第2話 大騒ぎの1日
翌日、午前中は会議が一つ入っているだけで、11時には暇になった一臣さんは、
「壱がうるさいから、社内を散歩してくるか」
と外に連れて行けと言わんばかりに、ドアの前で騒いでいる壱弥を抱っこした。
「ぱ~~~!」
「わかった。外には出ないけど、その辺歩いてこような」
「私も行きます!」
一臣さんと一緒にオフィスを出た。
「日野はいいぞ。ゆっくりお茶でも細川女子と飲んでいたらどうだ。午後も怪獣の相手をするんだから、今は休んでおけ」
後ろからついてこようとした日野さんにそう言って、
「樋口、行くぞ」
となぜか樋口さんだけに声をかけた。
「はい」
あれ?樋口さん、嬉しそう。
「わたくしが抱っこしていきましょうか」
「疲れたら頼む。今はいい」
「さようで」
あ、そっか。樋口さんはそんなに壱弥と関われないから、一緒に居るのが嬉しいのか。それも、抱っことかしたかったんだ。
一臣さんは壱弥を抱っこしたままエレベーターに乗り、私たちはまず14階に行った。
秘書課に行き、一臣さんが顔を出すと、
「一臣様?な、何か用事ですか!?」
と、江古田さんが慌てふためき、他の秘書課の人たちも、姿勢を正しつつ、顔を青ざめた。
「あ~、別に用事はないんだが」
「あ!うそ!壱弥様だ~~。可愛い」
そう喜んで席を立ったのは、大塚さんだ。
「どうしたんですか?いっつも15階にしかいない壱弥様を連れて」
「こいつが部屋で大人しくしていないから、ちょっとな」
「お散歩ですか?」
「悪い。仕事の邪魔だな。他の階に行くか」
壱弥がその場に下りたがり、じたばたしたからか、すぐに一臣さんは秘書課を出た。
「あ~~~~う~~~!」
怒ってるぞ。
「壱、仕事の邪魔はしちゃ駄目だ」
「そうすると、どこに行かれますか」
樋口さんがちょっと呆れた感じで聞くと、
「カフェにでも行くか。確か、外に出られてベンチとかあったよな」
と、一臣さんはまたエレベーターホールに向かった。
「多分今頃、忍者部隊総動員で、カフェに向かっていますよ」
「例の盗聴器か」
「いいえ。今通信で送りました」
「いつの間に。ああ、今の会話をそのまんま、部隊のやつらに聞かせたってことか」
「そんな、総動員なんて大ごとにしないでも」
私がびっくりしてそう言うと、
「いいんだ。こいつが大人しくしているとは限らないし、みんなで守ってくれていると思えばこっちも楽だ」
と一臣さんは、バタバタと手足を動かしている壱弥をとうとう、
「ほい」
と樋口さんに預けながらそう答えた。
「ぱ~~~」
「おい、樋口はパパじゃないぞ」
「くす。壱弥おぼっちゃまは、男性だったらみんなぱ~~と呼びますね」
「ふん。自分の父親が誰なのか、区別ついていないんじゃないのか?」
「それはないですよ、一臣さん。だって、一緒に暮らしているんだし」
「だよな?」
一瞬不安げな顔をした一臣さんは、ほっと安堵した顔を見せた。
カフェに着くと、早めにランチを食べているらしい男性社員が数人いるだけで、あとは店員さんだけだった。11時に開くカフェは、たとえば、早めに食事を済ませ外出するとか、会議がある男性社員が主に利用をしている。
「副社長だ」
「え?あ、本当だ」
ぼそぼそっとそういう声が聞こえ、こちらを窺っているのがわかった。
「おい。子ども連れだ」
「本当だ。いったい、なんだ?家族で昼飯でも食べに来たのか?」
そんな声がする中、どうどうと一臣さんはテーブルとテーブルの隙間を抜け、外に出た。
カフェから繋がってるバルコニーは広く、ベンチが置いてある。それから木も植わっているし、小さめの花壇とちょっとした芝生もある。
「うん、ここならいいか」
樋口さんからひょいと壱弥を受け取り、
「この辺だったら、ハイハイしていいぞ」
と、壱弥を芝生の上に座らせた。
「あ~~~~!」
壱弥は喜び、ハイハイを早速しだした。
窓際に座っている社員が、それをじ~~っとびっくりした目で見ていたが、一臣さんがその人を見ると慌てて視線を戻し、慌てたようにご飯を食べだした。
