第9話 新しい風
その週末、昼からお義母様に呼ばれ、私も一臣さんも壱弥を連れて、お屋敷でお昼ご飯をとることになった。
お義母様は、
「壱君の体調は大丈夫ですか?」
と席に着くと聞いてきた。
「はい。元気です」
「そう、それは良かった」
そして、和やかに昼食の時間は進み、食べ終わると、
「お話があります」
と真面目な顔でお義母様は私たちを見た。
「話?呼んだ目的は、ただ単に一緒に飯を食いたかったってだけじゃないのか」
ちょっと嫌そうに一臣さんは眉をしかめた。
「あ~~~う~~」
壱君は嬉しそうに、テーブルの上をバンバン叩いている。
「壱君は誰か面倒をみてあげてく…」
お義母様が最後まで言う前に、
「では、わたくしが」
と、国分寺さんがさっさと壱弥を抱っこした。
「あら、国分寺さん、腰を痛めているじゃないですか。わたくしが見ますよ」
「大丈夫ですよ、このくらい」
喜多見さんの言葉にも、国分寺さんは譲ろうとしない。
最近重くなった壱弥を抱っこして、腰を痛めたようだけど大丈夫なの?
「二人はここにいて下さい。モアナ、壱君の面倒を見てあげて。日野さんはここに来て下さい。話があります」
「は、はい」
その場を去ろうとしていた日野さんが、慌てて戻ってきた。顔は青ざめている。
何か、よくない予感。国分寺さんや喜多見さんまで残ってもらうってことは、なんだろう。
一臣さんも怪訝な顔つき。その時、
「うわ~~~~~~ん!」
モアナさんが抱っこをして、壱弥とダイニングから出ようとすると、いきなり壱弥は泣き出してしまった。
「壱君」
私は壱弥を引き取りに席を立った。そして私が抱っこをすると、ぴたりと泣き止んで笑い出した。
困った。これじゃ、落ち着いて話なんてできないよ。きっとまた誰かに預けたら泣き出しちゃう。
「あらあら。どうしたの?まさか、人見知り?」
お義母様は驚いたように聞いてきた。
「やっぱり、人見知りでしょうか?私にもわからなくて」
正直にそう答えると、隣から喜多見さんが助言をしてくれた。
「お母さんと他の人の区別がついてきたんじゃないでしょうか。これも成長の段階の一つですよ。ほら、後追いが始まったりするでしょう」
喜多見さんがそう言うと、
「一臣も龍二も、そんなのなかったわよね」
とお義母様は冷めた口調で一臣さんを見た。
「俺もあったぞ。喜多見さんがいないと泣き喚いていた頃が」
「え?」
「一臣お坊ちゃま、それは…」
お義母様は顔が引きつり、それを見た喜多見さんも思い切り慌てている。
「それは、3~4歳の頃の話でしょう?もっと小さい頃の話ですよ、一臣お坊ちゃまも覚えていらっしゃらないです。まだ1歳にもなっていませんでしたから。その頃は奥様は家にいらっしゃいましたが、どうしてもパーティに出なくてはならない時、家を空けると一臣お坊ちゃまも奥様を探して泣いていましたよ」
「初耳ですよ。いつも帰ってくると一臣は寝ていましたし、何事もなかったと喜多見さんも言っていたじゃないですか」
「申し訳ありません。心配をおかけしたくなかったんです」
そうだったんだ。
「血は争えないな。俺に似たんだな、壱」
なぜか一臣さんは満足そうだ。
「一臣、それから弥生さん、お話というのはこの前のマナーの先生が来た時のことです」
「あ、はい」
「レッスン後だったとは言え、ノックもせずにメイドが入ってきて、ご子息がぐずっているからと弥生さんもろくに挨拶もせず退席してしまったと、先生は相当呆れていました」
「あ、あの時。確かに壱君が心配で、ちゃんと挨拶できなかった…。先生、お怒りなんですか?」
「まず、メイドの教育がなっていないと注意をされ、それに、マナーを教えているにもかかわらず、弥生さんの態度もなっていない。やはりお家柄もよろしくないし、品格ももともと備わっていないし、今さらマナーを覚えさせたところで、上流階級でまともにやっていけるわけもない…とまで言われました」
