第1話 つわり?
すっかり眠りこけ、起きたら一臣さんの姿すらなかった。部屋は暗く、時計を見ると8時を過ぎていた。
「夜の8時?うわ、もう夕飯の時間過ぎてるよね?」
慌てて鏡を見て髪をとかし、部屋を出た。ダイニングに行くと、お義母様と一臣さんの話し声が聞こえてきた。
「ごめんなさい。遅くなりました」
「弥生、もう大丈夫なのか?」
「はい」
「気分が悪くて休んでいると言うので、先にいただきましたよ」
一臣さんとお義母様は、すでに夕飯を済ませていた。
「大丈夫ですか?」
「はい。ちょっと車酔いしただけなので、大丈夫です」
国分寺さんが私の食事を持ってきた。わあい。思い切り和食だ。きっと、コック長が気を使って、和食にしてくれたんだ。
日本のお米!味噌汁!お漬物に煮物に…。
「う…」
「どうした?弥生」
「ごめんなさい。あの、やっぱりまだ、気持ちが悪いです」
「食べられそうもないですか?」
お義母様が心配そうに聞いてきた。ああ、申し訳ない。でも、無理だ。今にも吐きそう。
「はい。国分寺さん、せっかく用意してくれたのにごめんなさい。コック長にも謝っておいて下さい。じゃあ、あの、私、お先に失礼します」
そう言って、慌てて私は2階まですっ飛んで行った。
私の部屋のトイレに入り、また吐いた。でも、さっきも吐いたから、もう胃の中には何も残っていなくて、胃液を吐いただけに終わった。
「頭まで痛くなってきた」
急いでシャワー浴びて寝ようかな。と、クローゼットから下着やパジャマを出していると、
「弥生、大丈夫か?」
と、隣の部屋から一臣さんがやってきた。
「ごめんなさい。ダメです。もう寝ます」
「ああ、そうだな。顔色も悪いしな。車酔いだけじゃなくて、疲れたのかもしれないな」
「う…」
「ん?どうした?」
一臣さんがすぐ隣に来たら、また気持ちが悪くなってきた。
「あ、あの、か、一臣さん、香水変えました?」
「いいや、前と同じだぞ?」
うそ。いつもの香りと明らかに違う。なんか、鼻につくっていうか、気持ち悪い。
「ごめんなさい」
またトイレにすっ飛んで行った。でも、もう吐くものすらないよ。
「く、苦しい」
どうしたんだ、私。
「弥生?大丈夫か?」
ユニットバスのドアの向こうから一臣さんが聞いてきた。
「だ、大丈夫です。で、でも、私、こっちでシャワー浴びてから、隣に行きます」
「俺が洗ってやろうか?」
「だ、大丈夫です」
一臣さんが隣の部屋に戻るのを待ってから、ドアを開けて着替えを取った。
「まだムカつく」
ふらふらとまたバスルームに入り、シャワーを浴びた。それから、髪を乾かし、もう寝るだけという段階までいってから一臣さんの部屋に行った。
一臣さんもシャワーを浴び終えたのか、バスローブ姿だった。でも、何やらパソコンを睨んでいる。
「お仕事ですか?」
「お前さあ、あった?」
「……、なにがですか?」
「確か、結婚式前に生理が終わってよかったって、言ってたよな」
「はい」
「そのあと、生理、いつ来た?」
「あれ?」
あれれれ?
「新婚旅行にあたらなければいいのに…。って、結婚式のあとに言ってたよな。で、大丈夫だったのか?」
「あ、え?」
そういえば、ない。
「1週間遅れてます」
浮かれてて、忘れてた。
「だよな。今、調べたんだが、お前の症状、つわりなんじゃないのか?」
つわり?
「え~~~~~~っ!妊娠してるってことですか!?」
「ああ」
「でも、車酔いですよね?さっきのは」
「食べ物の匂いを嗅いで、吐いたんだろ?」
「そういえば、そうかなあ」
「俺のコロンもダメなんだろ?」
「え?そうなのかなあ」
「あ、安心しろ。もうシャワーで洗い流したし、コロンもつけていないからな」
くんくん。近づいて嗅いでみた。
「あ、大丈夫だ」
さっきは、本当に異様な匂いがしたんだよね。でも、いつものコロンなんだよね?なんで、変な匂いになっちゃってたわけ?とか思いつつ、私は知らない間に、一臣さんの胸に抱きついていた。
「明日、検査に行けよ。俺は仕事でいけないから、青山か、細川女史に一緒についていってもらうか?」
「……」
不安。産婦人科に行けって事だよね。
「えっと」
一臣さんの胸に顔を引っ付けたまま、首をかしげた。すると、
「誰が一番いい?おふくろか?あ、喜多見さんはどうだ?」
と一臣さんが髪をやさしく撫でながらそう聞いてくれた。
「はい。喜多見さんが一番安心します」
「よし。ちょっと、今、呼ぶから待ってろ」
一臣さんは私を離し、携帯で喜多見さんを部屋に呼んだみたいだ。
ドキン。ドキン。いきなり、妊娠?でも、いつ?ハネムーンベイビー?え?つわりって、そんなに早い時期からなるの?
