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彗星の環

作者: 藤 達哉

彗星の環          藤 達哉


 島からは紺碧の海が見わたせた。本郷由彦は参道になっている斜面を登りきり、こんもりとした島の頂上にある神社の境内に入った。うっすらと汗が滲んだ額に、吹き上げてくる海風が心地よかった。

境内をとり巻く小径から見おろすと、いましがた渡ってきた本土と島を結ぶ長い橋が海に浮かんでいた。

彼は坂道を半ばまでくだり、旅館の門を潜った。老舗を思わせる門の脇では、深緑の松が門を支えるように見事な枝を伸ばしていた。

案内された部屋の縁側の籐の椅子に坐ると、水平線と空がひとつに溶けあった風景がひろがっていた。

暫くその幻想空間に漂っていると、耳元に優しい声が蘇ってきた。それは初めて百合子と出会った日のことだった。


「こちらはいかがですか」

若い女性の販売員がオフホワイトのジャケットを奨めた。

それはサッカー生地の軽い感じのジャケットだった。

「そうだね、わるくはないね」

由彦は生地を確かめるようにジャケットの袖に指で触れてみた。

「きっとお似合いですわ、フィッティングされてはいかがですか」

販売員は微笑んでいた。

「これはどうかな」

由彦は別のネイビーブルーのジャケットに手を伸ばした。

「それもいいですよ、リネン生地ですから涼しくて、これから夏に向かってお奨めです」

「リネンですか、暑い季節にはいいですよね」

由彦が眼を向けた販売員の胸の名札には、結城百合子と記されていた。

「ええ、ぜひお試しください」

二十歳そこそこと見える百合子は、細身の均整のとれた身体をくねらせるような仕草をした。

「うーん、どっちもいいから迷いますね」

由彦は優柔だった。

「そうですか、ゆっくりお考えください」

百合子が微笑み、口許から白い歯がこぼれた。

「ちょっと考えてまた来ます」

由彦は身体を斜にして、照れながらその場を去ろうとした。

「お待ちしています」

百合子は軽く会釈し、彼を見送った。

帰途、由彦の頭に百合子の面影が浮かんだ。繊細な産毛の存在を感じさせる白い肌は、柔らかい桃のようだった。耳から顎にかけて綺麗な曲線で描かれた細面の顔とショートヘアが美しい輪郭を生み出していた。ブランドショップで出会ったとき、彼はなぜかその面立ちに惹かれた。以前どこかで会ったような気がして、わけもなく懐かしさを覚えた。


 一週間後、彼は同じブランドショップを訪れた。

「やはり来て頂けましたね」

彼が振り向くと百合子が微笑んでいた。

「ああ、あなたでしたか、また来てしまいました」

由彦も微笑みを返した。

「それで、決められましたか」

百合子は頸をすこし傾げた。

「ええ、今年も暑くなりそうだからこのリネン生地にしようと思うんです」

由彦はそのジャケットに指で触れた。

「そうですか、それではフィッティングなさってください」

百合子はジャケットをハンガーからとり、由彦に渡した。

由彦がフィッティング・ルームに入り、ジャケットを着てみると、サイズは合っているように思えた。

「まあ、お似合いだわ、サイズもぴったりだし」

百合子は姿見を見ながら言った。

「いいようですね、これにします」

由彦は姿見に映った自身を見て、まんざらではない気がした。

「ありがとうございます」

百合子は表情を崩し、由彦が脱いだジャケットを受け取ると、カウンターに載せた。ジャケットをたたみ始めた繊細な指の動きに、彼の視線は吸い寄せられた。

「綺麗な指ですね」

自身の口から出た言葉が意外だった。

「えっ、あっ、ありがとうございます」

百合子も思いがけない言葉に困惑していた。


 由彦は英語のレッスンをするクラスにいた。

「先生、chivalryの発音が難しくてできないんです」

生徒の彩が甲高い声で訊いた。

彼女はクラスのなかでも最も熱心な生徒だった。小さな貿易商社に勤める彼女は二十代後半になり、退屈な事務職に見切をつけ、以前より憧れていたキャビン・アテンダントになることを目指していた。給料のいい外資系航空会社に転職するのには英語が必須で、彼女はその勉強に勤しんでいた。

商社での勤務を終えた夜間、毎週三回英会話スクールに通うのは並大抵ではなかった。彼女は睡眠時間を削り、受験生のような生活に耐えていた。

由彦は、彼女に転職の意志があることは知る由もなかったが、レッスンへの熱心さに感心し、目をかけていた。

「発音のポイントは、母音に正しくアクセントを置くということだからね、そこに注意して練習してみなさい」

由彦は丸顔の彩を見ながら丁寧に応えた。

「はーい、発音記号を調べてやってみます」

彼女はいつものように明るく応えた。

由彦は生徒数八十名ほどのこじんまりとした英会話スクールの講師をしていた。

彼は大手エンジニアリング会社でプラントの輸出を担当していた。入社以来、海外を飛びまわる仕事に没頭するあまり、たった一人の家族を顧ることもしなかった。中堅の二十代のころには、一年のうち半年ほどを海外で過ごす生活が続いた。

その後、プラント建設のため、妻を伴って中東のドーハに駐在した。厳しい生活環境を慮って、妻には日本に残るよう言ったが、彼女は由彦と暮すことを選んだ。駐在地においても由彦は仕事に邁進し、妻は馴染めない生活のなかで深い孤独に苛まれた。帰国後、彼女は冷えきった心抱いて由彦のもとを去って行った。

 その後暫く、由彦は自身を包んでいた世界が突如消え去ったように思えた。獣のように仕事と格闘してきた彼は、ある日身のまわりになにも残っていないことに気づき愕然とした。そして、間もなく募集が始まった早期退職制度に応募し会社を退職した。四十代半ばにさしかかった彼が、ビジネスで鍛えた英語が活かせるだろうと思って選んだのが今の仕事だった。

しかし、最近英会話スクールでは外国人が幅をきかせ、日本人講師は彼らに居場所を奪われつつあった。

「由彦先生」

レッスンを終えて教室を出たところで由彦は呼び止められた。振り返ると教務主任の芦田の笑顔があった。四十代後半で髪をオールバックに撫でつけ太い黒縁の眼鏡をかけた彼は、どこか喜劇俳優を彷彿とさせた。

「なんでしょうか」

二人は会議室のソファで相対した。

「クラスの授業はどうですか」

芦田は愛想よく微笑んだ。

「ええ、クラスの生徒はみな熱心で順調ですが」

「そうですか、それはよかった。しかし、一部の生徒からなんというか、そのう・・・」

一転して芦田の表情が曇った。

「なんですか」

由彦は訝った。

「最近、ネイティブの先生が増えて、発音のいいネイティブの先生のクラスに替えてほしいという生徒がでてきましてね」

芦田は言い終えて由彦の顔を見た。

最近はスクールの生徒も目が肥え、講師に対して厳しい評価がくだされるようになっていた。

「はあ、そりゃ発音ではネイティブに敵いませんよ。発音が旨い下手よりもちゃんと通じる英語を教えることが、私は大事だと思いますがね」

ビジネスの最前線で鍛えた英語に自信を持っている由彦は不満を露にした。

「ええ、ええ、もちろん先生の教え方に問題があるとは思っておりませんので、はあ」

「で、スクールとしてはどうされるんですか」

由彦は語気を強め、芦田を睨んだ。

「そうですね、生徒さんからクラス替えを強く要求された場合は、それを受けざるを得ませんので、ひとつそれはお認めください」

芦田は自信なさそうに言葉を並べた。

「そうですか、分りました、そういうことになったら知らせてください」

無責任な芦田にいまなにを言っても無駄だと思った由彦は席をたった。


 彼はメトロに二十分ほど揺られ、自宅マンションに戻った。手ぜまな部屋もひとり暮らしには充分に思えた。

グラスから冷えたビールを口に運びながら、芦田とのやりとりを頭に浮かべたが、彼の不甲斐なさに憤りを感じ、奥歯を噛みしめた。本来ならスクールの教授方法を生徒に説明し納得させるべきなのだが、腰が引けている芦田には無理な話だった。ビールの味がまずくなると思った由彦は、不満を心の底に押し込めた。