「一臣様、弥生様、コーヒーでも貰ってきましょうか」
「ああ、どうせならアイスコーヒーがいいな。ここ、暑いしな」
「私も、アイスティーでお願いします」
「はい」
樋口さんが中に入るのと同時に、すっと女性と男性が気配を消して近くに来た。私がすっごくびっくりしている横で一臣さんは、
「ああ、久しぶりだな、黒影」
と挨拶をした。
「あ、く、黒影さんと伊賀野さんだったんだ。びっくりした。突然横に居たから」
「はい。お久しゅうございます。わたくしどもが、壱弥様のことを見ていますので、ごゆっくりベンチで休んでください」
「ああ、悪いな」
一臣さんは、日陰になっているベンチに座った。
「ああ、いい天気だな」
空を見上げそう言うと、一臣さんは私を手招きした。
「いいんですか、ここでのんびりしても」
「いいだろ?何で悪いんだ」
「なんか、他の社員に示しがつかないような」
「誰にだ?」
「え?ですから、カフェに居る…」
「見てみろ。もう、慌ててみんな出て行ったぞ」
「え?」
「ゆっくりと昼休憩の時間じゃないのに、副社長が居る横でめしなんか食っていられないだろ」
「でも、さぼっていたわけではないですよね。っていうか、私たちが思い切りさぼっていますよね」
「関係ない。俺らにはあいつらと同じような何時から何時までが仕事で、昼休憩でという決まりがないんだからな」
「え?そ、そんな自分勝手許されるんですか?」
「弥生。あいつらは、緒方商事からサラリーを貰って働いている。そうだろ?」
「はい」
「こっちは立場が違うだろうが」
「ですけど、皆さんがしっかりと働いてくれているおかげでですね」
「俺らも、しっかりと働いている。下手すりゃあいつらよりもずうっとハードスケジュールだ」
「で、ですけど」
「何か文句あるのか?」
「いえ」
こういうところが、ワンマンと言われちゃうところじゃないのかなあ。
「お持ちしました。どうぞ」
樋口さんが私たちの飲み物を渡しに来て、すっとすぐに壱弥のほうに行ってしまった。
「あいつらに任せてのんびりするか」
そう言うと、アイスコーヒーを飲んで一臣さんはほっと一息ついている。疲れているのかなあ。でも、これ、もしかして壱弥の相手をしていて疲れていたりして。
「壱弥おぼっちゃま。お花は駄目ですよ」
黒影さんの声がして、壱弥を見ると、花を引っこ抜いて投げ捨てて遊んでいる。
「壱君、駄目!お花が可哀そう」
そう言ってベンチを立とうとすると、
「任せておけ」
と、一臣さんに止められてしまった。
「壱弥おぼっちゃま。お花は愛でるものです」
うわ。樋口さんからの言葉とは思えない。でも、そんなこと壱弥に言ってもまだわからないんじゃないかなあ。
「ぶ~~~!」
壱弥はそんな樋口さんの言葉を遮り、そのままハイハイをしてカフェのほうに向かいだした。それも、すごい速さで。
「壱君」
慌てて私は追いかけた。もちろん、黒影さん、樋口さん、伊賀野さんも一緒に。でも、テーブルの下をくぐって、あっちこっちに行く壱君を捕まえるのは至難の業。
「壱弥様」
「壱弥おぼっちゃま」
わらわらと、どこからともなく黒服の影の薄い人たちが現れ、みんなで壱弥を追いかけた。
「弥生、任せておけばいい」
まだ、一臣さんは余裕でベンチに居る。でも、私も疲れてしまい、ベンチに戻り、残っていたアイスティーを飲んだ。
「どっから、現れたんでしょう、みんな忍者部隊の人たちかな」
「そうだろ。さっき樋口がみんなを呼んだと言ってただろ」
「そういえば」
なるほど。こうなることを、樋口さんはわかっていたのか。恐るべし壱弥。
「一臣さんもこんなだったんですか」
「弥生に似たんだろ」
「え~~?」
「お前、相当やんちゃだったって言ってただろ?」
「………まあ。男の子によく間違われていましたけど」
「はははは」
笑うところ?それにしても、いいのかな、ほっておいて。あ、捕らえられたみたい。
「壱弥おぼっちゃま、あの芝生だけで遊びましょうね」
樋口さんの腕の中に捕らえられ、壱弥は不服そうだ。
