第2話 託児所の様子
「壱、離れろ。俺も弥生も仕事だ」
「わ~~~~~~ん!」
一臣さんの言葉に反応して、壱弥がますます泣き声が大きくなった。
ああ、一臣さん、そんな冷たいことを言うから。壱弥が私のほうに手を伸ばしてきちゃった。
「こら。弥生だって仕事なんだよ。今日から壱はここで、仕事が終わるまでおとなしく待っていろ」
「そんな言い方しては、壱弥お坊ちゃまがますます…」
樋口さんも慌ててそう一臣さんに言った。
でも、遅かりし。怒ったのか壱弥は一臣さんの顔を、両手でバシバシ叩き出した。
「あ!」
樋口さんも、それに対して一臣さんが怒ると思ったのか、どう対処するか珍しく戸惑っているし、保育士さんたちも、
「壱君、叩いちゃ駄目よ。パパ痛い痛いって」
と、慌てている。
でも、遊んでいてもよく一臣さんの顔はバシバシ叩いているから、慣れている気がするんだけど。
「痛いぞ、壱。ったく、しょうがないなあ。そんなに嫌なのか?困ったな。どうする?弥生」
顔は叩かせたまま、一臣さんは私に聞いてきた。
「どうすると言われても。そんなに嫌がるなら、今日はこのまま15階に連れて行きますか?」
「そうだな」
「いえいえ。それではいつまでたっても、託児所に慣れませんよ」
樋口さんの言葉に、お母さんたちも保育士さんも頷いた。
「じゃあ、泣き叫んでいる壱を置いていけというのか?お前にそれができるのかっ?!」
「え、そう言われましても」
こんなに動揺している樋口さんも、本当に珍しい。いつもの冷静沈着な、みんなにロボットとまで言われている樋口さんが…。
「わかった。じゃあ、しばらく俺もここに残って遊んでやる。この場に慣れてきたら、壱を置いていく。壱はプレイルームではよく、友達と仲良く機嫌よく遊んでいたんだ。遊ぶのが楽しくなれば、ここに残れるだろ」
「そうですね。では、10時からの一件のアポイントは、キャンセルですね」
「ああ、たいした用件じゃなかったはずだ。来週にしてもらえ。急な案件ができたとかなんとか言って誤魔化せ」
え?そんなでいいの?と、私以外のみんなも思ったようで目を丸くした。
「かしこまりました」
「私も残りますか?っていうか、私だけが残ればいいような気もします」
「いい。細川女史に事情を話して、今日のスケジュールは矢部から聞け。休んでいた分、みっちりとスケジュールを入れられているはずだ。まあ、頑張れよ」
「はい」
そんなに仕事、入れられているの?ちょっとびっくり。仕事復帰は嬉しいけれど。
「じゃあね、壱君」
そう言うと、壱弥はすっごく不安そうな顔をした。
「パパに遊んでもらいなね?ほら、おもちゃもあるし、楽しそうなところでしょ?」
おもちゃを指差すと、壱弥はそっちを見て目を輝かせ、早速パパに遊んでもらおうと一臣さんの腕の中でジタバタし始めた。
「わかった。遊んでやるから暴れるな」
ようやく壱弥は一臣さんの腕からおりて、一目散におもちゃめがけてハイハイして行った。
「じゃあな、弥生。俺も様子を見て15階に行く。樋口、お前も先に行っていいぞ」
「かしこまりました」
あれ?