 由彦は百合子とランチをともにしていた。ジャケットを買うために接客を受けたとき、由彦は百合子の輝く肌に惹かれた。彼女は若く、生き生きとした容姿もさることながら、丁寧で綺麗な言葉使いも魅力的だった。そして、それ以上に、彼女に不思議な親しみを感じていた。由彦は彼女の肌と自身の肌が同質のように思えた。なぜなのかは分らなかった。

メトロの駅から十分ほど坂道を歩き、フレンチ・レストランに着いた。瀟洒な住宅街に不釣り合いな豪華な洋館は以前ハンガリー大使館だった。門を潜り、木木にかしずかれたようなアプローチに進むと、玄関で黒いスーツの女性が応対に出た。

「予約した本郷ですが」

「本郷様ですね、どうぞこちらへ」

なかへ入り、クロークに鞄をあずけると、スマートに身をこなす女性に案内され緩やかな階段を上がった。広いダイニングルームには十席あまりのテーブルが設えてあり、いくつかのテーブルには既に客が着いていた。

由彦と百合子は案内されるままに壁際の席についた。落着いた色調の壁は印象派と思しき油絵で飾られていた。

「まあ、素敵なレストラン」

百合子は表情を崩した。

「雰囲気いいでしょう」

由彦は得意気だった。

「こんなところにこんなレストランがあるなんて、知らなかったわ、でもちょっと心配」

「えっ、心配って」

「だってとっても高そう」

「なんだ、そんなこと心配いらないよ。バブルの時は高かったそうだけど、いまはそうでもないから」

由彦は相好を崩した。

「そう、それならいいんですけど」

百合子は微笑んで軽く眼を閉じた。

「苦手な食べ物はあるの」

「食べ物ならなんでも大丈夫よ」

「それなら、コースでいこう」

「でも、由彦さんから電話を頂いたときには驚いたわ」

ジャケットを買った日、由彦は店舗の百合子に電話した。彼女は思いがけない誘いに戸惑ったが、不思議と断る気になれなかった。

「ごめんなさい、突如誘ったりして、へんなおじさんと思ったでしょう」

由彦は苦笑した。

「あら、そんなことはないわ」

「そう、それじゃどうして誘いを受けてくれたの」

由彦は百合子の眸を見つめた。

「ジャケットを買ってもらったお客さんだから、というわけではないんですよ、でも、なんとなく由彦さんとお話をしてみたくなって」

「ワインはいかがですか」

初老のウエイターがナプキンで包んだワインボトルを持って現れた。

「ワインは注文してませんが」

由彦は戸惑いをみせた。

「いえ、これはコースを注文なさったお客様へのサービスです」

ウエイターは柔らかい物腰で応えた。

「そうですか、それなら頂きましょう」

赤ワインで由彦と百合子は乾杯した。

それから次つぎと運ばれてきた料理は、どれも二人の舌を満足させた。やがてコースが終わり、コーヒーが運ばれてきた。

「料理、どうだった」

「美味しかったわ、もうお腹一杯」

百合子の頬はほんのりピンクに染まっていた。

「ちょっと酔ったかな、大丈夫」

「いい気分だわ、でもお昼間からこんなに呑んじゃっていいのかしら」

百合子は眼を潤ませていた。

「顔が赤くなってるよ」

「まあ、恥ずかしい」

彼女は両の掌で顔を隠す仕草をした。

「このあたりを散歩してみようか」

長いランチが終わり、二人は住宅街を歩きはじめた。迷宮のように連なる小径の両側には、年月を経た家家が落着いた佇まいをみせていた。そこにはメトロの駅にほど近いとは思えぬほど静けさがあった。

「静かなところね、こんなところに住んでみたいわ」

百合子は綺麗に手入された庭を見ていた。

脚が疲れを覚えはじめたころメトロの駅に戻ってきた。二人は再会を約して駅で別れた。


 「由彦先生」

スクールに出勤した由彦は芦田に呼びとめられ、応接へ入った。

「なんでしょうか」

「このまえのクラス替えの話ですが、二人の生徒がネイティブの先生のクラスに替わりたいと言ってるんです」

芦田は話づらそうだった。

「そうですか、それは誰と誰ですか」

「えー、遠山さんと嘉田さんなんです」

「そうですか、しかたありませんね」

由彦は不満気に応えた。

名前を告げられた二人はレッスンにあまり熱心ではなく、上達が期待できない生徒だった。

「分って頂いてありがとうございます。新入の生徒がきたら、できるだけ先生のところにまわしますから」

芦田はほっとした様子だった。

由彦の給料は歩合制で、受持つ生徒の数によって決められていた。生徒が減り、また収入が減るのかと、彼の心が曇った。

憂鬱な思いでレッスンを終えて帰宅すると、スマートフォンにメールが入った。


〈このあいだは美味しいランチありがとうございました。本当に愉しい時間を過ごさせて頂きました。またお時間があればお誘いください。 ユリコ〉


百合子の笑顔を間近に見るようなメールに、由彦は思わず微笑んだ。クラスのことで沈んだ心が温かく浮かんで行くように思えた。


 一週間後、由彦は百合子を行きつけの割烹へ誘った。抑えた照明がこじんまりとしたカウンターを照らしていた。スクールのイギリス人講師から教えてもらった店だった。由彦はそのことを百合子に話した。

「ふーん、イギリス人がこんなお店を知ってるの、よほど日本食が好きなのね」

百合子は冷酒の盃を口に運んだ。

「そうみたいだね。話を聞いたときには、どうせたいした店じゃないだろうと思ったんだけど、ここの料理はいけるんだよ」

「ほんと、美味しいわ」

百合子は焼茄子を口に入れた。

「仕事のほうはどうなんだい、売れてるの」

由彦は百合子の生活ぶりを知りたかった。

「まあまあよ、うちのブランドは固定客が多いの、だからあまり売上にアップダウンはないの」

「そう、それじゃ安定してるんだ」

「そうね、でも変化がなくて物足りないわ」

百合子は眼をふせた。

「ところで、生まれはどこなの」

「うーん、あまり言いたくないの・・・」

「えっ、どうしてかな」

「・・・」

「あっ、ごめん、べつに言いたくなければいいんだ」

由彦はなぜかと思ったが、彼女の困った顔を見るに忍びなかった。

「ねえ、私のことより由彦さんのこと知りたいわ」

百合子は気を取りなおしたように口を開いた。

「僕はごく普通のサラリーマンだったんだ。あることがあって、その会社を辞めて今の仕事に変ったんだ」

「あることって」

「妻と別れたんだ」

「あら、そうだったの」

「いまは英会話スクールの講師をやってる」

「そうなの、私も英語がしゃべれたらいいのに、ねえ、英語教えてほしいわ」

百合子の眸が輝いた。

「いいとも」

由彦は苦笑した。

その夜、二人は盃を重ね、由彦は酔った百合子を彼女のアパートまで送っていった。

ラベンダーの香が焚かれるなかで、百合子は花のように抱かれた。由彦の唇と指に彼女はしなやかに、そして激しく律動した。

 

 由彦は午前のクラスで授業をしていた。

「彩さん、先週の宿題のパートAを暗誦してみてください」

「あのう、できません」

彼女は坐ったまま応えた。

「どうしたんですか」

「宿題するのを忘れていました」

彼女は俯いていた。

「なんだ、だめじゃないですか、次のクラスまでにやっておいてください」

「・・・」

「では、陽子さん、やってみてください」

いつも宿題はきっちりやってくる彩が一体どうしたのだろう、と由彦は思った。

「はーい」

代わりにあてられた陽子はすらすらと暗誦した。

 クラスを終えて教室を出ると、芦田が待っていた。

「先生、ちょっとお話が」

二人は応接で相対した。

「こんどはなんでしょう、またクラス替えの話ですか」

由彦はうんざりとした顔をした。

「いや、そうじゃないんです。じつは・・・」

芦田は言葉を詰まらせた。

「一体なんですか」

「先生がですね、若い女性と歩いているという噂がたってるんですよ」

「なんですって」

由彦は戸惑った。

「先生が若い女性と歩いているところが度度目撃されて、スクールで評判になってるんですよ」

芦田はばつのわるい表情をした。

「誰がそんなことを言ってるんですか」

由彦は、彩が宿題をやってこなかった理由が分ったような気がした。

「いや、その、誰ということではないんですが、たんなる噂なんで」

「そうですか、噂ですか」

「ごぞんじのとおり、わがスクールは女性の生徒が多く、やはりイメージが大切なもんですから」

「わるい噂がたってはまずいということですか」

「そのとおりです」

「主任、それなら心配無用です」

「どういうことですか」

「一緒に歩いていた女性というのは私の娘です」

思いがけない言葉が由彦の口をついてでた。

「えっ、そうなんですか」

芦田は眼をまるくした。

「ええ、そうです」

「娘さんがいらっしゃるとは知りませんでした。そうですか。それなら問題ないですね」

彼は安堵の表情をみせた。

 自身の口からでた言葉が、由彦は信じられなかった。彼は心のなかでその言葉を反芻した。その夜、由彦はなかなか眠りつけなかった。


 早朝、由彦と百合子は千歳空港へ降りたった。予約してあったレンタカーで空港から小樽へ向かった。育った街へ行ってみたい、と言いだしたのは百合子だった。高速道路を疾駆し、やがて小樽港へ着いた。

