だったが、彼女が絡むと身体が勝手に動いてしまうのだ。
(アヤメさんが来るなら着替えなきゃ)
着ていたパジャマは汗でびしょびしょに濡れている。ベッドから起き上がると目の前がぐらりと揺れて、足にも力が入らない。それでも立ち上がろうとすると上半身が床に落ちていきゴツンという音とともに顔面に鈍い痛みが走る。
「やだ! 奏斗! 大丈夫?」
アヤメさんはドアを開けるなり大きな声を上げた。彼女が驚くのも無理はない。ベッドに残っているのは足だけで身体は床にずり落ちていた。戻ってきたトロトロは僕の無様な姿を見て笑いをこらえている。しかし、アヤメさんは真面目な顔ですぐに僕の身体を支えてくれた。
「だ、大丈夫だよ、ごめんねアヤメさん」
「大丈夫なわけないでしょ! すごい熱じゃない! どんどん熱くなるみたい!」
彼女が額に手を置くと冷たく心地の良い感触が伝わる。それだけで僕の体温を上げるのには十分だった。近くで見るアヤメさんの肌は白く滑らかで、大きな瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
コホコホと小さく咳をするとその瞳が曇り不安そうに僕を見る。
「咳がでるの?」
「ううん、ちょっとむせただけ」
見とれていて息をするのを忘れていたなんて言えるはずがない。アヤメさんはふうとひとつ息を吐くと優しい微笑みを浮かべた。
「とりあえず汗で濡れた服を着替えた方がいいわ。手伝う?」
彼女の申し出に大きく首を振ると、アヤメさんはタンスから着替えを出して寝室を後にした。
「人間って大変だな。風邪の菌って目に見えないくらい小さいんだろ? そんなのに苦しめられるんだもんな」
トロトロは興味深そうに茶色い体をとろとろ動かした。トロトロに見守られながら、やっとのことで着替えを済ませ、布団の中に入ると、途端にもうもうと耳鳴りがして倦怠感に襲われた。皿に乗ったトロトロが身を乗り出して僕の様子を見ている。
くしゅん
「おい!くしゃみかけるなよ」
そう言いながらもベッドわきに置いてあるティッシュを取ってくれるのだからトロトロは優しい。
「ごめんね。うつしちゃうよね」
「妖怪が風邪なんて引くわけがないだろ。それより俺を胸ポケットに入れてくれよ。熱でチョコをもっととろっとろにしたいんだ」
「うん」
僕はトロトロをビニールに入れると胸ポケットに入れた。ここがトロトロの定位置だ。
「じゃあアヤメさんにもうつらないんだね。よかった」
「人間が弱すぎるんだよ。人の心配している場合じゃないだろ」
トロトロは呆れていたが、僕はホッしていた。こんな辛い思いをアヤメさんにさせてしまうなんて絶対に嫌だったのだ。
「奏斗、着替えは終わった?」
コンコンというノックとともにアヤメさんの声がした。僕が「うん」と答えるとドアが開き、そこにはいつもと雰囲気のちがう彼女の姿があった。
「顔が赤いわね」
顔が赤いのはきっと熱のせいじゃない。アヤメさんはいつもの黒いスーツの上に黄色い花柄のエプロンをしていた。それだけでワンピースでも着ているかのように華やかだ。彼女は小さな器の乗ったお盆を持ってベッドの傍らに腰かける。
「とりあえず林檎をすり下ろしたから。その後で薬を飲んでね」
彼女はすりおろした白いりんごをスプーンですくい、僕の口へと運ぶ。それは口の中で甘く広がってするりと喉の奥へと吸い込まれていった。味覚の鈍った今でもその甘味はよくわかる。
(りんごってこんなに美味しかったっけ)
丁寧にすり下ろされた林檎はすぐに体に染み込み辛い体を癒していく。
「奏斗、苦しくない?」
「ううん、大丈夫だよ」
りんごを食べ終え、薬を飲んでもアヤメさんはまだ心配そうに僕のことを見ていた。
「アヤメさん、そんな顔しないで。僕は大丈夫だから」
何故か泣きそうな彼女に見守られ、僕はうとうとと眠りに落ちていた。
『ごほっごほ』
それは喉に絡みつくような嫌な咳だった。咳をするたびに胸を熱い痛みが走り、いくら咳をしても吐き出せない気持ちの悪い何かがそこに潜んでいる。そんな気がした。
『ごほっごぼ』
繰り返す咳を抑えていた手が赤く染まる。それはただの咳ではなかった。悲しむアヤメさんの姿が浮かび必死に服で手を拭くが手についた赤い液体は取れない。。
(アヤメさんにだけは知られてはいけない)
すると僕の後ろで何かがボトッボトと落ちる音がした。振り返るとそこには頭に櫛をさし、着物を着たアヤメさんの姿があった。音の正体は彼女が落とした大きな林檎だった。林檎は凹み、ごろごろと転がっている。
アヤメさんの顔は青ざめて、ただ一点を見ていた。僕は焦り、手を隠して作り笑いをする。
『大丈夫、大丈夫だよ。ただの風邪だから』
しかしこみ上げるような咳と激しい痛みが気管を遡り、熱くドロリとした液体を僕はまた手で受け止めた。近づこうとした彼女を僕は止める。
『来ないで。大丈夫だから』
アヤメさんは青い顔でたちすくむ。
『大丈夫なわけないでしょう』
その声は絶望に満ちていた。そう、血まみれの僕は誰が見ても大丈夫じゃない。僕は観念した。
『ごめんね』
アヤメさんは唇を噛みしめたかと思うとすぐに手で顔を隠した。その細い肩が小刻みに震えている。心が痛い。それは気管の痛みなどとは比べ物にならない身を割かれるような痛みだった。
『辛い思いをさせて……ごめんね』
しかし彼女は顔を上げない。涙が指から手をつたい黄色の袖を濡らしていく。僕は彼女を抱きしめることができなかった。
『いつも辛い思いをさせてごめんね』
湧き上がる気持ちが言葉になる。
(いつも? いつも僕はアヤメさんを悲しませていた?)
