第3話 親バカな一臣さん
一臣さんが壱弥を、樋口さんが荷物を持って、15階に戻ってきた。
「今日はベビーシッターも来ていませんし、壱弥様のお世話、誰に頼みますか」
樋口さんが、一臣さんの腕の中ではしゃいでいる壱弥を見ながらそう聞いた。
「壱君、後追いもまだするし…。私か一臣さんじゃないと駄目かもしれないですね。私、ここで見ていましょうか」
「弥生も予定が入っているんだろう?細川女史」
「はい。機械金属のミーティングが午前中、午後はアポイントが3件ほど」
「アポ?え?私が誰とですか?」
「広報部からの依頼が1件。カラントからも、話が聞きたいという要請がありますね。それから、新しく立ち上げる予定のプロジェクトの相談が1件」
「え?!私にですか?」
「そうだ。また新たなプロジェクトを任せる予定だ」
「……」
どひゃ~~~。いつの間にそんな話になっていたの?
「今後、緒方商事…、いや、緒方財閥で女性にもっと仕事で活躍できる場を設けたいと思っているんだ。託児所もできたしな。ここの託児所がうまく起動すれば、緒方財閥の他の会社でも託児所をつくっていく予定だ」
「そうなんですね。それは素晴らしいです」
「女性管理職も増やしていく。まだまだ緒方財閥は男性社会だが、これからは女性の立場も優遇されないとな。優秀な女性はたくさんいるからな」
「ですよね!」
「お前みたいにな?」
うわ。そんなことを言われたらテレる。顔が火照ってきた。
「ははは」
あ、一臣さんに笑われた。
「でも、壱君…」
「う~~~ん。機械金属プロジェクトは、俺も出席しないとならないし、壱も連れて行くか」
「え?!」
細川女史も、樋口さんも目を丸くした。
「なんだよ。いいだろ、あの連中なら受け入れるだろ、子どもぐらい」
「いえ、ですが、会議に集中できますか?」
「……どうにかなる。どうにかならなかったら、その時考える」
「……」
樋口さん、無言だ。
「午後は俺のほうが比較的時間が空いている。弥生が忙しいときには、俺が面倒を見る」
「さようでございますか」
樋口さん、今後は返事をした。
「ですが、やはり明日からは託児所に壱弥様は預けたほうがよろしいかと思います。さすがに仕事にお連れするのはどうかと。社員も託児所に預けて仕事をしたり、保育園に預けたりとしているのですから」
「わかっている。何のための託児所なんだと言われないようにする。だが、今日は仕方ないだろ、あんなに泣くんだから」
「………。はあ~」
うわ、樋口さん、ため息ついた!
「一臣様は弥生様だけではなく、壱弥様にも過保護なんですね」
「過保護?俺がか?!」
「自覚なしですか」
「……」
樋口さんの言葉に、一臣さんが絶句している。
「ふん!どうせ俺は、弥生のことも壱のことも、甘やかしているさ!放任主義の親に育てられた反動でな!」
うわ~~~。開き直った。
「すみません、樋口さん、私がもっとしっかりしないから」
なんだか、いたたまれなくなって私が謝ると、
「弥生様が謝られることではございません。弥生様は悪くないですから、大丈夫ですよ」
と、樋口さんが私を必死に慰めだした。
落ち込んだと思われたかな?申し訳ない。ここは、元気に笑顔で頑張るところかしら。
それにしても、きっと私もふがいない母親なんだよね。他のお母さんたちはいくら子どもに泣かれたって、心を鬼にして保育士さんたちに預けてくるんだろうし。壱弥が泣くからって、動揺していたら駄目なんだよね。
壱弥と離れるのが寂しいなんて、そんな弱気でも駄目なんだよね。しっかりしなくっちゃ!
「弥生、行くぞ」
「え?あ、はい」
一臣さんは壱弥を抱っこしたまま、オフィスを出た。壱弥は上機嫌だ。
会社のことを覚えているのかな。嬉しそうにしているけれど。それとも、ただ単にパパに抱っこしてもらっているから嬉しいのかなあ。
壱弥を抱っこしたまま会議室に入ると、すでに集まっていたメンバーが、
「あ!」
と驚きの声をあげた。
「おはようございます。あの、今日は申し訳ないですが、息子の壱弥も一緒に」
と私が話しているのも聞かず、みんな、
「可愛い!壱弥様ですよね」
と壱弥を囲んでしまった。
「一臣様に似ていらっしゃいますね」
綱島さんがそう言うと、一臣さんはにんまりと笑った。
あれれ。思っていた反応と違う。みんな、子どもまで連れてきたのかと呆れるだろうと思っていたのに。
「ゴホン!壱弥はなるべく会社に連れてきて、子どもの頃から会社の様子を覚えてもらおうと思ってな」
え!?
「さすが、副社長の息子さんともなると、すでに英才教育が始まっているんですね」
ええ?そんなふうに受け取っちゃう?