「久しぶりだわここに来たの」

車から降りた彼女は、伸びをするように両手を頭上に挙げて笑みを見せた。

由彦も車を降りた。港には北国の涼やかな風が吹いていた。

「いい港だね」

「私が一番好きな場所よ、ほらあのレンガ倉庫、綺麗でしょ」

「本当だ、歴史を感じさせるね」

「母もここが好きだったのよ、よくふたりで散歩したわ」

百合子は桟橋のほうへ歩きだした。彼女が眺める海の色はもう夏の終わりを告げていた。

二人はふたたび車に乗り、港を離れた。やがて街並を抜け、車はカーブの多い斜面を駈け上った。

「ここよ」

百合子の実家は、小高い丘の上で潮風を一杯にうけていた。白いサイディングを施した二階建の瀟洒な建物だった。

彼女がハンドバッグから鍵をとりだしドアを開けた。なかに脚を踏み入れると、玄関に続いて広めのリビングがあり、そこから海が見わたせた。

「いい部屋だね、眺望が素晴らしい」

「もうここは売りにだしてるの」

彼女の言葉どおり、部屋の家具やカーテンはすべて姿を消していた。

「惜しいね、こんなにいい家を売るなんて」

「ええ、私も売りたくはないわ。でも、思いでのつまった家具も処分してしまったの。母が昨年亡くなって、ここで生活することもできないし」

由彦は哀しい表情になった百合子を抱き寄せた。

「ここでよく母と話したの」

「どんな話だい」

「いろんな話よ、そう、昔の恋人のこととか、いろんなこと」

「それで、お母さんはどんな仕事をしてたの」

「市内のクラブでホステスをしてたの」

「そうだったの」

「母は毎晩遅くまで懸命に働いて、私を短大まで行かせてくれたの」

「それは大変だったね」

「就職したら恩返しをしようと思っていたのに・・・」

百合子は言葉を詰まらせた。

「死因はなんだったの」

「肝臓癌よ、見つかったときはもう手遅れだったの、仕事でお酒を呑みすぎたんだと思うわ」

彼女の眼には涙が光っていた。

「そうか、仕事の無理がたたったのかもしれないね」

由彦の胸にも熱いものが過った。


 その夜、二人は市内のホテルに泊まった。

「私、外国で生れたの」

焔の時が過ぎ、気だるさのなかで百合子が静かに話しはじめた。

「えっ、どこで生れたの」

「イギリスのリバプールよ、でも生れてすぐ日本にきたからリバプールでのことはほとんど憶えていないの」

百合子は眼をふせた。

「そうだったの」

「母はシングルマザーなの、だから私は父親の顔は知らないの」

彼女の言葉に、由彦は一瞬動揺した。

「大変だったね、それで百合子のお父さんのことを聞いたことはあるの」

「うーん、リバプールで知り合った人とは聞いたけど、それいじょうのことは言わなかったわ」

「そうか、お母さんが亡くなって寂しくなったね」

「ええ、でも、母とは以前から離れて生活していたので寂しには馴れてるの」

彼女は由彦に顔をむけ、細い指を彼の指に絡めた。

そんな仕草に、もう母親のことはふっきれているようにもみえた。しかし、見たこともないという父親のことはどうなんだろう、と由彦は思った。父親のことを訊くこともできず、彼は眼を閉じていた。暫くして気づくと、百合子は静かに寝息をたてていた。無垢な表情を見ていると、彼女がこのうえなく愛おしく感じられた。


 二十年前、由彦はリバプールにいた。勤務するエンジニアリング会社がリビヤの海水淡水化プラントをリバプール本社の会社と共同受注した。彼はそのプロジェクトの一員としてリバプールに駐在を命じられた。二十八歳の春だった。

若い彼は仕事に邁進した。オフィスで連日プロジェクトについて会議が行われた。夜、アパートへ帰宅後も、彼はプラントの図面と格闘する日々が続いた。

一年が経ち、ようやく図面が完成し、計画がまとまりを見せた。彼にも余裕がうまれ、仕事を終えたあと、オフィスからほど近いパブに通うようになった。勤め帰りの客で賑うパブのカウンターでビターと呼ばれるビールをグラスに二杯ほど呑むのが習慣になっていた。

その日も、黒光りする重厚なカウンターに寄りかかりながら、彼はグラスを口に運んでいた。冷えたビールのほろ苦さが口一杯に広がり、身体の隅々にまで浸み込んでいくように思えた。この感覚が毎日の仕事の疲れを癒していた。

時に大声をあげたり、手を打ったり、パブの客達は仕事から解放された夕刻のひと時を愉しんでいた。

手ぜまなパブの隅に小さなテーブルが二つほど置かれていた。混みあうなかで、彼はそのテーブルに坐っているひとりの女性に気づいた。その容姿は東洋人のように思えた。客のほとんどが男のパブにひとり佇む女性に惹かれ、彼はテーブルに近づいた。

「あの、失礼ですが、日本の方ですか」

思わず、彼は日本語で訊いた。

「ええ、そうです」

女性は緊張した面持で応えた。

「おひとりですか」

「ええ」

「ご一緒していいですか、僕もひとりなもんで」

自身でも思いがけない言葉が口から自然にでた。

「ええ、べつにいいですけど」

「あの、もう一杯いかがですか」

由彦は空いたワイングラスを指さした。

「そうね、じゃあ、おかわりしようかしら」

彼はホワイトワインとビールを注文した。

呑みながらお互いに自己紹介をした。二十代後半の彼女は麻佑子と名のった。

「どうしてイギリスに」

「旅行ですわ」

「何日くらいのご予定ですか」

「予定・・・、予定はありませんわ」

「えっ、それは・・・」

由彦は怪訝に思ったが、うつむいてしまった麻佑子にそれ以上訊くことはできなかった。

「由彦さんはどうしてここにいらっしゃるの」

気をとりなおしたように、彼女は顔をあげた。

「仕事ですよ、日本の会社の駐在員です」

「そうなんですか」

由彦の素性が知れて、彼女はほっとした様子だった。

「どちらにお泊りですか」

「リモージュホテルです」

そのホテルは由彦のアパートからそう遠くない小さなホテルだった。

客も引けはじめた頃パブを出て、由彦はタクシーで麻佑子をホテルまで送って行った。

由彦はただひとりの日本人駐在員として、イギリス人のなかで一年あまり懸命に仕事に精励してきた。時差を考慮して、週に何回か深夜東京本社に電話するほかは日本語を話すことはほとんどなかった。東京で電話を受けるのはプロジェクトの責任者である杉下管理部長だった。由彦はプロジェクトの進捗状況を逐一杉下に報告していた。彼は由彦が信頼を寄せる上司で、仕事に限らず時折、プライベートな相談を持ちかける相手だった。

窮屈な駐在員生活をおくっていた彼にとって、その夜の麻佑子との自然な会話はこのうえなく新鮮だった。


 週末、由彦は麻佑子をドライブに誘った。切立った崖に沿った道路をツーシーターのオープンカーは縫うように疾走した。やがて車は岬の突端にあるカフェに着いた。二人が坐った窓際の席からは輝く海が見わたせた。風は強く、海面には白い波頭が目だった。