「式の日は、しなかっただろ」
電話をし終えると、突然一臣さんが首をひねりながら話し出した。
「は?」
「その次の日か、それとも…。ああ、オフィスでもしていたから、いつしこんだのかわかんないよなあ」
しこんだ?!
「もし、妊娠しているとしたら…」
一臣さんはカレンダーとにらめっこしながらそう呟き、私のほうを見ると、思い切りにやけた。
「やったな。弥生。跡継ぎができるんだ。万万歳だな」
「……はい」
嬉しい。一臣さんとの赤ちゃん。
でも、ほんのちょっとだけ、喜べない。なんでかな。100パーセント喜びきれないのは。
5分後、喜多見さんが部屋に来て、一臣さんが説明をした。
「まだ、確定したわけじゃないから他のやつには内緒な?」
そう一臣さんが言うと、
「わかっております」
と喜多見さんは優しく微笑んだ。
「でも、もしつわりでしたら、これからの食事を考えないとならないですね。主人にだけ打ち明けてもいいでしょうか」
「ああ、そうだな。明日の朝も、つわりでも食べれそうなもん、用意してくれ」
「かしこまりました」
喜多見さんは静かに部屋を出て行った。
もっと、喜んでくれるかと思ったのにな。
「大丈夫か?弥生」
喜多見さんがいる間はベッドに座っていた。でも、もそもそと布団の中に潜り込むと、一臣さんが心配そうにそう聞いてきた。
「はい。今はもう大丈夫です」
「そうか。明日一緒に病院に行けなくて悪いな」
「いいえ。大丈夫です」
本当は不安だ。妊娠したかもしれないと思うと、すごく嬉しい。なのに不安だ。
何が不安なのかな。それに、なんでどこかで喜べない私もいるのかな。
「妊娠していたら、親父に即報告だな」
「え?」
「親父のやつ、でかしたって喜ぶだろうな」
でかした?
ああ、跡継ぎができるから。でも、もし、女の子だったら?
そうだ。おじい様から男を二人産めって言われたんだった。
うわ。なんだか、いきなりプレッシャーが…。
気持ちが悪いのは治ったけど、頭痛がしてきた。それに、胃も痛いかも。
キリ…。
こんなの初めてだ。どんなことでも、たいしてプレッシャーを感じなかったのにな。
翌朝、喜多見さんが果物とトマトを持って部屋まで来てくれた。
「召し上がれるようでしたら、何かお口に入れたほうがいいとは思いますが、無理はなさらないで下さいね」
「はい」
喜多見さん、優しい。ちょうど、お母さんと同じくらいの年齢だし、お子さんを生んだ経験もあるし、頼れるからほっとする。
「じゃあな、弥生。俺は樋口の車で行くから、等々力に病院連れて行ってもらえ。喜多見さん、弥生のことよろしく頼みます」
「はい。行ってらっしゃいませ」
一臣さんは私の頭をなでてから、部屋を出て行った。
そういえば、いつものコロン、つけていかなかったな。会社についてからつけるのかな。
「弥生様、おはようございます」
等々力さんが車に乗ると、明るく挨拶をしてくれた。
「喜多見さんもおはようございます」
「おはよう、等々力さん。運転、いつも以上に安全にお願いしますね」
「心得ておりますよ」
等々力さんの運転は上手だ。止まるときもカーブのときも発進もすべてが、流れるようで気にならない。なのに、途中で気持ちが悪くなってしまった。
「弥生様、大丈夫ですか?」
「はい」
いつも感じない匂いがする。なんだろう。それが鼻につく。
なんとか、総合病院に着いた。京子さんのお父様が経営する病院だ。
「もう予約は取ってありますから、すぐに診てもらえますよ」
「はい」
産婦人科につき、喜多見さんに寄り添ってもらいながら診察室に入った。
先生は40代後半か、50代の女医さんだ。笑顔が優しい話しやすい雰囲気のある先生でよかった。
診察が終わり、少しだけ待合室で待っていると、
「緒方弥生さん、どうぞ」
と呼ばれた。
「はい」
まだ、『緒方弥生』と呼ばれてもしっくりとこないが、私は喜多見さんと診察室に入った。
「おめでとうございます。2ヶ月目ですね」
「え…。やっぱり、赤ちゃんが…」
「はい。予定日は9月の…」
9月…。そうなんだ。もう秋には赤ちゃん、生まれているんだ。
「弥生様、おめでとうございます」
喜多見さんが隣で、嬉しそうに微笑んだ。
「あ、はい」
私が胸がばくばくして、それ以上話せなかった。
「安定期に入るまでは、十分気をつけてくださいね。看護師から詳しく説明をしますが」
先生の診察は終わり、待合室で看護師さんから詳しく話を聞いた。
半分くらいしか頭に入らない。嬉しいのと不安と、いろんな思いが交差していて、ただただ、心臓がばくばくしている。
「安定期に入るまでは、妊娠の発表もしませんから、弥生様も口外しないようお願いしますね」
「え?あ、はい」
喜多見さんにそう言われ、とっさに頷いた。でも、それって誰にも言っちゃダメってこと?