託児所を出てから、
「樋口さん、ボディガードのほうはいいんですか?」
と気になり聞いてみた。
「大丈夫です。姿は見えませんが、伊賀野が待機していますし、他にも忍者部隊が見張っていますから」
「なるほど。社内とはいえ、見守られているんですね、一臣さんは」
「一臣様だけではなく、大事な壱弥お坊ちゃまをお守りするために、忍者部隊が来ているんですよ。何しろ、将来の緒方財閥を背負ってたつお方ですからね」
う~~~わ~~~~。まだ赤ちゃんなのに、そんなふうに思われているのか。
「どこで、誰が誘拐しようと企てているかもわかりませんし、下手すりゃ、保育士がいつ誘拐犯になるかもわかりませんからね。いつでも、全力で見守っていないとならないんですよ」
「保育士さんまで疑っているんですか」
「もちろんです。一臣様は護身術も習われていますが、壱弥お坊ちゃまは何も抵抗できませんからね」
確かにそうだ。
「そうですね!私も自分の身を護れますけど、壱君はまだ無理です。皆さんに護っていただかないと無理ですよね。よろしくお願いします」
私は誰ともなく、周りにぺこぺことお辞儀をした。すると樋口さんがゴホンと咳払いをして、
「忍者部隊が潜んでいることは、内密です」
と耳元で言ってきた。
「あ、そうですよね。すみません、気をつけます」
確かに。誰も見えない場所にお辞儀をしているのも、知らない人が見たら奇妙だよね。
そんなこんなで、私と樋口さんは15階に赴いた。
「おはようございます」
「あ、弥生様、おはようございます!」
ドアを開けると、細川女子のクールな声と、矢部さんの元気な声が聞こえた。
「矢部さん?」
「わたくしも本日から、秘書として15階で仕事をすることになりました」
「そうなんですか?よろしくお願いします」
ぺこりとお辞儀をすると、矢部さんも深々とお辞儀をした。
15階の一臣さんのオフィスは、デン!と大きなデスク(樋口さん用)、その横に小さめのデスク(細川女史用)、そして壁際にも小さめのデスク(矢部さん用)が並ぶこととなった。
そういえば、オフィスのドアにもちゃんと、「副社長室」というプレートが貼ってあったな。
「一臣さんって、秘書が3人もいてすごいですね。確か社長には青山さん一人だったような…」
「は?矢部さんは弥生様の秘書ですよ」
私の言葉に細川女史が冷静に答え、
「社長には秘書がまだまだいらっしゃいます」
と樋口さんにもクールに言われてしまった。
「第一秘書は辰巳氏ですし、15階に常にいるのは青山さんですが」
あ、そうだった。樋口さんの言葉で辰巳さんの存在を思い出した。辰巳さんといえば、合気道を一緒にするようになってから、すっかり私に対しての態度が変わっちゃったよなあ。この前、「弥生師匠」と呼ばれた時には、本当にびっくりした。
「一臣様は?樋口さん。ご一緒でなかったのですか?」
「一臣様はまだ託児所にいます。壱弥様が泣きついて大変でしたので、慣れるまで一緒に託児所で遊ばれるそうです」
「ええ?!一臣様が一緒に遊ぶ?」
矢部さんが、思い切り驚いている。
「まあ、ふふふ。確か、モニターで託児所の様子を見ることができましたよね?」
細川女史は、そう微笑ながら樋口さんに聞いた。
「はい。子どもの様子をいつでも見れるようにという目的で…。それとは別に、壱弥様が誰かに狙われたりしていないかの監視カメラもここで見れますよ」
「監視カメラ?」
樋口さんの言葉に、また矢部さんが驚いていたが、そんなのおかまいなしに樋口さんは、デスクにあるでかいパソコンに託児所の様子を映し出した。
「カメラが何台かあって、切り替えることができるのですが…。あ、一臣様がいらっしゃいました。音も聞きますか」
「え?音まで聞けるんですか?」
「そりゃ、何か怪しい人物がいないか、監視しないとなりませんからね」
その言葉にも、矢部さんは目を丸くした。
が…。私も細川女史も動じなかった。忍者部隊だの、侍部隊だのを知らない矢部さんには驚くことかもしれないけれど。
「一臣様、壱弥様だけでなく、ほかのお子さんとも遊んでいますよ」
「本当だわ。まあ!小さな子が懐いている。驚きだわ」
矢部さんは微笑ましく見ているが、細川女史には衝撃だったみたい。
「一臣さんはお屋敷の寮のプレイルームにも、壱君を連れて遊びにいくんです。その時、コックさんたちのお子さんとも遊んでいるんですよ。だから、けっこう慣れているんです」