「綺麗な海だわ、水平線があんなにくっきり。あのむこうまで連れって欲しいわ」

麻佑子は遥か彼方を見やっていた。

「どうしてあてのない旅にでられたんですか」

由彦は静かに語りかけた。

「夫と別れたんです」

仄暗いパブでは気づかなかった疲れが、麻佑子の顔に見てとれた。

「そうですか、それは大変でしたね、心を癒しに旅にでられたんですね」

「ええ、そう思って旅に出たんですが、そうはいかないようなんです」

「えっ、どういうことですか」

海を眺める美しい麻佑子の横顔に、由彦は惹かれた。

「子供を失ってしまったんです」

向きなおった麻佑子の眸は心なしか虚ろに見えた。

「そうだったんですか、つまらないことを訊いてしまって、ごめんなさい」

思いがけない言葉に、由彦は戸惑った。

「いえ、べつにいいんです」

麻佑子は冷静だった。

「そのへんのこと、もっと訊いてもいいですか」

由彦は落着きをとり戻した。

「子供が川で溺れてしまったんです」

「それは・・・、なんと言ったらいいのか」

「私のせいなんです、ちょっと眼をはなしたすきに川に流されてしまって」

「それは不運でしたね」

「その日は天気もよくて川の流れも静かだったのに、あの子、突然姿が見えなくなって、溺れてしまったんです」

「大変でしたね、お子さんは何歳だったんですか」

「息子は四歳でした」

「そのことが離婚の原因に」

「ええ、夫は私を責めました。私の不注意が原因ですから仕方ないんですけど。それ以来、夫との関係もうまくいかなくなってしまって」

言葉を詰まらせた麻佑子の眼には涙が浮かんでいた。

「いつ日本を発ったんですか」

「もう三週間になります」

「もうそんなに」

もうホテルの食事にも飽きて疲れがでてくるころだ、と由彦は思った。

「でも、この旅は意味がなかったみたい」

「どうしてですか」

「心は癒されません、それどころか、ひとりでいると息子のことがいろいろ思い出されて・・・」

麻佑子のきれながの眼尻から一筋の涙が流れ落ちた。

彼女の哀しみに満ちた顔を見ると、由彦はほうっておけない気がした。

それから何回かの逢瀬を重ね、プラタナスの並木が山吹色に染まるころ、麻佑子は由彦の部屋に身を寄せた。

ワークビザの取れない彼女は職に就くこともできず、昼間所在なく過ごすことがおおかった。由彦の仕事は佳境に入り、帰宅は遅くなりがちだったが、麻佑子は夕食を用意し待っているのが常だった。

時には、仕事を終えた由彦から電話が入り、近くのレストランで食事をすることもあった。

そんな生活が一年ほど続き、麻佑子は二人の関係に不安を覚えはじめていた。

「ねえ、どこかへ行こうか」

週末の昼下り、由彦が唐突に口を開いた。

「えっ、どこかへって」

麻佑子が訊きかえした。

「旅行さ」

由彦はリビングルームの窓から外を見やった。庭木の向こうには静かな住宅街が広がっていた。

「まあ、嬉しい、でも大丈夫なの」

麻佑子は彼の休暇の心配をしていた。

「問題ないよ、もうプロジェクトも山を越したんだ」

由彦は微笑んだ。

「そう、よかったわ」

「この一年休暇もとれなかったからね、リフレッシュしないと」

この一年懸命に取り組んできたプロジェクトに目処がたち、彼は気持に余裕が生まれていた。

「そうなの、それじゃ計画をたてないといけないわね」

「もう二年もこの国に住んでいるのに、この国のこと何にも知らないんだ。この間、そのことに気がついたんだ」

「そういえば、私もそうだわ」

麻佑子は眉をひそめた。

「イギリスを縦断してみようと思うんだけど、どうかな」

「いいわ、やってみましょう」

彼女は眼を輝かせた。

それから三日ほど地図とくびっぴきで、彼女はスコットランドからロンドンまで南下するイギリス縦断の旅程を作成した。


 一週間後、二人は空路エジンバラへ飛んだ。エジンバラ空港からレンタカーで南下の旅は始まった。

車は市街地の混雑を抜け、郊外へ入っていった。窓から初夏の乾いた風が流れ込んだ。

「まあ、気持いいわ」

助手席で麻佑子は眼を細めた。

「でも、意外と寒いね」

「そうね、北国へ来たって感じね」

彼女は笑みをみせた。

愉しげにふるまう彼女を、由彦は久々に見る気がした。

アクセルを踏み込むと、車は空いた道を風のように疾走した。道は住宅街を過ぎると、田園地帯へと入っていった。やがて柔かな緑に包まれたなだらかな丘陵が見えてきた。車は一段とスピードをあげ、牧草を食む牛や羊の群が後方へ流れていった。

暫く走ると風景に溶け込んだカフェが眼に入り、そこで休息をとることにした。

牧場の隅にそっと置かれたようなカフェには柔らかな陽光が満ち、他に客の姿はなく静かな時間が流れていた。シンプルな造りのテーブルに着いていると、紅茶とクッキーが出された。口に入れると素朴な甘さがひろがった。次にローストビーフのサンドイッチが運ばれてきた。

「どれも美味しいわ、あっさりしてて」

麻佑子はサンドイッチを頬張っていた。

「そうだね、味のないのがイギリス料理の個性だからね」

由彦は微笑んでティーカップを口に運んだ。

「イギリスに来て初めて旅にでた気分だわ」

「ここに来たころ、一人で旅行しなかったのかい」

「すこしはね、でもマンチェスターとロンドンくらいよ」

「そうだったのか、感傷旅行であちこち行ったのかと思ってたけど」

「ここに来たころはそう思ってたのよ、でも一人で旅をするうちにだんだんそれが辛くなってしまったの」

「そうだったのか」

「そんな時に、あなたと出会ったのよ」

「そうか、だからあの時パブにいたのか」

「ええ、ホテルの部屋でひとりでいると寂しさが増して、街へでたんだけど、気がつくとあのパブにいたの。愉しそうな人たちを見てると気が紛れたわ」

「そうすると僕が声をかけたのは絶好のタイミングだったわけか」

「そうね、ひとりで部屋にこもっていると、黒い悪魔が現れて大きな翼を広げて私を包みこもうとするの、怖くて眼をつむって追い払っても追い払ってもまた出てくるの」

「その悪魔って何者なんだろう」

「分らないわ、それで怖くて外へ出たんだけど、行く当てもなくふらふら歩いていたらパブの灯りが眼に入ったの。一人で入るのは気がひけたけど賑やかさに惹かれた入ってみたの、でも入って困っちゃったわ」

「どうして」

「お客はみんなビールを呑んでるでしょ、でも私はビールは呑めないし、どうしようかと思っていたらお店の人がワインならありますと言ってくれたのでワインにしたの」

「よかったね」

「愉しそうに呑んでる人を見ていると、私もどんどん呑んじゃって酔っていたの。あなたが声をかけてくれなかったらどうなっていたか分らないわ」

麻佑子は微笑んだ。

軽食を終えた二人は再び車に乗り込み、南を目指した。


 広やかな湖水地方は柔らかな陽射に満ちていた。由彦はウィンダミア湖畔に車を停めた。

「綺麗な湖ね」

麻佑子は桟橋に立ち湖面を見わたしていた。桟橋のたもとでは、数羽のアヒルが水面に浮かんでいた。

「遊覧クルーズがあるようだね、乗ってみようか」

「いいわ、愉しそう」

桟橋に横づけになっているクラシカルなスタイルの遊覧船に乗込んだ。キャビンは思ったより広く、百人は収容できる広さだった。暫くするとエンジンがかかり、船は船体を震わせながら静かに桟橋を離れ、湖面を滑るように進んだ。湖は両岸を蔽う森の緑を映し、深く沈んでいた。