グサーーー。
「なんだ?その言い草。誰にものを言ってるんだ」
私の前にいる一臣さんは、怒りを露にした。
「わたくしくらいの旧家で育つと、品もよく、それがにじみ出てくるんですけど…と言っていましたけど、一臣の嫁にでもなりかったようですよ」
「はあ?!」
あ、一臣さん、呆れたのか切れたのか、青筋が…。
「申し訳ありませんでした。ノックはしたんですが、わたくし、あの時慌ててしまって、返事も聞かずドアを開けてしまいました」
日野さんが、頭をぺっこりと下げ謝った。
「まだ続きがあります。たかだか、赤ちゃんがぐずったくらいで、あんなに慌てて、ベビーシッターも失格だ。赤ちゃんなんてぐずるのが当たり前で、それをたしなめるのがベビーシッターの仕事。それを、あんなに慌てて呼びに来て、自分がどんなに駄目なベビーシッターかをひけらかしているようなものだ。みっともないと言っていました」
「……たかだか?そう言ったのか」
「ええ。たかだか、赤ちゃんがと」
「たかだか?!どこの誰に向かってその言い草」
「ええ。緒方財閥総帥になるであろう、壱弥に向かってたかだかと」
「あったまくる!なんだ、マナーの先生だと?そっちのほうがてんでなってないだろうが!」
「一臣、落ち着きなさい」
「落ち着くだと?壱がバカにされたんだぞ。だいたい、自分をどれだけえらいと思っているんだ。緒方財閥の次期総帥の嫁をバカにしただけでなく、総帥になる壱にまで」
「落ち着いて」
お義母様の威厳のある声に、一臣さんは一瞬にして黙ったが、青筋は立ったままだ。
「日野さん」
「はい」
「確かにあなたの行動は、軽率でした」
「申し訳ありません」
「熱も測って、いろいろと手をつくしてもぐずっていたので、心配で弥生様を呼びに行かれたんです」
横から喜多見さんが弁護するようにそう言った。
「それは咎めたりしません。本当に何か病気だったとしたら、それこそ手遅れになっても大変ですからね。母親である弥生さんがお屋敷内にいるんですし、呼びに行くのはいい判断ですよ。いなければまた、違った処置があるかと思いますが」
「はい」
「わたくしが言ったのは、ちゃんと落ち着いてノックをして、返事を待ってから開ける。そこはきちんとしなさいと言っているんです」
「は、はい」
「落ち着けるか。緒方財閥の総帥になる壱が何かあったら、落ち着いてなんかいられないだろ。なあ、日野」
「……はい」
日野さんの声は聞こえるか聞こえないか。
「一臣は黙っていてちょうだい」
とうとう、一臣さんをお義母様は叱り、また日野さんを見た。喜多見さんも国分寺さんも心配そうに日野さんを見た。一臣さんですら、暗い表情になった。私もだ。みんなが日野さんが辞めさせられるんじゃないかと、心配した。
どう弁護しよう。なんて言おう。そんなことが頭に浮かんだが、何もいい考えが浮かばない。
「でもまあ、大事な緒方財閥の跡取りは、体調が優れないんじゃなくて、単なる人見知りが始まったとわかって、ほっとしましたよ」
あれ?
「これからも、日野さんもモアナさんも、壱君の面倒をよろしくお願いしますね」
あれれ?
「はい!」
日野さんは一瞬顔を上げ、それからまた深くお辞儀をした。
他のみんなは、なんのお咎めもしないお義母様の顔を、まじまじと不思議そうに見た。だが、お義母様の冷静な顔が、徐々に怒りの表情になり、あ、これからが本番?と私たちは緊張した。
ゴクリ。誰ともなくみんなが固唾を飲んだ。いや、一臣さんだけは違った。なんだか、不機嫌な顔をしている。なんで?日野さんを叱らなかったからとか。いや、まさか、これから雷を落とすことを予想して不機嫌になってる?それとも、自分が叱られたから?