「追いかけっこも十分出来たし、そろそろ戻るか?壱」
「さようで」
ぐったりした様子で樋口さんが答えた。
「壱君、ママのところにおいで」
「ま~~~!」
樋口さんから壱弥を受け取ると、樋口さんは汗を手で拭きつつ、小さなため息をついた。
「ははは。さすがの樋口も疲れたか」
「……」
だから、一臣さん、笑うところなの?そこ。樋口さんも今、一臣さんを睨んだよね。
「いつも俺のそばにいないとならないから、壱の世話ができなくって寂しがっていたが、どうだ?懲りたろ?俺の世話しているほうがずうっと楽だろうが」
「そうですね」
樋口さんは、ほとんど棒読み。ロボットのようにそう答え、でもすぐに口元を緩くあげ、
「わたくしは一臣様の秘書ですからね」
と優しくそう言った。
「ふ、ふん。まあ、そのうちにもっと若いタフなやつを壱につけるさ。樋口には任せないから安心しろ」
「そうしていただけると、ありがたいです。ただ、たまには壱弥おぼっちゃまの世話もさせて下さい。お屋敷でお休みの日でいいですから」
「孫の面倒みたいなもんか」
「そうですね」
今度は、嬉しそうにそう樋口さんは答えた。
それにしても、忍者部隊総動員での大騒ぎ。カフェ店員からその噂はあっという間に社内に流れ、
「副社長の息子は、ものすごいやんちゃなんだそうだ」
「家族水入らずで、カフェに遊びに来たらしい」
「副社長は子どもに甘いらしい」
「一臣様は子煩悩らしい」
「一臣様は家族を大事にしているらしい」
と、どんどんなぜか、一臣さんの株が上がる噂になり、その噂を耳にした一臣さんは、
「まあ、言わせておけ」
とどや顔だった。
私の心配なんか無用だったのか。それにしても、わが社のみんなは心が広いんだなあ。副社長自ら、子どもと就業時間に戯れていても、文句も言わないなんて。
「社長と違って、副社長は奥様や子どもを大事にしているようだな」
「女遊びも再開するかもとか言われていたけど、まったくそんな気配もないな」
「会社に子どもも連れて来るくらいだしな」
「託児所ができたら、そこに預けるんだろ?」
「相当やんちゃなお子さんらしいから、大変だな」
「って、そんなことエレベーターで聞いたわよ。壱弥様、そんなにやんちゃなの?」
そう言ってきたのは大塚さんだ。1週間後、何度もハイハイして脱走する壱弥に手こずって、壱弥を私が連れ、14階に遊びに行った時に大塚さんがそう言ってきた。
「やんちゃなんです。部屋でじっとしていてくれないから、こうやって連れてきました。でも、すぐに戻ります。一臣さんは外出中で、本当は一緒に行こうかと思っていたんだけど、ベビーシッターさんだけじゃ、てんてこまいしていたから、私は残りました」
「大丈夫なの?そんなで。託児所に預けても大変そう」
「お友達がいればいいんです。託児所はある程度遊ぶスペースもあるし」
「託児所さえできたら、OKなんだ」
「はあ。なんだってこんなにやんちゃなんだか」
大塚さんは子ども好きで、今も膝の上に乗せ、壱弥のことをかまってくれている。
「今から手なずけて、壱弥様の奥さん狙おうかな。玉の輿狙い」
「ははは。笑えるなあ」
大塚さんの言葉に、横から町田さんが笑った。
「町田さん、いつからそんな偉くなったの?秘書課じゃ私のほうが先輩なのよ」
「あ、すみませんでした」
町田さんは素直に謝り、パソコンの画面に向かった。
「あ~~~う~~~~」
ものめずらしいからか、壱弥、大人しいかも。
「壱弥様、一臣様の赤ちゃんの頃に似ているのかしら」
江古田さんも近くに来た。
「可愛いわよね。絶対に将来はイケメンね」
「もてるんでしょうね、弥生様も大変ですね」
私が?
「どんなお嫁さんが来るのかしら」
江古田さんと大塚さんの言葉に、私も想像してみた。でも、こんなやんちゃな我が子の将来なんて、まったく想像もできない。近い未来なら、もっとやんちゃになったらどうしようという不安ばっかりだけど。
ああ、歩くようになったら、もっと大変なのかなあ。また抱っこして15階に戻りながら、私はそんなことを思っていた。