「デッキに出てみようか」

「そうね、気持よさそう」

由彦と麻佑子は席を立ってデッキへ出た。湖面をわたる涼やかな風が頬を撫でた。

セールに風を一杯に張った小型ヨットが湖面を跳ねるように遊覧船の針路に侵入し、次の瞬間船体を翻して遠ざかって行った。

「あのヨットすごいスピードだね」

由彦が傍らの麻佑子を見ると、彼女は緊張した面持で湖面を見つめていた。

「どうしたの、大丈夫かい」

由彦が眼をむけた彼女の頬は蒼ざめていた。

「ええ、大丈夫よ」

彼女の身体が震え、ふらついた。由彦はとっさに彼女の身体を抱きとめた。彼は麻佑子をだき抱えるようにしてキャビンに入りシートに坐らせた。

「ありがとう、ふっと気が遠くなってしまって」

彼女は気だるそうに眼を開けた。

「そうか、疲れが出たのかな」

由彦は優しく掌を彼女の頬にあてた。

窓から外に眼をやると、ヨットや漁船と思われる小型船が行き交っていた。やがて一時間ほどのクルーズを終えて、船はもとの桟橋に戻った。クルーズを満喫した乗客は、クルーの笑顔に見送られて下船していった。由彦は麻佑子の手を引いて桟橋に降立った。

「気分はどう、よくなった」

運転席で由彦が見た麻佑子の顔色は回復しているように見えた。

「ええ、もう大丈夫よ」

彼女は微笑んだ。

 車は南下を続け、その日の宿へ急いだ。草原を縫うように伸びる道路を疾駆し、陽が傾き始めたころ宿へ着いた。コテッジ風の落着いた感じのホテルだった。泊まり客はすくなく、ホテルは静かな佇まいをみせていた。フロントでチェックインを済ませ、二人の荷物を運ぶ若いボーイの案内で芳香を放つ深い絨毯を踏んで二階へあがり、部屋へ入った。部屋は花柄の明るい色調の壁紙でまとめられ、落着いた雰囲気だった。窓側には木製のシンプルな応接セットが置かれていた。

「ほっとしたわ」

麻佑子は椅子にかけた。

「元気になってよかった、ちょっと心配したよ」

「ごめんなさい、湖面を見ていたら、なんだか急に怖くなって、寒気がして、それで気が遠くなってしまって」

彼女の顔は心なしか血の気が失せているようにみえた。

「以前にもこんなことがあったのかい」

由彦は彼女の身体のことを案じていた。

「そうね、そういえば前にもあったような気がするわ」

「どんなときにあったんだい」

「・・・、海を見ていたときだったかしら」

麻佑子は眼を伏せた。

陽が沈み、階下の食堂で夕食をとることにした。食堂は彼らのほか一組のカップルしか見えず閑散としていた。由彦はラムステーキを麻佑子はサーモンのムニエルを食べることにした。

「お味のほうはどう」

麻佑子が上目使いで訊いた。

「思ったより旨いよ、ラムの味は淡白だけど、かかっているペパーミント・ソースで救われてるみたいだ」

「まあ、それじゃ私とおなじだわ」

「どういうこと」

「このサーモンもホワイト・ソースで美味しく食べられそう」

彼女はサーモンを口に運びながら微笑んだ。


 「このまえのこと、考えてくれた」

瀬川秀和はコーヒーカップを置いて口を開いた。

週末のコーヒーショップは大勢の客で賑っていた。

「随分考えたんですけど、私、自信がなくて・・・」

談笑する声にかき消されるような小さな声で、麻佑子は応えた。

「自信がないって、どういうこと」

秀和は怪訝な表情をした。

「雅宏君のことが・・・」

麻佑子の眼は不安を訴えていた。

「なんだ、息子のことか、この前も言ったけど心配ないよ」

秀和は笑顔を作った。

「雅宏も麻佑子になついているから大丈夫だよ」

彼は言葉を継いだ。

「そう、それならいいんだけど。雅宏君とのことがとっても心配、うまくやっていけるかどうか」

秀和から結婚をきりだされて一か月、麻佑子の心では喜びと不安が渦巻いていた。

麻佑子と秀和が勤務している建設会社で知り合ってから季節がひと巡りしていた。麻佑子の仕事はCADで建築図面を引くことで、秀和は外回りの営業だった。彼が声をかけてきたとき、麻佑は素直に彼を受けいれた。

その半年前、麻佑子は最愛の父親を病で亡くしていた。秀和の言葉は心の空洞に広がる哀しみを融かしてくれるように、麻佑子には思えた。

「こんどの週末、三人で札幌に行ってみようよ、雅宏も喜ぶと思うんだ」

秀和は彼女の頑な心をすこしでも和らげることができないか、と思っていた。

「雅宏君は元気にしてるの」

「うーん、それがどうも、このところ相手をしてやっていないんで、ご機嫌斜めなんだ」

ばつがわるそうに、秀和は唇を結んだ。

「まあ、雅宏君、可哀そう」

「最近忙しいからなかなか時間がなくてね」

建設会社は週末出勤になることが多く、幼稚園に通う雅宏と秀和は時間がうまく合わないことが続いていた。

「そうね、そういえば秀和さん、忙しいそうだものね」

「だけど、今週末はどうやら休みがとれそうだから、一緒に過ごしてやりたいんだ」

「そう、それなら私も行くわ」

麻佑子は納得したように言った。


 週末、秀和、麻佑子それに雅宏の三人はJRで小樽から札幌に向かった。札幌駅から暫く歩いて大通公園に入った。

「お天気がよくてよかったわ」

ベンチにかけた麻佑子が抜けるような青空を仰いだ。

頭上にはライラックの薄紫の可憐な花が顔を覗かせいた。

「そうだね、気持がいいね」

芝生の眩さに秀和は眼を細めた。

「あれ、美味しそう」

雅宏が指さす方を見ると、売店の茹トウモロコシが眼に入った。

「私はあのソフトクリームがいいな」

麻佑子も同じ売店を見ていた。

「なんだい、二人とも」

微笑ながら秀和は立ちあがった。

「ほら、食いしんぼさんたち」

間もなくソフトクリームとトウモロコシを買って、彼は帰ってきた。

「わー、パパ、ありがとう」

雅宏はもらったトウモロコシにかぶりついた。

麻佑子はバニラアイスを嘗めはじめた。

「花が綺麗だわ」

彼女は花花に眼を奪われていた。

公園の通路に沿って設えられた花壇では、ペチュニアやグラジオラスの色とりどりの花が短い夏を精一杯愉しむように咲き誇っていた。

 彼女は秀和との二回目のデートで、彼が離婚し息子をひとりで育てていることを打明けられた。声をかけられる前から、彼に好意を持っていた麻佑子は動揺した。初婚の彼女が男の子を育てることがはたしてできるものなのか、彼女は不安に包まれた。しかし、逢瀬を重ね、秀和の暖か味を知るにつれて、彼は麻佑子にとって離れられない存在になっていった。そうなればなるほど、彼の息子が彼女の心配の種となっていった。

