第1話 初めての託児所
お屋敷の部屋に戻ったその日、興奮したのか、慣れないせいか、壱弥が夜泣きをした。最初は私が抱っこをしていたが、途中一臣さんも目を覚まし、交替してくれた。
「一臣さん、やっぱり休んでください。明日の仕事に差し障ります」
「お前だって同じだろう?明日から出社だ」
「でも、私ならなんとかなります」
「俺も、眠れないのには慣れている」
「いえいえ!ようやく睡眠障害も治ったんですから、しっかりと寝てください」
「どうせ壱の泣き声がうるさくて眠れん」
う…。そうだよね。今も泣きっぱなしだし。
「よしよし、壱。そんなに泣くな。何も怖くないぞ」
泣きつかれたのか、それとも眠いのか、壱弥がおとなしくなってきた。それに瞼も閉じそうだ。
「隣の部屋で壱君と寝ます。一臣さんは、ちゃんと一人で休んでください」
そう言って壱弥を抱っこしようと両手を差し出したが、
「は?!俺にどうやって一人で眠れと言うんだ。弥生か壱やいないと眠れないんだぞ」
と、マジ切れされてしまった。
結局、二人で眠りに着いたのは2時を過ぎていた。そして、朝は朝で6時に目覚めた壱弥は、見慣れない部屋だったからか泣き出した。
「……こんなんで、大丈夫なのかなあ」
抱っこをしながら思わずそう呟くと、
「いつになく弱気だな、弥生」
と一臣さんが片眉をあげた。
「ですよね?私らしくないですよね」
「ああ。大丈夫だ。そのうち壱弥も慣れる」
着替えを済ませ、ダイニングにも壱弥を連れて行った。一臣さんは部屋でまったりしたかったらしく、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
「壱弥おぼっちゃま、おはようございます」
ああ、喜多見さんと国分寺さん嬉しそう。壱弥はダイングは見慣れた場所だからか、機嫌がすっかりよくなって、ニコニコしている。
その隙に私は朝食を取った。ありがたいことに、壱弥には喜多見さんが離乳食を食べさせてくれた。
「壱君のご飯まで用意してもらって、申し訳ないです」
「何をおっしゃいます。壱弥お坊ちゃまのお世話もコックや私たちメイドの仕事ですよ?当然のことをしているだけでございます」
喜多見さんにもちょっと怒られた。
そうか。そうだった。なんだか、今まで寮では私が全部支度していたから、誰かに壱弥の面倒をみてもらうことに抵抗を感じちゃった。
「なんだか、顔色が優れないようですけど、大丈夫ですか?」
日野さんが私にお茶を注ぎながら聞いてきた。
「はい。壱君が夜泣きしちゃったんです。それであんまり眠れなくて」
「ええ?!なんで、私たちを呼んでくれないんですか」
「は?」
「何のために私たちベビーシッターがいるんですか」
「…。あ、はい、すみません」
あれ。日野さんにまで怒られちゃった。
朝食も済み、一臣さんと壱弥とお屋敷を出た。壱弥は一臣さんが抱っこして、私は自分の鞄と壱弥の荷物を持っていたが、
「わたくしがお持ちします」
と、すぐに亜美ちゃんが鞄を持ってくれた。
「壱君の荷物、重いですよ」
そう言うと、
「え?大丈夫ですよ」
と、亜美ちゃんも驚いたように私を見た。
車に乗り込み、樋口さんがスケジュールを一臣さんに伝え終えると、
「壱弥お坊ちゃまも、弥生様も、出勤を再開ですね」
と、樋口さんも等々力さんも嬉しそうに笑った。その顔がバックミラーで私からも見ることができた。
「私、喜多見さんにも日野さんにも怒られちゃったんです」
今朝の出来事をみんなに報告すると、
「日野や喜多見さんの仕事と言えば仕事だしな」
と、一臣さんはクールにそう返してきた。
「弥生様はあまりお一人で頑張らず、誰かに頼られてもいいんですよ」
「でも、やっぱり、他の人たちは一人で頑張っているわけですから」
等々力さんの言葉に対して、そう私が全部を言い終える前に、
「他の人って言うのは、一般人のことか?例えば子どもがいて働いているうちの女性社員とか」
と、一臣さんが聞いてきた。
「はい、そうです」
「まったく弥生は立場をわかっていない。確かに、託児所を作るに当たって、一般人の生活を理解したいという思いで寮の生活をしたのは、まあ俺も同意した。でも、それはそれ。これはこれだ」
「……これは、これ?」
「弥生は緒方財閥の次期総帥の妻だぞ」
「…はい」
「誰かを従えて生活するのが当たり前の世界だ」
「…は、はい」
「メイドやコック、ベビーシッターにボディガード、運転手や秘書や執事、それがいるのが当たり前の世界だ。いい加減、傅かれるのにも慣れろ」
「でも、お言葉ですが、いつでも感謝はしていたいです。当然のことと思いたくはありません」
「あははは。そこが弥生様の良さですよ、一臣様。その良さだけは残していただきたいなあ」
等々力さんの言葉に、樋口さんも大きく頷いている。
「う、まあ、そうなんだが。それが弥生といえば弥生なんだが。だがなあ、こいつは一人で何でも頑張りたがるから、少しはみんなに助けてもらっていいってことを覚えてもらいたいんだよ」
「そうですねえ。弥生様のことはみんな大好きですし、助けたいんですよ。壱弥おぼっちゃまのこともみんな世話したくてしょうがない。だから、弥生様は遠慮せず、甘えていいと思いますよ、ね?樋口さん」
「……」
「樋口さん?」
等々力さんの言葉に、樋口さんは何も発せず、でも、なんでだか微妙に肩が震えているような…。
「え?樋口さん、泣いているんですか?」
等々力さんの言葉に、私も一臣さんもびっくりした。なんで、泣いてるの?