何かを思い出しかけたその時、僕を呼ぶ声がした。
「奏斗」
目に飛び込んできたのはホッとしているアヤメさんの顔だった。
「アヤメさん?」
その瞳に涙はない。服装もスーツにエプロン、長い髪を下している姿は先ほどと同じ彼女だった。僕の手に血はついていないし、つかえるような胸の痛みもない。むしろ気分はすっきりとして倦怠感や関節の痛みはなくなっていた。
「苦しそうに泣いていたから起こしたのよ」
頬に手をやるとそこに確かに濡れた感触がある。泣いていたのは僕の方だった。
「熱は下がったみたいね。怖い夢でも見た?」
僕は首を振る。
「ううん。よく覚えてない。でもね――」
言葉を詰まらせる僕をアヤメさんは不思議そうに見つめる。どういうわけかこれだけは彼女に伝えなければならないと思った。
「アヤメさん、僕は絶対に大丈夫だから」
彼女は驚き、そしてすぐに嬉しそうに「うん」と返事をした。僕はなんだか幸せだった。そして時が止まればいい、そう思った。
ぐうと僕のお腹が鳴ると彼女は笑う。どうして僕はいつもいいところでかっこつかないんだろう。
「雑炊作ったんだけど食べられる?」
「うん、食べたい」
恥ずかしいやら情けないやらでがっかりしたけど、アヤメさんは弾むようにキッチンへと向かった。僕もすっかり元気になって寝室を後にする。
カチャカチャと音を立てながら用意をしている彼女の方を見るとキッチンには使った鍋や包丁がきれいに洗って片付けられていた。
「どうぞ、召し上がれ」
卵を落とした雑炊から立ち上る柔らかな湯気が食欲をそそる。一口食べるとそれはだしの効いた優しい味がした。
「すごくおいしいよ」
アヤメさんは僕が食べる姿を頬杖をついてじっと見ている。その口元は穏やかに微笑んでいた。
「アヤメさんは食べないの?」
「私は食事をとらないの」
そういえばアヤメさんが何かを食べている姿をみたことがない。僕は彼女の言葉にある疑念を抱いた。アヤメさんは食事も取らないし、病気にもならない。それなのに料理ができて看病も手馴れているのはなんでだろう。もしかしたら過去にアヤメさんがお世話をしていた人がいたのかもしれない。いや、いない方がおかしい。
そう思うと僕の胸の中はざわざわとして風邪とはちがう不快な気持ちになった。
「アヤメさん食事しないのに料理が上手なんだね」
「そ、それは――」
それまでずっとこちらを見ていたアヤメさんが気まずそうに目をそらす。やっぱり誰かに作っていたんだ。落ち込む気分を察したのか、僕の胸ポケットに潜んでいたトロトロが顔を出した。
「練習が無駄にならなくてよかったな、キツネ姫」
「練習?」
聞き返すとアヤメさんの顔はみるみる赤くなっていく。トロトロはにやにやしていた。
「奏斗がここへ来る前にキツネ姫はこんなこともあろうかと料理の練習をしていたのさ。ほらガスレンジもオーブンも使ったことがないから使い方もわからないだろ? エプロンだって選ぶのに散々悩んだんだぜ。使うかもわからな――」
「それ以上言わないでよ!」
アヤメさんは話を遮って睨みつけた。
「アヤメさん、顔が真っ赤だよ」
「奏斗の風邪がうつっちゃったのよ、きっと」
火照る頬を冷ますようにパタパタと手で仰ぐ。黄色い花柄のエプロンは彼女によく似合っていた。
「スーツ姿もかっこいいけど、エプロン姿もかわいいよ」
アヤメさんは「からかわないで」とキッチンへと逃げてしまったけど、それは僕の本心だった。
雑炊を食べ終わるとアヤメさんがガラスの器をことりと置いた。白いきめ細かなふわふわからは甘い香りが漂ってくる。
「また林檎すりおろしてくれたの?」
「だって好きでしょ」
僕は頷き一口食べてみる。それは甘酸っぱくてどこか懐かしい味がした。
お読み頂きありがとうございました。
連載中の本編は1月13日から『第4話キツネ姫と一途な狼』で再開の予定です。ちなみに第一話はイタチ、第二話は雷鳥、第三話はムジナとハクビシンのお話でした。ご興味がございましたらそちらもよろしくお願いいたします。
年末年始は消えていますのでレスポンス遅めです。2017年が皆さまにとって良い一年でありますように☆