「だめよ、花壇に入っちゃ」

花壇の中に坐りこんでしまった雅宏に麻佑子が声をかけた。

「ここにいろんな虫がいるんだ」

雅宏は陽光を浴びながら微笑んでいた。

「蜂がいるから気をつけるのよ」

麻佑子が彼に近づきながら声を上げた。

「大丈夫だよ、もうどっかへ行っちゃったから」

雅宏は下草のうえに坐ったまま無邪気な笑顔を見せた。

「まあ、汚い、手が汚れてるわ」

麻佑は泥にまみれた彼の小さな両手を取ってハンカチで拭った。彼は愉しげに手を差し出していた。


〈この子は私のことをどう思っているのかしら。いうことをきいてくれるのは、信頼してくれているということかしら。秀和の言うとおり心配はないのかも知れない〉


雅宏の屈託のない表情を見ていると、これまで悩んできたことが嘘のように思えた。

 三人の濃密な交流は続き、半年後、麻佑子と秀和は結婚した。

秀和は仕事に追われ、週末も出勤することがおおかった。麻佑子も仕事を持ちたかったが、雅宏に寂しい思いをさせまいと、家に留まっていた。


 「雅宏君のお母様ですか」

電話の声の主は幼稚園の担任教師だった。

「そうですが」

「じつは雅宏君のことでお話したいことがありまして」

翌日、麻佑子は一体なんの話だろうと思いながら幼稚園を訪れた。教室では教師と雅宏が向かいあって椅子にかけていた。

「雅宏がなにかしたんでしょうか」

彼女は心配顔で雅宏の隣に坐った。

「昨日、雅宏君が喧嘩をしたんです、お母様にそのことを言いませんでしたか」

二十代後半の女性教師の口調は落着いていた。

「えっ、そんなことがあったんですか。雅宏、本当」

麻佑子は戸惑い、雅宏に向きなおった。

彼は黙って教師の顔を見つめていた。

「雅宏君、言わなかったんですね」

「ええ、なにも聞いてないんですが」

「そうですか。昨日午後のクラスが終わったとき、喧嘩が始まったんです」

「なにが原因だったんですか」

 麻佑子は身を乗りだした。

「それが、雅宏君が同じクラスの男の子に持っていた御守を取られたとか言って、その男の子を殴ったんです」

「えっ、本当ですか」

彼女は、教師の言葉が信じられなかった。

「雅宏君、その御守を大事にしていたようですね。普段おとなしい雅宏君が興奮していきなり殴りかかったんで、びっくりしました」

「そうだったんですか、その御守は私が与えたものなんです」

「そうですか、だから雅宏君は大事にしていたんでしょうね」

「その相手の男の子は大丈夫なんですか」

麻佑子は眉をひそめた。

「ええ、幸い怪我はたいしたことはなく、問題にはなりませんでした」

教師の表情が緩んだ。

 帰宅した麻佑子と雅宏はリビングルームでテーブルをはさんで坐った。

「喧嘩したこと、どうして言ってくれなかったの」

麻佑子は不機嫌をよそおって訊いた。

しかし、昨日、彼女は帰宅した雅宏の雰囲気がいつもと違っていることに気がついていた。そのとき、彼になにかあったのか、聞き質せばよかった、と悔やんでいた。

「べつにたいしたことないし」

雅宏に悪びれる様子はなかった。

「どうして殴ったりしたの」

「お母さんがくれた御守をあいつが取ろうとしたからさ」

彼は麻佑子を見すえて言った。

彼女は、雅宏が御守を大切にしていたこと、またそれがもとで喧嘩をしたことが心中で交錯し、複雑な思いに駆られた。


 由彦と麻佑子の旅は六日目に入り、コッツウォルズに着いた。そこはイギリスの伝統的な家家が瀟洒な街並を見せていた。この地原産の蜂蜜色のライムストーンであるコッツウォルズストーンで建築された家は独特の古風な雰囲気を醸し出していた。家家の壁や庭を囲むフェンスもすべてのコッツウォルズストーン一色で形造られ、あたかも中世の田舎町に迷い込んだように感じられた。

「まあ、綺麗な所ね」

車を降りた麻佑子は眼を輝かせた。

「そうだね、古い町がそっくり残っているようだね。ところで、コッツウォルズってどういう意味かしってるかい」

由彦も車を降り、両手を頭上で組んで伸びをした。

「あら、知らないわ、なんていう意味」

「羊の丘っていう意味なんだ」

「そうなの、羊なんかいないのに」

「そう言えばそうだな」

二人は微笑みあった。

町を通りぬけ、暫く歩くと道は丘へと続く登り坂となった。坂道を登りつめると一気に視界が開け、青空の下に今しがた通ってきた古風な町並と緑の田園が広がっていた。

「ここはけっこう高いんだ」

由彦は息を弾ませていた。

「いい景色ね、登ってきた甲斐があったわ」

麻佑子は笑みをみせた。

愉しげな麻佑子の表情に、このまえの夢に現れた不安の影は姿を消したかに思え、由彦は安堵した。

「気持ちいいね」

丘を渡る乾いた風が頬を撫でていた。

「この風で田舎を思い出しちゃったわ」

「そうか、故郷は北海道だったね、あっちは乾燥しているよね」

「ええ、ここの風と似てるわ」

彼女は生地の小樽を思いだし、懐かしげに眼を細めた。

下草に覆われた丘を、二人は陽が傾くまで彷徨うように歩き続けた。足裏に伝わる柔らかな草の反発が、やがて彼女を過去へ引き戻した。

 

 週末、秀和一家は郊外で過ごすことになった。川で遊びたいという雅宏の希望で車で三十分ほどの渓流を訪れ、大小の岩や石で覆われた川岸を散策した。雅宏も麻佑子に手を引かれながら秀和を追った。暫く歩いた後、ちょうどバーベキューのできそうな空地を見つけて、そこに陣取った。

「ここならいいだろう」

先に着いた秀和が空地を指さした。

「そうね、ちょうどよさそうね」

麻佑子は微笑んでリュックサックを肩から降ろした。

「ここなら釣もできそうだしね」

秀和も荷物を降ろし、釣道具を用意し始めた。

「ここはなにが釣れるの」

「いまの季節はニジマスだね、だけど今日は水の量が多そうだからちょっと難しいかもしれないな」

子供のころから川釣に馴れている彼は手際よく釣竿を用意し、川面に糸を投じた。

両岸を緑の木立に蔽われた渓流は数日前の雨のせいで水量を増していた。彼が釣をしているあいだ、麻佑子と雅宏はバーベキューセットを組立て、新鮮な獲物を待った。

麻佑子はキャンプ・チェアに坐り、透きとおった水の流れを眺め、雅宏はどこからか飛んできたイトトンボを追いかけていた。

「おーい、釣れたぞ」

すこし上流で釣っていた秀和がびくを下げて帰ってきた。

「あら、もう釣れたの」

麻佑子がびくのなかを覗くと、銀色に輝く二匹のニジマスが頭を並べていた。

「まあ、すごい、早速火の用意をしなくちゃ」

彼女は着火剤で炭を熾す準備を始めた。

「もうすこし釣ってくるからね」

秀和は言い残して上流へ戻って行った。

麻佑子はライターで着火剤に火をつけ、そのうえに炭を置いていった。火が炭に移っていくことを確かめて眼をあげたとき、雅宏がいないことに気づいた。顔をあげ周囲を見わたしたが、彼の姿はなかった。

「雅宏、どこなの」

麻佑子は声をあげながら歩きはじめていた。

脚をかけ、大きな岩のうえに登ったとき、彼女は眼下の川面に雅宏の姿を捉えた。麻佑子は岩から降り、とっさに渓流に脚を踏み入れ、雅宏を捕まえようとした。

麻佑子がちょっと眼を離した隙に、岸辺で遊んでいた雅宏が渓流に流されたのだ。麻佑子は雅宏の腕を?まえようと両手を伸ばしたが、小さな体は彼女の手をすり抜け下流へ流れて行った。彼女はその体を見失わないようにさらに一歩流れに入った。流れは深くなり、彼女は身体のバランスを失い、一瞬、恐怖を覚えた。小さな体は流れに呑込まれ、彼女を見つめるような雅宏の顔が瞬く間に消えていった。

その時、麻佑子は彼を助けようする気力を失っていた。信じられないことだった。彼女は両脚を膝まで流れに入れて茫然と立ちつくしていた。

夕陽が山の端に沈むころ、下流で雅宏の溺死体が発見された。


 「あっ、危ない」

「ママ、苦しいよー」

「雅宏、?まって」

「ママ、ママ」

「ほら、この手に?まるのよ」

「うわー、流される」

「なにやってるの、手を伸ばして、しっかり?まるのよ」

「もう、だめだ」

「マサヒロー!」


麻佑子はベッドのうえで覚醒し、上半身を起こした。

「どうしたんだい、うなされていたみたいだけど」

彼女の動きに由彦も眼を醒ました。

「夢をみてたの」

麻佑子は放心し、虚空を見つめていた。

「そうか、どんな夢なんだい」

「・・・、息子が溺れたときの夢よ」

麻佑子は由彦の眼を見つめ、抱擁を求めた。

「そう、見たくない夢だったんだね」

「怖かったわ、あの子が流されて、でも助けられないの」

訴える麻佑子の両眼には涙が溢れていた。


 イギリス縦断の旅を終えて由彦と麻佑子はリバプールに戻った。旅の途上、美しい風景のなかで麻佑子の閉ざされた心も和んだようにみえた。由彦も彼女の苦悶に満ちた心の内を少しは理解できたように思えた。

