第12話 やっと合格!
土曜日になり、私は一臣さんに言われた通り、気持ちに余裕を持ってディナーを食べた。横に今日は一臣さんもいてくれたから、安心もできた。
「弥生さん、今日の出来はまあまあですね」
まあまあか…。ちょっとがっかり。
「来週、レストランの予約は取れていますから、それが最終試験と思って頑張って下さいな」
「最終試験?」
「そこで、採点しますからね。90点以上が合格」
「90?!」
思わず大声を出すと、寝かかっていた壱弥がパチリと目を覚ましてしまったようで、ベビーラックでぐずりだしてしまった。
「壱君、ごめんね」
抱っこをしようとしたが、一臣さんのほうが先に壱弥に手を伸ばした。
「採点っていうのは基準があるのか。どうやって採点すればいいんだ」
一臣さんは壱弥を抱っこしながらそう先生に聞いた。
「わたくしが判断しますよ」
「え?まさかと思うが、レストランに先生まで引っ付いてくるのか?」
「一臣、なんです、その失礼な物言いは」
「わたくしが行かないで誰が採点を?」
「俺だ」
「一臣!敬語を使いなさい」
「…。僕が一緒に行く予定ですが?」
あ、俺が僕に変わった。
「2名でしか予約は入れていないですよ」
先生の言葉に、私は背中がヒヤッとした。まさか、先生と二人きりでディナーをする予定だったとか?
「2名で十分です。俺…僕と弥生とで行きます」
「それでは、様子がわからないじゃないですか」
「僕が採点しますよ。採点の基準を教えてくだされば、僕でも採点できます」
「甘い点をつけるんじゃないんですか?身内、それも、旦那様なんですから」
「俺が?まさか!あ…、僕は辛いですよ。弥生のためには、厳しくしたほうがいいんです」
「……」
一臣さん?この前は楽しめばいいんだって言っていたような気が…。
「そうですか。わかしました。では、一臣様に任せましょう」
そう言うと先生は、またタクシーで帰っていった。
「一臣、あんなこと言っておいて、点数をつけるつもりもないんじゃないですか?あなたほど弥生さんに甘甘な人はいないんですから」
お義母様の言葉に、一緒にいた国分寺さんがくすっと笑った。
「当たり前だ。採点なんか気にして旨い料理が食べられるか。せっかく三ツ星レストランに行くんだ。なあ、弥生」
「呆れた」
そう言いつつも、お義母様はくすくすと笑いながら、自分の部屋に向かって階段を上がっていった。
「……」
私も呆れて言葉を失った。一臣さんって、ちゃっかりしている。
そして、ついにレストランに行く日がやってきた。レストランは上条グループのホテル内にあり、ありがたいことにビップルームへと通してくれた。私の子どもということで、壱弥も歓迎された。ベビーチェアまで用意をしてくれて、子ども用の食事まで用意をしてくれ、至れり尽くせり。
「さすがだな」
「先生がここまでしてくれたんでしょうか」
「予約は先生じゃなく、国分寺さんが手配した。先生に予約をしておいてと頼まれたから、上条グループのレストランを予約したらしいが、用意周到、さすがだな、国分寺さんは」
「普通、この年の赤ちゃんが来れるところじゃないですよね」
「まあな。だが、この年から慣れておけば、壱はどこに行っても臆することはないだろうな」
「確かに…」
ビップルームだから、一臣さんと壱弥と3人だけ。これなら緊張しないですむ。
緊張が解けたからか、私は味を堪能することもできた。
「美味しかったです」
「うん、弥生、マナーもちゃんと出来ていた。合格だ」
「本当に?でも、先生が見たら合格点を貰えるかどうか」
「俺が合格だと言っているんだ。それでいいだろ」
いいのかなあ。
「大丈夫だ。その分ならどこに行っても恥をかくこともない。堂々としていろ」
「……はい」
ああ、一臣さんといると心底安心できるってすごいなあ。
壱弥も美味しく食べ終え、3人で気持ちよく等々力さんの車に乗り込み、お屋敷に帰った。
車から降り、寮に戻ろうとすると、
「弥生。そろそろ屋敷に戻るぞ」
と車で寝てしまった壱弥を抱っこしている一臣さんがそう言った。
「え?お屋敷に?」
「もう託児所も出来上がった。報告によると順調そうだ。壱をそろそろあずけてもいい頃だ。おふくろとの約束の期間も過ぎた。屋敷に明日にでも戻るぞ」
「明日?」
「家具は置いていくだろ?荷物はそうそうないし、メイドたちや手のあいているコックに荷物は運んでもらえばいい」
「じゃあ、今夜が寮で過ごす最後の日?それは寂しいです」
「なんでだ?屋敷に戻ったところで、3人で過ごすのには変わりない」
「じゃあ、せめてあと1週間。まだ、家族水入らずでダイニングで夕飯食べたり、リビングでのんびりしたり、洗濯や掃除も自分でしたり…。そういうごくごく普通の暮らしを、もう少し味わいたいです」
「俺はもう十分だけどなあ」
ぼそっと一臣さんがそう呟いた。
そうか。一臣さんは早くに戻りたいんだ。そうだよね。戻ればゆっくりと起きて、朝はコーヒーを入れるだけで、一臣さんは家事から解放されるんだもの。
でも、でもでも、私にとってはすごく充実した毎日だった。
