第13話 寮での最後の週末
もうすぐ、寮生活が終わる。ちょっと寂しい。
寮生活の間は、いろいろと楽しめたなあ。
たとえば、お義母様には内緒で、格技場で樋口さんにこっそりとカンフーを習ったり、私が合気道を教える代わりにと、辰巳さんが中国拳法を教えてくれたりした。
久しぶりに筋肉痛になり、その日の夜、
「いたたた」
と筋肉痛を痛がっていると、一臣さんに笑われた。
「どこが痛い?」
壱弥が早く寝てくれたからと、一臣さんに熱く誘惑をされた夜だった。一臣さんは片眉をあげながらそう聞いてきて、
「太ももも、ふくらはぎも痛いです」
と言うとわざと、
「この辺か?」
と突いてきたり、動かしたり。
「そこ、痛いですから動かさないで下さい」
「しょうがないなあ…。あんまり一生懸命になってやるなよ。ムキムキの筋肉がついた弥生は抱きたくないぞ」
「う…。ちょっと週末に習うだけです。それに私って、どうも筋肉つきにくいのか、鍛えようとしても駄目なんですよね」
「贅肉ならすぐにつくのにな」
そう言いながら一臣さんは、私のお腹にある肉をつまんだ。
「い、意地悪!」
膨れると、そのほっぺも突いて笑っている。もう~~~~。
「そのうち、細川女子と手合わせできるかな。あ、一臣さんとも」
「俺か?俺は強いぞ…。あ、でもその時には、合気道の技はかけるなよ」
「しませんよ…。でも、でもでも、私、一臣さんがカンフーをしている姿が見たいんです!」
「ふん。どうせ、俺に惚れ直すだけだ。これ以上惚れてどうするんだ?」
「そうですけど。もっと惚れちゃうとは思いますけど」
「ははは。じゃあ、ここでももっと惚れてもらうか」
「え?」
そんな話をしながらも、一臣さんに思い切り愛されたっけなあ…。
ほわわん。そんなことを思い出した後、私は大事なことを思い出した。
「一臣さん!寮から戻る前に、一臣さんのカンフーが見たいです。すっかり、ダンスだのマナーだのやっていて忘れていました」
「え~~~?面倒くさいな」
寮で過ごす最後の土曜の午後、お昼ご飯も食べ終わり、家族みずいらずでリビングでのんびりしている時に、私はとっさに思い出したのだ。
でも、一臣さんは壱弥の横でゴロゴロしていて、起き上がるのすら面倒くさがっている。
寮では、みんなでのんびりと過ごしちゃうから、一臣さんもゴロゴロしているのが日常になっちゃったな。これ、お屋敷では見ることなかったよな。
「また今度にしないか?眠くなってきたから壱と1時間くらい寝たい…」
「え~~~~~。壱君、眠そうにないですよ」
さっきからおもちゃで壱弥は遊んでいるもんなあ。
「俺が寝たら眠くなるさ。なあ?壱」
ああ、すっかり一臣さんが、休日家でのんびり過ごして何もしないサラリーマンモードだわ。
それを私が望んだんだけど…。お屋敷に戻ったらこんなふうに過ごせないから、のんびりしたいと確かに思ったけれども、でも、カンフーの一臣さんが見たい。絶対に見たい。
「じゃあ、1時間したら、格技場に行きましょうね。私、樋口さんに連絡します」
「え?」
あ、今、すっごく嫌そうな顔をした。でも、私はそんなことおかまいなしに電話で樋口さんに、
「お休みの中、すみません。一臣さんと1時間したらカンフーをするので、樋口さんも一緒にどうですか?」
と誘った。樋口さんは快く引き受けてくれ、そのうえ、壱弥のお守りに等々力さんも連れてきてくれるということだった。
「樋口、来るのか」
「はい。等々力さんもです」
「は~~~~~~~~あ」
一臣さんは大きなため息をして、ゴロンと寝返りを打った。そして、隣で壱がガチャガチャとおもちゃを動かし、「あ~~う~~」と騒いでいるのに、すぐに寝てしまった。
一臣さん、最近よく寝るなあ。昼寝もするし、夜もぐっすりと寝ている。すっかり睡眠障害は治っちゃったのかしら。