ほっとしたやさき、本社から出張命令がきた。プロジェクトも終盤に近づき、本社で進捗状況につき報告することが目的だった。

「東京へ出張することになったよ」

オフィスから帰るなり、由彦は麻佑子に言った。

「あら、そうなの、どれくらい行ってるの」

一瞬、彼女の表情が曇った。

「一週間ってとこかな」

由彦はダイニング・テーブルでビールをグラスに注いでいた。

「まあ、そんなに、なんのための出張なの」

「うん、まあ、現状報告ということかな」

出張目的のひとつが完成間近のプロジェクトの報告ということは間違いなかったが、彼は本社でのもうひとつの話を予感していた。リバプールに駐在して既に二年が経ち、本社へ帰任する話がでてきてもおかしくなかった。

しかし、彼はそのことを麻佑子に話すことができなかった。彼女はいまも日本での哀しい記憶に苛まれていて、はたして彼女が一緒に帰国できるのか自信が持てなかったのだ。

 週明け、リバプールを出発した由彦はヒースロー経由東京へ向かった。

上空から見る箱庭のような郊外の家家は眩しい陽光のなかに静かな佇まいをみせていた。乗機のトリプルセブンは僅かな衝撃もなく成田空港の滑走路にスムーズにランディングした。思えば日本の地を踏むのは一年ぶりだった。

彼は空港からリムジンバスで都内へ向かい、大手町の本社に着いた。

「よお、お帰り、ご苦労さん」

高層ビルの七階にあるプロジェクト管理部で彼を迎えたのは、上司の杉下部長だった。

「どうも、ただいま帰りました」

由彦は笑顔で応えた。

プロジェクト・チームの七人が会議室に集まり、すぐにミーティングが始まった。彼が現地の状況を説明し、それに対する質問などが相次ぎ、ミーティングは会議室に深く夕陽が射しこむ頃まで続いた。

「よーし、今日はこれくらいにしておこう」

メンバーの顔に浮かんだ疲れを見てとった杉下が口を開いた。

「ああ、それで、由彦だけちょっと残ってくれ」

メンバーが席を立ったとき、杉下が由彦を呼びとめた。

「はあ、なんでしょうか」

由彦は席に坐りなおした。

「こんどのプロジェクトでは良く頑張ってくれた。白人のなかにひとり交って仕事をするのは大変だろう。ここまでこれたのも君の努力の賜だ。俺も若い時そういう体験をしたから苦労は分るよ」

杉下は優しく微笑んだ。

「ありがとうございます」

「このプロジェクトもほぼ終了だ、ついては君の異動だが、半年さきくらいに東京に戻したいんだ」

「はあ、そうして頂ければありがたいですが」

「じゃあ、その心づもりをしておいてくれ。さあ、これから皆で一杯やろう」

 由彦、杉下それにチームのメンバーで銀座の店で鍋をつついた。久しぶりの和食の宴会を、由彦は心ゆくまで愉しんだ。

「ちょっとご相談があるんですが」

午後八時頃、宴会はお開きとなったあと、由彦は杉下に声をかけた。

杉下はそれに応じ、二人はみゆき通のバーのカウンターに席をとった。

「ここにはよく来られるんですか」

由彦がロックグラスを口に運びながら訊いた。

「ああ、時々来るんだが、いつもひとりだ。君、ウィスキーをロックでやるようになったのか」

杉下は水割をひと口呑んだ。

「ええ、イギリスではみんなストレートかロックですから、真似てるうちにすっかりイギリス式になってしまいました」

舌の上で味わっていた芳醇な液体を、由彦は喉の奥に運んだ。

「ところで、相談というのは何だね」

杉下は由彦に向きなおった。

「実はイギリスである女性と知合いまして交際しているんです」

由彦はたどたどしく言った。

「ほう、そうなのか。離婚して何年になるのかな」

杉下は表情をほころばせた。

「もう三年です」

「もうそんなになるか、で、その女性とはどうする気なんだ」

「こんど帰国したら結婚しようと思っています」

「そうか、それはめでたい、いいパートナーが見つかってよかったじゃないか」

離婚の経緯を知っている杉下は、孤独に耐えるながら多忙な業務をこなしている由彦の生活を案じていた。

「それでどういう縁で知りあったんだ」

杉下は言葉を継いだ。

「それが、まったくの偶然でリバプールのパブで出会ったんです。一人旅で行き場がなく、彼女がパブで呑んでいるときに私が声をかけたんです。彼女も離婚を経験していて、お互い境遇が似ているということで交際を始めました」

「そういうことか、いい偶然があったもんだな。孤独な魂が惹かれあったということかな」

杉下はグラスの水割を一気に呑んだ。

「ええ、今回の偶然には感謝するほかありません。しかし、ひとつ心配なことがありまして」

由彦は言葉を詰まらせた。

「ほう、心配なことって、一体なんだねそれは」

「彼女は幼い子供を水の事故で亡くしているんです。それがトラウマになって、その傷を癒そうと旅に出たんです。子供は夫の連れ子で血のつながりはないんですが、それでも相当ショックだったらしいんです」

「そうか、それは不幸な出来事だったね」

杉下は表情を曇らせた。

「それで、彼女が心の傷を抱えたまま帰国できるかどうか、心配なんです」

由彦はロックグラスを置いて、眼を閉じた。

「なるほど、そういうことだったら、君が彼女を支えて傷を癒してあげるしかないんじゃないのか」

「そのとおりなんですか、帰国の話が出たのでそのことが急に心配になったんです」

彼の眼には不安の影が射していた。

「そんなに心配することはないんじゃないか、君が一生彼女のパートナーになる気があるなら彼女も分ってくれるはずだよ」

杉下に軽く肩を叩かれ、由彦はすこし気が軽くなるのを覚えた。


 青空を燕が過るころ、由彦に本社への帰任辞令が出た。

「東京へ帰ることになったよ」

その夜、彼は麻佑子に帰国が決まったことを告げた。彼女は喜ぶだろうと由彦は思っていたが、彼女は意外な反応をみせた。

「・・・私帰りたくないわ」

「えっ、どうしてだい」

由彦は彼女の言葉が信じられなかった。

「日本に帰ると・・・」

彼女は表情を曇らせ唇を噛んでいた。

「まさか、ここで暮らすというのかい」

「とにかく日本へは帰りたくないの」

彼女はいままでに見せたことのない哀しい表情をした。

「まだあのことを気にしてるのかい。あれは麻佑子のせいじゃないよ、しかたなかったと思うよ」

由彦は彼女の固くなった心をほぐそうと言葉を継いだ。

「はじめのうちは自分のせいじゃないって、あれはどうしよもなかったんだ、と思うようにしたわ。でも日がたつにつれたて、自分自身を偽っているんじゃないか、という思いがだんだん強くなってきたの」

麻佑子の両眼には不安が充満していた。

「そんなに自分を責めなくてもいいんじゃないかな」

由彦は慰める言葉を懸命に探った。

「でも、私のせいじゃないんだ、打ち消そうとすればするほど、あの時なにかできることがあったかも知れない、という思いが強くなって、そのことでもう頭のなかが一杯になるの」

麻佑子は目頭を押さえた。

「力になるから大丈夫だよ、僕を信じて、一緒に日本へ帰ろう」

由彦は彼女の眼を見つめ、両手を握った。

 それから暫く、雲が低く垂れこめたような日日が続いた。時は過ぎ、間もなく帰国予定日が決まった。

由彦は麻佑子と帰国しともに暮すことを望み、最後の説得を試みたが、彼女は聞き入れずりイギリスに残った。帰国しても傷心が癒えることはないだろう、と彼女は固く信じていた。

別れの時、由彦は再会を願って、麻佑子に瑠璃色に輝くトルコ石のペンダントを送った。

「まあ、綺麗、ありがとう、由彦のことは決して忘れないわ」

彼女はペンダントを頸にかけ、優しく微笑んだ。忘れられない笑顔だった。


 由彦と百合子は車で道央へ向かうことになった。小樽に住みながら、百合子は道央に行ったことがなく、いちど行ってみたいという、彼女の希望を叶えるためだった。

車は道央の山岳地帯にむけてひた走った。開け放った窓から入る初秋の風が頬を撫でていた。無言でハンドルを握る由彦には、一直線に伸び、緑の水平線に消える国道は二人を別世界に誘うように思えた。