「それに、弥生、お前にも緒方商事での仕事があるだろ?託児所のプロジェクトはいいにしても、機械金属のほうはまだ、弥生が必要だ。秋からはアメリカにも行くんだぞ。寮でのんびりしている暇はないぞ?」
「はい、そうですよね」
一臣さんの仕事の補佐、それも大事な仕事だ。
「来週の日曜、屋敷に戻る。あと1週間だけだ。わかったな?」
「え?いいんですか」
「ああ、1週間くらいなら、まあ、いいだろ」
嬉しくて、ドアを開けて先に入った一臣さんの後ろから抱きついた。
「おい、いきなり襲ってくるな。まだ風呂にも入っていないぞ」
「襲ったんじゃないです。嬉しかったんです」
「まったく。早くにでかい風呂で弥生とゆっくり入りたいのになあ」
「壱君がいるから、一緒には無理です」
「大丈夫だ。屋敷の風呂なら、3人でも入れる」
「あ、そうか」
そうね。3人で十分入れる大きさだ。あ、いきなり楽しみが増えた。
そうだよね。寮での生活も楽しかった。でも、これからも楽しみはたくさんある。壱弥の託児所デビュー。壱弥が歩けるようになれば、もっといろいろと遊びに行ける。
3人ですることもどんどん増える。わあ、いきなりワクワクしてきた。
「一臣さん、夏休みはどうしますか。どこに行きますか。どのくらい取れますか」
「なんだよ、途端に元気になったな、弥生は」
ハハハと笑うと、壱弥が目を覚ました。
「あ、ちょうど良かった。壱、風呂入るか」
「あ~~~~~~~う~~」
「機嫌悪いな。ま、風呂入れば機嫌直るな?」
壱弥は私がいないと一臣さんだけでも泣くときがある。でも、風呂は別。一臣さんと一緒に入るのが、すごく楽しいらしい。
「で、夏休みは?」
気になり、着替えを用意しながら聞いてみると、
「樋口にどのくらい取れるか聞いて見る。前に、たっぷり親子3人で旅行にいけるよう調整しておけと言っておいたから、樋口がなんどかスケジュール調整していると思うぞ」
「そうなんですね」
樋口さんには悪いけど、たっぷり夏休みを取れるようになんとかしてほしいな。そうしたら、どこに行ける?海外までなんて考えていない。でも、どこか避暑地とか行けたらいいな。一臣さんと一緒に行った別荘とかいいかもしれないな。
翌日、お義母様に三ツ星レストランでの私のマナーの様子を、一臣さんが報告した。
「もうマナーもダンスも英語も、すべて合格だろ」
「英語はどうでしょうねえ」
「……」
お義母様の言葉に、一臣さんは黙り込んだ。あれ?まさか、合格点もらえないの?
「弥生、モアナと話す時は絶対に英語な?それから、アメリカ人の友人がいるから、今度壱も連れて遊びに行こう。その時にも日本語禁止だ」
「そんなあ、私、何も話せなくなっちゃいます」
「ジェスチャーでもいい。知ってる単語を並べるだけでもいいから、コミュニケーションを取れ。要は慣れだ。英語しか話せないような場に何度も行けば、なんとか慣れてくるもんだ」
「そうですね。それはいい案ですね。英会話だけは今後も続けましょう。ね?弥生さん」
「はい、そうします」
「来週の日曜、屋敷に戻る。再来週から弥生には仕事に復帰してもらう」
「じゃあ、壱君は託児所へ?」
「ああ。まあ、いきなり丸々1日は大変だろうから、最初は慣らしながらって感じだな」
「後追いをしているくらいだから、大変かもしれないわねえ」
応接間でクラシックを聞きながらお義母様に報告をしていて、壱弥もご機嫌で私たちと一緒に応接間にいた。
とりあえず、見えるところに私はいればいいようで、応接間を「きゃきゃきゃきゃ」とハイハイして周り、それをモアナさんや亜美ちゃんが追いかけている状態で騒がしかったけれど、そんなことにおかまいなしで、お義母様は紅茶をすすっている。
「壱君」
あ、さすがにうるさいと注意するのかな。
「元気ねえ。ば~ばとも遊ぶ?」
あれれ?
「うきゃきゃきゃ」
お義母様の声が聞こえなかったのか、壱弥は応接間の端から端までハイハイし回っている。
「やれやれ。あれに追いつくのは若いメイドだけね。喜多見さんも国分寺さんもお手上げみたいだし、弥生さんも大変ねえ」
そう言うとお義母様はソファから立ち上がり、
「わたくしは、コンサートに行ってきますよ。じゃあね」
と応接間を出て行った。
「ここでクラシックを聞いていたっていうのに、さらに聞きに行くのか」
一臣さんはそうぼやくと、
「壱!寮のプレイルームにでも行くか」
と壱弥を抱っこしに行った。
壱弥はプレイルームが大好きだから、喜んで一臣さんに大人しく抱っこされた。
「じゃ、私は夕飯の準備しますね」
「早いな。まだ4時だぞ」
「だって、あと何回もないんですもん、寮の夕飯。一臣さん、お酒でも用意しますか?和食がいいですか?」
「そうだな。任せるよ」
「はい!」
一緒に寮へ帰り、一臣さんはそのまま1階のプレイルームへ、私は部屋に戻った。プレイルームには他の赤ちゃんもいたようで、壱弥は私がいなくても、気にせず遊びだしていた様子。
もしかして、この分なら託児所も平気かな?
そんなことを思いつつ夕飯の準備に取り掛かったが、それはあさはかな考えだったと、すぐに思い知らされることとなる。
でも、とりあえず、1週間は親子水入らずの楽しい日が続いていた。