私はウキウキしながら、格闘着を用意した。それからタオルや、お水をいれた水筒も。
「あ、壱君のおやつもいるかなあ」
赤ちゃん用のおやつや、壱弥のお茶も用意した。ああ、ワクワクだ。そうだ。ビデオカメラも持って行こう。
壱弥が生まれてから、カメラで写真も撮っているけど、一臣さんはビデオでも撮りたかったようで、かなりいいものを買ってきた。それからよく、ビデオでも壱弥を撮っている。私はというと、こっそり一臣さんを撮っている。壱弥と遊んでいる一臣さんや、プールで泳いでいる一臣さんを。
撮って、いったいいつ見るんだと一臣さんに呆れられたけど、いいじゃない。たとえば老後の楽しみとかさ。いや、もしかすると、これから一臣さんの出張が増え、離れることが多くなった時にとか。
ああ。でも、離れることが多くなるのは寂しい。出張にだってついていきたいよ。
1時間が経ち、まだ眠そうな一臣さんと、ずっとハイテンションの壱弥を連れて、格技場に行った。すでに等々力さんと樋口さんもスタンバイしていた。
「壱弥おぼっちゃま~~~~~~」
等々力さんも壱弥に目がない。樋口さんも、まるで孫を見る様に目を細め、二人ともめろめろになっている。
「樋口、とっととやるぞ」
一臣さんはさっさと着替え、樋口さんを呼んだ。
あわあわ。私は慌ててビデオを用意した。そして、カンフーをしている一臣さんを撮った。
わ~~~~~~。想像以上にかっこいい。ああ、あの足蹴り。すごい!そういえば、あのAコーポレーションの社長のことも蹴ったけど、かっこよかったもんなあ。
「弥生!うっとりとしていないで、今度はお前の番だ」
「はい~~~!」
樋口さんにビデオを渡して、一臣さんと手合わせをした。あ、あれれれ。
「弱いな、弥生」
「すみません。相手にならないですよね」
樋口さんの時にはド迫力で、まるでカンフー映画を見ているかのようだったのに。
「そうだな。相手にならん。もっと鍛えてからだな。あ、いや、やっぱり、鍛えなくていい。筋肉とかついてほしくないし」
「…でも、もっと強くなりたいです」
「お前、十分に強いだろ。それ以上強くなってどうする。合気道だけで十分だ。さ、部屋に帰るぞ」
「もう?」
「ビデオも撮れたんだろ?じゃ、いいだろ」
え~~~~~~~~~~~~~~~。納得できません。
一臣さんはこういう時には自分の考えを通す人で、一度やめると決めたら、もう2度としてくれないのだ。さっさとタオルで汗を拭きながら、格技場を出て行っちゃったし。
「等々力さん、壱君の面倒をありがとうございました。樋口さんもありがとうございます」
「いいえ。またいつでも呼んでください」
二人は壱弥を名残惜しそうに見ながら、自分たちの寮に戻っていった。
私も壱弥と部屋に戻ると、一臣さんは着替えも済ませ、すでにリビングで冷たいお茶を飲んでいた。はや…。よっぽどのんびりしたかったのかなあ。
「壱!遊ぶか」
「あ~~~~!」
そして、壱弥とおもちゃで遊んだり、一緒にテレビを見たりと、一臣さんは寮ので休みを満喫した。
まあ、いいかな。こんな休日を過ごしたかったんだもんね…。
こんな寮の生活も、明日で終わっちゃうんだもの。そう思うと、寂しいなあ。離れがたいなあ、この部屋…。
仕事に復帰できるのは嬉しい。一臣さんの部屋だって、居心地はいい。でも、この平々凡々とした、ごく普通の暮らしが捨てがたいんだよね。
「今日も腕によりをかけて、夕飯作ります!」
「ああ。楽しみだな」
一臣さんが嬉しそうにそう答えた。よし、頑張るぞ。
こんなふうに夕飯を私が作って、3人で食べる…なんていうことすら、できなくなっちゃうんだから。
「9月にはアメリカに行く。それまで、託児所に壱を預けて、機械金属のプロジェクトのほうを弥生は応援してくれ」
「応援?」
フレーフレーって?