「あ…、そのことはなるべく内密に」
私の横で、樋口さんがちょっと慌てた。
「ごめんなさい。ここだけの話にしてください」
「わかっています。でも、託児所での様子は多分、社内に噂が広まるでしょうねえ」
「え?噂?細川女子、それってどういう噂ですか?」
「子煩悩ですとか、お子様に甘いですとか、そういう噂でしょうね」
「それって、どうなんでしょう。一臣さんにとってプラスですか?」
「よろしいんじゃないですか?子どものことをほっぽらかして、相手にもしないというような噂より」
樋口さんの言葉はクールなように感じたが、顔を見ると目は優しかった。それに、ずっと一臣さんと壱弥の遊んでいる様子を、微笑ましく見つめている。
『一臣様は子どもがお好きなんですね!』
壱弥とおもちゃで遊んであげている可愛らしい保育士さんの、元気な声がパソコンから聞こえた。
『いいや。子どもは苦手だ。うるさいし、面倒くさいし』
「一臣様、こんなこと言ってると、イメージダウンじゃ…」
矢部さんが本気で心配している。
『だけど、壱弥は別だ。自分の子どもっていうのは、なんでこうも可愛いんだろうな』
「親バカ発言ですね。くす」
細川女史が笑った。私は、複雑だった。子煩悩という噂はいいけれど、親バカはどうなんだろう。
『なんだか、意外です。一臣様のイメージが変わりました』
『俺のイメージ?』
『あ、ごめんなさい。余計なことを言いました』
そう言いながら、可愛らしい保育士さんは頬を染めた。
「あら」
細川女史も何かを感じたようだ。だけど、
「弥生様、安心していいですよ。一臣様はああいうタイプは一切受け付けませんから」
と、樋口さんにそんなことを言われてしまった。
「私、別に心配したわけでは…」
ちょこっとだけ、こんな可愛い子が一臣さんを好きになったらどうしようと思ったけれども。
「へえ、そうなんですね。でも、なんだか健気で少しタイプは弥生様に似ているような気もしますけれど」
「矢部さん、不必要なことはおっしゃらないようにね」
「え?あ、すみませんでした」
細川女史の言葉に、矢部さんはものすごく焦ったようだ。
「ふ…。矢部さんもまだまだですね。弥生様とその保育士は、まったく似ていませんし、一臣様は興味を持たれることもないですよ。何しろ、弥生様一筋ですからね」
「あら、そうですね。くすくす」
「ひ、樋口さん、なんてことを言うんですか」
顔から火が出たかと思った。もう~~~、樋口さんがそんなことを言うなんて。それも細川女子と笑っているし。
『うぎゃ~~~~~』
そんな話をしていて全員がパソコン画面を見ていなかったが、突然壱弥の泣き声がして慌ててみんなで画面を見た。
『壱、離せ。仕事にもう行かないとならない。ほら、先生も遊んでくれているし、おもちゃもたくさんあるし、大丈夫だろ?』
『壱弥君。先生と遊ぼう。ね?お父さん困っちゃってるよ?』
可愛い保育士さんの言葉で、ますます壱弥は大暴れ。あ!保育士さんにまでパンチした!
「壱君、駄目!」
と、パソコンの前で言っても、聞こえやしないのに、私ったら。
『壱!こら、暴力を女性に振るうな!ったく、しょうがないやつだな。ほっぺた、大丈夫か?』
一臣さんは、そう保育士さんに優しく聞いた。保育士さんは頬を抑えながら、顔を真っ赤にしている。
『ん?そんなに強くパンチしたのか?真っ赤だ』
『い、いえ。大丈夫です』
ああ、一臣さんったら、一臣さんに対して顔を赤くしているのに。
『うわ~~~ん』
一臣さんが離れようと立ち上がると、壱弥は一臣さんの足にしがみついた。こりゃ、絶対に離さない勢いだな。
『わかったから、壱。今日のところはここまでにしておこう。な?』
そう言うと一臣さんは壱弥を抱っこした。そして、片手で携帯をポケットから取り出した。
プルルル。オフィスの電話が鳴った。
「はい。細川です」
「ああ、細川女史、樋口に託児所まで来るように言ってくれないか。壱弥連れて戻るから」
「…かしこまりました」
細川女史の返事の前に、すでに樋口さんはオフィスをあとにしていた。
「早いですね、樋口さんの行動」
「ふふ。こうなることも、お見通しだったのかもしれないわね」
電話を切った後、細川女子は笑ってそう言った。