夕刻、層雲峡に着き、二人は森に抱かれた温泉ホテルにチェックインした。

「いいところね、落着くわ」

百合子は窓際の応接セットに佇んでいた。

「本当だ、ほっとするね」

窓からは緑の森と清流が見わたせた。百合子はその流れを茫然と眺めていた。

「どうしたの」

由彦が言葉を継いだ。

「東京の短大に入ってからは母と離れて暮らしていたので、亡くなった時は哀しさが感じられなかったの。でも、時間がたつと、いろいろ思い出して、とっても寂しくなるの、心に暗闇が生れたみたいに」

百合子は由彦の眸を見つめた。その姿が、一瞬、麻佑子の姿と重なり、由彦をはっとさせた。

「大丈夫、僕が傍にいるから、なんでも相談してくれていいよ」

迫る夕闇のなかで二人は見つめあい、由彦は百合子を抱きしめた。


 「由彦さん、ありがとう」

「えっ、誰」

彼は遠くで声を聞いた。聞覚えのある声だった。

「私よ」

「あっ、麻佑子、麻佑子なのか」

「ええ、百合子のことありがとう」

「麻佑子、どこにいるんだい、見えないんだ」

「百合子のこと、これからもお願いしますね」

「まさか、百合子は僕たちの・・・」

「あら、もう忘れたの、あの夜のこと」

「いや、べつに忘れたわけじゃないんだけど」

「あなたの面影があるでしょ」

「うん、ああ、そういえば・・・」

「もう帰らないと」

「えっ、帰るって、どこへ」

「あなたとの想い出と一緒に暮している国よ」

麻佑子の声はちいさく消えていくようだった。

「ねえ、百合子は亡くなった息子さんのことは知らないようだね」

それは由彦がずっと気になっていたことだった。

「ええ、百合子は知らないわ」

「そうなの、それじゃ、息子さんのことは言わないほうがいいんだね」

「はい、そうしてください。でも、私がいま住んでる国で息子と再会できたのよ、それで息子は私のことを許してくれて、いま息子も私も幸せなの、」

「そうだったの」

「由彦さん、またお会いできる日まで」

麻佑子の声は仄暗さのなかへ消えていった。

「あっ、麻佑子どこへ行くんだい」

叫ぼうとしたとき、由彦は覚醒した。

カーテンの隙間から射す蒼い月影が、由彦を照らしていた。


 翌朝、晴れあがった空の下、最果ての街を目指して車は北へ針路をとった。

「昨日、百合子のお母さんが夢にでてきたんだ」

「えっ、お母さんのこと知ってるの」

「もちろん知らないよ」

「でも、百合子のことをお願いしますって言われちゃった」

「あら、へんなお母さん、だって由彦さんのこと知らないはずなのに」

「たぶん、お母さんはそれほど百合子のことが心配なのさ」

由彦は隣の百合子の横顔を見た。その顔は麻佑子の面影を彷彿とさせた。

「いやだわ、もう子供じゃないのに」

百合子は不満気に口を尖らせた。

「稚内まで距離があるから飛ばすよ」

由彦はアクセルを踏み込んだ。車は鈍色の国道を風のように疾走した。道の両側の牧場では牛が草を食んでいた。スピードが増すと、それらの風景が後方へ消えていった。

由彦は一直線に伸びた道に魅入られたようにスピードを上げた。何台かの車とすれ違ったが、反対車線に大型のトラックが視界入った時、その後方から一台のセダンが追越しのため由彦たちの車の正面に躍り出た。

「あーっ、危ない」

百合子の叫び声と同時に、由彦はブレーキペダルを力一杯踏んだ。タイヤが悲鳴をあげ、次の瞬間、視界が闇に閉ざされ、身体と車体がふわりと浮かんだような気がした。

「・・・」

由彦は血の気のひいた顔をあげた。車は国道の真中で取り残されたように停まっていた。

「大丈夫かい」

彼は俯いて両手で顔を覆っている百合子に声をかけた。

「ええ、大丈夫よ」

彼女も蒼ざめた顔をあげて、由彦を見た。

「もうだめかと思った、絶対ぶつかるって」

由彦は茫然としていた。

「私もそう思ったわ」

対向車は間一髪、由彦の車をすり抜け、走り去っていた。両車のスピードと位置からみてありえないことだった。

胸の高まりが収まるのを待って、彼は車をスタートさせた。彼はひたすらアクセルを踏み続け、陽が傾くころ、北の岬に着いた。

「まあ、素敵、ここが日本最北端なのね」

百合子眼を輝かせて遥かな海を見ていた。

 その夜、二人は市内のペンションに泊まった。天然木をふんだんに使ったシンプルな造りの部屋だった。

「どうかしたの」

百合子が、窓の外を眺めながら黙ってしまった由彦の顔を覗きこんだ。

「不思議なんだ」

彼女の声で由彦はわれに返った。

「なにが」

「車だよ、間違いなく衝突したと思ったのにたすかった」

「そうね、私ももうだめだと思ったわ」

「そうだろう、でも、あのとき車が一瞬浮かんだような気がするんだ」

「そういえば、身体が急に軽くなったような感じだったわ」

「それで思ったんだけど、あの無謀運転の車から守ってくれたのは、お母さんじゃないかと思うんだ」

由彦は唇を結んだ。

「そうね、由彦さんの夢にでてきた母が私たちを守ってくれたのかもしれないわね」

百合子は微笑んだ。

彼女の屈託のない笑顔を見ていると、守るべきものを見つけたように、由彦には思えた。

彼はどうしても百合子に訊きたいことがひとつあった。それは母親の名前だった。しかし、それを訊けば、総てを失う気がして、その夜も訊く勇気を持てなかった。


 週明け、由彦はスクールに出勤した。

「先生、ちょっとお話が」

芦田が彼を呼びとめた。

「なんでしょうか」

由彦はまたかと思った。

「まあ、こちらへ」

芦田は彼を応接へ引き入れた。

「じつは彩さんと陽子さんが喧嘩してましてね」

「なんですって、一体どうして」

「それはこっちが訊きたいですよ」

「この間、クラスで二人が言いあいを始めて、あやうく取っくみあいになりかけたんです」

「僕にはなんのことやら、さっぱり分りませんが」

「ほかの生徒さんから通報があって、二人に理由をきいたんですよ」

「それで、原因はなんなんです」

「それがですね、授業の時に、先生が彩さんをすっ飛ばして陽子さんに暗誦させたからというんです」

「そんなことありませんよ、あの時は、彩さんが宿題を忘れてきて暗誦できないっていうから、陽子さんにしてもらったんですよ」

由彦は語気を強めた。

「ええ、陽子さんもそう言って反論してました」

「じゃあ、問題ないじゃないですか」

「そうなんですが、彩さんは納得しないんです、それでなにかのチャンスを作って、ひとこと謝っておいて欲しいです」

「謝るですって、わるいのは彼女のほうですよ」

芦田の言葉に彼は?然とした。

「もちろん、分ってますよ、でも大事な生徒さんですからお願いしますよ」

芦田は懇願した。彼の相変わらずの無責任な対応に憤りを感じたが、由彦はやむなく不条理な申し出を受けいれた。芦田のやり口にも腹が立ったが、レッスンに熱心だった彩の豹変ぶりにも嫌悪を感じた。

クラスを終えたとき、スマートフォンに百合子からメールが入った。見せたいものがあるから、自宅へ来てほしいという内容だった。


 由彦はメトロで彼女のアパートへ向かった。アパートに着いてドアを開けると、彼女が笑顔で迎えた。

「見せたいものって」

「この間の写真よ、一緒にパソコンで見ましょう」

パソコンには北海道旅行の写真が多数ファイルされていた。

「よく撮れてるね、この層雲峡の絶壁すごいね」

「私はこの稚内の海が好き」

百合子はひとつひとつ写真を拡大していった。

「僕はこの山のほうがいいな」

「あ、そうそう見せたいものがあるの。母の遺品をずっと整理する気になれなくってそのままにしてあったの。でも由彦さんと会ってからそのことが気になってやっと整理したの」

「そうだったの」

「それで写真とか御守とか出てきたんだけど、なかにこんなものがあったの」

彼女が白いケースから取り出したのは瑠璃色に輝くトルコ石のペンダントだった。

                      (了)






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