「病院側は、そういう配慮をいつもしてくださるので安心ですが。ああ、メイドたちにも言っておかないと」
「え?メイドのみんなには、妊娠していること言うんですか?」
「そりゃあ、ちゃんと言わないと、弥生様のケアをするのはメイドたちですからね」
そうか。亜美ちゃんやトモちゃんには言っていいんだ。よかった。
「会社でも、ごく1部の人だけにしか発表はしませんが…。でも、弥生様、つわりの間はお仕事もできないだろうし、どこからか噂はたってしまうかもしれないですよねえ」
「私、仕事はします」
「ご無理はなさらないで下さい。車での移動だってお辛いでしょうから」
うそ~。じゃあ、どうするの。お屋敷にずうっといるの?
あ、嬉しいはずなのに、気がめいる。
帰りの車でも、等々力さんは喜んでくれたのに、気分が悪くなりそれどころじゃなくなった。
こんなんじゃ、やっぱり、つわりがなくなるまで会社には行けないのかな。
っていうことは、ずうっと一臣さんにも会えないってこと?
うわ。ますます、気持ちが凹む。
「部屋でお休みになってくださいまし。わたくしは、奥様に報告してまいります」
「はい。喜多見さん、何から何までありがとうございます」
「いいんですよ。なんでもおっしゃってくださいね。妊娠しているときって、ホルモンのバランスが崩れて、精神的にも不安定になりますから」
「はい」
部屋の前までは喜多見さんが寄り添ってくれたが、その足でお義母様の部屋に行くようだった。
「ふう」
部屋に入り、ベッドに横たわった。別に体のどこかに異変があるわけじゃないけど、なんだかとっても疲れた。
産婦人科の診察室、お腹の大きな妊婦さんがたくさんいた。私ももう少ししたら、お腹が出てくるんだな。そう思いつつ、お腹に手を当てた。私のお腹に、命が宿ってる。
ドクン。
嬉しいけど、怖い。私、ちゃんと生めるかな。
うわ。何を弱気になってるんだ。絶対に赤ちゃんは守るし、元気な赤ちゃん、生むんだから!
ゴロン。横を向いた。一臣さん、喜んでた。でも…。
「跡継ぎ…」
緒方財閥の御曹司で、いずれ、緒方商事の社長になるんだもん。跡継ぎができる、できないって大きいんだよね。そりゃ、跡継ぎが出来たって言って、喜ぶのは当たり前なんだよね。
きっと、お義父様も喜ぶ。お義母様も。緒方財閥の親戚縁者もみんなが喜んでくれる。
だけど、跡継ぎだからなんだよね。
「なんか、ちょっとだけ、寂しいような気がするのはなんでかなあ」
お腹に手を当て呟いた。私に子供が出来た。孫が出来たって、お父様はもろ手を挙げて喜ぶだろう。おばあ様も、おじい様もひ孫が生まれるって喜んでくれる。
お兄様も葉月ですら、喜ぶだろうなあ。
それから、亜美ちゃんやトモちゃんも、喜んでくれるかな。跡継ぎだから…ではなくって、私の赤ちゃんとして。
「ねえ、もしかすると君は、大変なところに生まれてくることになるんだね」
一臣さんみたいに、子供の頃から英才教育を受け、いずれ、緒方財閥総帥として、緒方財閥を背負っていかないとならない。
ギュウ。お腹を両手で押さえた。でもね、どんなことがあっても私は味方だし、守るからね。
めいいっぱい、めいいっぱい、愛しちゃうからね。