「弥生さん」
「はい!」
あ、そうか。私だ。私がちゃんと挨拶できなかったから怒っているんだ。
「あの先生には辞めてもらいました」
「………は?」
みんながまた、拍子抜けという顔をした。私も怒られる覚悟でいたから、力の抜けた間抜けな声を出してしまった。
「クビか?!そうか、そりゃそうだよな」
一臣さんだけが、すごく嬉しそうに喜んでいる。
「そりゃ、当たり前でしょう」
「ははは!そうだな。そこまでバカにされて、おふくろが黙っているわけがないよな」
「もちろんです。今後緒方財閥のどこの敷居も跨がないようにと念を押しました」
「怖いな。おふくろを怒らせるとどうなるか、思い知ったな」
「あんな人にマナーを教わるだなんてとんでもない。もっといい先生を見つけましたから、弥生さん、心して学びなさい」
「は、はい」
「わたくしも、いろいろとこれからはマナーのこと教えます。ああ、それにしてもいまだに怒りがおさまらないわ」
お義母様はまだ、眉間に皺を寄せている。でも、一臣さんは機嫌が良くなったらしい。
「俺はすっきりした。クビにしたんならそれでいい。話はそれだけか?」
「弥生さん」
「はい」
「それに一臣もよくやっていますよ」
「なんだよ、いきなり」
「子育てにこんなにあなたが積極的になるなんて、思ってもみませんでしたからね。あなたも社長と同じように、全部を人任せで、屋敷にまで帰ってこなくなるんじゃないかと、そう思っていましたから」
「親父と一緒にするな」
「弥生さんの影響よね。まさか、寮で家事まで手伝うだなんて、本当に信じられないわ」
「文句でもあるのか」
「いいえ。緒方財閥の次期総帥でもあるあなたが、洗濯や洗い物をしているだなんて、そんなことをさせているだなんてと、最初はちょっと頭に来ましたけど」
ええ?そうなの?っていうか、何で知ってるの?誰か報告しているってこと?
「それもまあ、いいでしょう。いい経験ですよ。そうすることで、社員や一般人の考えや暮らしぶりがわかるってことなら、これも社長となる人間にはプラスになるはずです」
「へえ。おふくろも話がわかるようになったんだな」
うわ。そんなこと言ってまた怒られるんじゃ。
「ほほほほ。面白いわね。本当に緒方財閥も、新しい風が吹いてきて」
「新しい風?」
「わたくしが嫁いだ頃は、古臭い習慣や考え方で、外から来た人間はいつまでたってもよそ者扱い。昔からの変なルールを守って、新しいものを排他する頭の固い人間ばかり。やりにくいったらありゃしない。社長は確かにいろいろと改革をしていった。だけど、結局緒方家の古い習慣は一掃されることは難しかった」
「……」
「だけど、あなたたちなら、簡単に新しいものを取り入れ、ガラリと変える力がある。弥生さんや、上条グループのおかげでね」
「おふくろ、わかってるじゃないか」
「ええ。弥生さんがお屋敷に来て、いろいろと引っ掻き回してくれたおかげで目が覚めました」
「引っ掻き回していますか?私」
「そりゃあ、寮に住むなんてそんなこと言うお嬢様いないでしょう」
お義母様はまた大笑いをした。
「わたくしは、よそから来た人間。古いしきたりをひたすら守って、なんとか緒方家の人間になろうと努力しました。だから、新しい風を吹き込むあなたを受け入れがたかった」
「…」
それで最初、反対されていたのかな。
「マナーのあの先生のように、旧家、歴史の在る家柄、そういうものを重んじた。一臣の結婚相手にもそういう家柄のお嬢様をと、そう願っていました」
「だから、大金麗子を推していたのか?」
「そうですよ。だけど、とんでもないお嬢様でしたけれどね」
「まあな」
「社長がなんで上条家と結婚させたかったのかはわかりませんが、もしかすると、新しい風を好んだのかもしれないですね」
「親父が?」
「あの人、ああ見えて、古いしきたりが嫌いでしょ?」
「嫌いかどうかはわからないが、俺から見れば、弥生の親父さんのほうが斬新だな」
「そこに惚れ込んだんじゃないんですか?それに、歴史の在る家柄でないとはいえ、弥生さんは思いやりがあり、礼儀正しく、そのうえパワフルで頑張り屋。緒方財閥の総帥の嫁になるにはぴったりです」
「お、お義母様」
泣きそう!
「従業員に好かれるなんて、そうそうできません。きっと社員からも好かれ、誰からも好かれる素晴らしい社長夫人になれます」
「わかっているじゃないか、おふくろ」
「あなたも目が高いわ。そんな弥生さんに惚れこんじゃうんだから。そんな息子に育って、わたくしも鼻が高いというものです」
ど、どうしちゃったの?ここまで言われると嬉しいの通り越して、怖いかも。
「さてと。話は終わりです。壱君、おとなしく聞いててくれたのね。さすが総帥になるだけの器があるわ」
お義母様は壱弥の頬を軽く撫で、
「弥生さん、これからもいろんな面で今以上に上を目指して精進して下さいね。緒方財閥のために」
と私に優しく微笑んだ。
「はい」
私は思いっきり深く頷いたあと、責任の重大さを感じたけれど、目の前で一臣さんが、すごく嬉しそうに笑っているから、なんだかほっと安心できた。