「一臣様が、弥生様のことを大事に思われて…。ふと、昔のことを思い出して、一臣様が成長されたんだなあと、ちょっと今感動を…」
「はあ?どうしたっていうんだ、樋口。お前らしくないぞ。そんなことくらいで泣くなんて」
「ですよね。自分でも驚いています」
「年取ったんだなあ、樋口も」
「は?」
「孫の成長喜んでいる、じじいの域だぞ、それって」
「じ、じじいですか」
あ、背中が今度は落ち込んでいるような。
「はははは。孫ではなく息子ですよね。一臣様が息子で、壱弥おぼっちゃまは孫と言ってもいいかもしれないですよね。私らの世代からしてみれば」
「俺には何人の親がいるんだ。喜多見さんも母親代わりみたいなものだし。国分寺さんも父親みたいなもんだし」
「一臣さんは、そんなにもいろんな人に大事に思われて幸せですね!」
そう私が言うと、一臣さんは明らかに照れたのか、頬を染めた。うわ。かわいいかも!
「そういうことで言うと、壱には何人のじじいがいるんだ」
「じじいって…」
「壱も幸せ者ってことだな」
「…そうですね」
本当にそうだ。私も幸せだよね。みんなが私や壱弥のことを、助けてくれようとしているんだもの。
なんて、暢気に幸せに浸りながら会社に着いた。壱弥は車で寝ていたが、会社に着くと目をパチリと開け、キラキラと輝かせた。多分、久々に会社の一臣さんのオフィスで、思う存分遊べると思ったに違いない。
だけどね、壱君。今日からは私たちと離れ、壱君だけ託児所に行くことになるのよ。
う…駄目だ。何時間も壱弥と離れることを考えたら、寂しくなってきた。
と、干渉に浸っているのもその時までだ。
「一応、俺も託児所の保育士たちに、挨拶しておくか」
一臣さんも一緒に、託児所まで出向いた。樋口さんは、
「壱君の荷物、私が持ちます」
と私が断っているのにも関わらず、壱弥の荷物を頑なに放そうとせず、
「一応、わたくしはお二人のボディガードなので、お供します」
と、私たちの後ろから着いてきた。
ああ、なんか、旦那と秘書まで連れて託児所に子どもを預ける図ってどうなんだろう。みんなどう思うかな。そんなことも気になりつつ、壱弥を抱っこしてどんどん速度をあげて歩く一臣さんのあとを私はちょこちょこと追いかけた。
「ここだな」
託児所の前で一臣さんは、一回立ち止まった。すると、ドアをすっと樋口さんが開けてくれた。
「失礼します」
先に樋口さんが中に入ろうとしたが、中で保育士さんたちや、他のお母さんがびっくりしている様子なので、私のほうが先に中に入ることにした。
「あの、今日からお世話になります緒方壱弥の母です。よろしくお願いします」
すぐにぺこりとお辞儀をすると、
「え?あ!お、緒方様ですね」
と、少し慌てながら、一番年齢が上であろう保育士さんが私の前に進み出た。
「お待ちしていました」
それも、かなりの緊張具合…。
「ああ、今日から壱弥を頼むぞ」
一臣さんがそう言いつつ、壱弥のことをその保育士さんに預けようとした途端、
「うぎゃ~~~~~~」
壱君は大泣きして、一臣さんの首に腕を回して引っ付いた。
「壱?こら、離れろ」
引っぺがそうとしても、べったりくっついて離れそうもない。
「壱弥く~~ん、先生たちと遊ぼうか」
優しく、可愛らしい若い保育士さんが手を差し伸べても、ますます一臣さんに引っ付き、ワンワン泣くばかり。
「なんでだ?自分だけ置いていかれることが、なんでわかったんだ」
「知らない場所って言うだけで、警戒したんじゃないでしょうか。知らない顔ばかりですし」
横で壱弥の荷物を床に置きながら、樋口さんがそう言った。
「壱君。泣かないで。あ、おもちゃがあるよ。楽しそうだよ。ほら、お友達もいるよ」
託児所の奥のほうで、ワンワン泣いている壱弥のことを不思議そうに見つめている2~3歳の子達が数人いた。
それから、3人のお母さんと、2人の保育士さんもこっちを見ている。
「弥生様、壱弥君今日が初めて?」
そのうちの一人のお母さんは、託児所プロジェクトで一緒だった人だ。
「西谷さん、そうなんです。今日が初なんです」
「そうか~~~。うちの子もようやく慣れて、泣かなくなったんですけど」
そうだったんだ。やっぱり他の子たちも泣いちゃったんだ。
「壱弥君、ほら、友達いっぱいだよ。大丈夫。おいで」
壱弥に手を伸ばしたのは、可愛らしいまだ10代かもっていう保育士さんだ。いや、多分20代前半なんだろうけど、そのくらい若く見える。
だけど壱弥はそんな可愛い保育士さんでも駄目で、嫌嫌と首を横に振り、一臣さんにしがみついている。
ああ、壱君、このままだと託児所デビューは無理なの?どっと不安が押し寄せる。