「かなり具体的に進んできてはいる。だが、まだまだ取り掛かっていない案件も工場もあるんだ。その辺をどうやって動かしていくか、この前も綱島と打ち合わせしていたんだ」
「はい」
「弥生もこれからはミーティングに参加しろ。俺の補佐を頼むぞ」
「はい!」
そうだよ。私は一臣さんの補佐なんだよ。ずっとそれをほったらかしにしていたんだもん、頑張らなくちゃ。
「合気道の段は取れたのか」
「いえ。今度段審査があるから、それで決まります」
「そうしたらすぐに師範か?」
「いいえ、師範にはなれません。指導員です」
「指導員…。で、それで辰巳さんたちを教えられるのか」
「はい。師範に許可をもらえれば」
「ふうん。面倒くさいんだな。お前ならすぐにでも、師範になれそうなのに」
「いえいえ。師範は格が違うっていうか…。とにかく、私は師範は目指していないので」
「そりゃ、弥生は緒方財閥総帥の奥さんになるわけだから、合気道で師範にならなくたっていい。道場を持つわけでもないんだからな」
「はい」
おっしゃるとおりです。
「ま、合気道の段を取るのにまだかかるんだろ?カンフーなんてしている場合じゃないだろ」
「それはまた、別の話です」
「そんなに簡単に合気道の段は取れるのか」
「……えっと。師範に練習量が足りないと言われたので、もう少しかかりそうです」
「練習量?」
「はい。毎週土曜日だけの練習じゃ、全然足りないかも…」
「はあ?まさか、今後もっと通うとか言い出さないだろうな」
「はい。しばらくダンスだのマナーだのの練習で、合気道のほうは休んでいたし。アメリカに行っている間も練習できないし、まだまだ、段を取るのは先になるかなあ」
「辰巳、首を長くして待っているんじゃないのか」
「…。たまに、手合わせだけしようかなあって、そんなことは思っているんですけど。でも、私がしたいのは、中国拳法で。あ、辰巳さんに教わるときに、合気道もちょこっとしてはいるんですけど…。中国拳法やカンフーのほうが楽しくて」
「……」
一臣さんの方眉があがった。
「変なお嬢様だよな、つくづく」
「…そうですか」
呆れられたのか。
「なあ、弥生」
「はい?」
「随分とお前は忙しくなりそうだが、今から計画を立てておくぞ」
「なんのですか?」
「二人目の子作りだ。3歳くらいあけたらいいと俺は思っている。だとすると、仕込むのは」
「は?子作り?」
「そうだ。大事な仕事だろ?あんまり合気道の段とりだの、カンフーだのばかりに気を取られていては困るぞ。そうだな、1年半後くらいに仕込めばいいか」
仕込むって、言葉がなんだか嫌だなあ。
「そうか。エッチを思い切り楽しめるのはたったの1年半か。じゃあ、今日もするか!」
結局はエロ親父発言…。もう、この人のスケベ度は、どんどん増しているんじゃないの?
「な?弥生…」
でも、いまだにラブラブな夫婦で居られるのは嬉しいことだよね。
「はい。じゃあ、壱君にはさっさと寝てもらいましょうね?」
なんて、こんな返しをできるようになってしまった私…。
「そうだな」
そう言って一臣さんはにんまりと笑った。
寮での最後の夜も、アツアツの夜を過ごしたのだった。