「そうだな。次期社長、いや、総帥になるわけだからな」
ああ、一臣さんがふんぞり返った。みんなをいいように言い含めちゃったよ。でも、全員納得しているし、これでいいのかな?樋口さんを見てみると、目が呆れていた。あ、やっぱり、呆れるところだよね。
もしかして、これからもこんなことがあったら、そういう理由で通すつもりかな。まあ、初めからそう言っておけば都合はいいか。本当の理由は私も言うのをやめておこう。ああ!私もずる賢くなっていっちゃうのかしら。
心を痛めつつ、会議に私は集中した。なぜか壱弥は私の膝の上でおとなしくしていた。そして、そのうちに退屈したのか寝てしまった。
「あ、寝てる。可愛い」
という声も聞こえたが、そんなの無視して一臣さんは会議を進めていた。
「以上!綱島、今日のミーティングの内容のレポートを今日中に頼んだぞ」
「はい」
「では、これで解散」
「はい」
全員が軽くお辞儀をして、私たちと壱弥を見送ってくれた。
「まさか、お子さんを連れて会議に出るとは驚いたな」
「それだけ子育てに熱心ってことか。子どものことなんか、放っておくのかと思ったけどなあ」
「いや~~、一臣氏は違うだろ。夫婦仲もいいし、なにしろあの弥生様だ。子育てだって熱心にするだろう」
「う~~ん、でも会議に連れてくるのはどうかと思うけどなあ」
会議室のドアの外で少しだけ中の様子を、私たちは窺っていたが、やっぱりそう思われていたんだな。当然といえば当然か。
「ふむ…。やっぱり今後は、ミーティングに連れて行くのはやめるか」
一臣さんもそう思ったか。
「それにしても壱君、いい子でしたね」
ミーティングが終わると、壱弥は目を覚ました。そして今は、私の腕の中でニコニコしている。
「大物の素質ありだな」
あ、親バカ発言。
「会社の様子を見せておくというのには、賛成です」
突然樋口さんがそう言うので、私も一臣さんも後ろを歩いている樋口さんを見た。
エレベーターホールに着き、樋口さんがボタンを押して、
「一臣様も、5歳のときに会社に来られましたね。まあ、いらっしゃったのは社長室だけでしたが」
「ああ、覚えている。高いビルに入ってエレベーターに乗せられ、おとなしくしているんだぞと何度も親父に脅されたのをな」
「脅されって…。そんなにお義父様、怖くないですよね?」
「怖かったぞ。俺にとって親父は、ほとんど家にもいないし、会っても怖いだけのそんな存在だった」
そうなんだ。今はお茶目だし、一臣さんともボケと突込みのお笑いコンビになっているけどなあ。
「じゃあ、いつから一臣さんは、お義父様にあんな態度をとるようになったんですか」
「あんな態度とは?」
「えっと。なんていうか、よく言えば対等…」
「悪く言えば、でかい態度」
あ、樋口さん、そんなこと言ったら一臣さんが怒る…。
「そうだな。いつだ?中学にはいって反抗期を無事に迎え、それからか?」
無事に迎えたのか…。まあ、反抗期は必要みたいだけど、あれ?でも私にはなかったし、兄にもなかったなあ。
「親父も俺にどう接していいかわからなかったんだろ。何しろ親父の父親、あんなくそジジイだったからな。親父よりも放任だ」
くそジジイって、ほんと、口悪いなあ。
「俺が反抗して、逆に親父は扱いやすくなったんじゃないか。小学生の俺は、変に冷めていたしな。話しかけられても特に反応もしなかったし」
「そうだったんですか?5歳の頃も?」
「いや、途中までは普通にやんちゃな子どもだったぞ。親父はあまりかまってくれなかったが、樋口や喜多見さんに甘えていたし、屋敷の庭でも思う存分遊んでいたし、まあ、会社では親父に脅されて怖かったからおとなしくしていたが」
「社長の見ていないところでは、悪さしていましたけれどね」
樋口さんが口元に笑みを浮かべ、そう言った。
「そうだったか?」
「辰巳氏が困っていましたよね。ですが影で、一臣様は大物になると言っていましたよ。辰巳氏は昔から一臣様贔屓でしたからね」
「え?そうだったんですか!」
あの強面の辰巳さんが。
「その頃、寮に辰巳氏もいて、時々奥様がいない時に一臣様と龍二様が遊びに来ていたんですが、一緒に遊んでいましたよ。やんちゃで、いたずら好きな一臣様に手を焼きながらも…。ああ見えて辰巳氏は、子どもに甘いんです。怒れないんですよ」
「樋口はよく俺のことを怒っていたけどなあ」
へえ、そうだったんだ。でも、辰巳さんは今、一臣様に対して敬意を示している。お義父様と同じくらいに。
だけど、子どもの頃から面倒を見てできた絆だったんだなあ。樋口さんと一臣さんも。じゃあ、壱弥も、そうやってみんなと絆を深めて、信頼関係が生まれていくのかしら。じゃあ、やっぱり、子どもの頃からたくさんの人と接したほうがいいのかもしれないんだ。
「壱弥様の成長も楽しみですね」
15階のオフィスに着くと、樋口さんがぼそっとそう言った。私はそれを聞いて、思い切り頷いた。一臣さんも、
「そうだな。こいつも大物になると思うぞ。ははは」
と嬉しそうに笑った。




